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園長の日記

遊びのなかに生まれる思いとすれ違いの行方

2024/04/25

ある子どもに「靴下がない」と相談をうけて探しているうちに「ブーメランをやりたい」と誘われて、運動ゾーンでしばらく遊んでいました。しばらくして屋上で遊び終わった子どもたちが一人二人と加わっていき、最後はワニのいるアマゾン川をターザンロープで飛び越えるという遊びに10数人の行列ができるサーキット運動になっていきました。

その約1時間ぐらいの間に、面白いことがいろいろは発見がありました。最初の数人の関わりのところまでを振り返ってみます。

年少のTAくんが一歳上の年中のNRさんとブランコを交代して遊ぶことが楽しいよういで、3分の砂時計を待ちきれずにすぐにひっくり返して、すぐ交代するのです。

そして「一緒に乗ろう」「うん」と仲良く跨って左右に揺らして楽しみます。

ネットやクライミングをひとしきり楽しみました。

その二人に、もう一人年中のAIさんが加わると、遊びと関係がダイナミックに変化します。

AIさんはブランコを乗った後、すぐにTAくんに替わってあげました。でもTAくんは次のNRさんの番なのですが「どうしようかな?」という風に考えています。

さっきまではすぐに交代していた間柄なのに、なぜか態度が変わりました。そしてAIさんに交代を促されると、口を膨らませて「いやだ」という意思表示を示します。

そこで面白いのですが、自分の番である当のNRさんは「もう一回やったら替わってね」と砂時計をひっくり返しました。もう一回、やっていいよ、というわけです。そこが3人の思いの中心点です。気持ちいの折り合いが取れたバランス点がありました。年中さん2人が年少さんを大目に見てあげた、という格好ではあるのですが、そこにいたるのは、それまでのお互いのことについての経験からくる思いが、いろいろあってのことです。

そのやりとりの最中に、ブーメランを取りに戻ってきた男の子が「(自分のを)取った?」と意気込んで問い詰めます。見ていてハラハラするのですが「ただもっていただけ」と言われると何も疑いもせずに「守っていてくれたの?」と聞きなおすのです。すると「うん」と言われると、さっきまでプンプン気味に見えたのに、素直に「ありがとう」と言って、行ってしまいました。まるでそこに立ち込めていた気持ちのモヤモヤを突風が吹きさらってしまったような印象です。私は見ていて、おかしくなったのですが。

子どものそれぞれの「思い」は相手の間を飛び交い、受け止められて心地よいキャッチボールのように行き来したり、時には時には壁にあたって跳ね返されてきたり、あるいは戸惑って宙に浮いたりしています。

「そんなつもりじゃなくて、本当はこうなんだけど」という小さな思いの堆積物がそこら中に転がっています。その小さな思いの中身は、誰にもわからないのですが、子供同士でそこを感じ合ってつながり合っているように見えます。こういう生の経験が貴重なんだろうなぁと感じるのです。

そして、3人がダイナミックに笑いながら、ブランコを楽しむのでした。

活動の展開には、同じことは二度と起きないようなものとして動いています。そこで生まれ続けていることは、切り離せない連続の中にあり、子どもたちは自分の中に生まれてくる感情や思いに立ち向かいながらそれを糧にして、たくましくなっていくように見えます。

選択という言葉遣いを選択しない

2024/04/24

ビッグワードを使うと微細な子どもの育ちを見損なうのではないか。このところ、この警戒感が保育を描くときの、私の通低音になっています。保育の目標や理念を語るときに自己決定、選択、参画、自己実現、愛着、信頼感などのキーワードを使うことがあります。でもそれを使うことは、そうなってほしい、そうでありたいということであって、実際にそうであるかは別問題でしょう。例えば最近ブームになっている主体性にしても、それを使えば何にでも当てはまるような言葉遣いにならないようにしたいと思っています。

今日の保育を振り返っていたら、先ほど主任とこんな話になりました。先生たちはそんな言葉を使うことはまずありません。きっとある意味で「そんな大それたこと!」と思うに違いないのです。保育を語るときに、子どもの姿をある概念でまとめたものをそのまま使うということはあまりないのです。その言葉で言い切ってしまうと、それは逆に何も言っていないように思えます。

そいえば、と思い出しました。22日にある学生さんが卒論のテーマとして睡眠の選択について見学に来られました。保育園、午睡、選択というキーワードでググると、うちの保育園がヒットしたそうです。そして、実情を説明すると「その日ごとに寝る寝ないを選ぶような選択ではないのですね」と理解してもらえ、ホッとしたのですが、逆に午睡は選択ですということで、こんな誤解を生んでしまうのだと反省しました。

一斉に同じことをさせることではなく、個別にその子に合った過ごし方や遊び方、寝ることも食べることもその子にあったようにすること、その子らしく過ごせるという趣旨なのですが、それを個人の「選択」というフレーズでまとめると、このような誤った理解を促してしまったようです。実際のところ、何にしても結果的には選択していると言えてしまいます。でもその内実は千差万別です。どのように最適なのか、あるいは個性化されているのか、と言ったあたり大事なのですよね。

子どもと揚げた鯉のぼり

2024/04/24

先週のことですが、晴れた金曜日に子どもたちと「鯉のぼり」を揚げました。

晴れ渡った青空の下にそよぐ鯉のぼり。

🎵おもしろそうに 泳いで、たかな?

しばらくは、天気によって揚げたり降ろしたりします。

木場公園の大型遊具がリニューアル

2024/04/23

保育園は午前中に散歩に出かけることが多いのですが、今日、幼児はバスを使って木場公園まで出かけました。木場公園は広い原っぱの広場と、大型の遊具が配置された雑木林などがあるのですが、その遊具のリニューアルが済んで、ほとんどの遊具が新しいものに入れ替わっていました。

以下は幼児のドキュメンテーションでの説明です。写真はホームページのクラスブログにもの載せておきます。

「今日は木場公園の冒険広場で遊びました。しばらく工事中でしたが、今日はもう工事が終わっていて、遊具もほとんどが一新されていました。なので最初にみんなで遊具を見て回りましたが、みんな新しい遊具にウズウズ。我先にと駆け出していきました。日頃からも運動ゾーンや和泉公園で遊んでいるせいか、自分がこの遊具が出来るのかどうかの判断も含めて、みんな上手に遊びこなしていました。」

こうやって、いろんな公園に出かけるのですが、それぞれの公園にある遊具によって、その遊び方、関わり方が異なります。「我先にと駆け出して」いったように、やってみたいという意欲に溢れ、その遊びに取り組む過程で、いろんなことを学んでいます。面白そうな遊びを見つけてはいろんなことを感じたり、気づいたりして「どうやったらいいんだろう」と試したり工夫したりしていました。

どの公園にはこんな遊具があり、何ができるかという一覧を作成中です。

交通安全指導で「右見て左見て・・」

2024/04/22

万世橋警察署とは開園以来のお付き合い。散歩などで地域の中で活動することが多い保育園としては、いつもお世話になっています。今日は交通安全指導をしてもらいました。横断歩道の渡り方です。

以下に幼児クラスの保育ドキュメンテーションから引用します。

「警察の方々のお話は、やはり普段と違って特別感もあり、みんな興味津々で、じーっと聴き入ったり、興奮してたくさん質問や話しかけたりしたり、とても充実した時間になっていました。普段のお散歩でも大きな横断歩道をよく渡るので、今日の交通安全指導を忘れないように、繰り返し伝えながら、日々のお散歩でも事故の無いよう気を付けていきたいと思います。」

今週を振り返ると・・いろんな「気」が出入りしていました

2024/04/19

新年度も早いもので第3週が終わりました。半月が経ったということです。この半月を振り返ると、保護者会があった第1週。新入園児がだんだん保育園に慣れてきて、安心感と落ち着きが見られ、どんな性格でどんなことが好きで、どんなことをするのかがだんだん見えてきました。本人が気になること、気にいることがだんだんわかってきました。

日本語には気になる、とか気に入るという表現をよく使うのですが、改めてこの言葉はよくできているな、と思います。私たち保育者は環境との関わりという視点を大切にして、子どもが過ごす環境とどんな相互作用が起きているのかを見ようとするのですが、気になる、気にかかる、気に入るという時の「気」が、本人と環境との相互作用を表しているように感じられます。「気」は本人と環境とを行ったり来たりしていることを、日本語は感じ取っていたのでしょうか。

保育園に慣れていくというのは、世界を気に入っていくこと、好きになっていくこと、面白いところを発見していくこと、応えてくれる温和な大人がそばにいることが心地よいこと、そういう場が作られていく過程が見られます。

新しいクラスでの生活もすっかり軌道に乗ってきて、大胆にも4月1日から上野公園まで桜を見にいったりと、数年前までは考えられない始まり方ですが(笑)、それがそれほど大それたことでもないあたりに子どもたちの成長を感じます。早速いろんな遊びが展開していて、先生たちも子どもの姿から「じゃあこうしてみよう」という話し合いが毎日活発です。

保育園の新年度は保育をしながら、ちょっと先の計画も、常に子どもがそばにいる中で具体的に話し合ったり計画を立てたり、地域や外部の方々と連絡をとったりしながらという、同時並行の作業が色々と多いので、10分、15分単位の異なる作業を次々とやりこなしていく感じがあります。それもおおらかに、鷹揚にやっていくことが大事なのです。心に余裕がないと、すぐに子どもに見破られますし、大人が余裕がないと子どもも自由に遊び出すことができにくくなるのです。

そこはきっと親子関係でも同じではないでしょうか。僕の気持ち、私の気持ち、それがお父さんやお母さんに「わかってもらえている」という安心感が子どもには大事です。子どもも望んでいることが常に「かなえてもらえる」と期待しているわけではなくて、それはできることが3割しかなくても「気持ちは大体わかってくれている」というを望んでいるでしょう。

ちょっと脱線しましたが、子どもの仕草を見ると4歳ぐらいになると「あれ、なんかあるな」(なんか気持ちを隠してそうだな)ということがすぐにわかります。本人が自分のやっていることを「いいことと悪いこと」がわかっているからです。それを隠しているとまだ幼いのでバレます。3歳児クラスの保護者会ではそれは毎年お伝えしていますが、本人もやってはいけないと知っていて欲求に負けて葛藤を抱えているからこそ「隠す」「ウソをつく」ので、そこを「そんなに持っていきたかったんだね」という気持ちは大事にしてあげているのです。

いろんな「気」がいろんなところで出入りしている新年度の始まりです。

遊びの中の「つくる」ということ

2024/04/18

今朝も2歳児クラスで散歩に出かける前まで1時間ほど保育に入りました。子どもがうまくそれぞれの遊びを楽しむか、あるいは意思疎通もうまくいって一緒に楽しめるか、そのバランスがだんだん後の姿が増えていくのがこのクラスです。この年度のどこかで誰もが満3歳になっていく1年です。

この時期はまだまだ一人で自分の世界を楽しむ要素が強いのですが、それ以前とそれ以降の過渡期にある特徴が現れ始めます。それは自分で「つくる」という要素が増えていくように見えます。

子どもが成長していくにつれて大きく変化していくのは、子どもが分け入っていく世界が豊かになっていくと同時に、子どもがその世界の一部を構成し、つくり出していくことになっていく、そのような活動が増えていくようです。先生たちの子どもの活動の記述も、乳児の場合は、世界との関わり方が出会う、触れる、探索する、といった行為の描写が多くなります。そして何かを描いたりすることもありますが、心の動きをきっとこんな「つもり」だろうという大人の想像から例えたような表現になりがちです。

一方で、2歳児クラスになると、言葉を話し出し、簡単なものならブロックを組み立てたり、線路をつないだり、粘土をこねたりして「かたち」を作り出して構成するような遊びができるようになってきます。幼児になると、時には劇遊びの小道具とかお店屋さんごっこの道具とか、物語や実在の人物になったつもりの象徴的なグッズを作ったりします。昨日の日記の写真のように、テレビゲームのリモンやカフェバーの仕草を真似して遊んだりしだします。

また屋上で見つけた花を食事の時に飾ったり、ベランダでピクニックごっこをしながら、本物のお茶を飲んだりしています。(5月になったら親御さんにお弁当をお願いしてピクニック遠足をしようという話し合いも子どもたちと進んでいます)

子どもの成長は環境を駆使して「つくる」過程にいろんなことが取り込まれていくようにも見えてきます。そういうことを、つまり環境からの呼びかけに応答して自分を含む世界をつくり変えていくようなことを、子どもはやりたがっていくようにも見えてくるのです。私たち大人も世界を常につくり変えていますが、探究に伴うものの一つにつくるということがありそうです。さぁ、そう考えると、そのことはとても広く豊かなものとしての可能性を感じるようになっていくといですね。

遊びは「こうしたらこうなる」の試行錯誤

2024/04/16

今日は朝早くは、乳児の部屋で、その後9時ごろから昼過ぎまで、ずっと2歳児クラス(にこにこ組)で、そして午後からは3階の幼児と一緒に過ごしました。

絵本を読んで、と持ってくる子、木製レールの上で電車を走らせる子、テーブルの上でパズルを始める子、ままごと遊びを始める子などが分散してそれぞれのゾーンで遊んでいます。

幼児ではスマホやテレビゲームのリモコンづくりが流行ってました。「こんな人いるよね」と、足を組んで、スマホとドリンクを持ったポーズも見せてくれました。リモコンはマグネットシートをうまく使って取り外しができるようになっていました。

子どもの遊びの特徴として共通するのは、とにかく感覚を使い、行動するという循環があるということです。いろんな循環の説明があると思いますが、遊びが学びであることをどう説明しようかと思うと、次のようなループの繰り返しのようにも見えてきます。

子どもは見たり触ったりしながら環境からの情報が身体(脳を含む)に入ってくると、また手を動かしたり、歩いたり、作ったりいろんな動きをするのですが、その動きがまた環境を変えるので「こうしたらこうなる」ということを学んでいます。環境への関わり方や意味に気づく、それを取り込もうとして試行錯誤して考えたりするようになるということです。

こんな言い換えはどうでしょうか。環境からの情報を何らかの形で身体が処理して、運動(行為)となって心も身体も動くのですが、動くのでまた環境からの情報が変化してそのフィードバックから関わり方や意味を習得しているように見えます。こうしたらこうなる。それを飽くことなく、精力的に繰り返していました。つまり学習が起きていると言っていいでしょう。これはアクティブラーニングと似ているかもしれません。

その使う感覚で圧倒的に多いのは見ることと触ることです。自然や生き物を含めて触っていいものがたくさんある方がいい。面白そうと思うもの、触って見たくなるもの、やってみたくなるものがないとつまらない。見ることと触ること(操作することなど)のその二つが一緒になって、さらに表象(言葉など)が絡んできます。

また環境に入れていいのかどうか、質がかなり違うのですが、他の子どもも絡んでくるので、対人関係の「こうしたらこうなる」の関わり方も、ずいぶんと学びながら遊んでいます。さらに「こうなるなら、こうしてみたい」と思いついたことが達成できると嬉しくて、とても楽しそうで、生き生きと熱中していきます。

 

それからもう一つ、感情もかなり激しく動くのです。「心が動く」と私たちはよく言うのですが、この心情も運動しているようなものなのでしょう。いろんな感情を表します。いい感情もあればその反対に「こうしてみたい」が制限されたり、他の子どものやろうとしていることとぶつかったりして思うようにいかないと、怒ったり、悲しくなったり、我慢しないといけなくなったりします。

全体的な印象としては、次から次へと遊びが移り変わっていくのですが、個人にしても集団にしても、同じ状態がずっと続くということはありません。遊びは動的なうねりのようなものを作りながら、展開されていきます。

入ってくる情報と出ていく運動。その無限で高速なループの繰り返し。生きることそのものようにも感じる繰り返し。遊びは本当に微細な「こうしたらこうなる」からダイナミックな「こうしたらこうなる」を繰り返しながら、ある方向へ向かって伸びていくようです。

 

遊びの最初にありそうな「探すこと」といつまでも続く「探究」

2024/04/16

そもそもの話の続きです。今年の保育の年間目標の一つに「自分の好きなものを見つけて、それを深めていく」というのがあります。発見と探究です。

環境からどの情報を取り出すのかは子どもによって異なりそうです。子どもにとっては情報が飛び込んできやすい環境だったり、反対に見えにくい環境だったりするかもしれません。そういう意味で遊びやすい環境というものがあるでしょう。

そこで今日は「探す」ということを子どもはよくやるので、どうしてだろうという話です。保護者の皆さんは、必ず入園の見学をされたはずです。その時、子どもと一緒に来られた方は、子どもが自然と遊び始めた姿をご覧になったと思います。環境に吸い寄せられるように始まる遊びの姿です。子どもにはあらかじめ何も言葉では説明を受けてはいませんし、説明してもわからない赤ちゃんだったりしたわけで、それでも親の手から離れて、子どもは自分で遊び始めます。その遊びの最初には「これはなんだろう」といった探索のような段階があるはずで、そこからが、きっともう「遊び」なのでしょう。

ちょっと突飛な話に聞こえるかもしれませんが、こんなことを思い浮かべています。

もし、子どもが新しいものを面白そう!と興味を持ち、遊びの最初に何かを「探す」という行為が生まれやすいのだとすると、それは人類の特徴の一つではないだろうか、と思います。食べ物を探すとか、危険を察知するとか、敵と仲間を見分けるとか、何かを「探す」というのは、生存に不可欠だったのではないでしょうか。

地球の歴史の専門書によると、カンブリア紀以降の生物が過酷な生存競争にさらされて生き残ってきたそうです。その機能を環境との関係の中で身につけているとすると、私たちもそうしたセンサーのようなものを発揮しやすいのかもしれません。リサーチして何かを得たり、あるいは避けるなどの機能は、それは生死に直結する機能だったのかもしれません。

さらに、自然からある意味ではみ出してしまったように見える人間は、人間が作り出す物は社会の中で、あとでどうなるか予想がつかないことが多いので、いろんな問題を引き起こしているように見えます。自然になかった人工物(例えばビニール)を(海藻と)間違えて食べて死んでしまう海洋生物のように。原子爆弾を作ってしまって人類絶滅までのカウントダウンが真剣に議論されてきたように。

人間は自分でいろんなことができるようになるまで、大人が守ってあげないと一人では生存できない生物です。脳と身体が発達して大人になるまでに相当の時間を必要とします。ちょっと前に思春期が18歳から22歳までに延びたという研究が話題にあったことありました。本当かどうか知りませんが、18歳としてもその後の青年期も含めると、相当長い間、極端にいうと「一人前」じゃないということなのでしょうか?

こういうことと遊びが関係するのでしょうか? 遊びは環境への適応のために進化の中で得たものだとすると、きっと教えなくても世界を探し始める、目新しいものに無意識に手を伸ばすような行為が、脳と身体を作っていくのでしょうか。好奇心とか興味や関心などと名づけられているようなことが、探究のはじまり、として不可欠だからでしょう。

それにしても人間は探究が好きですね。いつまでも学び続けるとか、探究は終わらないとか、動物ではありえないことをし続けるようになっていることが、ある意味で不思議です。はい、もう終わり、ここで終了です!というのはないのですね。

どんな場所であろうと、それがあれば移動して未知の世界に行こうとする衝動に突き動かされているのでしょうか。地球上のありとあらゆるところに進出してしまう人間。探究し続けましょう!という文句で終わる文章もよく見ます。それだけ課題が山積ということなのでしょうか。

実は、それだけではなく、きっと「世界」はそれだけ謎に満ちていて、いいことが待っていると思いたい。その探究のパスポートを人間だけが手にしている、ということかもしれません。そうだとすると、すごいですね。また不思議です。

絵本の「おさるのジョージ」の原題は「キュリアス・ジョージ」好奇心いっぱいのジョージでした。そして、そこから始まる経験を自分で制御する力を発達させるために脳が大きくなっていったのかもしれません。色々な場所やものを見つけて探究を始められるように、保育でも子どもにとってのその環境とはどんなものかの、その探究は続くのです!

子どもに聞こえる「面白い」もの

2024/04/15

子どもは新しいものが好きなので、大人から見るといつも見えている世界の「正面」よりも、「先端や裏側や異物や意外なもの」に目をつけてきます。もちろん大人だってハッとすることもありますが、子どもが注目するものは「面白い」ものなのでしょう。今日は午前中に幼児20人と一緒に公園で過ごしたのですが、大人なら聞こえないような物からの「呼びかけ」が子どもたちには聞こえるようです。

大型のアスレティック遊具やブランコ、砂場などもあるので、もちろんそれで遊んだり、広い原っぱでかっけっこや鬼ごっこ、かくれんぼもやったりします。私が鬼のタガメになって逃げ回るおたまじゃくしたちを追い回すというひと時もありました。それはそれで楽しいのですが、こんな姿もたくさんありました。

「こっち」と私の手を強く弾くので、引っ張られていくと、歩道の欄干を歩きながら手でなぞり始めます。地面の上を枝を手にして車のワイパーのように左右に動かしているので、なんだろうと思ったら、地面の上を履くようにすると現れてくる小さな石。それを拾ってポケットに詰め込んでいます。

何かの葉っぱを口につけて「ピー」と音を鳴らしたり、花壇の縁を上手に落ちないように渡って歩いたりしています。丸太を模したベンチは飛び石の遊びになり、根本から別れた樹木の枝は木登りに使われています。

アリを見つけてはそれを追いながら、自分の持っている枝に登らせようとしている子もいます。手にした紙コップには、枯葉と何かの幼虫が入っていました。数人の女の子が輪になって座り込んでいるのでなんだろうと思うと、公園の水道メーターの蓋を開けてその中にいるダンゴムシを捕まえては、また元に戻してあげたりしています。

子どもたちは、大人がここで遊んでほしいとデザインした物や空間ではないところも、自由に関わりを求め、探索をしたり、それらの世界に出あおうとしているようです。

(ここで紹介したような写真があまりなくてすみません。写真を撮るのを忘れてしまうぐらい、めだたない遊びなんですよね)

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