先生たちが幼児クラス(3階)の模様替えをしました。新年度は2ヶ月が経って、これまでの子どもたちの様子を踏まえて変えました。このタイミングになるのは、自然な流れです。子どもたちの様子から「ほんとうはもっとこうしたいんだろうなあ」という<潜在的な育ちへの可能性>を感じるからです。子どものと環境の関係の調整です。子どもの姿に環境を変えます。月曜日からの様子をみて、また微調整を続けていきます。
2025/05/31
先生たちが幼児クラス(3階)の模様替えをしました。新年度は2ヶ月が経って、これまでの子どもたちの様子を踏まえて変えました。このタイミングになるのは、自然な流れです。子どもたちの様子から「ほんとうはもっとこうしたいんだろうなあ」という<潜在的な育ちへの可能性>を感じるからです。子どものと環境の関係の調整です。子どもの姿に環境を変えます。月曜日からの様子をみて、また微調整を続けていきます。
2025/05/27
養成校の先生から、こんなメッセージをいたただきました。全国保育協会が発行している会報「ぜんほきょう」5月に載っていました。
「最後に園の皆さんにお願いです 。『保育士にならない学生は実習に送らないで』と言わないでください。普通に考えて、高校を卒業したくらいで進路を確定しているほうが不自然なので、私など保育学生は多くが保育士になりたいと決めていることがすごいなと感心します。それにしても保育士にならないとしても、むしろ、保育士にならないからこそ、いかに保育がすばらしい仕事をかを知ってほしい。彼ら/彼女らが将来違う仕事に就いて子どもを預けに来た時、保育士の専門性を理解して応援団になってくれます。保育士になるかならないかにかかわらず、保育の楽しさや専門性をできる限り伝えてほしい。ある学生は、卒論を書くためにだけに園に観察に行っていましたが、毎週通って保育士たちと話しているうちに保育のやりがいに目覚め、有意義な仕事だからやってみたいと実際に就職しました。より人材が育つ業界にするためには、「急がば回れ」です。喫緊の課題だからこそ、業界全体として丁寧に取り組む必要があるでしょう」(特集「学生の声から保育現場の課題を考える」座談会より。最後の発言の中から。)
2025/05/25
卒園された親子や転園された親子が遊びに来て、再会を楽しみました。保育園が在園の園児と保護者だけではなくて、卒園しても、転園しても、保育園が生活圏として続いていくような場でありたいものです。入園と卒園という意味を新しい言葉に変えてみたい。生活圏にはそのような区切りはないんじゃないだろうか?ネットワークが広がっていくということでいいだろうに。
2025/05/22
私たちは何か生活や仕事がうまくいかないときや、困ったときは「どうしたらいいだろう?」というように考えます。ものをなくした、病気になった、家族が辛い思いをしている・・・その問題を解決するための方法を見出すために色々考えます。あるいはもっと良くするためにどうしよう?と知恵を絞ることもありますね。ただ私たちは自分や家族のことが滞りなく進むかぎり、あまり縁のない遠くのことは深く考えないものです。
ところが、他人があまり考えないようなことを「深く考察すること」が仕事になっている場合があります。研究者とよなれる人たちです。「どうしてだろう?」「どうなっているのだろう?」と探究することが「専門性」となっています。世の中には、一旦、一通り専門的な技能を修得してしまえば、その繰り返しで務まる仕事と、常に新たな知識を探究し続ける必要がある仕事があるといえるのかもしません。新たな知識を深めるといっても、その方法は同じ技能の繰り返しなのかもしれませんが、いずれにしても、常に刷新が必要かどうかということには仕事の種類によって差があるようです。
では保育という仕事はどうなるのでしょうか?私が個人的に思うのは、一旦専門的なスキル(知識と技能)を身につけて(豊かな人間性の裏打ちが不可欠ですが)しまえば、その応用で仕事の質を高めていけるように思えます。専門性の違いはあっても、その道のプロと言われる人たちの歩み方とそう変わりはないのではないかと思えます。でも実際のところ、これまでの経験から言えるのは、学び続けてきました。一旦身につけて終わりということはありませんでした。これはどう考えるといいのでしょうか。
確かに時代が変化するので、また保育も進歩するので、それに合わせてバージョンアップしていくという一般論はわかります。ただもっと本質的に保育が難しい、学び続ける必要があると思うのは、対象が「もの」ではなくて人間であり、子どもであり家族も対象になっており、そのうえ成長、発達、教育という目に見えにくい成果(を単に求めるのではない、という話もあったりして)を追求するという仕事だからかもしれません。
とくに最近思うのは、子どもや人間や世界についての捉え方が、刷新されてきていることに起因するのだろうといことです。言葉を変えると保育を進める上で考える概念が更新され続けており、それまで「そのことはこう捉えればいい」と考えてきたことが、そうじゃないかもしれない「こういうふうに捉えることが事実に近いはず」という見直しの連続だからかもしれません。
その難しさには、子どもの経験の意味を考察する必要があることも関係します。考察のためには、物事を理解していくために用意された概念を駆使する必要もあります。「いい保育というのはどういうことをすることなのだろう?」ということを考えることが、保育でもあります。そんなことを考えながら、今日はある学生さんと昨日話し合ったある光景について振り返ってみたのです。
園内を案内し、どんな保育をしているのかを説明しました。するとある3歳の女の子が、運動ゾーンから折りたたみの運動マットを一人でままごとゾーンに運び込もうとしていたのですが、その事例について「印象に残ったから」話し合っていたのです。そのときに、そのエピソードを考察するとしたら、どんなことを考えるかを話し合ったのでした。その時思ったのは、考察すること自体を専門性として、ちゃんと学ぶ必要があるのではないかと言うことでした。
保育園は保育士を目指す学生の養成機関の一翼を担っているのですが、具体的には「実習」の受け入れ先になっています。大学や短大、専門学校などを「養成校」と呼ぶのですが、その場での学びを実際に保育にいかしてみる実践の場というわけです。当園は毎年4〜6人程度の学生さんたちを受け入れていますが、実習が始まる1ヶ月ほどまえにオリエンテーションという事前の打ち合わせをします。昨日はその打ち合わせがあったのです。
2025/05/21
さきほどお迎えのときの一コマ。体調を崩して休んでいた3歳児クラスの男の子Sくんが園に戻ってきて(と園側はつい言ってしまいますが)、昼間会えなかった先生と事務所で会った時、先生は「ああSくん」と話しかけていた。元気になってよかったね、という気持ちを伝えていた。
するとその子は先生に「会いたかった?」と聞くのだ。お、と思って私は耳をそば立ててしまった。それに対して先生は会いたかったよ〜というふうに答えたら、彼は「でもぼく、もうかえるんだよ」という。まるで恋人同士みたいな、なんてロマンチックな会話だろう。先生はその可愛さに笑顔満開で嬉しそうだった。
このほんわかエピソードは、それで終わり、その余韻を楽しもう。
それでいいものを、またちょっと理屈っぽく、考えてしまった。なぜこのような空間が生まれたのかということを。というのもAIでも似たようなことが起きるだろうかと思ったから。こんな状況でこんなロマンチックな会話とか、いろいろプロンプトを指定したら、そういう風なエッセイとか小説とか、4コマまんがぐらいできてしまうの世の中になってしまった。
「でもぼく、もうかえるんだよ」。
先生に近寄っていったSくんの先生への親密さの確認のさきに、休んでいた間「会いたかった?」と口にするのは、自然な成り行きかのかもしれない。思えば子どもたちは昼間、親に会いたいと思って寂しさを堪えることを幾度も経験しているのだ。その親を慕う思いは「ママあ〜」「パパ〜あ」といって泣く表現を言葉にすれば「ママに会いたいよう」なのであるから、会いたかった?と聞くのは当たり前、とても自然な言葉だろう。
でも今は、もうお迎えの時間。せっかく会ったのに、もう僕はいなくなってしまうんだよ。やっと会えたのに、ごめんね。その前後の空白の言葉を埋めるなら、こういう言葉が並んでもおかしくない。それに近い感情がどの程度あるのかはわからないけど、文脈としては人間性の吟線に触れてきます。
相手がいるからこその、人間関係があるからこその、そういう気持ちの湧き立つのだということをふと感じました。たった10秒ほどの出来事なんですけどね。
2025/05/19
特定の子どもを選んで、じっくりと観察して、そのあとで話し合って保育の援助計画を修正しています。この話し合いを保育カンファレンスと読んでいますが、先ほどそれが終わりました。
子ども本人してみると、「きっと、こんな感じのことが無自覚に起きているのかもしれない」と想像しながら、支え方をああかな、こうかなと話し合います。だったらこんなふうしたら相互作用が変化するんじゃないか?とか、こんなふうに誘ったりすると、うまくいくんじゃないだろうか? こんなものや空間にしたらどうかとか。・・・
保育の話し合いでやっていることは、それぞれの子どもにとって、周りからの「呼びかけ」のあり方と、その子が「どう応答しているか」という関係を分析していることになっていそうです。そこで気づいたことがこういうことだろうから、こう思わず動いたのだとしたら、ここに空隙があって、越えられなかったからかもしれない、とか。
たとえば車の運転にたとえると、入ってくる視界情報と路面とスピードの関係を考えながら操縦している主体(子ども)は運転手です。当てずっぽうに運転する子どもの運転技術の度合いの違いが個性や発達の度合いで、保育とは、その車体がどう走りたがっているか、またそのスキルを想像しながら(この子はこうだね)、視界情報や路面環境などを整えているのに似ているかもしれません。
空間を止まったり走ったり常に動いている車の動的な動向を環境の方からうまく走らせていくような感じ。
運転手にとって、環境からの呼びかけ方は「聴覚からよりも視覚からのものがよさそうだ」とか、「声かけが先だと抵抗するから、そっと見えるように置いておいて、何気なく始まってしまった方がいいだろう」とか。そのカーブでは一時停止の標識は確認しにくいねとか。標識が多すぎて判別しずらそうだから、他の標識を隠してしまったほうがいいみたい、とか。運転しやすい道路空間のデザインを考える感じです。
子どもの姿が車の運転ぶりだとすると、この道路空間は「いつも走っているから、こうだ」と見通して安心できると好きなことに集中できる(車を快適に運転できる)が、予想外のものから呼びかけられたり、時間的にちょっと先に始まることの見通しがもてないと不安に感じたり、しているのかもしれない。急に「いやだ〜」になってしまったりするのは、どうして?その話し合いから、こんなアナロジーに似た感触を話し合いました。
本人にしてみたら、たとえば気持ちよく運転しているときに急に視界が遮られて、思わず急ブレーキを踏んでしまうようなことかもしれない。きっとこうなるとパターン化されているならできるが、未知の世界への入っていくときは、何かの既知からのつながりのある未知でないと不安なのだろうか?あるいは、「やりたいことがあってもできないことからのもどかしさ」がそうさせているのではないか?とか。
たとえは車の運転が相応しいかどうかわかりません。波乗りサーファーや川下りのカヌーのようなものでもいいかもしれません。いずれにしても動的な動きのある空間の例えがいいような気がしました。
それにしても私たちは本当に知らないことには不安を覚えるものです。その既知と未知はどうつながっているのだろう。そのつながり具合を工夫しているのが保育のようにも思えます。楽しい、面白いと思えるように世界への通路を作っているのが保育なのだとしたら、既存の世界と未知の世界の繋ぎ方として、楽しく運転していたら、新しい世界にはっていったというような形で運転をサポートすることが保育なのでしょうか。その微妙な調整の仕方を話し合っているのが保育カンファレンスのように感じました。
2025/05/17
あいにくの雨になってしまいましたが、室内での「わらべうた遊び」は、ゆったりと楽しい空気感に溢れていました。歌とリズムと声のハーモニーが子どもたちを包み込んで、幸せな気持ちになりました。このような空気感は保育園ならではのものでしょう。
上野動物園は雨の中でしたが、3グループに分かれてのんびりと散策できました。私がついて回ったグループではシロクマが水中でボールで遊んでいる様子を楽しみました。
雨のために団体がキャンセルしたのか、空いていたこともあってコウモリ、タンチョウヅル、象なども見ることができ、それぞれの場所をゆったりと楽しめました。
2025/05/16
金曜日の午後、1週間を振り返る話し合いがあります。その時間に私が子どもたちを見守っているのですが、そのとき、いろんなことに気づきます。保育ドキュメンテーションでも紹介されていましたが、ちょうど1週間前の神田祭で神輿をかついたので、その様子の再現遊びが繰り返されます。
どうも、毎日のように、気が向くと繰り返しているようで、運動ゾーンのマットが神輿で、わっしょいわっしょいと、1周すると止まって一本締めをするのです。「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」。そこが楽しみみたい。そして「キューケー」といって、自分の水筒の所へ行って水分補給しています。
私が見ていた時は、「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」がずれないように練習していました。スピードが早いのです。言葉では伝えられないんですが、2〜3秒ぐらいです。なので、みんな必死で早く手拍子しています。拍子木のつもりで積み木をカチカチやってらました。
面白いなと思ったのは、真剣にやってるということでした。あのお祭りの雰囲気をちゃんと感じているのです。そこもちゃんと再現しているあたりに、子どもの表現を感じました。
2025/05/14
今日は豆(そらまめ・グリーンピース・いんげんなど4種類)を食べ比べてみました。やる流れはだいたい毎回同じなので、省略しますが、今日の午後の振り返りで私が「面白いなあ」と話題にしたのは、次のようなことでした。
(1)江口さんが「つぎ、これ、〜していいかな?」ときくと、子どもたちは「いいよ〜」と答えます。料理ですから、洗ったり、下拵え(筋をとったり、へたを切ったり、さやを開いたり、中から豆を取り出したり・・)や、茹でたり、焼いたり、切ったり、さらに盛り付けたり、いろいろな手順があります。そのたびに「こんどは、こうしてみるよ、いいかな?」という感じです。
月に1回ですが、にこにこ組(2歳児クラス)の子どもたちも、毎回のように出てくる「茹でる」「焼く」のパターンへの見通しがでてくることでしょう。
今日も包丁を出してきてまな板のうで切ったり、いろいろやって、こんどは「じゃあ、これ、焼いてみるよ、いいかな?」。するとまた機嫌良く「いいよ〜」と返事が返ってくる。その繰り返しが、何回かも繰り返されていきました。
この応答は、<質問と答え>ではなくて、これからやるに決まっていることに、あえて同意を確認しているような感じです。よくみててね、という意味もあるし、さあ、どうなるかなやってみるよ。という意味でもあります。ようするに、これからこんなことをやるんだけど、みんなも一緒にやるつもりになってね。という感じです。
子どもたちが実際に自分でやってみたいと思っているはずなので、子どもが自分できる「子どもクッキング」は危なくないもの(梅ジュースを作ったり、振ってチーズを作ったりなど)は別の機会にやっていきますが、この味の探究は野菜が中心で、その新鮮な素材の味をできるだけ、そのまま味わうというねらいなので、シンプルに茹でる、焼くということが中心になります。というわけで、子どもは火傷などしないように、そばで観察することになります。
「いいよ〜」。という子どもたちの声。とても可愛らしい声なので、その雰囲気を動画でお伝えしたいほどなのですが、その姿は、まるで子どもの好奇心がむくむくと芽をふいている瞬間のように感じます。
これから始まる出来事へ身を乗り出しているときの集中。こんどはどうなるだろうという興味。「どうなるかまだわからないけど、うん、やってみて、ぼく興味あるから、ぜひ」。そんな、集中力を感じて、見えいて気持ちいいのです。担任によると、2回目なのに、この時間を待ち遠しく感じている子もすでにいるらしい。
(2)もう一つ、感じたのは、世の中の出来事について言葉で表されることはほんの一部でしかないということ。豆にはそれぞれ名前が付いていること。子どもにとっては初めて出会っている目の前の景色のなかから、名詞や動作や形容詞やオノマトペがそれぞれの瞬間に聞こえてきて、世界がそれで文節化されて、そこに何かの一貫性を子どもがみつけていくこと。
もちろん数回の経験で文節化されていくのではなくて、何度も何度も繰り返される事象のなかに生きていくことを体験しながら、そのなかで「そういうことか!」「わかった」と、明瞭化されていくようなことなのでしょう。意味が生まれていく過程を体験していることになるのでしょう。
他の言い方にしてみると、目の前に展開されている世界から、料理の過程の中に言葉のルール(言語ゲーム)を大人が取り出してきて、世界と言葉がセットでふるまいのなかに意味を立ち上がらせていく、ということでしょう。子どもにとっては「そこか」とか「そうなんだ」とか、一つずつそのセットを自分の中に取り入れていく。こうやって、こういうときはこうするものなんだということに慣れていくのだろうと感じます。
この場合は野菜の匂い、音、色そして味などについて、そのことに言葉がくっついて何かのふるまいがなされていきました。
(3)関わりながら、好きになり、もっと〜という流れが生まれていくこと。世界なかから取り出されてくることに対して、子どもたちは自分なりに「知覚」したことについて、言葉を介して体験が意味付けられていくということなのでしょう。また、その意味がさし示しているであろう範囲をぼんやりと意識して、そのうち自分の感覚で得たものをなんども照らし合わせていくうちに、自分の「行為」とつながっていくということでしょうか。
その過程では感情が共感的に働いて、食べてみたら「美味しい!という感情がそれらを好きになりながら、もっと食べたいという欲求を耕しています。豆の種類によって、味やおいしさが違うので、絵本で親しんでいる「そらまめくん」のイメージがその子なりにダブりながら、どんなふうに変わっていくのか、想像してみたくなります。先生たちはその変化を子どもの姿のなかに気づいていくことでしょう。
2025/05/10
保育園として神田祭に参加するのは、前回に続き2回目。前回は職員10名が神輿を担ぎましたが、今回は初めて園の親子も参加して子ども神輿を担ぎ、また山車を引かせてもらいました。
岩本町三丁目の子ども神輿と山車は、12時半ごろから山崎パン本社前の御神酒所から出て、午後2時ごろまで町内を練り歩きました。3時半には隣町の須田二丁目町会と東松下町会と合同で柳森神社前で御霊にお礼参りです。神田明神へお宮入りは明日11日です。
さて江戸三大祭りとも言われる神田祭。その本物の祭りに保育園として参加させていただき、とても貴重な体験になりました。保育園に在園している親子が約19家庭参加されたので、子ども神輿と山車の周辺は活気にあふれ、その賑わいを包み込んでいる地域の方々の思いに接して、図らずも目頭が熱くなったほどです。
地域の行事を見るだけではなく実際に参加してみることは、保育から見ても大切なことが含まれていそうです。地域の一員であるという実感をいつどのように感じるのかは、わかりませんが、こうした積み重ねが「自分のまち」という意識を醸成していくものになっていくのでしょう。
当園からは私も含めて職員が12人参加したのですが、知っている大人が法被をまとい手拭いを結び、粋な格好で普段とはちょっと違うメリハリを効かせて振舞います。子ども達から見れば、多くの知らない大人たちが大勢いて、その中に、よく知っている大人が一緒に混じって「わっしょい、わっしょい」と神輿を担いている。その姿は、子どもたちにどんな印象を与えたでしょうか?
そしてお父さんお母さんに手を引いてもらいながら、その神輿を担いだ、山車を引いた、抱っこしてもらって太鼓を叩いた。太鼓や鐘の囃子の音や大人たちのリズミカルな掛け声や身体的圧力を感じ、柏木の透き通るような音や、一本締めの手拍子、そばで声援を送ってくれている親の声。そういう祭り独特の空間に身を浸しきった時間。
21世紀も四半世紀が過ぎたこの時代に、江戸時代から続くといわれる地域の祭りを体験すること。その意義を確認したり、再発見したりする営みが必要だとしたら、何をどう考えたらいいのでしょう?
それはきっと、地域の当事者が主役となって、まずは一緒にその時間を体験することで、そこで感じる感覚を大切にしながら、言葉ではいい表せないことを紡いでいくことなのかもしれません。