
ノーベル化学賞の話の続き。
前回が「科学者の探究と、子どもの遊びには接点がある」ということを書きました。例として挙げたのは、子どもの釘打ちの遊びでした。今日は「その探究を続けられるのは、なぜだろう?」を考えてみました。
曲がった釘を前に、やり直して、できた。その経験から、道具や材料のことが少し分かる。分かると、さらにやってみたくなる。つまり知るほど対象への関心が深まり、その関心が次の行為を生む循環がおきると、探究は続くんです。
でも、現実は、なかなかそうは続かないものです。硤合さんのインタビューなどを探してみたのですが、小さい時に好きだったこととか、どんな子どもだったのかとか、あまり出てきませんでした。ある時期から継続的に研究が続いているのは間違いありませんが、それが継続できるためには、それが続けられた条件があるはずなのです。
釘うち遊びでも、その循環は本人の意欲だけで続くわけではありません。曲がったから打ち直す、そのための別の釘がある、やり直す時間がある、困ったときに一緒に考える人がいる。・・・そうした環境が必要です。
また、その子に合った援助も必要です。それは科学者も同じはずです。その研究を続けられる背景にも、同じように、出会いや支え、環境があったはずなのです。予算が削られていたら終わっていたかもしれません。実際に予算がカットされて、研究が続けられずに、何も日の目を見ずに終わってしまっている研究もあったかもしれません。でもそれは、誰にも気づかれないことでしょう。
大事なことがわかります。それは「探究する子どもを見ることから、探究が続く条件を見ることへ」。ノーベル賞を受賞した人の特別さに目を向けるだけではく、それが成し遂げられた条件に、その営みを支える周囲へ目をむけると、保育のポイントもみえてくるのです。










