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2023年 11月

同じものでも「配列」を変えてみる

2023/11/29

昼間の公園で、子どもたちがきれいな葉っぱを並べたり、日光にすかして葉脈を見たりしています。

同じ「もの」でもたくさん集めたり、光にかざしたり、空間の中での「配列」を変えてみると、違った姿が姿を表ます。ここでいう「配列」というのは、その物の置かれている物的世界のレイアウトのことなのですが、見えるためには光が必要なので、それは必須の条件です。真っ暗な空間では何があっても「見えない」からです(もちろん輻射熱のようなものを感知できれば、それは「見える」よういにすることも可能ですが)。

ここに虫眼鏡を持ち込んで、光の解像度を上げたり、さらに顕微鏡を持ち込んでもっと大きくして物の配列を観察すると、物はまるで別物のよういになるでしょう。それが「葉っぱ」であることもわからなくなるかもしれません。さらに繊維質や細胞まで小さくなったら、それはもはや「葉っぱ」ではなく、植物全般に共通した何か、になってしまいます。さらに分子や原子にまで小さくなってしまったら、他のものと変わりない物質でしかありません。

わたしたちの視力、視線から見える「もの」の姿は、煎じつめると、そういう意味での「配列」です。物は私たち人間の裸眼で見えている世界と、電子顕微鏡や天体望遠鏡を駆使して「見える世界」は、物の大小、上下、奥行きが変わり、つまり物の「肌理」(きめ)が変わります。そこに環境の持っている情報が異なってくることになります。さらに記号や数学を用いて「見えてくる世界」は、目に見える肌理の世界を超えて、世界を成り立たせている構造や力学さえも推論できるようになっていきます(人工衛星によるGPSやビッグデータなど)。

このように考えると、人間が進化の中で身につけてきた自然な身体的な知覚の世界と、人間が人工的に作り上げてきた科学的な力が合わさって、複合的に世界を捉えるようになってきていることに気づきます。幼児教育として何が望ましい子どもの経験になるのか、そこを整理してみる必要性を感じます。

きれいな落ち葉ならべ遊び

2023/11/28

思いつきで楽しいことが始まるのが「遊び」ですが、その「面白さ」は子どもにとってと、大人にとってもがシンクロする時があります。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子どもたちが、公園できれいな落ち葉を拾って並べて遊んでいます。

その例としてわかりやすいし、面白いですね。

 

なぜ造花ではダメなのか?

2023/11/27

当園は造花はできるだけ使いません。それは「自然」ではないからなのですが、なぜ自然にこだわるのかというと、自然なるものを経験するのが乳幼児教育だからです。

子どもは自然とそうでないものの区別がつきません。自然の草花は季節によって変化します。今朝は幼児の部屋で先週から育てはじめたシイタケが大きくなっていました!

今の季節では例年よりも公園の紅葉は落ち葉が遅いのですが、その色の変化に気づいたり、地面に落ちている葉っぱを拾って触ったり、踏んでパリパリする音や感触を味わったりすることが大切になります。

毎年それをつみかさねているうちに自然というものが季節の変化とともにあることや、活きている物だから芽が出たり花を咲かせたり枯れたりすることに気づき、そこに子どもたちが、その子なりの好奇心から世界とかかわっていく可能性が広がっていくことでしょう。

遊びは将来に役立つから?

2023/11/26

昨日25日の土曜日の日誌には、遊んでいる様子と掃除を手伝っている様子が記録されていました。写真は金曜日の公園です。

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SくんとRくんは、2人で一緒に遊び過ごしていることがほとんどであった。制作ゾーンに長くいて、折り紙や画用紙でポケモンのごっこに必要な物を園欄で作っていた。AくんとHくんは3階フロアーを自由に遊んだ後、ごっこゾーンが居心地が良くなって2人でお医者さんごっこを繰り広げていた。 Yさんは、M先生がお気に入りで傍にいる事も多かったが、部屋の清掃の手伝いでは、モップを率先して行っていた。ごっこよりも、リアルな手伝いを好んでいるようであった。

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生活と遊びの行ったり来たり。その2つのことのように分けてみることを最近疑っているのですが、それでもやはり遊びというものが、くっきりと際立って存在しているように思えて仕方がありません。

ただ、その二つに分類されてしまう前に常に活動というものが、それは「生きている」と言うことなのですが、そのなかに潜む多様なかかわりのシステムが、シームレスに「柔軟性」にとみながら機能しているのでしょう。

遊びを実社会で役立つための練習とみる見方があるのですが、本当でしょうか? 遊びもまた、人間の進化の中で生まれたものでしょう。もしそうなら、遊ぶ動物の方が遊ばない動物よりも、自然選択によって未来のとってよい活動が選び抜かれたということになるのですが、そんなこともあるのでしょうか?

そういう目的論的な見た方よりも、生きるために必要なことをやっていると、生まれたものが、その環境の違いとして何かの副次的な効果を生んでいるもかもすれません。もし将来の準備だというのなら、社会が変わって将来に必要なことが変わっても、変わらない何かのために役立っているとしたら、その変わらないものは何で、それと遊びがどう関わっているのかを知りたくなります。

 

エンカウンター(出あい)としての経験

2023/11/26

今週を振り返ってみると、年長児たちは公園での雲梯がブームになっているのですが、落ち葉などでバーベキューごっこも盛んでした。0歳児の赤ちゃんはトンネルをくぐったり、1歳児たちは屋上で電車ごっこを楽しんでいます。

子どもの好奇心の旺盛さを、私たち大人はよく理解していないのかも知れません。もしみなさんの中で、海外でも国内でも旅行が好きで、新しい世界(未知なる世界)への冒険や探究が好きなら、その心情は子どもが本来的に持っているものに近いかも知れません。

その例えがあっているとしたら、子どもたちは「毎日が海外旅行」なのでしょう。新しい場所へ行ってみたいという強い動機があって、でも知らない土地でうまく宿泊先を見つけたり、乗り物に乗れるようになったりするまでには、不安と戸惑いもあります。それを乗り越えていく好奇心や逞しさ、あるいはトライアンドエラーにめげない気持ちが必要です。

子どもたちが新しい世界を探索することに長けており、その新しい世界に出逢いながら、その都度、どうやったら自分のものにできるのか、何かを自分のものにしていくことに真剣に取り組んでいるのでしょう。

 

 

いろんなことが気になってやってみたくなること

2023/11/24

今日24日(金)の日誌を読みながら、ふとこう思いました。こんなに小さい時からまずはやってみたくて、その結果どうなるかわからないけど、近寄っていく。そしてその場所や空間の何かを感じ取る。やってみながら、その環境の意味や関わり方がやってくる。

そういうことをするのが、その時が始まりではなく、実はずっと活動している継続的な時間の流れの中で、走り出したり立たずんだりする姿に、始まりとりを私たちが当てはめているだけかもしれません。私たちは冷静に考えれば、生きている限り常に「動いて」いて(睡眠中や休憩をしていても)、ある「活動」の中にあって、初めから何かをやっているとも言えます。そして、ほとんどのことが生きていくために必要な活動であり、環境と調整したり、様々な情報の検索と活用が試されているような気がしないでもありません。

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広い空間を一斉に走るちっちさん。気になる場所へ行ってみます(ちっち)

今日は、ワテラスへ行きました。広い芝生よりも隅っこにある草原の中が好きなぐんぐんさん。芝生とは違った落ち葉の感触やひっそりと隠れられるところが子ども達にとって好奇心がくすぐられて面白い場所になっているようです。「もういいかーい」と大人が少し関わってみると、お友達の近くに集まってきて隠れたり、見つけてもらったりしながら一緒に遊ぶ楽しさを感じていました。(ぐんぐん)

ちっちの子どもたちが「気になる場所へ行ってみたくなったようです」とか、「子どもたちは新しいことが好きなので」などの表現によく出逢います。要するに子どもたちは未知のものへの関心がとても強く、自分の関わりの中でそれを取り入れていくために、さまざまな関わり方の調整をしていて、その動きや活動の中に教育の五領域の内容が盛り込まれているように思えます。

子どもたちが生きていく世界にどうやったらうまく参加できるようになるのか、つまりそれぞれの環境の意味がわかり、その中で生きていく方法を身につけていくこと。世界への探索行動をいろいろ思いつきで試すことが遊びになっていて、その世界との対応の方法を幅広くするための柔軟性のようなものが遊びという姿になっていくのかも知れません。

さなぎができる場所と月の明るさの関係について

2023/11/23

アゲハの幼虫がどうしてそんなところ(自分が生まれ育ったみかんの木ではなく、窓の棧や自動ドアの表面)でサナギになったのか、ということについて、もしかすると園の前の街灯のせいかも知れません。そんな仮説を思いついたのは、あるテレビを見たからです。

その番組で、高校生が「セミの幼虫が地面を這って登る木をどうやって決めるのか」を家族総ぐるみで、研究し、有力な仮説として「月の光で木の表面が反射して、ほんやりと明るく見える方へ歩いていく」ことを突き止めたという内容でした。それに気づいたのは、近くに木があるのに、わざわざ遠くまで、かなりの距離を歩いたのがいたからで、その木のそばに公園の街灯が建っていて、その木を明るく照らしていたのです。その分野の研究者もこれまで研究されてなかった新しい発見ではないかと番組の中で説明していました。

こういうことがあるんだ。面白いなぁと思いながら、ふと、保育園のアゲハの幼虫にも同じような錯覚が生じたのかもしれないと気づいたのです。長い進化の中で成立させてきた「行為システム」に人間が作った街灯が影響を与えたのかもしれません。

このことはヒトにも影響しているでしょう。例えば1日の生活リズムや、睡眠サイクル。アゲハに限らず私たちヒトも、都市生活の中では真っ暗な夜と、月夜が照らすほのかな明るさの周期的な変化という環境の中の情報を失ったからです。

遊びの充実ぶりは帰りの姿にも現れる

2023/11/22

「・・・帰り道にS先生が、子どもがスッキリと切り替えて帰ってこられた背景に、「遊びの充実があった」とのこと。 遊びの充実こそ、「養護と教育」が一体となっていることになる。・・・・」

遊びが充実しているというのは、どういうことだろう?

今日22日(水)の日誌を読んでいて、そう思いました。これは大事なことですよね。

「楽しかった」は当たり前の前提で、何か新しいことが面白かったということや、何にか自分がやりたいことができるようになったり、それが満足いくまで、挑戦できたりしていると、充実した遊びになるのだろう。そういうことを先生は遊びが終わって帰る時の表情や姿から感じ取っているようです。

 

 

サナギから蝶に!

2023/11/21

サナギになってしばらく経った今朝、やっと蝶になりました。

毎日のように観察していた子どもたちは興味深く見入っていました。

午後には羽を広げて羽ばたき始め、今は保育園の玄関を舞っています。

「お腹が空くから砂糖水を上げよう」と、葉っぱにチョンチョンと砂糖水をつけています。

羽を指で挟んでもたず、指先に歩かせるようにとまらせています。蝶への関わり方にも子どものやさしさを感じます。

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