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2022年 8月

心身をお互いにケアしあって、楽しく

2022/08/31

園だより9月号(巻頭言)より

この9月で今年度も半年が過ぎることになりますが、1年間の流れがコロナによって、どうしても分断されてしまいがちです。感染の波がくるたびに、数ヶ月単位の生活の流れが乱されて、その度にゴールデンウィーク明けぐらいの状態に戻ってしまうという感覚があります。7月下旬からの登園自粛で夏らしい活動がどれくらいできたか?といったことを振り返ると、保育園なのに学校のような(幼稚園のような)夏休みがあったような感じです。9月から、さあ二学期が始まります、というような感覚に近いかもしれません。

でもGWや夏休みと異なるのは、子どもも私たち大人も健康状態の異変を抱えている場合がある、ということです。身体的にも精神的にもダメージを受けてしまった家族があるということを、心にとめて静かに配慮し合いたいと思います。はっきりとはわからないけれども、なんだか体調がすぐれない、そんなことが起きているんだということを忘れないで、いつもと同じように目立たない気遣い、心遣いで、ケアし合いたいと思います。

 今月は延期になった「納涼会」があります。ちょっと遅い納涼会になりましたが、ここで楽しい夏の思い出作りにしましょう。また、これからの季節はだんだん、涼しくなって体を動かすことが楽しい時期、運動の秋、食欲の秋、アートの秋など居心地のいい時期がやってきます。ダンサーの青木さんたちも来園も増えてきて、身体表現の面白さも味わいます。来月10月22日(土)の「親子運動遊びの会」で、ご家族みんなで、体を動かして楽しみましょう。

 味覚の秋、といえば果物も美味しい季節になります。今年度は調理の先生たちも新しいメンバーになって、食事の内容や工夫していることを、もう少し情報発信していくようにしたいと思います。9月の献立表から、新しいミニコラムが加わりましたので、ぜひご覧ください。また「アーツちよだ3331」が旧校舎修理のため今年度末で休館になるので、今のうちにもう少し交流しておきたいと考えています。

 ところで、9月は防災対策を点検する月でもあります。大規模な地震が発生したらどうしたらいいのか。その時のことを想定して「こうなったら、こうしよう」の練習をしましょう。いざとなったら慌てずに済むように、準備をしておきましょう。連絡アプリを使って、アンケート形式の自己チェックをしていただきます。千代田区は基本的にはこんなことが大事なポイントだったということを確認しあって、身の安全を確保していきましょう。

つぶやきから伝わってくる強い気持ち

2022/08/30

自分なりにやった判断とその結果が他人に認めてもらえないとき、二つの選択肢の前で人は戸惑います。それまで自分はそのように生きてきたし、それでとやかく言われたことはないから、これまで通りAのやり方を続けよう。これが選択肢A。

もう一つの選択肢Bは、それまで自分がやってきたことではうまくいかないからこそ、その他人が認めてくれないのだと素直に自分自身のあり方を省察してみることです。するとそれまでとは違った気づきが生まれ、歩んでいく視野が見つかるかもしれません。

なんでも認め合う関係というのは、なんでも許し合う関係でもあるかもしれませんが、それだけでは信頼し合う関係には、育っていかないのではないでしょうか。人間性の開発とは、人間関係の発達でもあるからです。

この選択肢AかBかを選べと言われたら、私は迷わずにBを選びます。もし、仮にBの否定(結果的に提案でもあるもの)が自分に合わないと最初からわかっていたとしても、自分の中から出てくる現状維持への惰性に従ってしまうことが、自分で考える道を閉ざすからです。異論があること、他の見方や考え方がより良いものであることを発見できる可能性があるなら、私は選択肢Bを選びます。その思考の結果、やはり最初にやってきたことで良いと判断するなら、それでも結構。同じ結果であっても、その生き方は水と油ほど違うと思います。いったん自分の中を通したものと、最初から拒否したものとでは、結果に対する自分で納得する責任感が違うからです。

今日30日(火)、昨日と今日とでは、子どもたちが違います。昨日がそうだったから、今日もそうなるだろうと考えるかもしれませんが、月曜日と火曜日とでは、子どもの何かが違います。昨日も捕まえたトンボを、今日も捕まえて帰ってきた子どもたちですが、「エンチョーセンセーイっ!」と大きな声で呼ばれて、「お帰りなさい。どうしたの」と玄関へ出ていくと、虫かごにトンボが三匹、逃げだそとうとして、羽をバタバタと音を立てています。かなり大きな音です。

「よく見せて」というと、私の目の前にカゴを突き出して、見せてくれます。三匹のトンボは、それぞれ捕まえた子どもがちがっていて、Sくんが「これはHちゃん、これはRくん」と教えてくれます。するとHちゃんが「私ももちたい!」と、Sくんからカゴを無理やり取り上げようとして、力づくの取り合いになります。

すると、それをみていたRくんは、「逃してあげないとしんじゃうよ」と小さい声でポツリ。彼もカゴを持ちたいのかな?と私は思いましたが、SくんとHちゃんの取り合いが終わっても、トンボのそばに行かないので、本当に逃してあげたいと思っていたようです。そして二人には何度もそう言ってきて、それでも無視され、やらないことがわかっているから、もう諦めている、そんな顔でした。

4〜5歳の、こんな小さいうちから、友達の力関係もわかっている中での、トンボのことを気にかけているRくんの様子に、私は気持ちが動かされませす。このような瞬間は、誰の記憶にも残らないだろうなあ、と思いながら、Rくんの「トンボ、逃してあげないと」という言葉の繰り返しに、「そうだね」と、深く頷いてあげたのでした。わかってほしいという強い気持ちが、呟きにしかならないこともあるんですね。

「保育の過程」の2つの語り口

2022/08/29

当園の保育の特徴は、子どもの発達をとらえる「視点の広さ」にあるかもしれません。子どもの姿を多様な視点でとらえることは、保育の質を語るときに欠かせないものです。同じ子どもであっても、どんな視点でとらえるかによって、姿は異なってくるからです。その子ども理解を保育の起点(スタート)とし、そこから「こうあってほしい」という保育者の願いが保育計画や、次の保育の展開の機動力になっていくというのは事実だし、その流れを「保育の過程」と考えることが、今の保育の定説になっています。

しかし、その起点が動かない、保育が展開しない、という事実が多いのも現実であることを考えると、保育者の理解度、願いやねらい設定といった、保育者側のことで、子どもの体験が制限されてしまうとしたら、そこを乗り越えるためにも、子どもに任せる、子どもの思いや考えを「聞く」、そして子どもに生活プランの推進のチャンスを保証する、そういう範囲を増やすことが大事になっていると思えます。

今日29日(月)から保育実習生が一人きています。同じ子どもたちについて、私の見え方と実習生の見え方は違います。それはきっと、誰でも「そうだろうなあ」と認めてくださることでしょう。同じように私の見え方と保護者の見え方も違います。子どもと先生という関係と、親子関係とでは、違って見えて当たり前でしょう。園と家庭では、実際に行動パターンが異なるでしょう。人によって見え方が違えば、保育の起点や展開も変わるでしょう。

今日、こんなことがありました。朝、3階で久しぶりに「園長ライオン」をやりました。これまで何度も同じ遊びを積み重ねてきた子どもたちですが、やってみると子どもの成長を感じます。2年前と今、1年前と今では、この同じ遊びであっても「面白がり方」が、落ち着いているとでもいうのでしょうか、慣れている遊びの習熟度を感じます。弾むような興奮ではなく、気持ちが「熟成している高揚感」とでも言っていいかもしれません。ワクワク、ドキドキが楽しいという部分はあるのですが、それぞれに余裕があるのです。そんな違いはきっと私にか感じない「子ども理解」であり保育の「起点」です。

でも、今日はその子たちがその後、「和泉公園」に出かけて、トンボを捕まえてきました。もう自然界は秋です。そのプランは、主任や担任の「子ども理解」から始まったものですが、鍵になったのは、子どもがどうしたいのかを「聞いた」からです。トンボについて関心を持っていた子どもたちがいたことをキャッチし、さらにトンボを探して捕まえたい、という子どもの願いやプランを優先して、それを叶えてあげたい、と先生たちが工夫したからです。

保育者を主語にした保育の語り、そして子どもが主体となる生活づくりの語り。同じ出来事の連なりを、どちらで語るか、あるいは両方を共に語り比べることで、「新しい気づき」が生まれるのか、そんなことを試してみたいと考えています。

より安心で安全な食材を求めて

2022/08/28

私たちが食べたり飲んだりしているものが、体にいいか悪いかを判断するのは、誰なんだろう? そんなことを考えたこと、ありませんか? 賞味期限が1日過ぎてしまった食品、傷んできた冷蔵庫の野菜、一旦溶けてまた固まったアイスクリーム、割ったら弾力性のない生卵・・・食べたり捨てたりするのは、人によって異なるかもしれませんが、これらはまだ判断がつきやすい方です。分からないのは、一見新鮮そうに見えながら、実は農薬がたっぷりかかった野菜や果物。有機栽培と書いてあるけど、実際は遺伝子組み換え作物の有機肥料がたっぷり使われたもの。食べたら美味しいけど、化学調味料がふんだんに使われている料理。さあ、どうでしょう? これらはどうやって判断したらわかるでしょうか?

こんなことを考えてしまうことが、最近増えました。安心・安全な食材について調べているからです。そしてこう思うようになってきました。自然界に住んでいる動物が、自分で食べるものを間違えてしまうようなことはきっとなかっただろう。動物が、これは食べていいものなのか、食べてはいけないものなのか、本能で区別ができなかったら、きっと絶滅しているだろうと。たとえば地面に生えている自生の草を食べている、アメリカのある牧草地で飼われている肉牛たちは、自分達が排泄した糞のために、青々と茂った草は食べないそうです。青すぎる草には、硝酸性窒素が多く含まれていて、体に良くないことを牛は知っているのだそうです。

人間の身体や感覚は、動物ように自然界の「中にいる」のではなく、自然界から「分離された」ものになってしまっています。ですから、自然ではないものを人工的に作り出した環境が、巡りめぐって、人間自身にとっても都合が悪いことになっています。そして、その判断が自分の感覚ではできなくなってしまいました。摂取していいのかどうなのかを、他人に聞かないと分からないようは世界に、私たちは生きています。そして忘れてはならないことは、ものによっては微量であっても、人体に深刻な悪影響を与えてしまうものもあれば、微量では影響がないかもしれないけれども、たとえば腸内環境の悪化のように、長く取り続けると体内でよくない環境を作り出してしまっているかもしれない、ということです。

(この写真は朝日新聞デジタル 2019年7月12日付配信記事より)

自然から切り離されてしまった私たちの身体と感覚。人工的に作られたものが身の回りに氾濫して、自分では制御できないような環境になってしまいました。食べ物が安心して食べられるように、身近なところから変えていこう、そのための勉強を始めました。手始めに、この分野の第一人者の方々の研修に参加して、基本的なこと、最新の情報を学び始めました。知識をアップデートして、保育園の食に反映させていくつもりです。

子ども主体の保育の語りへと変化

2022/08/27

何かに気づいたり、分かったりしたあと、「じゃあ、・・・」の部分が自ら動き出すかどうか。自ら動き出したものをどう大切にしてあげたらいいのか。そのことが保育のスタートと言っていいでしょう。その部分の「つながり具合」に気を配る保育へ、だんだん変わってきたのが、この数10年の保育の変化だった気がします。子どもの「心の動き」に着目することを第一に考えて、保育のねらいや内容を変化させていくこと。それがますます強まっていると感じます。それは、とてもいいことです。

とくに最近の保育界で目立つのは、子どもの主体性を軸にした保育の語りにシフトしてきている、ということでしょう。保育を語るとき、どうしても主語が保育者、だったのですが、このところ、子どもを主語にした語り口に変わってきたな、という印象を持ちます。たとえば主体性をエイジェンシー(社会形成の主体者)という概念で捉え直すことも、また映画「こどもかいぎ」でも注目されたように、保育者がファシリテーター(司会者のように議論を促進する役割)としての専門性に移ってきているように、保育者目線の理論から子ども目線の保育理論が再構築されてきているのです。

その最も大きな変化は、「保育のプロセス」を「学びのプロセス」に置き換えようという動きです。保育のプロセスというのは、保育をするのが保育者ですから、主語が保育者でした。保育者は子どもを理解する、保育者は子どもがどう変化するか予想する、保育者はその予想を踏まえて環境を再構成する、保育者はその結果を省察する・・・PDCAサイクルを回すのは大人側、保育者側の語りです。

ところが、子どもの参画を促し、子どもの意思決定を尊重し、大人と同じように生活を作り上げる主体者であると子どもとの関係を位置づけ直していくなら、保育の語りは、ある意味で180度変わってくるかもしれません。子どもが何に興味を持ち、何に心動かされているのか、語ってもらい、教えてもらい、赤ちゃんなら私たちが想像し、そこから何をすることがサポートになるのか(よく聞いてあげることや、受け止めてあげること)を、よくよく考えなければなりません。その上で、子ども一人ひとりの歩みを支えていく、したがっていること望んでいることに「つないでいく」ことの方法を一緒に考えていく。そんな保育の営みに変化させていく必要があるのです。

そこで、子どもの興味や関心を捉えて書き記し、そこから「じゃあ、こんなことにつながっていくんじゃない?」ということを予想して、記録を取っていくような「保育ウェヴ」という手法が、近年、急速に広がってきたのです。この手法の大きな特徴は、保育者が子ども理解に基づいて、予想される子どもの姿や環境構成の案を「文章で書き記す」というフォーマットではなく、その趣旨は同じなのですが、蜘蛛の巣状にたくさんの枝分かれを書き込めるようなフォーマットに変わります。子ども主体の「学びの展開」のプロセスは、「個別最適性」を追求することになるので、幼児でも個別指導計画が期待されていく時に、一人ずつに従来のような書式の書類を用意することは無理なのです。

子どもの持っている可能性を、私たちがどのように気づき、耳を傾けていく保育、子どもが何を従っているのかの「子ども理解」が、子どもの学びのプロセスを阻害してしまわないようにする保育への転換、と言ってもいいでしょう。子どもがどうしてそんなことをするのかわからない、何をしようとしているのか見えないという問題は「大人側」の課題であって、大人側がわからない、見えないから、と言って「子どもの学び」のプロセスを止めてはならないのです。

一昔前は(今でもそうかもしれませんが)大人が子どもに良かれと思ってさせる活動の羅列が保育の内容だった時代があります。厳密にいうと1965年(昭和40年)に初めてできた「保育所保育指針」から、1990年(平成2年)までの、なんと25年間もの間、大人が子どもにさせる活動主義保育の時代があったのです。第1回の大改定以降、子ども主体の保育に変わったはずなのですが、果たしてどうでしょうか。そこからまた既に30年以上経っているというのに。

あれ!?と思う瞬間から次の一歩へ

2022/08/26

「あれ、固まった!」。

3階のパズルゾーンにある遊具を、じっと見つめている年長のTY君が、突然そういいました。遊具とは円柱状の透明な容器の中に、粘性の高いドロリとした液体が入っているもので、筒は3層からなり、穴を通って下へゆっくりと落ちてくる仕掛けになっています。例えると、砂時計の砂の代わりに、スライムのような硬めの液体が入っていると思っていただくといいでしょうか。筒をひっくり返すと、数分かかかって、下にゆっくりと流れ落ちてきます。

その動きが面白いので、子どもたちは集中してその動きを見つめています。私もそれが好きで、時々、頭の中を空っぽにしたくて、じっと眺めてリフレッシュツールとして使うことがあります。すると、いろいろなことに気づきます。中のドロリとした液体は、落ちてくる時に、最初は太い線になって穴から落ちてきます。その先端が底につくと、螺旋を描くように、細いロープ状になってクネクネと回りながら、ちょうどソフトクリームの輪ができるように、積み重なっていきます。

その回りかたは、やる度に右回りだったり左回りだったりします。そしてロープ状になった液体は、だんだん細くなります。なぜ細くなるのというと、下の部屋の空気が上の部屋へ押し出されるので、そのため液体が抜ける穴が小さくなるのです。その時、まるで細い液体が落ちるが止まったように見える瞬間があり、その時、子どもによっては「固まった!」「止まった!」ように見えるのです。

その気づきは、まだ不思議だな、という思いにはなっていなくて、「あ、止まった!」という事実としての気づきです。でも、どうして止まるんだろう?と思うのでしょう、見ていると、大抵の子どもは、瓶を手にして、斜めに揺らしたりするのです。すると落ちている細い液体は、向きを変えて落ちていることを教えてくれます。「あ、動いた」と言って、また元のように置いたり、ひっくり返してみたりしています。

実は、この呟きや操作をしている時、STEM体験が起きているのです。つまり、あれ!?という気づきがあって、なんでだろう?という興味から、対象をよく見ようとして持ってジッと見つてみたり、揺らしてみたりすることが、子どもがおこなっている、いわば「仮説検証実験」とでも言えることになっているのです。どうしてだろう? そう思って手にしてみる。あれ、なんだろうと思って近寄ってみる。これは、科学的思考の芽生えなのです。

「そんなことなら、子どもはしょっちゅうやっているよ」と思われるかもしれません。大人が持っている物に興味をもって「それなあに?」と、いろいろ手にして触ってみたり、真似していじってみたり、分解してみたり。時々、大人にとっては困ったことになることもあるでしょう。このような興味から引き起こされる行動に対して、昔から私たちは「こどもは小さな科学者である」という表現で、大切にしてきました。

中でも、「こうかな? ああかな?」と、ある現象に対して試してみたり、一歩進んで「どうして」そうなるのか仮説を立てて試してみたりするようになると、それはもう立派な科学的思考と言っていいものです。赤と青を混ぜたらこんな色になったから「じゃあ、これに緑を混ぜたらどうなるかな」と考えたりすること。ここに科学的な営みと同じ思考が動き出していると言えるでしょう。

この遊具が面白いのは、大人にとっても「あれ?」と思うような動きをすることです。液体が下に落ちてくると、その体積分の空気が、風船のような形をして1つ上の部屋に移動しようとするのですが、どうしてその大きさになるのかは、気圧と粘性度の関係で変わります。子どもたちはまだ、そこに不思議さを感じることができません。流体力学の知識が加わると、同じ現象を見ても、見えてくる物の奥深さが変わってくるのです。

積み木でできた「ブルジュ・ハリファ」の塔

2022/08/25

子どもにとっての「科学的思考」とはどんなものなのか? 

いま、それがわかる場面を、子どもたちの遊びの中から拾い出しています。先日は、年長の子どもが積み木で高い塔を作っていました。その塔の先端が天井についているので、いつ倒れてくるか心配なほど高いものだったので、それが出来上がるまでに、子どもの中で何が起きていたのかを知りたくて、作った本人たちに説明を求めました。すると、やっぱり、聞いてみるものですね、見ただけでは分からない、そこ子が「どう思ってそうしたか」、内面の心の動きが見えてきます。

「ここが八角形、ここが七角形、ここが六角形、ここが五角形、ここが四角形、ここが三角形、ここが二角形、ここが一角形・・」

塔の積み木は同じ大きさの直方体が横に並んで輪になっていて、そこに少しずれて輪が重なっています。下から上にいくに従って、数が減っていくように作られているのです。彼は、それをこのように、説明してくれたのです。一段、一段、「ここは◯角形」だと両手で輪の形を作って教えてくれました。

これまでの積み木遊びの中で、高く積むにはどうしたらいいのかを発見し、下の方を大きい輪にして上にいくに従って輪を徐々に小さくしていくと安定することに気づいているのでしょう。積み木の輪は、羊羹のような直方体を並べて輪にしているので、隣り合う積み木と積み木の間には少し隙間ができます。その隙間のところに、次の段の積み木は、ちょうど跨ぐように載せてあります。そうすることで、輪の積み重なりは安定します。その輪が上にいくとだんだん小さい輪になっていくのです。

この塔はモデルがあるそうで、「こっちはドバイのブルジュ・ハリファ」だと言います。そのドバイの塔は、現在、世界一高い塔なのです。ここに、高く積むということを目指している彼の動機が読み取れます。そういえば、この塔を感心して私が眺めていた時に、最初に彼が言ったことは「園長先生と(背が)どっちが高いかな」だったのです。高さの追究が倒れにくい積み木の積み方の習熟を促した、と言えるのかもしれません。探究心です。

科学的な思考とは、これまでの数々の積み木遊びの中で、「こうしたらこうなる」という規則を抽出してきたのでしょう。これは帰納的な論理性を表します。積み木が組み合わさっていった時の構造の特性を、体験の中から導き出しているのです。直方体や角度などの概念を言葉で表すことで確かな知識を獲得することになっていくのですが、いまは具体的な「もの」の操作を通じて、暗黙の知識を使いこなしながら、物体の法則性を発見していることになります。

この気づきは確かに獲得されており、自然科学の領域の中では、自然科学、特に物理的な法則を学んでいることになります。学問の領域では、数学の幾何学、職業の分類では建築家の基礎、良さの要素では無矛盾性や関係性、効率性、美のセンスが働いていることになります。積み木遊び、侮るべからず、です。

 

 

 

GTサミットでの「協働的学び」

2022/08/24

話は昨日の続きです。GTサミットで取り上げたれたテーマ、これからの教育や保育のビジョンについてです。

政府が目指そうとしている「学び」の特徴を一言で表すと、もっともわかりやすいのは「個別最適な学び」と「協働的学び」の実現、ということなのですが、実際にやろうとするととても難しい。その障害となるものは、先生の数だったり、教科カリキュラムの枠だったりします。学校の現実をちょっとでもご存知の方なら、児童生徒の興味や関心に合わせて、あるいは子どもの発達に合わせて、個別に対応することなんて、いろいろなことをクリアしないと難しい、ということはすぐにわかります。

それでも政府がやろうと旗を振るのなら、それに見合った環境を用意していくことが当然、必要になります。この環境を準備することは、意識の問題と条件整備の問題が両方ありますが、条件整備が整わないことを言い訳にして「できない」ことだけを主張しても、子どもたちの現状は少しも変わらないことになってしまうので、できる範囲で少しでも実践に移したいものです。

その実践の積み重ねの中で、工夫すればできそうだというものを、空間、物、人の環境に整理して、順番に実践のアプローチを作り上げたものが、保育関係者の間から「藤森メソッド」「見守るアプローチ」と呼ばれるようになってきた方法になります。当園が実際に行っていることがこれです。この実践を集めて報告し合う全国大会が、来年1月下旬ごろに鹿児島で開くことが決まりました。

GTサミットの二日目今週の23日(火)でも、その実践の具体的な事例が、全国の仲間から「リレー討論」という形で報告されました。全国大会の会場となる鹿児島からの報告、藤森メソッドの海外での広がりの報告を始め、京都や熊本、茨城や東京から、各地の状況や保育実践の一端が紹介されました。コロナ禍での保育、安全な食育の試み、保育理念の再構築、STEM保育なども報告されました。私たち保育者にとっての「協働的学び」の時間です。

このような実践を確認しあっていくと、私たちギビングツリーの仲間が大切にしていることが浮かび上がってきます。それは、園運営の率先性です。子どもたち、保護者の皆さん、地域のために、やれることは実践してみよう!という果敢なチャレンジ精神に溢れていることです。この体験はリアルな出会いが持つパワーであることを確認できました。ズームやオンラインだけでは、どうしても限界があります。直接会って話し合うこと。対話の中で信頼と意欲を確認し合うこと。大事なことだな、と思いました。

「個別最適な学び」としての生活と遊び

2022/08/23

GTサミットで話題になったテーマを少し紹介します。当園が実践してきている内容と関連するものを取り上げます。

最近の政府のいろいろな審議会答申は、不確かな将来に備えるための「学び」がどう変わるべきかを、かなり大胆に描いています。今年6月に出された内閣府の「審議のまとめ」は、かなりドラスティックです。それらのキーワードの一つは、中教審が昨年答申した「個別最適な学びと協働的学び」があります。小学校以上の学校での勉強や家庭学習、あるいは地域活動でも、これからこの言葉で表される「学び」が実現できるようにしましょう!というわけです。

とりわけ、学校に限らず、全方位をカバーする内閣府は学校に限らず、学校でも家庭でも地域でも、どこにいても、その子どもにふさわしい学びが成立するようにしましょう、という方針を、明確に打ち出してきました。

このことは、当園が開園したときに、敷地が狭くて園庭はない保育園だけれども、生活を遊びの場を地域にも広げてしまおう、と考えてきたことと、かなり重なってきたなあ、と感じます。

 

そのことは、<学びや勉強>というところを<子育てや保育>に置き換えてみると、ますますそう思えてきます。子育ては家庭だけで行うものではなく、保育園も子どもにとってのホームになるようにしましょう、と考えてきたこととも一致します。

さらに、子育ては親だけでできるものではなく、いろんな人が子どもに関わることで子どもたちが良く育つというアロ・ペアレンティングという考え方とも調和します。いま取り組んでいることを、政府が「その方向でいいんだよ、もっとやってください」と、後押ししてくれるといいのになあ、と期待してしまいます。

このように、子どもの学力も、学校だけではなく家庭も地域もつながり合って、身につけていけるようにしましょうという時代になりました。それは「塾やお稽古」にとっても、追い風になるのかもしれません。

学校の学びは主に「教科カリキュラム」によって、構造化されているので、おおむね何年生の何学期で何を学ぶかという順序が決まっています。しかし就学前の保育園や幼稚園は、子どもの生活や遊びの中で学んでいく「経験カリキュラム」なので、その子の発達や興味関心、学び方の適性などに合わせて「個別最適な学び」を追求することができます。

さらに、当園のような自発的な生活と遊びは、複数の子どもたちによる話し合いと意思決定につながります。自分の考えや思いを言葉で表現していくためにも、いろんな機会に会話や対話が生まれるような生活を意識しています。

その一つが朝の子どもたちによる「ゾーン決め」「お散歩先の話し合い」「セミバイキングでのいっぱい・ちょっと」「ピーステーブル」「お手伝い保育」・・・などいろいろな場面での「選択と参画」となって現れます。映画「こどもかいぎ」でも、そのようなシーンがいくつも紹介されています。

GTサミット開催(東京・高田馬場)

2022/08/22

当法人(社会福祉法人省我会)の保育は、理事長で新宿せいが子ども園の藤森平司園長がつくり上げたものです。八王子市の旧市街地・大和田町に1977年に「省我保育園」を開園した時から現在に至るまで、振り返ってみると、一貫して変わらない保育観があります。それは「子ども同士の共同性の重視」です。

私が当法人に就職したのは1997年ですが、保育をしながら感じてきたのは、大人と子どもが向かい合う関係よりも、子どもが子どもと関わる関係、子ども集団が刺激しあい育ち合う関係を大切にしてきたことです。それは少子社会が深刻化していくにつれて、ますます大切になっていく、当法人の保育の特徴でもありました。子ども同士がいかに触れ合い、学びあい、育ち合うか? このテーマは大人が個別に育てることよりも、はるかに人間性の発露に不可欠な視点だといえるでしょう。

このことは、中教審の最新の答申や、内閣府が打ち出しているキャッチフレーズに置き換えると、「協働的学び」という視点に近いのですが、ただ、大きな違いがあります。まず第一に、この「協働的学び」は文部科学省の中央教育審議会で作られた言葉であることからわかるように、小学校以降の学習の中で期待されているものです。まさか赤ちゃんの頃から必要なこととは、思われていないでしょう。しかし、私たちの法人の保育観では、それとは異なり、人は赤ちゃんの頃から子ども同士の関わりの中でこそ、人間の持っている可能性が引き出される、と考えています。

この考え方は、やっと世界が提唱するようになってきたものです。例えば経済協力開発機構(OECD)が提唱している研究報告書は「スターティング・ストロング」、つまり人生の始まりである乳幼児期にこそ、力強い政策や財源の投資をするべきだ、という趣旨です。しかし、日本ではなかなか進んでいません。先進的な世界の取り組みと比較すると、まだまだ心許ない印象を免れません。

その点、子ども同士の関わりを重視した実践を推し進めている保育団体が、藤森理事長が代表を務めている「保育環境研究所ギビングツリー」です。その会員が全国から集う会合「GTサミット」が今日22日(月)から二日間、東京・高田馬場で開催されます。今とこれからの時代に必要な保育とはどんなものなのか、学びます。今日は藤森代表の基調講演がありましたが、子ども同士の関係を基盤とした保育のかたちを、いかにしてこれからの時代にあったものに作り変えていくか、その方法を確認しあう時間になりました。

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