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園長の日記

乳児室の音環境について

2024/07/24

言葉は聞こえないと獲得できないので、生活のなかの声が赤ちゃんにちゃんと届くように、室内は図書館と同じ静けさを確保しています。

見学者にそんな説明をしました。見学者の方と言うのは保育者です。ベテランの先生ですが、乳児室の音環境と言葉の獲得との関係の話など、あまり聞いたことがないとおっしゃるのです。

しかも、当園の子どもが落ち着いていることや、赤ちゃんの泣き声が穏やかだと言うのです。また先生たちが普段の普通の会話しかしていないこと、大きな声を張り上げてないことなどに驚かれたので、こちらの方が驚きました。私が勤め始めた1990年代ならいざ知らず、今時先生が大きな声を出して、子どもたちを導いているような保育がまだまだあるんだなぁ、とびっくりしました。

異なる年齢の中で生まれる年長のメリット

2024/07/23

保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が主催している研修会が年間を通じて何回か開かれているのですが、そのうち最も参加者が多い「保育環境セミナー」を3回のシリーズ(7月9月11月)にして、それぞれの回に主なテーマを設けています。初回の今回(7月22日〜24日)は「子ども同士の関わり・異年齢」編です。

今回のセミナーで再確認したのは、協同性の中で年長児童(その集団の中で相対的に年上の子ども)のメリットです。0歳から満6歳までいる保育園で、その関係性は複雑で単純化はできませんが、私たちの異年齢保育を実践している園の中で話題になり、指摘されていることを箇条書き的に取り出してみると、次のようなことがありそうです。

まず「違いについて気づき興味を持つ」ということがあります。保育園では合同保育という時間があります。朝夕の子どもが少ない時間帯は、たいてい乳児から幼児まで年齢の異なる子どもたちが一緒に生活する時間帯があるものです。また年長の子どもたち(当園ではすいすい組になります)が、お手伝い保育などで、乳児の子どもたちのお世話を手伝っている姿をみると、発達や育ちの違いというもの(という言葉で大人がイメージしているものとは違うでしょうが)に気づいていきます。これは満2歳くらいの子どもでも、自分より小さい赤ちゃんのことを赤ちゃん扱いできる、という姿をよく見かけます。

じっくりと座って話し合ったりできる「ピーステーブル」の空間もまた、自分の思いや考えをしっかり伝え、また相手の思いや考えに気づくというためにもあります。幼児でよく見かけるのですがケンカなどなっとき、その問題を解決するための話し合いというよりも、相手の違いに気づくためという経験になっていそうです。

そのような繰り返しの中で「異年齢の子どもの欲求や興味を知り、共感することができる」という経験になっていそうです。「思いやり、援助の気持ち、寛容さの育ち」と言って良さそうな姿が見られるようになります。乳児でも「いい子いい子」と頭を撫でてあげたり、泣いている子どもにティッシュをとってあげたりしているのですが、だんだんとその姿に気持ちがこもっていくとでもいうのでしょうか、そのような育ちに見えてくるのです。最初は大人がやっていることを真似しているわけですが、次第に心情が生まれ、そこから意欲的にそういう姿勢を心の育ちとして感じるようになります。環境との相互作用の中で浮き出てくる姿、とでもいうのでしょうか。私たちはそこに内面の育ちを感じています。

反対になんでも譲るということだけではなく「年齢の違う子どもに対して自分の言い分を主張する」ということもいい経験になります。このことは言い換えると「異なる要望や行動様式をお互いに調整しなければならないという基本的姿勢を学ぶ」ことになっていそうです。

次のことは言われることですが、確かに「他人に教えることで自分の能力を定着させることができる」ということもありそうです。人類はどうして教える、伝える、手伝う、分け合うということを好むのかという「利他性」の研究がありますが、その中の他人に「教える」ことは、自分の持っている知識や技能を他者のために繰り返し使うことで、そのためにどうやったら相手に伝わるのかを考えて工夫したりしていますし、その表現の変化も見られます。そこにもいわゆる学びに向かう力や学びに向かう人間性の涵養ということがあるでしょう。

私たちのグループには「お手伝い保育の自己評価表」というのがあって「小さい子どもの気持ちに気づいたか」という項目を大切にしています。さらに「小さい子のお手本となることで、自信をつけることできる」ことは、大人の安全基地や賞賛や援助を補うもの、あるいはそれに代わるものとして、子ども同士の関係を育てていくことの基盤になっていきそうです。

このような生活は「異年齢の子どもとの葛藤の中で自分の立場を守ることができること」に繋がりそうですし、またお手伝い保育の振り返りやお集まりのミーティングなどで担任が意識している中に「自分をお手本ととらえて、自分の言動を振り返ってみることについて興味を持つ」ということを意識してもらっているのですが、そういう姿も確認できます。子どもがお手伝いを好むのは、小学校以降でよく言われる当番活動と似たようなことに通じる協同性でしょう。

 

大西拓磨「僕に必要だったのは主体性だったんですよ」

2024/07/22

「日本の教育で考えると、押し付けすぎているとか、そもそもシステム的にどうなのかとか賛否あるじゃないですか、そのあたりどう思いますか?」

こんな質問に、デザイナーの大西拓磨さんが約1年前に、こんな風に答えていました。

「いやあ、ほんと賛否あるし、ぼくはどっち側でもないんですけど、一個人で言うとぼくは受験して大学にはいって、あなたは何もすることがありません、と言われるまでは、与えられたものに必死だったんですよ、受験勉強があって科目があって、社会に出て、ぼくはまだ出てないんですけど(当時)、大人になって必要だったものは主体性だったんですよ。自分で問題を発見して、自分で解決策を考える。答えがあるかどうかわかんないものに対して考え続けるというような態度が必要だった。

それでいうと、高校とか中学とか、自由研究と体育だけでいいんじゃないか(笑)。もちろん、リテラシーとして文字をよめるとか、計算できるとか、ある程度、数学の道具を知っていることは必要だったりするんですけど、個人個人が考えた問題を解くみたいな。私はこれが好きだから、これを研究しますといえるのが、そもそも大事なのかなと思って。

ここ(孫正義育英財団)にきてすごく驚いたのは、小中学生ぐらいから研究をもっているんですよ、自分の。私はこれの研究をしますといえる。最初は大学の研究室に出入りしたりするんですけど、普通そういう選択肢があることを知らないし、そうならない。学校の勉強があって、それをやっていればよい、褒められる。学校で与えられたのを勉強させておきながら、ある日突然、自由なものをつくりなさいといわれて、結果だけ見せてくださいと言われる。

今でも覚えているのが、小学校3年生のときにぐらいに木星の研究といって、木星が好きだったので本とか読んでまとめたんです。そんなの別に研究でも何でもない。どうみられるか、優等生であろうとしただけだったというか。でもそうではなくて、その背後で自分はすきでやっていたことがいっぱいあって、ルービックキューブもすきだったし、部屋の間取りが好きで、理想の間取りのマンションを描き続けていた。ずっとやっていたんですよ。そっちの方が、今からしたら新しい研究っぽい。私はこれが好きです、私はこういう新しいことをしましたと言えるのに、それが自由研究になると当時全く思わなかったし。・・(木星の研究にしたのは)なんか学問寄り出し。自分の別に好きでも何でもないけど、みんなこうしたらいいんじゃないとかで自由研究をやってしまうんです。

だから僕が子どもを育てるとしたら、これは君にあう研究分野だねってみつけてあげて、というか、当人が夢中になっているものを研究としてアプリシエイト(賞賛)してあげて、それに対して援助するというか。例えば学校の先生という立場であれば、毎週、進捗確認とかして、こういうことを知りたいんだったらこういう方法があるというノウハウを教えてあげてとか。

本人のやりたいことを、主体性を伸ばしてあげる機会が、少なすぎたな、僕の人生には。・・周りにあわせて周りの顔色を窺っていたら、結局社会のためにあまり役に立てなくて、学校で教わったものというよりは、好きでやっていたことの方が役に立っている。本来は中学ぐらいで、義務教育終わっているのに、みんな高校へいって勉強しているで、もう少しなんか選択肢があってもいいのかな。義務教育終わっているのにそんな感じで大学までいっている。・・」

・・・
夏休みになって卒園児がボランティアに来ています。自由研究の話になって、このちょっと古い動画を思い出したのでした。

違う他者のなかで自分なりに自分を高めていきたい

2024/07/21

都内にある孫正義氏がつくった宿泊型のカレッジを紹介する番組をみていたら、そこにいる大学生が次のように語っていました。ここにいる学生たちの語りを聞いていると、いい学びの環境だなあ、と思います。

「年齢層が幅広いのがいいなって、ずっと思っていて、私は大学生で21歳で、ちょうど中間ぐらいの年齢層。社会人とかを見てたらなんかキラキラした社会人とかもいて、こういう人たちはどこから自分のやりたいことを始めてるんだろうって、すごい気になるし、話もしたくなるし、いろいろ学びたくなる。ぎゃくに年下の高校生の人たちもすごいことしてたりして、ちょっと焦るんですよね。でもここのカレッジ生って、すごい違うから、すごく焦るけど同じになりたいかというと違うから、まわりをみて、どう自分らしい道を見つけられるかなって、考えさせられるのが、すごくいいなって、ここ来てからずっと思っています。・・・自分なりに自分を高めていきたいという思考が生まれてきます」

学びの個別最適性と協同性の良さがある気がします。このような環境を多くつくり出したいものです。

保育園を「カレッジ」にしたい

2024/07/20

保育園を子供にとっては「学びのミュージアム」にしようと言うキャッチフレーズを使っていましたが、先生たちにとっての、カレッジのような場にするにはどうしたらいいだろう?

仕事そものが学びであるように、保育そのものを子どもと共に何かを創り上げる協同の学び場に変えていくこと。そんなことを思いながら、朝から睡眠講座をZOOMでひらき、午後から保育のミーティングを行い、夕方から職員厚生の時間を過ごしました。

講師と受講者の間をたもつ司会者のようなことをやっている私、職員と仕事のことを打ち合わせて話し合っているときの私、そして食事をしながら仕事以外の会話を楽しんでいるときの私。いずれも同じ私でありながら、そこで思いつくこと、相手と通じ合わせようとして向けている注意の先、さらに沸き起こってくる嬉しさや面白さ。

人は意識の持ち方で時間の質が変わるのですが、それは意識して変えることは難しくて、つまり意識の持ち方は意識の方だけで変えることはできず、環境とのつながりのなかで知覚も思考も無意識も大きく変化します。ただその違いを自分でコントロールしている自我のような自分はいつも、世界なかで自分の現在地を確認しながらやっているのですが、思わず引き出されてくる自分を発見して楽しくなります。

こういう「面白さ」は自分と世界をセットで気づくような面白さなのですが、職場をこのような学びの面白さを味わえる時間にするには、どうしたらいいだろうかと真剣に考えてみたいテーマだと思うのでした。

児童員、主任児童員の方々と交流(2回目)

2024/07/19

千代田区の児童委員、主任児童委員の方々との交流の2回目。保育園の紹介のポイントは、園生活や遊びの中にある学びです。また子どもの数や就園率、保育園の充足率、小学校以降の子どもをめぐる状況について情報を交流しました。

時代は大きな転換期にあり、家族のあり方や学校教育のあり方も大きく揺れ動いています。保育園から見ると、とくに従来型の「家族的なもの」としてのコミュニティーのあり方が大きく揺さぶられているように感じます。

個人の価値観や志向性の多様化に伴って、医療技術や生命科学の進展、さらにグローバル化やソーシャルネットワークなどの影響を受けながら、精神的生活圏が局所分散的になり、前提となっていたような従来型の親密性や暗黙の了解が成立しにくく不安定なものになっているように感じます。

ちょっと気が重くなる話になりますが、それは、危機的な状況に直面したときに協力し合うことができにくくなったり、あるいは、すでに危機そのものが見えにくくなり、予防的対応が遅れていくかもしれません。家族的なものの成立条件のようなものが揺らぐことによって、それぞれの個人が何を優先的に守ろうと決断するのかが変わってきているように感じます。

誰もが何か変わってほしいと切実に思っているけれども、なかなか変わらない何か大きなものが眼前に立ち塞がっていて、とりあえずやっていくしかないと言う時間が長く持続してしまっているような、また、これからもずっと続いていくだろうと言うような閉塞感とでも言っていいのでしょうか?

結果的にいろんなことが、非常に細かい分析的な作業に追い詰められているような気がしてなりません。生きると言うのは、もっと単純なことだったはずなのに。精神的サバイバルという言葉が、妙に切実感を持っているように感じてしまうのは考えすぎなのでしょうか。あるいは、私の時代認識というか、感性が間違っているのでしょうか?

児童委員の方々と、いろんなお話をする中で、お互いに感じていることが似ているなと思ったのです。

 

保育園の生き物たちのメッセージ

2024/07/18

気の遠くなるような長い進化の歴史が正しいのなら(多分そうでしょうけど)、私たち人間よりもずっと昔から生きている昆虫たちが、こうして保育園の一角で生まれて育ち、私たち人間の文化にも溶け込んでいることを思うと、虫の方に、もし人間と同じような意識が備わっているなら「そんな瞬きのような束の間の出来事に心を奪われている人間の面白いこと!」と驚くかもしれません。生まれては死に、というように見える生の個体化なんて、実在である生から見れば、ただの仮の姿のようなものだからです。さらに、たまたま保育園で数年、何代目かになったからといって、生という存在からみれば全く大したことではありません。

でもそれでさえ、開かれた意識を持った人間からすると、そこに昆虫の個体の生死に倫理的まなざしを向けることさえできるほど、生の影のようなものでしかない意識が、いつの間にか自由を獲得しているとも言えるのかもしれません。そのように意識を働かせる力そのものが生のありようだと思えば、人間のやっていることがとても不思議なことのように思えてきます。ベルクソンの「形而上学入門」を読んでいたら、そんな気になってくるのでした。

夏休みこども企画「睡眠について考えよう!」(8月18日)

2024/07/17

小中学生に自身の睡眠について、もっと目を向けてもらおうと、「社会と共に子どもの睡眠を考える会」が8月18日(日)の午後にイベントを企画しました。題して「夏休みこども企画 睡眠について考えよう!」。場所は西新宿の「東京医科大学病院」。大人と子どもはどう違う?朝型、夜型って?スマホ、ゲームのやりすぎはダメって本当? 動物の眠りは人と違うの? こんな素朴な疑問に医師や研究者が答えます。そろそろ宿題が気になりだす頃、小中学生の自由研究のテーマにどうでしょう?

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鳴き始めたスズムシ

2024/07/16

今朝は近くの保育園に、虫かごを2つ差し上げました。なかにはスズムシが数匹ずつ。この子たちは、保育園の3代目です。赤ちゃんが生まれたと言うのは既にお知らせしましたが、先週から既に鳴き始めています。

お泊まり会 2日目

2024/07/13

朝早く目覚めた子どもたち。朝の余裕ができたので、近くの柳森神社でラジオ体操をして朝食です。先ほど9時からの対面式が終わりました。昨日から今朝にかけての活動のスライドショー。大笑いをしながら見合いました。その笑いの中に、なんとも言えない「しんみり感」・・・言葉にできない裏話のような、この二日で感じた子どもの姿などから聞こえてくるメッセージ・・。

「あっという間に終わってしまった」という担任のつぶやきに、どこか寂しいものを感じました。毎年思うのは寝食を共にすると、ぐっと身近な感じがしてきて、一晩離れた親子の間もそうでしょうが、担任との間にも子どもへの愛おしさが増すようです。私のような立場でさえ、そうなのですから毎日を一緒に過ごす担任にとっては、なおさらでしょう。すいすい組の皆さん、子どもたちから、たくさん話を聞いてあげてください。

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