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園長の日記

子どもが「はしゃぐ」という意味

2020/01/30

朝、運動遊びをしていると、遊びにある種の「スリル感」が入ると楽しみが倍増することがわかります。スリル感といっても、ヒヤヒヤ感ではなく、ドキドキ感です。私が「ライオン」になって「ガオ〜、食べちゃうぞ〜」と言うだけで、生き生きと「はしゃいで」遊び始めます。その時、子どもたちはネットやクライミングを上手に使いこなしています。身体を動かす楽しみの中に、何かから捕まらないように逃げる鬼ごっこの要素、しかも模倣遊びとしての「うそっこの世界」の要素が加わると、遊びが格段に面白くなるようです。この遊びから私が抜けても、子どもたちだけで楽しめるようになることを目指しています。

このところ、運動ゾーンはルールを守って上手に遊べる子どもが「運動マイスター」に認定されているのですが、遊びの中のルールは「守ることでより楽しくなる」という体験が大切です。その「楽しさ」は、遊びの中の模倣、偶然性、競争、眩惑といった要素がもたらします。楽しいという実感があって初めて、マイスターとして認めてもらいたい意欲にもなるのでしょう。

今週の運動遊びは、相撲ごっこもかなり上手になりました。勝負して勝つと嬉しそうです。こちらには競争(勝負)や眩惑(めまい)は強くあるのですが模倣と偶然性が乏しいので、あまり長続きしません。でもかなり運動量の上がる遊びです。強くなるということへの憧れ感が満たされるので男子は盛んにやりたがりますね。

いずれの遊びにも、私が感じるのは「じゃれ遊び」の要素です。肌をふれあい、まるで全身が楽しさのセンサーであるかのように、じゃれ合うことを求めています。身体が忘れていた楽しさを思い出したかのように強く求めている子どもたち。この遊びには、解放感があります。非日常的でもあります。脳の深いところにある喜びを再発見しているかのように感じるのです。こうした要素も遊びにはあることがわかります

にこにこ組の保護者会から

2020/01/29

いつもわらってにこにこ組。これが2歳児クラスの正式名称です。にこにこ笑っている屈託のない子どもの姿は、実に可愛い。何をしても可愛い。大人を笑顔にさせる天才が、2歳児さんですね。私も子どもが2歳の頃、本物の親バカになりました。世界中の子どもの中で、自分の子どもが一番可愛いと思っていることを、他人には秘密にして過ごしてる時期ではないでしょうか。

さて、その「にこにこ組」9人の子どもたちのお母さんが全員集合。まず、これが素晴らしいですね。そして嬉しいですね。改めて御礼申し上げます!全員参加されたので、今日の内容の詳細は省略しますが、お伝えしたかった大事なこと、それは「自信」の大切さでした。本日配布した「園だより」2月号の巻頭言に、その育ちのプロセスをスケッチしました。

この「自信」は、人間関係の中で育つのですが、最初にそれを子どもにプレゼントするのは、ほとんどは、みなさん親御さんです。あの「大いなるYES」「大いなる肯定」が、子どもへの最大のプレゼントになるのでした。

これが見方を変えれば、自らを認めている「自己肯定感」、自分を大切にできる「自尊感情」、やればできそうだという「自己有能感」などになります。「ちょっと難しそうだけど、やってみよう、私ならできそうだ」ーそう思える自分であること。本質的な楽観的精神。これが物事に挑戦する力や勇気を生み出し、人に親切にでき、心を合わせて協力して目的を達成する喜びを感じ、そして最も大切な力、人を愛する力に育っていくのでしたね。

やってみた結果や成功体験ももちろん自信になります。その歯車を回し始めるための、もっと根っこのものは、0歳の時に「周りは自分が呼べば応えてくれる世界なんだ」と、他者を信頼することから始まります。その後に自律のテーマ(いろいろな生活上の自立力)が達成されていく中で、自信がしっかりと根を張ります。そして3歳以上の自発性へと発展していくのですね。成功体験からの自信になっていくのは児童期(小学校以降)のテーマで、幼児期の終わりまでに培っておきたいのは、こちらの無条件の自信の方なんですね。

好きなものを見つけ、それを探求していくことができるようになると最高です。学校の「勉強」を、本当の自分探しとしての学びに転換できる力。卒園するまでに「学び方を、学びの喜びと一緒に身につけること」ができたら、私たちの子育ての大きな山を越えたことになります。ここまでくれば、自力で歩き始めることができるでしょう。小学校以降は劣等感を持たせないように勤勉性を身につけていく絶好の時期になります。その小学校の生活と学びが楽しめるように、保育園にいるうちは、「自立に向けた生活」と「良質な学びが埋め込まれた遊び」に没頭できるようにしてあげること。これが私たちの「仕事」だと考えています。

最後に、いろいろな実例をご紹介していただいた保護者の皆さん、ありがとうございました。排泄の自立は、突然やってくるんですね。「元気は出るもの、勇気は出すもの、根気は育てるもの」に加えて、「やる気は来るもの」という発見もできました。「発達は突然やってくる」ですね。

 

 

 

自信を育て自分をつくり他者と協力できるように

2020/01/29

(園だより2月号 巻頭言より)

◆自信を持った子になってほしい

将来必要になるであろう、社会人の力について考えていると、保育園の頃に必要な体験が何かがはっきりしてきます。それはやはり「自律と貢献」です。まず自分というものがどうであるのかを探しながら、自信をもった子になってほしいと思います。そのためには「ちっち」の頃に、自分が望んだことを受け止めてくれる他者(ほとんどの場合は親です)がいることで、「周りは信じるに足る世界だ」という感覚を持てるようになります。これを基本的信頼感の獲得といってもいいのですが、これが人間関係の世界に入っていくための駆動装置(エンジンやモーター)なります。反対にこれがないと、世界に対する不信を学ぶことになり、人間がもともと持っている意欲や自発性がよく育ちません。

◆条件なしの自信を育てたい

0歳の赤ちゃんはまだ自分のことがわかりませんが、その頃に「呼べば応えてくれる他者」があると、自分への自信にもなります。応えてくれる世界が呼んだ自分を認める作用になるからです。世界への信頼が同時に自分への自信にもなる。そういう関係です。1歳をすぎる頃から、それが自分の有能感(やればできる)や万能感(なんでもできる)の基礎になっていきます。

注意してほしいのは、これは「何々ができたから褒められる」という経験から生まれる自信ではありません。そうした条件のつかない自信です。やった結果の反映として生まれる自信ではないのです。頑張って努力して達成できたからつく自信とは違います。それは小学校以降でいいのです。根拠のない自信といってもいいでしょう。そもそも存在していることだけで認めてもらえる自信といってもいいかもしれません。「あなたがいるだけでママ(パパ)は幸せよ」ということです。ある心理学者はこれを英語の「ある」という意味で「Beの自信」と呼びます。やった結果から生まれる方の自信が英語の「やる」という意味で「Doの自信」と、その研究者は命名しています。乳幼児期に大事なのは、もちろん「Beの自信」です。

◆世界を探求できる力を

もともと持って生まれてきた存在(あること)と意欲(しようとすること)に応答し、認めてあげることは人権の尊重そのものです(これをAIができるかどうか)。ここが育つことができれば、あとは駆動装置が自分を導きます。そして自律というテーマが浮上してきます。他者(社会)との関係のなかで、目的に向けて自分を自分でコントロールする力です。他者とモノとの関係の中で展開されるドラマの始まりですね。自分づくり、自分探しの始まりです。あのイヤイヤ期です。世界との折り合いを学び(目的や目当ての発見)、自分の心と身体を世界にフィットさせていく。満3歳ごろまでそれが続き、世界の歩き方がわかると、4歳以降、生活と遊びの中で「自分で探求できる」ようになっていくのです。

◆他人と協力できるように

この自発的な活動としての遊びは、自由遊びのことです。自分の心身を自発的に使うとき、その力は育ちます。能力は使わないと育たないのですが、使って育つような環境を選べるように用意するとき、その環境は歴史的にも国際的にも、そして将来性からも正当性のある活動になるようにしたいのです。切実な自分づくりと、それが将来から見ても困らないようなものです。自信を持ち、自分をつくり、5歳以降は他者と力を合わせられる力を育んでいきましょう。

ぐんぐん組の保護者会から

2020/01/28

「雪にならなくてよかったですね」と夕方のお迎えの時話しながらも、今晩は大雨になりそうなので、明日29日のバス遠足は、にこにこ組は残念ですが中止して、わい・らんは「しながわ水族館」に変更することにしました。今日は真冬の寒さでしたが明日は15度以上の3月中下旬並みという予想なので、体調の管理が大変です。みなさん、衣服の調整には気をつけてくださいね。

今日の夕方は、おおきくのびるぐんぐん組(1歳児クラス)の保護者会でした。一人お休みで、そのほか6人全員が参加してくださいました。最初に、ぐんぐん組の育ちの姿を、写真を使って担任が説明しました。

そこで紹介された子どもの姿は、私たちにとっては馴染みの姿で、当たり前のように思えますが、実は非常に珍しい、優れた発達の姿なんです。例えば、一番最初に紹介された、ぐんぐんさんがテーブルを囲んで、ままごと遊びをしている写真は、発達心理学の教科書で紹介されている姿とは全く違います。それらの教科書には「おおむね満3歳ぐらいまで、一緒に遊んでいるように見えてもそれぞれ別の平行遊びをやっています」と書いてあるのです。

ところが、今日写真で紹介したように、満0〜1〜2歳の子どもたちが一緒に生活していると、満1歳前後から子ども同士が心を通わせていることが自然で、お互いの意図を察しあっていることがよくあるのです。また満2歳前後になると「一緒に同じイメージを共有して気持ちのやりとりを楽しむ」ことができているのです。これらのぐんぐん組の子どもたちの姿は、通常の発達心理学しか知らない研究者は、びっくりしてしまう内容なのです。

このように色々場面で、その発達が目覚ましい、まさしく「おおきくのびるぐんぐん組」でした。今日は数十枚の写真が紹介されましたが、最後の写真は昨年春のバギーでの散歩から、今は手を繋いで歩いていける姿が映っているものでしたが、このように成長の足跡を振り返ると、とても面白い発見がありましたね。ちなみに2月29日(土)の成長展では、この1年間の成長を展示しますのでお楽しみに。

さて、保護者会では、その後、2歳児クラスへ向けて、どんな移行が進んでいくかという見通しや、用意していただく持ち物、登園時刻や朝食の大切さ、衣服などについてのお願いをさせてもらいました。私からは、移行のイメージと意義を解説したのですが、満3歳ごろまでに大切な育ちの姿について、保育所保育指針が前回まで載せていた「子どもの発達過程(8つの過程)」のイラスト入り解説を使って説明しました。その中でも、今日は「基本的生活習慣の自立」のイメージとポイントをお伝えしました。

私たちはよく、保育内容を、生活と遊びに分けて理解することが多いのですが、遊びにも生活(5分野=食事、睡眠、排泄、衣服着脱、清潔)にも、それぞれに目指したい「自立」の姿があります。その姿になるような援助のポイントをお伝えしましたが、どうでしたでしょうか。詳しくは省略しますが、これらの自立は自信を育むことになることを強調させてもらいました。

この頃の子どもたちは自分というものがはっきりしてきて、できる世界が広がってくるので「自分でやりたい!」という意欲が加速している時期。それだけに、できないことへの見通しはまだできないから、とにかくなんでもやってみたい、となっていきます。そんな「意欲」や「自発性」を大切にしてあげようとするのはいいのですが、そのうちに、子どもたちは「そこまでは無理だよ」「それは今はできないのよ」という「限界」を突破してこようとするので、そこは大人も踏ん張ってもらって、子どもに「賢い」振る舞いを学習していってもらう必要があるのでしたね。

 

 

 

ちっち組の保護者会から

2020/01/27

どこに焦点を当てて話をするといいのかな、と考えながら話をさせてもらいましたが、いかがだったのでしょうか。0歳児クラスの正式名称は、「ちいさなちいさなちっち組」ですが、子どもの数も6人と実際に「ちっちゃなクラス」なので、6家庭のお母さん全員が集まって、有意義な情報交換ができたような気がします。あと2ヶ月のちっち組ですが、ぐんぐんになったらどういう生活が待っているのかをイメージしていただきつつ、そのあとの時間は、事前にいただいていた質問のトピックスに沿ってお話ししました。

トピックスに入る前に、私から5分間のプレゼンテーションをさせてもらいました。配布した資料は29日配布予定の園だより2月号に載せる予定の巻頭言「自信を育て自分をつくり他者と協力できるように」です。

もし私が誰かに「卒園するまでに、子どもが身につけるものの中で、もっと大切なものはなんですか」と聞かれたら、なんと答えると思いますか?それは「自信です」という話をしました。0歳の時から、どのように心の核が育っていくのか、発達のキーワードを使って、その筋道の概要を説明したものです。ちっち組の子どもたちは、これからの1年間のどこかで、必ず満2歳になる日を迎えます。このころの発達のテーマは自律(オートノミー)ですが、その前のテーマである基本的信頼感を確実に通過しているから大丈夫です、という話をしましたよね。

今日は保護者会の最中に、見事に探索活動を繰り広げる子どもたちの姿があったので、それについて解説をしました。例えば、この子たちがすでに身につけている大切な力は、大人になった時にはどうやってそうなったのか覚えていない時期であること。能力が育つには自発的に使わないと発達しないという自発的使用の原理があること。自信には、そのままでいること自体から自信を持てるようになることがいいこと。そんな話をさせてもらいました。

そのあと、取り上げたトピックスは、これから始まるだろうイヤイヤ期についてと、赤ちゃんの夜の過ごし方について。用意させてもらった資料は、この「園長の日記」で4日に渡って綴った「イヤイヤ期」のコピーが一つ。もう一つは、アメリカ人ジャーナリストのパメラ・ドラッカーマンが綴った子育てエッセイ『フランスの子どもは夜泣きをしない』(集英社)の写しです。赤ちゃんが夜、起きることなくぐっすりと眠り続けことができるようになるポイントが、わかりやすくレポートされています。

それぞれの資料の要点をかいつまんでお伝えしました。イヤイヤ期の対応方法は色々あるので、私から2つ提案させてもらいました。赤ちゃんが夜を過ごせるようにするための援助のめあては「2時間単位」で深い眠りから浅い眠りのリズムがあるので、その単位をちゃんと繋いげあげること。泣いたからといってすぐに抱いたりしないこと。「ちょっと待って」ちゃんと観察して、寝ることを繋いげあげること・・などなど。このエッセイはオススメです。

そのあとご家庭からの質問に答えていきました。見守る保育ではどこまで見守るのか、教えたり介入したりする判断はどの辺りか、といった話や、お友達を「ドーン」といって押すのはダメだよ、代わりに「やめて」って言おうね、というと「賢いから理解できてますよ」と言った話。また保育園では食べるのに家庭ではあまり食べないからどうしたらいいか、きょうだいで与えるものが異なっても子どもに悪影響はないか、といった話題について語り合いました。

 

徳勝龍の「気負わない」優勝

2020/01/26

 

こんな勝利を手にしたら、そのあとが大変になるんじゃないかと心配したのですが、インタビューを聞いていたら、さすが33歳。冷静なので大丈夫だろうなと思えます。この気の持ち方に、ちょっと学びたい心の姿勢がありそうです。徳勝龍が優勝した話です。前頭17枚目という幕内最下位の平幕力士が優勝したのは20年ぶりだそうで、連勝を続けていた時から、「気負いはないです。自分が一番番付が下。思い切りいけばいい」といった趣旨のことを語っていました。「自分なんかが優勝していいんでしょうか」と国技館を沸かせた取り組み直後のインタビュー。愛嬌のある性格できっと人気が出るでしょう。中学生の時、生徒会で「勇気・希望・友情」という校訓を考案したらしい。午後10時からのNHKのサンデースポーツに生出演していましたが、これからの取り組みについて聞かれた徳勝龍はこう言いました。

「自分らしく、一生懸命取れればいいかなと思います」

徳勝龍の優勝から、子育てで参考にしたことがあるとすると、根気づよさ、気負いのなさ、あたりのような気がします。

その前に「3つの気」について、こんな言葉遊びを、私はよく人に言います。

「元気は出るもの、勇気は出すもの、根気は育てるもの」

どういう意味かというと・・

元気は人に出せと言われてもでないもので、自分で自然と<出るもの>。

勇気は自然とはでないもので、これこそ自分の意思でここぞというとき<出すもの>。

根気は出たり出したりするのではなく、気長に<育てるもの>。

日本語の「気」は精神のことですから、心の動きや働きを「気」で表現します。気にする、気がきく、気が散る、気を配る、気にかける、気を引く、気をもむ、気が長い、短い、気まずい、気に食わない・・・日本語は気持ちを「気の流れ」で表すことに長けていますね。気の持ち方使い方を「気持ち」というわけであり、喜怒哀楽の感情とはちょっと違いますね。状況や人間関係の中での心の動きを表すんですね。

気負わないという戦い方。この力の出し方は、実力以上の「気」を回りから呼び込むのかもしれません。運気というのも実力のうちだとすると、自分らしく、自分の気に従うという生き方、ちょっといいな、と思いました。

 

 

良質な遊びである「鬼ごっこ」

2020/01/25

◆第2回 鬼ごっこ遊びの会

今日は和泉小学校の体育館で午前中、第2回親子運動遊びの会(鬼ごっこ遊びの会)を開きました。じゃんけん鬼、通り抜け鬼、バナナ鬼、まる鬼、田んぼ鬼、宝さがし鬼(スポーツ鬼ごっこ)、だるまさんが転んだ・・・いろんな鬼ごっこを親子で遊びました。鬼ごっこ協会の羽崎貴雄さんも来ていただき、鬼ごっこで体を動かして遊びました。

大人が体を動かすのにもちょうどいいかもしれないです。

たかが鬼ごっこ、されど鬼ごっこ。一見ただの鬼ごっこと思われがちながら、その遊びの素晴らしさを改めて感じることができました。

◆運動のいいところ

運動には運動制御機能、精神状態の改善効果があります。ただ最初にちょっと意外に思われるかもしれない運動の素晴らしさをお話しすると、運動には「知的能力の改善効果」もあることがわかっているのです。まあ、頭もよくなる、勉強にもいいということです。

運動を行うことは、「状況判断から運動実行まで、脳のほとんど全ての領域を使うこと」になっていると、日本学術会議が2011年に「子どもを元気にする運動・スポーツの適正実施のための基本指針」が、そう述べています。

◆鬼ごっこのいいところ

自由遊びの代表格にある「鬼ごっこ」。ルールがある遊びであり、それを状況に応じて変化させることができる遊び。良質な遊びの条件を満たしているのです。学生が遊びについて学ぶとき、必ずでてくる学者が『ホモ・ルーデンス』を著したオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ。文化そのものが遊びであり、遊びから文化が発展したと主張しました。それと並んで必ず取り上げられるのがフランスの哲学者ロジェ・カイヨワ。鬼ごっこは彼が定義している「遊び」の4条件をもちろん満たしています。それは、模倣、競争、偶然、めまいの要素です。

また、この日記で、将来に必要な力は、自分づくりとしての考える力、言葉や振る舞いを通じたコミュニケーション力、力を合わせて協力して目的を成し遂げる力、いろいろな場面での創造性(4つのC)であることに少し触れてきましたが、この4つのことが「鬼ごっこ」にもあることを今日再確認できました。

鬼ごっこは日本の文化であり、遊びの王道であり、将来のためにも必要なもの。大事にしたいものです。

◆千代田区でこれから・・

今日は千代田区の保育園担当の方も見学にきてくださり、会が終わった後で、羽崎さんと3人で色々話しあいました。千代田区の保育園、幼稚園はもちろんですが地域の中に幼児期の運動遊びを発展させていく機運を盛り上げようということになりました。子どもたちの平凡な日常生活の中に、自然な形で鬼ごっこが普通に遊ばれている状態。普段の毎日の食事のように。

◆運動の合言葉はこれです

「毎日、合計60分以上、楽しく体を動かすこと」

そして子どもの幸せな人生の土台作りは次の言葉です。

「よく遊び、よく食べ、よく寝る」

このシンプルなことを実践することが、意外と難しい。また来週から「園長の朝の運動遊び」再スタートの予定です。

自分探しとしての学び

2020/01/24

夕方、お母さんがお迎えにきたTHくんが事務室へさよならの挨拶に来ました。彼がやりたいことは事務室の防犯カメラに自分が映ることを知っているので、それが写っているところを見て欲しいという気持ちを伝えに来ます。これが私たちに伝えようとしてくれる、彼なりのお別れの挨拶なのですが、彼には似たような幾つかのルーティーンが他にもあって、それを思い浮かべてみると、共通するものに気づきます。それは自分で最終的に「帰る」という行動になるまでに、彼なりの「気落ちの区切り方」を発見しているように見えることです。

今日は自動ドアのところで私が「さようなら。じゃあ、タッチ」と言って、ギブミーファイブをしてみました。すると彼はパチンと私の手のひらをタッチしてくれました。そして事務室にいるはずの事務長先生にも遠くから「タッチ」を求めるのでした。(その時神宮司さんはいなかったので代わりに私が彼の分まで、代わりにタッチ役をしたのでした)

園から家に帰るという、ただそれだけのことのように思えても、子どもにとっては「家に帰るんだ」という気持ちになるまでに、いろいろな「お終いにできる力」という力が必要なんだな、と思えます。それは、子ども一人ひとり違います。彼は帰るときに、彼の心の襞(ヒダ)を、私の心の襞と、重ね合わせてみることで、それを感じ会うことができたと思えたら、満足して「帰ろう」という気持ちが動き出すように見えます。心と心を十分に通わせてから、よし、帰ろう、となるのです。

言い方を変えると、これは「自分が思うように自分をコントロールする力」です。これは、よく「やりたいことができる力」と縮めていうことができます。自分とはどんな自分なのか、自分の力はどのようなものか、そうしたことを理解し始めようとして、相手との関係の中で自分を見出そうとしている力。その力の出発点が、イヤイヤ期に見出されます。自我の芽生えとよくいうものです。

私はこの一旦心を「重ね合わせてみる」ことで、人は出会ったり別れたりができる生き物なんだと、納得します。出会いや別れの挨拶とは、その気持ちの確認行為です。ただ「あ、何々さんだ」「あ、園長先生だ」という認識が起きることが「出会う」ということではなく(それは機械でも認識できます)、また物理的にそこからいなくなることが「帰る」ことでもありません。間違いなく、そこには「心の通い合い」があるのです。「おはようございます」も「さようなら」も、言えることが問題でななく、その言葉が乗っかっている「心の動きそももの」が大事だということです。

これは見方を変えると、子どもは出会いと別れに際しても、相手との関係の中で自分を探していることになります。きっと彼も「イヤイヤ期」に相当する自分づくりの始まりの時期があって、それを経た今、その続きとしての相手との関わり方の学びが続いているのです。この力は非認知的能力であり、考える力とコミュニケーション力と協力する力と創造性という、昨日お伝えした「4Cの力」の育ちにつながっています。

自分とは何者か。その自分探しを他者との関係の中で始めるのがホモ・サピエンスです。「イヤイヤ期」のところで述べてきたこと、4Cの能力の話をつなぐものが、この「心の重ね合い」という仕草の中にはっきりと見えるのでした。

ちなみに、この自分探しとしての学びが、本来の学びの本流であることを、よくよく肝に銘じておかないと、すぐに「学習」が一流校などに進学する「手段」になるという転倒した、倒錯した学力観になってしまいます。

以下、「学びの認知科学辞典」から引用します。

「学習」とは、知識や技能を身につけるということではなく、基本的に「自分さがし」である。「わたしはどういうもの」「わたしはどうなるの」を知る活動なのだ。人はだれしも、どの年代にあっても「自分とは何者なのか」と問う存在であるといえよう。技能や知識を覚えて正確に速く使うことができるものほど偏差値の高い学校に入れるという実情は「受験は技術だ」とか「数学は暗記だ」ということばを信じ込む素地をつくりだす。これらの言葉に潜む問題点は、「学ぶ」営みを「自分さがし」のプロセスから切り離し、安易に作られた「一流校に合格する自分」へ向けての完全な手段として割り切らせてきたことにある。

どうでしょうか。これが辞典に書かれている認知科学の定説です。一流大学を目指すことを否定しているものではありません。ただ、その過程で自分さがしを棚上げすることは、大きな後悔をすることになるでしょう。学ぶことの面白さ楽しさを遠ざけてしまうからです。

乳幼児の心は、本来的にそのような学びを望んでいます。そこを大切にしてあげたいと思います。

これからの時代に必須な4Cのスキルと・・

2020/01/23

こんなに小さい命の、いち日、ひと月、いち年が愛おしい。今日、誕生会で「ひとつ歳をとったこと」をみんなでお祝いしました。誕生会で子どもたちの表情をよ〜く見ながら、ついこんなことを考えてしまいます。この子たちが将来困らないように、今できることは何だろう。この子たちがすっかり大人になっている2050年ごろの世界は、どうなっているんだろう。

ジャック・アタリ。ユヴァル・ノア・ハラリ。ジャレド・ダイヤモンド。彼らの世界の将来予想を読むと、76億の人が住む地球という世界が今世紀末までもたないかもしれないという危機感が共通です。その代表的な危機は、核兵器、気候変動そして科学革命です。この3つの「アンコントロール=暴走」を食い止めることを人類ができるかどうか。そして科学革命は人工知能=アルゴリズムによって、人間の自由がハッキングされる世界が来るのかどうか。

これまでの1000年に比べて、これからの100年は、誰も正確に予想できない時代になりました。私たちはこれまでの過去とは、全く質も規模も次元が異なる「革命」の真っ只中にいます。予測はできなくても、「不確かなこと」「危機が迫っていること」は確かなことです。

教育を考えると「これまでにない資質・能力が必要なこと」も確かです。20年後の大学受験は、今求められているような知識や技能はでは全くありません。それも明らかでしょう。必要なものは、英語のCで始まる4つの力だと、よく言われています。クリティカル・シンキング、コミュニケーション、コラボレーション、そしてクリエイティビティ。批判的思考、意思疎通力、協働性、創造性です。

「人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ」(ハラリ『21Lessons』)

しかも、もっと重要なことで、きっと正確に理解されないだろうことは、「自分自身が自分自身であり続けること」です。自由に生きているように見えて、生かされているに過ぎないという現実が、すぐそこにきています。これは自覚の問題なので、今の教育を続けていると、全く手に負えない難問に直面します。厄介なのは、それが課題であることに気づかないで進行してしまうことです。

この現代版の「無知の知」に自覚的であることの難しさを、誰がどのように子どもたちに、あるいは青年たちに伝えることができるのでしょうか。先ほどの4つのCは、この自覚の延長線上に培われるものなので、どのように生きるかという目的がなければ必要性と喜びを感じようのないスキルだからです。

 

つぼみの膨らみ

2020/01/22

今日22日は、午睡が終わる頃から、おやつの時間、そしてその後のくつろぎの時間を、子どもたちとのんびりと過ごしました。不思議な感覚を覚えました。園全体に、ある種の生命力を感じたのです。これは感覚的なことなのでお伝えすることが難しいのですが、色に例えると、もうすぐ花を咲かせるつぼみが膨らんでいるような、淡いピンク色の生命力です。何かが静かに目立たないように成長してきて、それがここにきて、その姿がはっきりと輪郭を持ち始めたかのような子どもたちの育ちなのかもしれません。

例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子どもたちがお昼寝から起きようとしている3時前のひととき。担任のU先生が「パプリカ」を綺麗な声で、ゆっくりと歌いながら、子どもたちを夢の世界からの目覚めを誘っています。その歌声がスローなテンポだからでしょうか、バラードを聴いているように心地よく、歌詞の意味がす〜っと心に届いてきます。

♩ 曲がりくねり はしゃいだ道  青葉の森で駆け回る・・・

その声の中で目を覚ましたHちゃんが、ちょうど隣に座っていた私に「数の123」の掲示物や、午前中に遊んだらしいフラフープなどを指差して教えてくれます。ヒトはこうして自分の新しい経験を、なぜか親しい人と共有しようとします。考えてみるととても不思議です。指を差して教えてくれる彼女の、その一つ一つを私は「言葉」にして返します。「いち、にい、さん、って貼ってあるね」「ああ、そうかフラフープを回して遊んだんだね」「あ、い、う、え、お、だね」「消防車だね」といった風に。

そしてちょっと感動したのは、今日は誰がお休みなのかを話しだしたことです。みんなと一緒にいるということが心地よいのでしょう。いない友達のことがしっかりと心に残っているのです。しかも夏に一時保育で来ていたお友達と、その時に臨時でお手伝いに入ってくれた区の先生の名前も覚えていて、「他の保育園に行ったの」と説明してくれます。

子どもは私たちに見えない、たくさんの言葉をうちに秘めています。いろんなことがわかっていて、イメージと意味(概念)がしっかりと結びついて、感じたり考えたりしていることがわかります。子どもたちの中に「理解言語」がどんどん増えて、子どもたちの「世界」が広がっているのです。私たちは、それがよく見えていません。見えていなんだと気づいてあげることは、その子どもの世界を尊重することです。ちょっとその素敵な世界を、もうちょっと教えてもらえるかしら・・そんな気持ちにさせてくれる時間が流れていました。

子どもたちが声や仕草にしてくれる「見える」言葉は、表出言語ですが、子どもたちの内面世界が、表に吹き出してきているようなこんな時期に接しているからだったのでしょう、つぼみが花咲くような生命の動きと重なっている色を感じたのかもしれません。クラスのブログからも、そんな目覚めを感じさせる子どもの成長が記録されています。

美味しそうな香りもしてきました。隣でおやつの配膳が始まったようです。

「さあ、今日のおやつはホクホクしているよ、なんだろうね」

担任のU先生は、こんな語りかけをしながら目覚めていく子どもたちの世界の中にまた一つの扉を開いていきます。

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