MENU CLOSE
TEL

園長の日記

自分探しとしての学び

2020/01/24

夕方、お母さんがお迎えにきたTHくんが事務室へさよならの挨拶に来ました。彼がやりたいことは事務室の防犯カメラに自分が映ることを知っているので、それが写っているところを見て欲しいという気持ちを伝えに来ます。これが私たちに伝えようとしてくれる、彼なりのお別れの挨拶なのですが、彼には似たような幾つかのルーティーンが他にもあって、それを思い浮かべてみると、共通するものに気づきます。それは自分で最終的に「帰る」という行動になるまでに、彼なりの「気落ちの区切り方」を発見しているように見えることです。

今日は自動ドアのところで私が「さようなら。じゃあ、タッチ」と言って、ギブミーファイブをしてみました。すると彼はパチンと私の手のひらをタッチしてくれました。そして事務室にいるはずの事務長先生にも遠くから「タッチ」を求めるのでした。(その時神宮司さんはいなかったので代わりに私が彼の分まで、代わりにタッチ役をしたのでした)

園から家に帰るという、ただそれだけのことのように思えても、子どもにとっては「家に帰るんだ」という気持ちになるまでに、いろいろな「お終いにできる力」という力が必要なんだな、と思えます。それは、子ども一人ひとり違います。彼は帰るときに、彼の心の襞(ヒダ)を、私の心の襞と、重ね合わせてみることで、それを感じ会うことができたと思えたら、満足して「帰ろう」という気持ちが動き出すように見えます。心と心を十分に通わせてから、よし、帰ろう、となるのです。

言い方を変えると、これは「自分が思うように自分をコントロールする力」です。これは、よく「やりたいことができる力」と縮めていうことができます。自分とはどんな自分なのか、自分の力はどのようなものか、そうしたことを理解し始めようとして、相手との関係の中で自分を見出そうとしている力。その力の出発点が、イヤイヤ期に見出されます。自我の芽生えとよくいうものです。

私はこの一旦心を「重ね合わせてみる」ことで、人は出会ったり別れたりができる生き物なんだと、納得します。出会いや別れの挨拶とは、その気持ちの確認行為です。ただ「あ、何々さんだ」「あ、園長先生だ」という認識が起きることが「出会う」ということではなく(それは機械でも認識できます)、また物理的にそこからいなくなることが「帰る」ことでもありません。間違いなく、そこには「心の通い合い」があるのです。「おはようございます」も「さようなら」も、言えることが問題でななく、その言葉が乗っかっている「心の動きそももの」が大事だということです。

これは見方を変えると、子どもは出会いと別れに際しても、相手との関係の中で自分を探していることになります。きっと彼も「イヤイヤ期」に相当する自分づくりの始まりの時期があって、それを経た今、その続きとしての相手との関わり方の学びが続いているのです。この力は非認知的能力であり、考える力とコミュニケーション力と協力する力と創造性という、昨日お伝えした「4Cの力」の育ちにつながっています。

自分とは何者か。その自分探しを他者との関係の中で始めるのがホモ・サピエンスです。「イヤイヤ期」のところで述べてきたこと、4Cの能力の話をつなぐものが、この「心の重ね合い」という仕草の中にはっきりと見えるのでした。

ちなみに、この自分探しとしての学びが、本来の学びの本流であることを、よくよく肝に銘じておかないと、すぐに「学習」が一流校などに進学する「手段」になるという転倒した、倒錯した学力観になってしまいます。

以下、「学びの認知科学辞典」から引用します。

「学習」とは、知識や技能を身につけるということではなく、基本的に「自分さがし」である。「わたしはどういうもの」「わたしはどうなるの」を知る活動なのだ。人はだれしも、どの年代にあっても「自分とは何者なのか」と問う存在であるといえよう。技能や知識を覚えて正確に速く使うことができるものほど偏差値の高い学校に入れるという実情は「受験は技術だ」とか「数学は暗記だ」ということばを信じ込む素地をつくりだす。これらの言葉に潜む問題点は、「学ぶ」営みを「自分さがし」のプロセスから切り離し、安易に作られた「一流校に合格する自分」へ向けての完全な手段として割り切らせてきたことにある。

どうでしょうか。これが辞典に書かれている認知科学の定説です。一流大学を目指すことを否定しているものではありません。ただ、その過程で自分さがしを棚上げすることは、大きな後悔をすることになるでしょう。学ぶことの面白さ楽しさを遠ざけてしまうからです。

乳幼児の心は、本来的にそのような学びを望んでいます。そこを大切にしてあげたいと思います。

top