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園長の日記

でもぼく、もうかえるんだよ

2025/05/21

さきほどお迎えのときの一コマ。体調を崩して休んでいた3歳児クラスの男の子Sくんが園に戻ってきて(と園側はつい言ってしまいますが)、昼間会えなかった先生と事務所で会った時、先生は「ああSくん」と話しかけていた。元気になってよかったね、という気持ちを伝えていた。

するとその子は先生に「会いたかった?」と聞くのだ。お、と思って私は耳をそば立ててしまった。それに対して先生は会いたかったよ〜というふうに答えたら、彼は「でもぼく、もうかえるんだよ」という。まるで恋人同士みたいな、なんてロマンチックな会話だろう。先生はその可愛さに笑顔満開で嬉しそうだった。

このほんわかエピソードは、それで終わり、その余韻を楽しもう。

それでいいものを、またちょっと理屈っぽく、考えてしまった。なぜこのような空間が生まれたのかということを。というのもAIでも似たようなことが起きるだろうかと思ったから。こんな状況でこんなロマンチックな会話とか、いろいろプロンプトを指定したら、そういう風なエッセイとか小説とか、4コマまんがぐらいできてしまうの世の中になってしまった。

「でもぼく、もうかえるんだよ」。

先生に近寄っていったSくんの先生への親密さの確認のさきに、休んでいた間「会いたかった?」と口にするのは、自然な成り行きかのかもしれない。思えば子どもたちは昼間、親に会いたいと思って寂しさを堪えることを幾度も経験しているのだ。その親を慕う思いは「ママあ〜」「パパ〜あ」といって泣く表現を言葉にすれば「ママに会いたいよう」なのであるから、会いたかった?と聞くのは当たり前、とても自然な言葉だろう。

でも今は、もうお迎えの時間。せっかく会ったのに、もう僕はいなくなってしまうんだよ。やっと会えたのに、ごめんね。その前後の空白の言葉を埋めるなら、こういう言葉が並んでもおかしくない。それに近い感情がどの程度あるのかはわからないけど、文脈としては人間性の吟線に触れてきます。

相手がいるからこその、人間関係があるからこその、そういう気持ちの湧き立つのだということをふと感じました。たった10秒ほどの出来事なんですけどね。

 

保育カンファレンスは動的な環境の調整のようなもの

2025/05/19

特定の子どもを選んで、じっくりと観察して、そのあとで話し合って保育の援助計画を修正しています。この話し合いを保育カンファレンスと読んでいますが、先ほどそれが終わりました。

子ども本人してみると、「きっと、こんな感じのことが無自覚に起きているのかもしれない」と想像しながら、支え方をああかな、こうかなと話し合います。だったらこんなふうしたら相互作用が変化するんじゃないか?とか、こんなふうに誘ったりすると、うまくいくんじゃないだろうか? こんなものや空間にしたらどうかとか。・・・

保育の話し合いでやっていることは、それぞれの子どもにとって、周りからの「呼びかけ」のあり方と、その子が「どう応答しているか」という関係を分析していることになっていそうです。そこで気づいたことがこういうことだろうから、こう思わず動いたのだとしたら、ここに空隙があって、越えられなかったからかもしれない、とか。

たとえば車の運転にたとえると、入ってくる視界情報と路面とスピードの関係を考えながら操縦している主体(子ども)は運転手です。当てずっぽうに運転する子どもの運転技術の度合いの違いが個性や発達の度合いで、保育とは、その車体がどう走りたがっているか、またそのスキルを想像しながら(この子はこうだね)、視界情報や路面環境などを整えているのに似ているかもしれません。

空間を止まったり走ったり常に動いている車の動的な動向を環境の方からうまく走らせていくような感じ。

運転手にとって、環境からの呼びかけ方は「聴覚からよりも視覚からのものがよさそうだ」とか、「声かけが先だと抵抗するから、そっと見えるように置いておいて、何気なく始まってしまった方がいいだろう」とか。そのカーブでは一時停止の標識は確認しにくいねとか。標識が多すぎて判別しずらそうだから、他の標識を隠してしまったほうがいいみたい、とか。運転しやすい道路空間のデザインを考える感じです。

子どもの姿が車の運転ぶりだとすると、この道路空間は「いつも走っているから、こうだ」と見通して安心できると好きなことに集中できる(車を快適に運転できる)が、予想外のものから呼びかけられたり、時間的にちょっと先に始まることの見通しがもてないと不安に感じたり、しているのかもしれない。急に「いやだ〜」になってしまったりするのは、どうして?その話し合いから、こんなアナロジーに似た感触を話し合いました。

本人にしてみたら、たとえば気持ちよく運転しているときに急に視界が遮られて、思わず急ブレーキを踏んでしまうようなことかもしれない。きっとこうなるとパターン化されているならできるが、未知の世界への入っていくときは、何かの既知からのつながりのある未知でないと不安なのだろうか?あるいは、「やりたいことがあってもできないことからのもどかしさ」がそうさせているのではないか?とか。

たとえは車の運転が相応しいかどうかわかりません。波乗りサーファーや川下りのカヌーのようなものでもいいかもしれません。いずれにしても動的な動きのある空間の例えがいいような気がしました。

それにしても私たちは本当に知らないことには不安を覚えるものです。その既知と未知はどうつながっているのだろう。そのつながり具合を工夫しているのが保育のようにも思えます。楽しい、面白いと思えるように世界への通路を作っているのが保育なのだとしたら、既存の世界と未知の世界の繋ぎ方として、楽しく運転していたら、新しい世界にはっていったというような形で運転をサポートすることが保育なのでしょうか。その微妙な調整の仕方を話し合っているのが保育カンファレンスのように感じました。

親子遠足は室内での童歌あそびと上野動物園のぶらり散歩

2025/05/17

あいにくの雨になってしまいましたが、室内での「わらべうた遊び」は、ゆったりと楽しい空気感に溢れていました。歌とリズムと声のハーモニーが子どもたちを包み込んで、幸せな気持ちになりました。このような空気感は保育園ならではのものでしょう。

上野動物園は雨の中でしたが、3グループに分かれてのんびりと散策できました。私がついて回ったグループではシロクマが水中でボールで遊んでいる様子を楽しみました。

雨のために団体がキャンセルしたのか、空いていたこともあってコウモリ、タンチョウヅル、象なども見ることができ、それぞれの場所をゆったりと楽しめました。

真剣に楽しい一本締め

2025/05/16

金曜日の午後、1週間を振り返る話し合いがあります。その時間に私が子どもたちを見守っているのですが、そのとき、いろんなことに気づきます。保育ドキュメンテーションでも紹介されていましたが、ちょうど1週間前の神田祭で神輿をかついたので、その様子の再現遊びが繰り返されます。

どうも、毎日のように、気が向くと繰り返しているようで、運動ゾーンのマットが神輿で、わっしょいわっしょいと、1周すると止まって一本締めをするのです。「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」。そこが楽しみみたい。そして「キューケー」といって、自分の水筒の所へ行って水分補給しています。

私が見ていた時は、「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」がずれないように練習していました。スピードが早いのです。言葉では伝えられないんですが、2〜3秒ぐらいです。なので、みんな必死で早く手拍子しています。拍子木のつもりで積み木をカチカチやってらました。

面白いなと思ったのは、真剣にやってるということでした。あのお祭りの雰囲気をちゃんと感じているのです。そこもちゃんと再現しているあたりに、子どもの表現を感じました。

 

神田祭を親子で楽しむ

2025/05/10

保育園として神田祭に参加するのは、前回に続き2回目。前回は職員10名が神輿を担ぎましたが、今回は初めて園の親子も参加して子ども神輿を担ぎ、また山車を引かせてもらいました。

岩本町三丁目の子ども神輿と山車は、12時半ごろから山崎パン本社前の御神酒所から出て、午後2時ごろまで町内を練り歩きました。3時半には隣町の須田二丁目町会と東松下町会と合同で柳森神社前で御霊にお礼参りです。神田明神へお宮入りは明日11日です。

さて江戸三大祭りとも言われる神田祭。その本物の祭りに保育園として参加させていただき、とても貴重な体験になりました。保育園に在園している親子が約19家庭参加されたので、子ども神輿と山車の周辺は活気にあふれ、その賑わいを包み込んでいる地域の方々の思いに接して、図らずも目頭が熱くなったほどです。

地域の行事を見るだけではなく実際に参加してみることは、保育から見ても大切なことが含まれていそうです。地域の一員であるという実感をいつどのように感じるのかは、わかりませんが、こうした積み重ねが「自分のまち」という意識を醸成していくものになっていくのでしょう。

当園からは私も含めて職員が12人参加したのですが、知っている大人が法被をまとい手拭いを結び、粋な格好で普段とはちょっと違うメリハリを効かせて振舞います。子ども達から見れば、多くの知らない大人たちが大勢いて、その中に、よく知っている大人が一緒に混じって「わっしょい、わっしょい」と神輿を担いている。その姿は、子どもたちにどんな印象を与えたでしょうか?

そしてお父さんお母さんに手を引いてもらいながら、その神輿を担いだ、山車を引いた、抱っこしてもらって太鼓を叩いた。太鼓や鐘の囃子の音や大人たちのリズミカルな掛け声や身体的圧力を感じ、柏木の透き通るような音や、一本締めの手拍子、そばで声援を送ってくれている親の声。そういう祭り独特の空間に身を浸しきった時間。

21世紀も四半世紀が過ぎたこの時代に、江戸時代から続くといわれる地域の祭りを体験すること。その意義を確認したり、再発見したりする営みが必要だとしたら、何をどう考えたらいいのでしょう?

それはきっと、地域の当事者が主役となって、まずは一緒にその時間を体験することで、そこで感じる感覚を大切にしながら、言葉ではいい表せないことを紡いでいくことなのかもしれません。

野菜と果物の販売:5月14日(水)「 しいたけ&ブラッドオレンジ」の販売 

2025/04/25

20250514 しいたけ&ブラッドオレンジ

岩手県雫石市「さくらだファーム」のしいたけ。それと和歌山県有田川町「みっちゃん農園」のブラッドオレンジ。

ただブラッドオレンジは、気候によって他の柑橘に変更になる可能性もあります。

申し込み締め切りは5月9日(金)保育園のアプリのアンケートで。

PayPay購入は氏名確認のため当日、保育園でお願いします。

当日にお越しいただけないときは自動キャンセルです。

急に来れなくなったきはご連絡ください。保育園で保管しておきます。

*同日14日(水)は保育園2階「フードコート」利用できまます。

なぜお迎えのときに帰りたくなくなるのか?

2025/04/23

子どもの気持ちに寄り添うことはむずかしい。わかってあげたいのに、どうも本当のところは、わからない。あまり考えてもしょうがないから、そのままでやり過ごしていく。大きくなるにつれて、いずれ子どもの方から、そうした姿が消えていき、こちらもそういうモヤモヤがあったことも忘れていってしまう。子育てって、そういう不明瞭なこととの出会いと忘却から成り立っている、とさえ思える時があります。

今日話題になったのは、お迎えにきたとき、なかなかお家に帰らないのはなぜか?という話です。子どもにもよるのですが、確かに親御さんがお迎えに来ると子どもの姿が「豹変」することがあります。これは、今遊んでいることが継続中で、なかなかおしまいにできないという話とはちょっと違います。一旦その遊びはおしまいになっているのですが、予定にない延長戦が始まる感じです。それまでの空間と親のいる空間では、おなじ保育空間でも質が変わる、といった感じです。たとえば、おふざけが昂じたり、はしゃいで遊びに拍車がかかったり、玄関でかくれんぼが始まったり、いわば遊び性にもう一度新しくエンジンがかかる感じです。

模型的な理屈で考えると、こんな感じでしょうか。好きな遊びが継続されている空間に、大好きな存在である親が現れると、いわば「好ましこと」の足し算がおきます。子どもにとって「好き」のダブルですから、子どもにとってそれは至福の時空となっているのかもしれません。ふたたび遊びに火がつく場合もありそうです。忘れていた遊びの火種に、どこからか「ふいご」が風を送っているかのようです。嬉しさの足し算のようなことが起きているのでしょうか?

そう考えると朝の登園時は、逆の現象が起きていてもおかしくありません。園生活にすっかり慣れている子どもは、登園してまだ本格的に遊び始めていなくても、登園前からすでに気持ちが園の空間に入り込んでしまっている感じで、一目散に遊び始めます。最初から遊びがイメージされており、そこから親がいなくなってもその遊びの火が消えることはありません。親子の空間から園の空間へスイッチされていくのですが、子どもが園生活に慣れていないうちは、親がいなくなる「引き算」の効果がはっきり現れます。そういう場合、家庭と園の遊び性の継承として、家にあるお気に入りのものを何か園に持ち込みたいという話になる場合もあります。

園生活も大好き、お家の人ももちろん大好き。そこから生まれる子どもの姿の変化は、二つの大好きが足し算なのか掛け算なのかわかりませんが、いずれにしても相乗効果的に目立つのでしょう。さらに、たぶん、帰りたくないと無意識に働くのは、帰宅後の過ご方がスケジュール的に動いていく時間への抵抗もあるかもしれません。遊び性のなかに、そうした大人にとって都合のいいスケジュールは存在しないからです。

遊びはあくまでも自由な思いつきと思い通りになる時間の過ごし方なので、色々な意味で余白とか余裕とか心のあそび(間)も駆使されています。タイトな縛りから逃れる動きが遊びなので、そこへの抵抗として「帰らない」という現状が起きている可能性もあります。

今日はフードコートでした。晩御飯を家族で食べて帰ることができる日です。

最終的に夜の睡眠という形でその日を終えて、覚醒という形で次の日を迎えるのが命のリズムですが、夜の夢の中に子どもを誘うのは、心理的な「安心と満足」だと言われています。その鍵を握っているのが、遊び性だとすると、生活のリズムのなかに「あそび」(間の方)を意識的に設ける工夫が必要な時代なのかもしれません。何かと忙しい社会生活ですが、フードコートがそれにちょっぴりでも役立ってもらえたら嬉しいです。

 

味の探究活動 動画で紹介されました!

2025/04/22

毎月1回、2歳児以上の園児を対象に行っている「味の探究」活動がYouTubeで紹介されました。フランス料理シェフの江口さんのこともわかる内容になっていますので、ぜひご覧ください。

この動画は、自然食材などを販売するスーパーマーケットを運営している川田むつみさんのチャンネル「むっちゃんねる」制作です。とてもいい活動をなさっているので、保育園としてインタビューに協力しました。

https://www.youtube.com/@coco_mutchannel

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