
9月1日からくる保育実習生のオリエンテーションがあったのですが、部分実習とか責任実習という概念がいまだにあって、どうにかならないものか、と思います。なかなか「止揚」されていないのです。この言葉が意味するものが、保育者が子ども集団を主導する活動を指すのだとしたら、また環境を通した保育ではないのだとしたら、それは時代錯誤の言葉になりかねません。
また指導案という言葉も誤解を生みやすい「装置」です。子どもの生活のある部分だけを取り出して、そこに教育的な核があるという前提で保育を組み立てるという発想だとしたら、それはもう古い気がします。ある活動だけを書類の計画として書き起こし、その計画をめぐって実際にどういう保育ができたか、できなかったかという議論をするとしたら、子どもの成長のプロセスとずれが生じます。そこを考えるために大切な視点がいくつかありそうです。
その前提となるのは、このような事実でしょう。
まず人間が生きている時間のなかに、大人の意図を色濃く反映させる活動があるのは確かで、その意図性が教育の質をよくしています。お稽古事をイメージしてもらうとわかりやすでしょうか? ただ生活や遊びの活動の流れや文脈を無視するわけにはいかないので、子どもの主体的な活動を重視することになります。それにあっていると、子どもも楽しくなって、レッスンも続くのです。本人のリズムにピッタリあってくると、自分から意欲的に取り組むようになっていきます。
したがって、一つ目に大切にしたい観点は、トータルな環境が用意された中で、どんな活動が生まれているか、ということにまず着目してみるということです。その環境からどんな呼びかけが聞こえてくるのかは、子どもによって、また同じ子どもでも状況によって、変わってくるものなので、その環境との応答性や相互作用で誘発されることをよく観察し、それを通して子ども理解を深めるといいでしょう。
二つ目に大切にしたい観点は、子どもの姿をとらえるときに、その都度現れてくる姿とどうじに、そこに至る長期的な視点を重ね合わせてみるということでしょう。
まず短期の視点。ほんとうに短い、瞬間の捉え。子どもの意味ある生活というのは、その都度の状況の変化に対して、保育者も波乗りのように乗っかりながら、動いていくものです。あらかじめ決めた活動内容をその通りにやるようなものではありません。子どもの興味や関心は移ろっていくものなので、あるときは感情が波立ち、身体が活発に躍動するときもあれば、心静かに佇み、まどろむこともあります。
その一方で、長期の視点というのは、発達過程と呼ばれていることを思い浮かべてもらってもいいのですが、少し長い目で見た時の育ちの流れの中でとらえる視点です。週や月での変化や見通しもありますし、もう少し長い半年とか一年といった長い変化のなかでとらえることもあります。
つまり、いま遊び込んでいる姿から次の活動を思い浮かべていくとしても、大人がその時に見えてくること、感じること、思いつくことには、ここでいう長期的な見通しを背景にしたときに、見えてくることを踏まえる必要があるのです。
例えば「単にそうしている姿」にみえるものでも、それまでの経過を知っている大人からすると「今日初めて、自分でやったんですよ」という姿かもしれないからです。
指導案というものを作るとしたら、これらの複数の視点から捉えることになります。私たちが実際にやっていることがそういうものになります。その上で、部分実習や責任実習をどう捉えるか、という話を学生としました。実習のなかでそれを実際に体感してもらえると嬉しいです。