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2024年 11月

公園の落ち葉がベランダにきてアリが誘う床の下の世界

2024/11/28

子どもを未知の世界に誘いたいと思っていたら、いつの間にか私たち大人も未知の世界に引き込まれていた!ということがあります。今週初めの1歳児クラスの保育の記録に、それが書かれていました。

<柳北公園の落ち葉が、テラスにやってきて、その葉っぱ遊びがアリの観察のきっかけになって、アリとの出会いが、テラスの床下の世界につながって・・・と、毎日の遊びがどんどん色々な方向につながっていく様子が面白いです。(テラスの床下を覗いたことなど、この保育園に勤めてから初めてでした…!)子どもたちは、大人が気付かない、いろんな世界を見せてくれます^^>

この「まとめ」の前の、1連の写真報告を、ぜひご覧いただきたい。

・・・・
いかがでしょうか?

このちょっとしたことのように思える展開の中に、担任のきめ細かな観察や優しさが垣間見えます。公園の落ち葉への関心を大切にしてあげたいという思い、公園で落ち葉を集めている子に、袋を用意してあげるかどうか。それをベランダに撒くことを許してあげるかどうか。その中に見つけたアリを追いかけ始める姿に、心の鼓動の高鳴りを聴くことができるかどうか。床の隙間を覗くために、スマホのライトを用意してあげるかどうか。

こうした、その都度のつながりは、まるで小さな木の実に細い糸を通してあげるような、小さな保育の営みなのです。それを丁寧にその糸に通し続けてあげるかどうか。担任が「ぐんぐんさんように懐中電灯を用意したいな」と呟いていたのですが、そういうことが嬉しい話です。子どもの後ろをちゃんとついていくような保育。後ろいいても子どもが注意を向けている世界へのピントは外さない。こっちだよ、と子どもが教えてくれることも多いですけどね。

職域を超えて支え合うチーム保育をめざして

2024/11/26

当法人の理事長が代表をつとめる保育環境研究所ギビングツリー(GT)が主催する職域別セミナーが昨日と今日、新宿高田馬場で開かれました。このセミナーは保育園ならではの「チーム保育」をテーマにしたものです。参加者は全国各地から50人が集いました。オンラインはなしの対面のみです。ただし保育士はいません。保育士以外の職種が集うのです。こういう研修会は珍しいでしょう。なぜ、こんな研修会と申しますと・・・

ご存じのように保育園には保育士だけではなく、看護師、栄養士、調理員、用務員、事務員などいろいろな専門家がいて、それぞれが広い意味で「保育者」として保育を支えています。さらに園医さんや療育機関などの専門機関との連携、子育て支援のパートナーや地域の民生児童委員、保育ボランティアの方々など、裾野の広いネットワークが子どもの育ちを支えることになります。

医療に例えると、医師や看護師のほかに保健師、管理栄養士、理学療法士・作業療法士・言語療法士、臨床検査技師、臨床工学士、ケアマネージャー、 臨床心理士、医療事務などが支えている<チーム医療>に似ています。

そうした広い意味での<チーム保育>を展開していくために、どんなことが大切なのかを二日間にわたって学び合いました。まずは、その保育園が、組織としてその実現を目指している理念や目的、ビジョンなどの共有することが欠かせないのですが、GTの場合は、国の法令である要領や指針が基盤になります。子ども同士の関係を大切にしながら、子どもが主体的に環境に関わって、その関わり方と意味に気づき、探究を深めていくような生活をどのようにチーム保育のなかで作り出していくか? やりたいことや発達にあったことを選んで活動でき、あるいはその活動内容そのものを子どもと一緒に作り出していくような生活にしていきたい・・。

しかし、それを具体的に実現しようとすると、それぞれの園の置かれている条件によって、内容が変わってきます。そこで、要領や指針が求めている保育の姿を、具体的にこういうことになるのではないかと、そのレベルで具体化する事例を持ち寄って学び合う場がギビングツリーの特徴といっていいでしょう。具体的な実践事例から、大切な「実践理念」を導き出し、その具体化を図るというアプローチといっていいかもしれません。

そこで、まず大切なのは各園の職員が大切にしている子ども観や保育観を理解し合うことです。その中で、いわば目指していることの接点を増やしていく。それぞれ役割を明確にしながら、相互に理解して支え合うという関係づくりを目指すことになります。ここに一つの組織論が展開されるのですが、それは実践理念と離れるわけにはいきません。セミナーでは、調理や食育、保健の立場、ICTの活用、子育て支援、そして用務の立場から、それぞれ事例に基づく提案を各1時間ずつ報告してもらいました。

事例は実に多岐に渡り、それぞれの立場から見えている景色が違っているように感じるのですが、大切にしたい部分を丁寧に重ね合わせていくと、陥りやすい分岐点が見えてきたりします。同じような保育に見えても大事なことが違っていたり、一見別の方法に見えても、そこに至る経緯や置かれている条件や優先順位が異なるだけで、目指しているものがおなじであったりします。子どもの姿から考えるようにするとか、子どもから見たら大人はみんな先生ではないか、など、なるほどと思える実践的な視点をたくさん共有することができました。

 

子どもの姿が表舞台なら裏舞台には担任の思いも

2024/11/25

保護者の方々が毎日みてくださっている「保育ドキュメンテーション」ですが、それを表舞台だとすると、その裏舞台に「今日の気づき・振り返り」という記述欄があって、その二つをみると、<保育劇>の両舞台が見えてきます。

たとえば、ちっち組の表舞台には「今日は天気が良く散歩日和でした。みんなの好きな和泉公園で落ち葉にたくさん触れて遊んだちっちさんです。いろんな色や形の落ち葉がありましたが、大きな葉っぱはみんな一度は手に取っていて魅力的なんだなぁと感じた担任です。」と書いてありましたよね。

その裏舞台には「気分等からバギーに乗りたくない、一人乗りがいい、抱っこがいいと泣いて訴える姿があるが、バギーの中で楽しいことを見つけると笑いが起こったり喃語を発したりと子どもたちの中で共通の遊びが始まる様子がある。子どもたちにとって楽しめる遊びや歌など取り入れながら、世界観を見守っていきたい。

和泉公園では地面が落ち葉でいっぱいになっており自然物に興味が惹かれる姿があった。ちぎる、握りしめる、降らせる、顔を隠すなど様々な使い方を見つけて楽しむ姿があった。引き続き自然に親しみを持って過ごせるようにしていきたい。」と書いてあるのです。

表舞台に登場する「大きな葉っぱ」が、いかに子どもにとって魅力的なものなのか、感心し、その様子をお伝えしているのですが、子どもによって葉っぱがさまざまな使い方を呼び起こす素材として、親しめるようにしてあげたいと願っている先生の心情が伝わってきます。とくに表舞台には描きにくいバギーの中での「共通の遊びが始まる様子」について、その世界観を見守っていきたい、という先生のまなざしからは、子どもたちの持つ何か良い兆しというか、何かの芽生えを感じ取っているように思えます。

もうひとつ。2歳児クラスでは「公園では、枝や、枯葉を集めて、バーベキューをごっこを楽しんだり、枝を組み合わせてなにを作ってるのかなー?と覗いてみると、ツリー作ってるのー!と子どもたちからの言葉が!」とありました。それについて、振り返りの方には「紅葉した葉っぱや、木の実、枝を使ってお友達と一緒に協同して遊ぶ姿が見られた。あれもってくるねー、私はこれといったような、役割的な所もあった。保育者にも枝もってきてーとリクエストしたりと、ごっこ遊びのリアリティが以前より高くなった遊びになってきている。一緒の物を作ろうといった、目的が一緒で遊ぶ姿があったことがよかった。」と分析しています。

先週から楽しみしていた4歳児のクッキー作りについては、「クッキングには全員が楽しんで取り組めており、五感を使って色々は発見や気づきがあった様子。エプロンを着る・脱ぐ・畳む・片づけるという所も、時間をゆっくりと確保することで自分でしっかりと行っており、成長を感じた。 Rちゃんは最近、Yちゃんとの仲が深まっており、年下の子に対しての気遣いや思いやりがとても素敵。それぞれの良い所を伸ばしていける関わりや活動を引き続き組んでいきたい」と振り返っています。

最後に年長さんが見つけたザリガニについて。「御徒町公園の池でザリガニを見つけ、最初は「飼いたい!」と興奮していましたが、特定外来生物の法律の話をできるだけわかりやすく伝え、持ち帰れないことを何とか理解してもらった。毒のある生物以外にも、このような特定外来生物もこの先増えてくることが考えられるので、併せて子ども達には伝えていきたい。」

どうでしょうか。毎回お伝えすることはできませんが、先生たちがこのように様々な願いをもち、何が子どもたちにとって望ましいかを考えながら、台本のない〈保育劇〉が展開しています。

 

勤労感謝の日に考える感謝の意味

2024/11/24

自分の意思で物事をちゃんと進めていくことを自立した姿と呼んでいいのなら、そうしていきたいという思いを伝えたい相手は、それまでの自分の経緯を理解してくれている人へ、かもしれません? しかも、その経緯をずっと支えてくれてきたと思える人だからこそ、そのことに応えたいと思うようになる気がします。

次のエピソードは、ある娘さんが結婚する時に父親に書いた手紙の内容です。こんな趣旨だったそうです。

<・・お父さん、これまで私を育ててくれてありがとう、というつもりはありません。私をこれまで見守ってくれてありがとう。・・私が結婚相手をつたえたとき、お前が決めた相手なんだから、とだけ言って信じてくれました。それでかえって本当にこの人でいいんだろうかと真剣に考えました・・云々>

見守ってもらえていると思う時、人は自分の歩みを、自分でもちゃんと振り返る、自分で自分も見返すようになる、ということかもしれませんね。つまり、見守ってもらえるという体験には、きっとその度合いの差、真剣さの度合いというものがあって、その強さが伝われば伝わるほど、自分で自分を大事にしようという気持ち生むのかもしれません。そしてそれを責任感、という言葉で語る場合もあるのでしょう。自分で決めたことだから責任をとりなさないという話ではありません。責任感というものが生まれてくる関係性というものが、先にあるのでしょう。

この話を聞いて思い出すのは、川上哲治が亡くなった時のお別れ会で、王貞治がこんな挨拶をしました。テレビでみたことを覚えています。ネットで検索すると、その全文を読むことができます。最後の文章は次のような言葉です。

<・・・巨人軍だけでなく野球界に残された大きな影響力は、これからも生き続けていきます。プロ野球界はもとより、野球ファンの間でながく語り継がれることでしょう。プロ野球界は力強く前進してまいります。どうぞ見守っていてください。  川上さんありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。ゆっくりお眠りください。 平成25年12月2日 読売巨人軍OB会長 王貞治>

これを聞いた時、野球界をもっと良くしていきたいというという王さんの決意が伝わってくるのです。そしてもう一つ、大事な人に見守られていることと、それに応えるべく向かう世界は、両者がともに大切にしたい世界を分かち合っているという関係がありそうだ、ということです。同じ方向を向いているのです。向かい合っているのではなく、二人が世界の方へ視線を送り合っているのです。

冒頭の自立した姿は、その歩む世界があって、その世界をよりよくしていく共同作業をしていくための自立に見えてきます。そこには見えないバトンが渡されていく、生きていく命の流れをそこに見出していくことも可能な気がします。そういう視点で歴史を学べると面白そうです。先人が見つけていた未来を思いをはせたり、そのつながりとしての未来を描いてみる。その営みはきっと子どもと過ごす生活に影響を与えていくことになるかもしれません。

子どもの「やりたい」を未来からの予告編として受け止める

2024/11/23

昨日22日、4歳児クラスからこんなお知らせをさせてもらいました。

<少し前から、昼食やおやつの配膳のお当番に張り切って取り組む子が多いらんらんさん。子どもたちから、「クッキングやりたい」という声もあり、調理さんと相談して、月曜日のおやつのごまクッキーづくりをすることにしました。>

確かにクッキーづくりのような活動は大好きです。それは、お手伝いが目的ではなくても、好きな食べるものを作ること自体が楽しそうです。しかも美味しく食べられる。そして分かち合うことにもなります。たぶん自分が食べるだけではなくて、他人に食べてもらって、その反応が返ってくる。たぶん、美味しいとか、もっと食べたいとか・・。それを想像できるだけに、やりがいのあるものになっていくでしょう。

子どもたちの成長を追っていくと、自分が好きなことのなかに、何かを手伝うとか、一緒に役立つことをするとか、なにかしら手応えのあることをやりたがるようになってきます。

面白そう、楽しそうと思えることを計画するのは、それをイメージして準備したりするところから、その活動はすでに始まっていると言ってもいいでしょう。そのために必要なことを想像して伝え合ったり、具体的に何をどう用意したらいいかを考えることになります。

そして実際にやってみて、その時に考えたり試したり工夫しながら、ごまクッキーが出来上がっていくことでしょう。そこも大人が全部こしらえてしまうのではなくて、子どもと一緒に考えていくことになります。これと同じような意味で、お楽しみ会で何をしたいかを考えている子どもたちも、わくわくしています。

こういう子どもたちをみていると、わくわくする未来につながっている現在というあり方を大切にしたいし、私たち大人もそうでありたいと思えてきます。さて月曜日はどんなことが待ち受けているのか、そして新たな未来から、どんな予告編が届くのかも楽しみです。

時間の流れも環境だな、と感じるとき

2024/11/22

年長さんがスライムをつくりたいと、先週から約束していたので一緒につくりました。

どうもいろいろな色のスライムを作って混ぜてみたいようなのです。ずいぶん前にやった経験が蘇ってきたのか、色の指定まで紙描いて私に託してきたのです。

水100dlに8gのホウ砂をとかします。ホウ砂は調理室から借りた秤で、最初が13グラムだから、これに8グラム出すといくつだっけ?などと話しながららデジタル数値が少しずつ増えていくのを見つめます。

子ども用の小さなビーカーにスポイドで目盛りを測りながら、それを何杯いれるといいか、考えながらシリンダーに注ぎます。同じ分量の洗濯ノリも同じようにもう一つのビーカーに注ぎ、水面が同じ高さだねと確認します。

水で薄めた洗濯ノリに絵具をたらして色を付けて、そっとまぜながらホウ砂水をとかすのですが、たちまちドロリ、と固まっていきます。一回目が青、2回目が緑、3回目が黄と三色のスライムができあがりました。

9時半から11時まで、たっぷり1時間半ちかく楽しみました。間違わないような手順を細かく決めていたわけではないので、その都度どれを使おうかなどと話し合いながら、ああでもない、こうでもないと、いろいろと手順を変えながら、やってみました。

できたスライムを触ってみたり、ぐちゃぐちゃにこねてみたり、バラバラになったスライムがまた集まって一つになったり、思い付くことを試してみるという時間だったように思います。

そのときの過ごし方を振り返ってみると、子どもは満足した感情に満たされていて、感情にも満腹感があるんだあと思います。

ところで<時の過ぎ方>も環境のはず、とずっと感じてきたことに、こんなとき今更ながら気づきます。というか思い当たります。子どもの生活を<川>に例えるなら、本流ではなくて支流や水たまりのような場所にとどまりたがったり、いつもの場所じゃなくて、ここだけでそれをやりたいんだ!と駄々をこねられたりするようなときもそうかもしれません。

私たちは環境を通した保育という言い方で、その環境のところが学校いう<教材>などに相当するという考え方をとっているのです。子どもを取り巻く物や空間、さまざまな自然環境、生活環境などが含まれます。そう考えると、環境というのはとても広いて深いので、私たちの手に負えないところにまで、延伸してしまうこともあります。

その環境に、時間も含まれると考えると、どう過ごすか、<時の過ぎ方>といってもいいものも、環境に入れてみるという捉え方もできないことはありません。このことは大人が心に余裕をもって子どもたちのやりたいことに耳を傾けようとかいうときの、子どもの側の時の刻み方に、大人の歩み方をチューニングするようなことと近い話になりそうです。

一日の過ごし方にスケジュールがあると、その順番や手順のスクリプトがあるようなもので、子どもがないかをやりたいとなったときに、その枠の時間の中でやれないことも多く、順番を変えたり、枠を伸ばしたり縮めたりします。今日のように、ゆったりとした時間の幅のなかで、ほぼ1対1の時間があるもの、いろんなことが試せていいものだと思います。

学びに向かう人間性の中心で育つもの

2024/11/20

今月からコドモンの保育ドキュメンテーションを全クラスのものを毎日みてもらえるように変えましたが、いかがでしょうか? タイトルにクラス名も入れるようにしたので、見たいところだけ見ることもしやすくなったのではないかと思います。

赤ちゃんから年長さんまで、年齢や発達によって、これだけ異なる活動になるということがよくわかると思います。だんだん関わる世界が広がっていきます。

成長するというのは、自分のこと、他者のこと、世界のことがよくわかってきて、それぞれの世界との関わり方や意味に気づいていくことだということに納得できる気がするのですが、どうでしょうか?

そういうふうに見えてくると、世界のあり方やつながり方としての環境や活動内容をもっとこうなったらいいな、と思い浮かぶようになっていきます。その工夫を子どもたちから教えてもらっているような気になるし、話し合ったりしながら、いっしょに世界をもっとよくしていきたいね、ということが素直に感じ合える気がします。

そうか、そこを環境の再構成って呼んでいたところだけど、その動機というか願いが立ち上がっていくのは、世界を好きになっていくからなんだ、ということが見えてくる気がします。

幼児教育の見方・考え方の駆動力には世界を愛おしく思うようになっていく心情が根底のところで育まれていくのだろう、と。学びに向かう人間性というものの中心にそれがあるんだなあということに気づきます。いつも大事なことを教えてくださる先生に感謝です。

見守ってもらえているからもっと良くなろうする

2024/11/19

神様からでも親からでも尊敬する先生からでも、自分のことをちゃんと思ってみてくれていることがわかると、人間は自分でもっと良くしようとし出します。自発性というものが、信じてもらえているというところから生み出されてくる感覚、わかりますよね。それが子どもにもあります。大人にもあります。その気持ちが伝わっていくように保育をすることの大切さを、いつも藤森先生から教わってきました。

 

そういうことがあるので、最も基本となる職員クレド「保育の三省」は、「子どもの存在を丸ごと信じただろうか?」から始まります。その次に「真心を持って接しただろうか?」となります。今日は保育環境セミナーの3回目が開かれて、全国各地からたくさんの方々が新宿・高田馬場に集まりました。今回のテーマの一つ「チーム保育」の根幹にある考え方は、この「相手を信じること〜信じてもらっていること」の関係を見守ると呼んでいることを再確認してもらいました。

藤森先生は決して誰も手放さない方です。最後の最後まで人が自分で立ち上がっていく潜在的可能性を信じてくださる方です。そのあり方は、子育てや保育や教育の文脈にだけではなく、人の生き方の根幹になる部分なので、多くの方々がそれを学びにこられます。教育関係者に限らず起業家やコンサルタントや行政担当者などの方々が、人が自立していく支え方を学ぼうとされて集まってこられます。

確かに方法や環境のあり方などの具体的なアイデアもあるので、それを学ぶことも多いのですが、最も大切なことは人間関係のあり方なのです。藤森先生のいう見守ることは、他者の潜在的可能性を信じて環境を整えるというあり方であって、ただの日本語としての見守るという意味に留まらないことを理解してもらいたいのです。

したがって、保育が生き方と関わる以上、保育学にとどまらず、保育道が必要になるという言い方が生まれる時もあります。

おおかみと7ひきのこやぎ

2024/11/18

子どもの頃の「かくれんぼ」のドキドキ感を覚えていますか?私はそれをよく覚えていて、見つかるか見つからないかのスリル感が楽しかったからです。子ども心の片鱗を思い出す糸口として、その話をすると、小学校の頃のことなら覚えている方が多い気がします。その頃の思い出から、忘れてしまっている2〜3歳の頃のドキドキ感を想像してみてほしいのです。というのは、最近よく、にこにこ組の子どもたちが「おおかみと7ひきのこやぎ」で遊んでいるからです。

このグリム童話は4歳ぐらいにならないと、白い手に騙されてお家に入れてしまうあたりのリアル感や面白さがピンとこない感じで、2歳児クラスの子たちは、食べられてしまう前の、どうしてもオオカミに見つからないように、部屋の色々なところに隠れる「かくれんぼ」が楽しいようです。遊びはそこにスポットを当てて遊んでいます。

絵本の世界から遊びに発展する、いわゆる劇遊びは、子どもが面白い!楽しい!という気持ちや感覚から飛躍しないようにしています。無理にお話し通りにする必要もないので、子どもなりの意欲が溢れている遊びだから心も躍動し楽しいのだと思います。そういう意味でも、お楽しみ会なども、これからどうなっていくかわかりませんが、それぞれの子どもたちがいま最も楽しんでいる「お話し」を楽しみたいと思っています。

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