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2025年 6月

子どもの人権をもっと大切する社会へ

2025/06/29

こども家庭庁が今年3月末に「保育所、認定こども園等におけるこどもの権利や意見の尊重の一層の推進について」という通知を発出しました。

【事務連絡】保育所、認定こども園等におけるこどもの意見の尊重の一層の推進について

【事例集】こどもの意見の尊重等に関する取組事例集_

これに基づいて、当園でも5月に「こどもの権利尊重マニュアル」をつくりました。子どもの人権をもっと大切にした保育、一人一人が独立した人格と尊厳をもった人間としての保育を深めていきたいと思います。

こどもの人権 尊重マニュアル

昨今の教育関係者の不祥事は子どもの人権侵害も甚だしく、本当に心が痛みます。そして教育関係者として悲しみと怒りを沸々と感じてしまいます。

私たちももっと子どもたちのための保育を考えていきます。そのためには大人の私たちもゆとりをもってやってきいたいと思います。

睡眠講座「あかちゃんねんね」6月開催

2025/06/28

今日は睡眠講座を開きました。今年の睡眠講座は回数を少し減らしています。7月8月はお休みです。次回は9月になります。睡眠でご相談されたい方は、私もアドバイスできますので、お気軽にお尋ねください。

ご協力ありがとうございます〜プールの組み立て&目隠し〜

2025/06/24

ほんとうにありがたい。力仕事のお手伝いは本当に助かります。このところ、男性保育士が減っていたので、なおさらです。お父さんに手伝っていただき、職員だけでやるよりも何倍も早く済みました。プールは組み立て式なのでゴムバンドをしっかり挟んで水漏れが起きないように、ボルトで締めるのですが、慣れている方も参加してくださり、完成度の高いプールになりました。

また屋上の周りは周囲からの視線を遮るために目隠しのためのシートをぐるりと張ってもらいました。神田川側のベランダも同様にしてくださり、これで安心して水遊びができます。これで、いよいよ夏の水遊びが本格的になります。ありがとうございました。

「しずくレストラン」の由来

2025/06/20

今日は保育園の給食を「夜ごはん」として家族で食べてもらいました。献立はおにぎり、鳥の照り焼き、ナムル、スープです。子どもたちが普段よく食べる人気のメニューにしました。保育園の給食を食べてもらう機会があまりないので、夕ご飯として家族揃って食べてもらう機会を用意しました。

保育園のスタッフだけでは賄いきれないので、ボランティアスタッフも手伝ってくださいました(ボランティアといっても、うちの先生たちの大先輩で大学で教えていたような方なのですが)。

せっかくだから、美味しいものを、親子で楽しんでもらいたい。とても忙しい皆さんの、ちょっとした家族のオアシスのような時間になってもらえたら・・。先生たちに感謝です。

しずくレストランという名前は有志でつくる保護者コミュニティの名前「しずくの会」から。しずくというのは、「ハチドリのひとしずく」(辻信一)の精神を引き継ごうという気持ちを表しています。こんはお話しです。

・・・・・・

森が燃えていました

森の生きものたちは われ先にと 逃げていきました

でもクリキンディという名の ハチドリだけは いったりきたり

くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは

炎の上に落としています

動物たちはそれを見て

「そんなことをして

いったい何になるんだ」

とって笑います

クリキンディは

こう答えました

「私は、私にできることをしているだけ」

感覚の感度は人によって異なる

2025/06/19

私たちは食べ物を美味しいと感じる味覚を持っています。でも、その感じ方には、個人があります。自分が感じている味を人も同じように感じているとは限らないのです。この◯◯は美味しいね、と「同じであることを前提に」他者に同意を求めがちですが、実際はちがっているかもしれません。

そのことを、研究するために大妻女子大学の先生が園に来られたので、子どもたちの傾向と私たちの保育アプローチを説明しました。

人間の味覚は遺伝子の研究がすすみ、「苦味」のように遺伝的に明確に説明できる特性もありますが、「甘味」「旨味」「脂味」などは複雑に「遺伝+環境」の影響を受けているそうです。しかし、実際のところはまだよくわかっていません。味覚の感度が高ければ、少しの刺激でより多くの感覚情報を得ていることになります。それが食べ物の好き嫌いの傾向にもつながっているだろうことは、容易に想像できます。

人間以外の動物の味覚を考えてみると、味を感じる味蕾の数は動物によってかなり差があり、それらの好む食べ物の傾向が現れています。竹の味をパンダはどのように「美味しい」と感じているのでしょう? ということです。下等動物から人間まで共通するのは、顔には口があるということで、外部から栄養を摂るための口が必ずあっても、その味の感度の差は、獲物を得るための手段として発達しています。

このように知覚は生存のための行為に直結しているからこそ、その「種」の特性が知覚の特性と相関しています。その動物の生き方やライフスタイルが、どの動物の知覚と行為の相関特性を作っています。

私は点字が読めませんが、読める人は読めない人よりも、指の感覚が鋭いといえます。犬の嗅覚は人間のおよそ1万倍〜1億倍とも言われています。犬の鼻には嗅細胞が約2億個(人間は約500万個)もあるそうで、微量なにおい成分も識別できます。犬種や個体差にもよりますが、警察犬や災害救助犬などのことを思い浮かべるだけでも、その精度の高さに納得します。

同様に5月に上野動物園でもみたコウモリは人間の数百倍以上の精度を持っていると考えられています。特に「超音波(20kHz以上)」と言われる、私たちには聞こえない高周波の音まで感知できます。また、コウモリは「エコーロケーション(反響定位)」という能力を使って、自分の発した音波が物体に当たって返ってくる反響を聞き取ることで、暗闇の中でも障害物や獲物の位置を正確に把握しているので、暗闇の飛行でもぶつかることがありません。

タカやワシなどの猛禽類は視力が優れており、1キロ先の獲物もはっきり見えているというから驚きです。しかもあのスピードで滑空しながら海面の魚や地面の小動物を掻っ攫っていく芸当は驚異的です。また昆虫の蝶も人間には見えない紫外線を含む色調を区別しており、花の色による「ガイドマーク」によって蜜の場所をみつけることができるそうです。

さて、人間はなんでも食べますが、そもそも「味わう」や「なんでも食べられるようになること」に、どれだけのこと期待をしていいものなのか。平均値からずれているからといって、その知覚を過敏だという言い方も、かえって鈍感な言葉の使い方かもしれませんね。

ハッと気づいて、なるほどと思ったこと「お盆を自分で戻したい」(イ 自立心)

2025/06/18

今日、私がハッとして、なるほど!と思ったこと。

昼食を子どもたちと一緒に食べていたら、私の後ろで2歳児クラスの子(2歳4ヶ月)が、大声で泣き出したので「なんだろう?」と振り返ると、先生が「ああ、ごめんね、自分でやりたかったんだね、ごめん、ごめん」と、その子に謝っています。自分でやりたかったこと、というのは「ごちそうさま」をして「自分のたべた茶碗やお皿やコップなどが載っているお盆を自分で運んで机に乗せたかった」のです。

私の後ろがちょっと狭くて、お盆をもってその子がそこを通る時に、先生がお盆を落とさないように持ってあげて、配膳台の机に運んであげたのでした。子どもの手からお盆が離れて、机に置かれるまでの時間は数秒、距離にして1メートルもないほどのことなのですが、その子にとっては、自分のやりたかった意思が阻まれてしまい、抗議の声を涙ながらに発した、という場面だったのです。

この先生が偉いなぁと思ったのは、心を込めて謝っていたからです。もしかすると「それくらいのことで、怒らないでよ、先生だって危ないかな、と思って手伝ってあげたんだから」。多くの人はそう思ってしまいかねない場面でした。

私も実際に、そういうことでも、自分でやってみたいんだね、かわいいなあ、と思いました。でも、冷静に考えてみると、どうしてそんなに怒ったんだろう? どうして、それをそんなにやりたかったんだろう?と想像してみることが大事なんだな、と改めて気付かされました。というのは・・・そういう気持ちにらなる理由が、ちゃんとあったからです。

私が「そうことで泣いてしまうなんて、かわいいよね」というようなことを言ったのです。すると先生は「今日、〜くん、下で初めて食べたんですよ」と教えてくれました。彼は食べ物のアレルギーがあって、他の子どもたちのを間違えて食べないように、彼専用の高いテーブルと椅子で食べていたのです。それが初めて今日他の子どもたちと一緒に並んで食べて、嬉しかったに違いないのです。

そして自分でも「あれ、やってみたいなあ」と思っていたことが、いろいろあったかもしれないのです。その一つが自分でお盆を片付けてみること、だったのでしょう。

「おかわりもしたんですよ」と先生から教えてもらいました。これまでは先生が運んであげていたのですが、今日は自分の椅子から立ち上がって、席から離れ、お皿をもって歩いて、おかわりもよそってもらい、自分の席にまた戻ることができたのでした。

自分でなんでもやってみたい時期の2歳児クラス、というのはよく言われることなのですが、まさにそういうやりたいことの意思がはっきりと表明されていたことになります。子どもは独立した人格と尊厳を持つ主体なんだ、ということでした。

子どもたちの世界を描くことの難しさについて

2025/06/16

保育参観は子どもを理解するという営みの一つです。

保育参観に限らず、毎日、私たちが子どもとの生活を描くのも、その一環でもあります。

ところで、どんな言葉づかいと枠組みで保育を描くかという、表現方法の選択は、どの「層」(あるいは相)に、どんな視点を持ち込んで描くかという判断と切り離せない気がします。私にはそう見えているという、「現象的間主観的世界」にとどまっているなら、共通の見方をだいたい共有しあえているので、話が通じ合うと思うのですが、描く方が、その背後にあるだろう「物自体」に迫りたいという衝動を強めれば、描く人の主観や思い込みが入りすぎて、それでは、誰にでも伝わる言葉になりにくくなります。

そこで大事なんだけど、どう表していけばいいのかわからないので、それをなんとか表せないかという可能性の追求を諦めてしまいがちです。そこに伝えたいことがあるんだけど、大抵は、書かない(書けない)で終わってしまうことも多くあります。

子どもたちは「その世界」に生きています。私たち大人も、その世界のでともに生きることを知っているから、それをもっとよく理解したいと願っています。そして、そこに一緒にいなかった保護者の方々に、その姿をなんとか伝えたいと私たちも努力します。子どもの住んでいる世界の外側にいる大人たちに伝えるために、なんとか通じ合う言葉のつらなりを発見しながら、その世界の意味に翻訳したいと願って。

でも、どうしても陳腐で型通りの話になってしまうことが避けられない。それを本気で乗り越えようとして伝えようとすると、多分、長編小説を書くことと同じようなことになるかもしれません。

そういう願いの先に、保育参観はあります。保育参観という、ちょっと錆びついた時代錯誤的な慣用句がいやなら、この言葉を刷新してみたい。子どもたちのワンダーランドへようこそ!みたいに。

 

保育実習生を応援に学校の先生が来園

2025/06/13

6月9日から21日まで、10日間の保育実習にきている学生に会いに、東京こども専門学校の先生が昨日12日、保育園に来られました。学生本人と話をして、私たち職員とも情報交換しました。保育園は保育士をめざして大学や短大や専門学校に通っている学生さんたちが、実際の保育を体験するための実習の場として、とても貴重は場です。

学校で主に「座学」で学ぶだけでは、実践力がつかないので、本当は1年ぐらい、長期にわたって実地の学びがあるといいのですが、そうもいきません。ですから10日間という短い期間でしかありませんが、ここでの体験がこれから学び続けるための原動力につながる機会になるといいなと、先生と語り合いました。

保育参観で感じる後ろめたさについて

2025/06/12

保育参観という、ちょっと遠くから自分の子どもに気づかれないように、自分お子さんの姿を、隠れてみてもらう、ということをやってもらっています。親の存在に気づくと、そちらに気が向いてしまい、やっていることができなくなってしまったり、普段の様子をみてもらうという目的が果たせなくなってしまうかもしれないからです。また参観のあと、出勤する場合もあって、お家に帰りたいと別れられなくなるかも、という心配もあったりするからです。

でも、見つからないように隠れて様子とみるということに、ちょっとした後ろめたさを感じることって、ありませんか? そばにいるのに、そのことを隠している私の存在のあり方についての、違和感のようなことです。

けっして騙しているわけではないけれども、覗き見をしているような後ろめたさを感じてしまう、といったこと。たとえば、大人の場合と比べるとどうでしょう。もし、そんなことを大人にしたら、極端かもしれませんが、刑事か探偵か、スパイか、ストーカーのような振る舞いと似ていないわけでもない、と。されている側の大人が知ったら、あまりいい気分ではないでしょう。どうして声をかけてくれないの? そんなこそこそして気味が悪い、とで思われるかもしれまえん。もちろん、子どもはそんなふうには思わないのですが、隠れてみているほうは、もしかすると、そういう不自然さを感じてしまうかもしれません。

そう考え出すと、こういう想像は、あまりいい感じがしなくなるのでやめますが、子どもなら許されるというのは、もしかすると、子どもの人権という視点から捉え直してみると、じっくりと考察してみてもいいことかもしれませんね。

それでも虚心坦懐に、子どもの姿を感じてもらいたい、という気持ちが私たちにはあります。親子の関係、兄弟の関係、家庭での関係のなかにはない、この園という空間のなかでの姿が、いかに家庭とは違うものか。今日もそういう話をいろいろなエピソードとして伝えあいました。

ところで、さきほど、先週、手袋に水をいれて凍らしたい、と言っていた年長さんがやってきて、冷蔵庫からそれを取り出して眺め、また元に戻して行きました。あるいは、また別の子が、今日は暑かったので屋上で遊んだ水遊びのなかで、欲しくなった容器として、ペットボトルを探しに来ました。事務所なら、あるかもしれないと思ったようです。

今日のできごとは確かに今日のことなのに、昨日のことも明日のことも、その姿の中には入ってできているから、回想でもあり予告編でもあるようなシーンを垣間見たように感じます。子どもが、この場所で過ごしている時間と空間をどのように言葉で切り取って意味付けすることが、ふさわしいことなのでしょう。

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