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2022年 11月

ピーステーブルと感情パネル

2022/11/30

(園だより12月号 巻頭言より)

私は保育を見るときに子どもの意図に着目してみるようにしています。子どもが何をしているのかを漠然と眺めるのではなくて、どうしたいのか、何をしようとしているのか、子どもの動機や意図、思い浮かべていることを想像しながらみるようにしています。特に見学者に保育を説明するときや、養成校の授業としてライブで説明する時も、同じようにします。そして、そこで起きていることに、ハッとさせられることがあります。

昨日29日、見学者と一緒に3階で観察ゾーンを見ていたときにも、子どもの面白い動きに出合いました。当園には今は観察ゾーンに「ピーステーブル」と呼んでいる対話空間があるのですが、そのテーブルには「感情パネル」が掲げてあります。たのしい、うれしい、かなしい、おこっている、こまっている・・などの言葉とイラストの表情が描いてあります。その子は3歳児クラスの女子(満3歳)Mさんで、そのパネルを奥の運動ゾーンへ持って行ったのです。

私は「あれ、どうしたんだろう?」と気づいたのですが、その子はすぐにまた、パネルを持って帰ってきた元の場所に戻したのです。見学者に「いまあの子が面白い動きをしたので、どうしてあんなことをしたのか、聞いてみませんか」といい、しばらくして確かめました。すると「◯◯ちゃんと○○ちゃんがけんかになったから」と言うのです。私は感動して、このエピソードは必ず担任に伝えよう、と思ったのです。さて、けんかとパネルとどんな関係があるのでしょう? 

Mさんはけんかの仲裁をしたかったのですが、その方法はピーステーブルの空間をけんかが起きている運動ゾーンに作ろうとしたようなのです。この空間はテーブルと椅子が2脚置いてあるだけのもの。ただそこでは「相手の言葉をよく聞くこと。自分の思いや考えを伝えること」ができる場所のことです。そこには感情パネルが置いてあり「いまの自分の気持ちはどれ?」と、自己認識を促すようになているのです。私たちは子ども同士の関係の中で何かの<トラブル=という言葉は私たちはあまり使いませんが>になったとき、それぞれの思いや考えを伝え合うことを保証してあげます。

大人が「◯◯ちゃんが先にやったのね、それはダメでしょ、謝りなさい、ごねんねは?」などと裁判官のように白黒つけたり、一方に謝らせたりはしません。大抵はそこに至る経緯があって、その思いが積もり重なっていたりするからです(その様子は映画「こどもかいぎ」の中でも描写されていますので、ぜひご覧ください。当園の保護者の方々の協力のもとに124日に秋葉原で自主上映します)大人はもっと子ども同士の関わり合いの力を信じてあげてほしいと思います。自分達でできることは、大人が思う以上にあるものだからです。

「新しい学校」に必要なもの

2022/11/29

これからの新しい学校のありかたを考えていると、どうしても必要なものが、いろいろ見えてきます。保育園も同じことが言える要素があります。それは人が集まって何かすることと関係します。保育園では保護者がお迎えに来ると時々「まだ帰りたくない」という子が大人を困らせることがあります。「だって、まだ遊びたいんだもん」と言って、泣いてしまうこともあります。そんなとき、お家でできる遊びを想像してもらって「そうだ、あれをしよう!」と見通しを持ってもらうようなことをすることもあります。今日は年少と年長の男の子二人が、2歳児クラスのソファで「だってYちゃんとやっていたんだから」と、それまでやっていた遊びを続けたいのだ、といいます。保育園では友達と会えるし、一緒に何かができます。確かにそれは家庭ではできないものです。

そのとき思い出しました。きのくに子ども村学園が行った小中学校でのアンケート調査です。楽しいことは学校のプロジェクト(授業に相当するもの)で、友達に会えるということを大きく上回っていました。それはいいことなのですが、友達に会えることも、とても重要なことで、大抵の学校でもきっとその要素が大きいでしょう。しかし、ただ会えるなら家庭でも地域でも、それこそゲームセンターでもいいでしょう。やはり学校でしかできない学びに最も「行きたい」という理由がなければ、存在意義はありません。

そういえば映画「こどもかいぎ」の中で「ともだち」ってなんだろう、というテーマを話し合う場面で、ジュンくんは、友達というのはお互いのお家に遊びに行ったりすることだ、というシーンが出てきます。仲良しというのは、ただそこに一緒にいることではない、それ以上の大事なものがあることを物語っています。

学校の存在意義を考えるとき、子どもが個別に黙々と与えられた課題を考えて解く(例えば問題集を解く)学ぶことなら、家庭でも塾でも地域でもできてしまうでしょう。そこに「指導」が必要ならリモートでできます。しかし教え合ったり、他の人の考えを知ったり、自分の考えを話すためにまとめたり、通じるように言葉や表現を工夫したりすることは、リモートでもできなくはありませんが、その場でのその都度、変化する状況に応じた対応には限界があります。

さらに身体的な接触を中心とした人と人の関わりやコミュニケーション、協働して物を作り上げたり、ある活動を作り上げるために話し合ったり、そこで生じた事柄について、その場で考えや意見を述べあってアイデアを出し合ったり、あるいは考えが異なる場合に調整したり合意を作りげたりすることは、同じ場所を共にしなければできにくいことが多いでしょう。

さらに、それぞれの子どもの学びが、個別最適になっているかどうかの専門的ガイダンスの役割は、専門性が必要ですから、その役割も<学校>に必要です。その<かけがえのない子ども>のことと、<すごい世界>への橋渡し役は、大切な学校の使命でしょう。

そのような機能というか役割を果たすために、今でも変えてみる必要があるのは、幼稚園でも保育園でも、子ども同士の多様な関わりや対話、そうした「協同性」というものの充実であり、その一方で、大人が自らの営み(子どもの育ちと自らの保育)を振り返り、それと同時に世界が驚嘆に値するものに満ちているという予感に導かれた学びへの歩みを止めないことではないでしょうか。

過去の人間の生き方に学ぶとしたら、子どもたちにだけ学びを求めることではなく、大人自らもその学びを作り出していくことが幸せな生き方になるのではないかと、思います。今日29日は午前中に区内の保育園の方が二人、夕方には入園先を選んでいるご夫婦がいらっしゃいました。子どもの様子、先生の様子を見てもらいながら解説していて、そんなことを思い浮かべていたのでした。

アートとしての味覚体験

2022/11/28

けさ出勤するといい香りがします。なんだろう?と2階に向かうとバターで何かを炒めている香りです。子ども用キッチンの電磁調理器を使って、3つのパンで野菜を炒めていたのは、全日空ホテルのシェフ江口さん。実は今日28日、ちょっと変わった<食育活動>の準備をしてくれていたのです。

どんなものかというと、子どもがディップ状になった野菜ペーストをパンに塗って食べてもらうのですが、子どもは最初それが何かわかりません。うすうす「食べられるもの」だとはわかったようですが、どんなものでできているのかわからないところから、その活動は始まりました。

赤、黄緑、紫の3種類のパテをスプーンで好きなように塗って、いわば<遊ぶ>のです。ただ子どもたちも、パンに塗っているし、美味しそうな匂いがするので、絵の具のようなものだとは思っていなようです。「これ(黄色い方)はとうもろこしで、これ(橙色)はかぼちゃ、こっち(紫)はにんじん、じゃない?」などと言い合っています。

実際に食べてみると「う〜ん! おいしい!」と、食べ始めます。

このような状態の食べ物が普段は苦手そうな子も「おいしい」と言って食べています。それを見ていて私はおもしろいなあ、と思いました。そして手作り絵本で種明かしがされます。実はどの色のディップも「にんじん」だったのです。

私も朝いい香りがしている時に、これ何?って聞いたのですが、どれもにんじんだと聞いてびっくりしました。子どもたちは、パンに塗って、混ざて食べたので、それぞれの味はよくわからなかったはずですが、子どもたちもまさか、これがにんじんとは思わなかったようです。

こんな活動をしてみたのは、ちょっと理由があります。子どもが何かを体験するとき、その「出合い方」次第で、体験の質が大きく変わることがあります。それは食べ物もそう。子どもが環境とかかわると言っても、その環境から受ける刺激が、その子どもに合っておらず、選べない、という場面が生じます。

それは絵の具との出合い方でも感じてきました。描くための道具として絵の具と出合ってしまうと、その多様な可能性が狭まってしまうのです。絵を上手に描くための手段としての絵の具の上手な使い方、みたいになってしまうと、私などは「色との出会い方が残念」と思ってしまいます。

子どもによっては、音に敏感であったり、匂いに敏感だったり、大きすぎる空間だったり、食べ物の味や食感が合わないこともあります。肌に触られることを嫌がることだってあります。それは、大多数の人と違うからこそ、大切にされなければならない見事な個性です。私の知り合いに、生のりんごは食べられない女性がいます。でも、りんごジャムや焼きりんごは食べることができます。

ちょっと話が広がりすぎるかもしれませんが、この味がこんな味だと区別することは、その味との出会い方、状況によっても変わってくるのではないでしょうか。例えていうと、大人がセンスの良い服や部屋やデザインを好むように、味覚にも、その差異に敏感であることもありそうなのです。

私たちは青を青と思っていますから、誰でもそう見えていると思い込んでいますが、実は実際に見えている色合いは自分しかわからず、他人が同じように見えているとは限りません。ことばの音の文節を学ぶことで、母語(たとえば日本語)を獲得していくのと同じように、私たちは世界に任意の境界線を引くことで、何かを理解しているのです。昆虫や動物はそれぞれの線の引き方で世界を理解しているように、私たちもそういことがあるんじゃない? と思う次第。

 

この場合は、これもにんじん? という発見から多様な「にんじん」というものと出合い、そうでないものとが区別されたのです。こんなことを繰り返していく味覚体験は、きっと私が目指している、食べ物そのものを、もっとよく「味わう」という行為を深めていくことになるはずなのです。そして愛着を感じたり、そのものへのリスペクトが生まれながら、おいしい、という字には「美」が入っていることを、「美味しい」と書くことに納得していくのではないでしょうか。

味にもアート的に「美味しい」と感じる世界がありそうです。今日はその第一回目でした。

 

駄々こねの意味をめぐって

2022/11/27

子どもが望んでいることを、正当なもの、と捉え直すにはどう考えたらいいんだろう? ただのわがままだったり、いたずらだったりするように見えることや、駄々をこねて、大人の言うことを聞かないように見える時に、私たちはどんな姿勢で子育てに向かうといいんだろう? さらに、その場に直面したときに他者の視線も感じながら、どうやったら周りの人にも理解してもらえるだろう?そんなことを考えながら、自分の子どもの子育てをしてきたように思い出します。でも今は仕事として、専門職としてはっきり言えるようになりました。子どもの自己主張にはいくつかの正当な理由があると言うことを。

私が保育士の資格を取るために勉強していた頃、言葉の使い方次第で、こんなにも意味が変わってくるんだ、と驚いたことを思い出します。それはジャーシルド(Jersild A.T)の「自発的使用の原理」の説明を読んだ時です。これは発達の一般的原理の一つ(矢野喜夫)で、「自生的動機付け」の原理とも言われます(「発達心理学辞典」ミネルヴァ書房 監修は岡本夏木他)。子どもがはいはいを始めたら、欲しいものをとりたいわけでもないけど、自発的にはおうとします。立つようになってきたら、すぐに尻もちをついてでも、それを繰り返したがります。歩行が確立していく頃には、なぜかわざわざ坂道を登ろうしたり、すべり台を下から這い上がることをしたがったりします。散歩をしていても、狭い花壇の縁や、土手の上り坂の方を歩きたがったりします。

そういったことを選びたがるのは、どうしてだろう?と思っていたので、その説明として、そうか!そうなんだ!と納得したのが、この「自発的使用の原理」の説明でした。 それをやりたがるのは、その力を使おうとしているからだ、力は使わないと伸びないんだ、と理解できたのです。何かが育つ、伸びる、できるようになる、という発達は、その能力を繰り返し使って初めて身に付く、と言い換えてもいいでしょう。能力は使用して初めて本当の能力になる、と言うことです。使っていくうちに発達が遂げられて、その欲求は満たされて、次の段階へ進んでいくのです。

そこから子どもの体験には、必ず意味がある、と思えるようになり、しかも自発的にその行為を示すときは、今ちょうどその力を使いたがっている力が伸びようとしている時期なんだ、と受け止めればいいとわかったのです。それをすることで発達する、発達したがっているから使いたい、体験したがっている、そう言うふうにみてあげれば、子どものやりたがることには発達の欲求が現れており、それを叶えてあげることが、つまり体験させてあげることで、その力を行使し、自分のものにしていこう、環境から自分に取り入れようとしているのだ、というふうに私の理解がつながっていったのです。

そう一旦、思えてくると、子どもが駄々をこねたり、泣いて何かを主張したり、大人を困らせたりするとき、基本的にはそうか、それをしたがっているニードがそこにあるんだね、それをやることがあなたの発達に必要な体験になっているのね、と受け止めることができるようになって、それを探したいぐらいになっていきました。

そして、社会的に認められない行為なら、代わりに「こっちならどう?」という、適応行動になる体験の選択肢を用意していくといいのだ、と考えがつながっていくのです。環境構成です。一方で、欲求が満たされるのですから、情緒は安定します。養護です。こうして養護と教育は一体であると言うことが、私にはすんなりと理解できたのです。

理解がつながって矛盾がなくなる理解というのは、精神衛生上も望ましいし、過不足感のない理解は、誰にでもいつでも説明できます。そして自分の中に、新しい疑問点が湧いてくるのです。適応するって、どういうことだ?と。社会的に認められていることは、誰がそれをどう認めているんだ?ということを調べたくなるのです。ルソーが社会契約論を考えたように。シュタイナーが社会有機体三層構造を考えていくように。

私には大人が「正当性を主張する=これが正しいという」ときに、その正当性は本当に「正統的」なものなのか?という疑問になっていきました。保育を文化的実践として捉えたら、正統なものかどうかを、大人は常に更新し続けていく学びを止めてはならないんじゃなか、文化的な実践に周辺的に参加するといっても、その参加していい社会や学校なのか? そういう、とても大きな問題にぶつかっていくことになっていったのでした。それは発達心理学では「障壁発生の原理」ということを読んで、自己流の拡大解釈をして、面白がっていたのでした。

そして民主主義の原理や自由とな何か、という問いにつながって行かざるをえず、それを支えるのはコミュニティのあり方が問われ、人間関係づくりのプロセスが問われ、というように戻ってきます。そして最後は人類の進化の正統性にまで辿り着くのです。私が何か話すと、人類は〜ってなっちゃうね、と保護者の方と笑ってしまったことを思い出します。子育ての相談を受けているのに、人間はね、なんて言われたら困りますよね。

クラッキー園長とカッキー&ユミコ先生がやってくる!

2022/11/26

当園は保護者の皆さんの協力のもとに、映画『こどもかいぎ』を秋葉原で自主上映します。上映後に映画に出演しているクラッキー園長と、担任のユミコ先生、カッキー先生によるトークショーを予定しています。
この映画は、子どもたちが「かいぎ」をする保育園を1年間に渡って撮影したドキュメンタリーです。子どもたちの「かいぎ」には、明確な答えも結論もありませんが、全力で話し合い、遊び、泣き、笑い、成長する姿があります。園生活や子どもの魅力が詰まった宝物のような映像になっています。
【日程・場所・申込】
開催日:令和4年12月4日(日)
会場:ちよだパークサイドプラザ6階(千代田区神田和泉町1)
午前の部 10:00~12:00
   (上映時間90分+クラッキーとカッキーのアフタートーク)
午後の部 13:30~15:30
   (上映時間90分+クラッキーとカッキーのアフタートーク)
※ 受付開始時間は各回20分前から開場できます。
会費:1200円 (25歳以下無料) お子様連れ大歓迎
申込:Peatix よりチケット購入
フライヤー(裏)のORコードからも申込できます

学びあい、教えあう

2022/11/25

年長のAさんは赤ちゃんが大好きで、入園見学の方が赤ちゃんを抱っこしていると「かわいい〜!」「わたし、Aっていうの。なまえなんていうの?」と聞きたがります。その子を知りたいから名前を聞く。自然な学びです。お母さんも、子どもたちのそんな姿に接して「◯◯よ、よろしくね」などと教えてくれます。

Aさんの他に年中のHさんやUさんも、小さい子のお世話や教えてあげることが大好きで、いろんなことをしてあげています。その子が望んでいることを、望んでいるタイミングでやってあげたり、手伝ったりできるようになっていきます。相手が望んでいるタイミングでそれができるように援助することを、私は「啐啄同時」という言葉で説明することがよくあります。鳥のひなが卵から孵(かえ)ろうとするときに、親鳥が殻を啄(つつ)いて、外に出やすくしてあげるのです。強く啄きすぎるとひなが傷ついてしまうので、そのタイミングと塩梅が大切なのです。

そのコツを、赤ちゃんの様子を見ながら、年上の幼児が学んでいきます。援助内容も教え方もセットで子どもが学ぶのです。こうやって人との関わり方や援助の仕方、また身につけるべき教える内容を子どもが身につけていきます。そこには大人のモデルがあるので、それを真似しながら、援助の仕方を身につけていきます。

このように大人がやっている子ども主体の保育を、子どもが模倣しながら、同じことができるようになっていく営みを、その保育への参加と捉える考え方があります。私たち大人も、どんな教育や保育が望ましいのかを日々、学びながら正統的な保育のあり方はなんだろう?と話し合いながら、実践しています。この営みも文化的実践と言えます。子どももそれを見習いながら文化的実践者に育っていくので、そのことを学習論の一つの見方として「正統的周辺参加」という言い方をすることがあり、私は新聞記者時代にこの考え方をもとに実践している学校の授業を連載したことがります。その連載の指南役は当時東大にいらした佐伯胖さんでした。

その正統な文化実践の中には、その地域や時代の文化を身につけていくというプロセスがどうしても必要になるのですが、その中には「きまり」とか「ルール」つまり社会規範というものも含まれてきます。そこで例の自由と責任というテーマが出てきます。協同性のテーマなってきます。

そのとき私が思い出すのは、藤森師匠(私の上司であり恩師)が教えてくださったこんな話です。「子どもに自由とルールを教えるときは、こういうとわかりやすいよ」と。こんなふうにお話すれば、2歳児クラスの子どもたちぐらいになると、自由の意味がわかってくるのです。

大人「大きくなったらね、自動車を運転してどこにでも自由にいくことができるんだよ、いいでしょう」

子ども「うん」

大人「でも守らないといけないことがあるんだよ。なんだと思う?」

子ども「・・・?」

大人「それはね、信号を守ること。青は走っていいけど赤は止まれ。信号を守るからみんな自由に車に乗れるんだよ。わかった?」

子ども「うん」

ここには、学習論でいう「教示的伝達的顕示」(いいかい、やるよ、ほらね、式の「わかってないけどわかった気にさせる落とし穴))もあるので、この語り方には注意も必要なのですが。まあ、それはともかく、わかりやすい対比での教えになっているのです。

私たちは学び合いと教え合いを繰り返し、ある方向へ歩んでいます。その歩み方は、それぞれであっていい。そして社会の方も変えていっていいのです。両方の営みを変えていくことをどうしたらいいのか。そこに今私は挑戦しています。

たにじゅん展 明日25日から 海老原商店で

2022/11/24

「見たもの・出会ったものを残すこと。愛でること」

明日25日から「谷川潤」さんの個展が海老原商店で開かれます。とにかく彼の「描く」という意味が大好き。個展のコンセプトをパネルにこう表していました。

https://www.instagram.com/p/Ck0rn3bJwgs/

 

<描くこと=

大学3年生になった頃にはじめた、「自分と素敵な人・もの・場所との出会いを形にして、贈り物としてその人たちにお渡しすることで、また素敵な出会いのきっかけになっていく、」(たにじゅん日記)

美味しかったパン、一緒に暮らすワンコたち、大好きな人

よく見ること、そして気づいたことを形に残すこと、その行為を通すことで、対象により愛着をもつようになること。

描くことは、僕にとって、目に見えている世界に愛おしさを、より自分の中に深く刻み込む行為であり、また、そうして得られた幸せを、他に人にお裾分けする手段の一つでもあるのです。>

・・・・・・・・・・

こんな関わり方ができる時間。

教育の五領域「表現」のこんなふうになっていくと、いいな。

 

 

子どもが子どもを理解していることへのまなざしを

2022/11/23

(今日はですます調ではなく、である調で始まります)

22日火曜日のこと。子どもの泣き声がする。まさに倉橋が書いている廊下の描写のように。

彼女は泣いて訴えている。春に満4歳になった女の子が「 ◯◯コちゃんのママがいい」と訴えている。「いい」というの中には、「まだいて欲しかったのに、どうして帰っちゃったの」という気持ちが含まれている。保育園の玄関で、お友だちもそばで泣き止むのをじっと待ってくれている。子どもたちは何をいうでもなく、頭を撫でてあげたり、どうして泣いているのかを大人に説明してあげているだけ。子どもの方が<気が済むまで、そうしていていいよ、だって寂しいんだから、しょうがないじゃん>といった風に納得している。私にはそういう風に見えた。もし困っていたら「先生」と言いにくるからだ。

その「子どもの子ども理解」。つまり子どもが他の子どもをどう理解しているか、ということをもっと知ってほしいと、子どもと一緒にいる私などはよく思う。心の安全基地は大人だけじゃないよ、って言いたくなることも多い。子どもの世界で起きていることをちゃんと事実としてみてほしいと。でも、それがそう簡単でないことも分かる。なぜなら、子どもが泣いていると、どうして泣いているのかを聞こうともせずに「はい、抱っこ」といって、連れていってしまう大人が多いから。それをそばで見ている子どもが「あ、待って、連れていいかないで!」と言ってくれるならまだしも、そんなことをする勇気は子どもにはまだない。

でもそれが5歳になってくると「先生はまだいいから」と言ってくるようになる。子ども同士がピーステーブルで話し合っていて、なかなか終わらないような時に、どう?って聞くと「もう少し」とか、教えてくれる。子どもたち自身が先生は、僕達のことをちゃんとみて、待ってくれて、困った時は助けてくれる、そういう距離感を知っている。

ところが大人は、子どもが子どもを見守っているというようには見ない。泣いていたら直接関わりにきて泣き止まそうとするし、またそれが世間一般ではそうだから、それが間違いとも言えず、泣いているそばにいる子どもが、まさかじっと待ってあげているなどと想像できないのだ。それも分かる。だから気のいいパートさんに、その関わり方を伝えるのに苦労する。

今回は、その子も周りの子も私の関わり方を知っているから、私ももそばに寄っていって「どうしたいの。助けてあげるよ」と言ってみるが「ううん」と首を横に振って助けはいらないと拒まれる。まあ、そうだろうな、それでいいよ、とうなずいてあげる「わかった」と。さっきまで木場公園で一緒に遊んでもらっていた「◯◯ちゃんのママがいいんだよね、戻ってきてほしいよね」と言ってみる。なんとも言わない。大人が気持ちがわかったからって、そう簡単に泣き止むもんじゃないよ、共感してあげたら泣き止むとでも思っているの!と感じただろう、きっと。すごく賢くて繊細なんだから。

ただ、彼女は私の言葉に否定も肯定もしないので、少し彼女の気持ちに近いところまで近寄れたのかもしれないと思う。私は「じゃ、一緒に◯◯ちゃんママのところに行こうか」と言ってみる。チラリと私を見るが、もういい、という風に「いや!」という。そう、それも嫌だよね、そんなお節介も嫌だよね。

私は心配してそばにいた子どもたちと一緒に、期限が過ぎた掲示物を外して、その紙をビリビリ破って、小さくしては花吹雪を作り始めた。飽きていた子どもたち二人が、その遊びを嬉々として始めた。

内心、もちろん彼女の気が紛れて機嫌が直らないかなあ、と願って、そんなことを始めてみたのだが、それまでの彼女との会話も手伝ってくれたのか、あるいは私もそのビリビリに熱中していたからか、ふと気づくその子も、じっとそれをみていた。もう泣いていなかった。どうして泣き止むことができたのかはわからない。

彼女の「訴え」は、誰かに向けられているものではあるが、研究者たちは私が二人称的に関わったからだと解釈するだろうか。そうだとしたら、子どもも一緒に、その二人称的関わりの一部に入れてくれないかしらん。それも解釈としてはありの理論にしておいてもらいたい。望むものが「訴え」を経て共有されて、望ましいへ変化するのだとしたら、日本的曖昧さの中庸的共有みたいなものがあるのかもしれませんが。

わいわい組は初めての冒険ひろば

2022/11/22

園庭のない保育園。だから木場公園は我らが園庭。3歳児クラスわいわい組が初めて木場公園の「冒険ひろば」で遊びました。

ここは、くぬぎやこなら、桜やいちょうが立ち並ぶ雑木林の中に、色々な大型遊具が配置された都立公園の一部。2歳児クラスから年長さんまで、思う存分からだを動かして遊びました。

真っ青な空を背景に紅葉が美しく、それだけでこういう場所にきた甲斐があるというもの。子どもたちはひとしきりすべての遊具で遊んでみると、お気に入りの遊びを続けたり、自分たちで鬼ごっこをはじめたり、落ち葉を拾い集めて大きな山を作り始めたり、思い思いの世界を深めていきます。

今日は年長組の保護者も3人参加してくださり、一緒に遊んだりしていただきました。こんな感想をいただきました。「子どもたちはかわいく、先生方は子どもたちのお手本となる素敵な方々で、とても楽しく、癒やしの時間でした。(まだ参加されてない方優先ですが)また参加したいと思っています。」(年長)

一方、2歳児クラスの子どもたちは、冒険ひろばとは別の芝生ひろば方面で遊びました。花壇や噴水の周りを歩き、途中に色々なものを見つけては、見入ったり、手にしたり。こちらも保護者からこんな報告をいただきました。「ドックランがあることを見つけて、柵の外から子犬が遊ぶ様子をみたり、綺麗に紅葉していた銀杏の木の周りを探索して遊びました。黄色いモンキチョウを見つけて、Fちゃん達と追いかけてたくさん走ったり・・池に枝の長い葉っぱを垂らして釣りをしたり・・「もっとあそびた〜い」というくらい満喫していました。」

同じ体験でも、誰と一緒かで随分と内容がかわるだろうことは想像できます。休日に親子で遊んだ場所も、保育園でお友達と一緒と過ごせば、かかわり方が違ってきます。保育園でいつも行っている公園もお母さんやお父さんが一緒となれば、遊び方も変わりそうです。

考えてみれば、それはそうです、人的環境が変わるわけですから。冒険ひろばで、氷鬼の鬼役をやって楽しかったと語ってくださったお母さんはお迎えの時「今日はぐっすり眠りそう」と心地よい疲れのご様子。親子ともども、いい思い出にもなったことでしょう。

生きる力の使い方が間違っていると思う理由

2022/11/21

私は12歳から13歳の頃、自律神経失調症にかかりました。全身の感覚がいや〜な感じになって、恐怖に襲われるのですが、それが定期的にやってきます。言葉では伝えられず、親に言っても心配されるだけで困らせることにしかならないだろうと分かるので、その苦しみは結局言えませんでした。雑誌に載っていた広告を見て、あるカセットテープと鈴がセットになった何かのセットを買って、寝る前に「右手が温かい、重くなる、左手が温かい、重くなる・・」のような自己暗示をかけて、リラックスするというのを毎日やってました。その不安感がくるときは予兆があって、「あ、来そう」というのが分かるのですが、それがくると自分の部屋で紐のついて鈴を目の前に垂らして、じっと見つめて「右に回れ、右に回れ」のように念じると、鈴が回るということをやってました。

いつしか症状は無くなったのですが、一度だけ母親が心療内科に連れて行ってくれたことがあります。それで何がどうなったのかは覚えていませんが、自分が何かの病気かもしれないということに、直面したことをよく覚えています。子どもは状況で物事に直面するのです。その状況というのはとても雄弁で、直接私に「体験」させてしまうものであり、その後で、その意味や解説や何かがついて来るだけです。その意味は、後になってよく分かるようになっていく、ということが物事の大抵の理解です。私の父親が戦争でラバウルにいき、朝「さらばラバウルよ〜」の歌を歌っていた心情も、後になって理解できるようになっていきます。

そのことを大人になると、錯覚してしまうのです。体験は言葉で説明できると思う人が出てきます。体験に含まれているであろう意味を先に取り出して、体系化して教えることができると、錯覚してしまうのです。それはできません。こっち方面です、とガイドはできても、体験はできないのです。言葉で説明された事柄だけでは、その意味は体験できません。こう書くと当たり前すぎる話に聞こえてしまいますが、教科書で体験に代わるものにはなり得ません。

身体は体験するようにできているのに、頭がその体験を分析的に理解しようとするので、頭は一部分しか体験できません。一旦分解しても全体ではないので、統合しようとしたがるのですが、それはいつまで行ってもできません。そのことを承知の上で、学問なり研究なりをされている方と、そうでない方は、自身の営みに謙虚かどうかですぐにわかります。わかっている方は慎重で繊細なのです。

そういう人間の限界という事情もあって、メタ認知が大事だとか、何々がこうだとかの知見が、なぜそうなのかを納得できるように説明していくことが大事だと思っていて、それはとても難しいので、引用したり、〜だそうだ、と伝聞で伝えるしかないことも多くなります。しかし、そういう意味では分かることとわからないことの境目にとても注意を払って生きてきたように思います。

そして、その説明のない教育のあり方が、多くの子どもを苦しめているように思えて仕方がなく、随分前から子どもそのものの在り方から、そのように学び続けることができる教育に変えたい、変えたいと願って、この仕事にたどり着いたという経緯があります。「おばあちゃんの作ってくれたカレー、美味しかった」と書いて命を絶った中学生のことが忘れられず、そうなってしまう生き方に追い込まれていまう若い人たちが、一人でもいなくなるようにしたい。ですから若い保育者や学生に「保育はこういうものです」と説いている先生に、どうしてそう言えるのですか?と聞いて、実はそこがまだよくわからないところなんです、一緒に調べましょう、と言ってくれる先生に出会うとホッとします。

今夜はそういう方々と火を囲んで心を温めることができました。このような方々は本当にありがたいです。

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