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アートと保育

チョコが溶けてセロテープがストローに変身した

2023/10/24

毎週火曜日の午前中は、年長さんが3人ずつ3グループに分かれて、いろいろなことをします。私が相手をした3人はNK さん、NYさん、KSくんの3人でした。乳児用の遊具作りや生き物のお世話、装飾のお手伝いなどをしてもらうのです。今日は子ども用の実験セットを準備する予定だったので、それを手伝ってもらったのですが、その前にある実験をしてみました。この子たちは科学とか実験とかが好きなんです。そこで私が選んだテーマは「溶ける」です。

子どもの身近な生活の中には「溶ける」という現象がいたるところで起きています。しかし、同じところに重なっている存在の現象は難しいのです。三様態も見えない気体が液体になる「結露」とかも難しい。「コップの中の水が伝わってこっちにきた」と言った理解をしていることを、この日記で報告したことがあります。

でも、子どもなりに面白いと思うことがないかと考えていたら、昨日月曜日の夜のテレビで、美味しさを競う料理番組があり「口の中で溶ける」という話をやっていて、そうか!と思い至りました。毎日食べているものが口の中で溶けるということなら、子どもは体験している。それを目の前で再現するというのはどうだろう?

すると今朝、保育室にあった本に「マーブルチョコレートがお湯に溶けて花びらの模様を作っている写真」が目に入りました。そこで早速やってみたのです。近くのコンビニにそれを4人で買いに行き、紙皿に「近い色の順番に」並べます。(写真1)

それに電気ポットで沸かしたお湯を、紙皿中央にゆっくりと注ぎます。するとチョコのコーティングが溶け出して、綺麗な模様ができ、3人から歓声が上がります。(写真2・3)

お箸で一粒ずつをひっくり返してみると、裏側が白く、色がなくなっています。このあたりからICレコーダーもオンにして会話を録音します。「白くなってる」(コーティングしている色が溶けて、下地の白が出てきている)「チョコが目みたい」(紙皿と接触していた部分が解けずに白い下地にポツンと残っているから)などと色々言います。でも溶けたという言葉は出てきません。そうか・・と思いつつ、これが口の中でも起きているんだよね、と話を進めて、一粒ずつ舐めてもらいました。3人とも、こうなることを最初から期待していたので、超ご機嫌です(笑)

ザラザラしてきて、ツルツルしてきた頃に鏡で口の中を見てもらうと、白くなって舌の上に乗っています(写真4)。

チョコは口の中で溶けるということと同じだとは、あまり感じないように見えましたが果たしてどうだったのでしょう。

今度は、透明アクリルのコップに一粒ずつ入れてお湯を注ぎ、割り箸で混ぜると、色水になって、白い粒が溶けずに残ります。どうも白い部分は色のところより溶けにくいようです。

その次に、どうして「トイレではトイレットペーパーじゃないといけないの」という私からのお題です。コンビニに行く途中でもらったポケットティッシュとトイレットペーパーを、溶かしてみました(写真5)。

すると結果が歴然で、ティッシュは水にほぐれることもないのですが、トイレットペーパーの方はドロドロ状になっていきます。これは厳密には溶けるということではないのですが、NKさんは「溶けた」と言い、NYさんは「わかった、トイレが詰まるから」という話まで結びつけています(写真6)

その後が面白い展開になりました。3人とも他のものではどうなるのかをやり出したのです。石を入れたり、砂を入れたり、そしてNKさんが面白いことを発見しました。セロテープを数センチ入れたら、「みて、みてストローになった!」というのです(写真7)。

私もそれは驚きました。そして混ぜ続けると、透明なセロファンになって「こうなったよ。でもくっつかない」と広げて見せてくれます。ノリが溶けてただのセロファンになったようなのです。私もそれは予想していなかったので、自分でもやってみましたが、確かにそうなるのです。

クラスに戻った3人について、担任は「またやりたい、すごく言っていて、とても面白かったようです」とのこと。チョコレート効果ではないといいのですが。このような活動は、少し大人側が主体性を発揮して活動を構造化する必要があるのですが、これまで絵の具や花びらで「色水あそび」はやってきたものの、それは色が変わる、綺麗になった・・の方へ注意が向っていたのですが、解けること自体に関心を持って「じゃあ、これはどうだろう」と試してみるという自発的な探究へ向かうには、そこまでの〈滑走路〉が必要だという感じがします。

こんなことを、いろんな場面で何度も繰り返していくことで、どうなっているんだろう?いいこと思いついた!(今日も数回、どの子からも、この言葉が出たのですが)という活動が増えていくのではないかと感じたのでした。

 

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

・・・

絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

遊具や装飾作りのお手伝い

2023/08/29

毎週火曜日は、年長すいすい組の「お手伝い保育」でした。事務所担当の私は、来月から使い始める天体望遠鏡を棚から降ろして、その使い方を説明しました。それだけでは面白くないので、玄関からレンズ越しに遠くの建物を見せました。カレー屋の看板や道路の交通標識などが「見えた!」「でっか!」など、はしゃいでいました。

もっといろんなところを見たいと言うので、3人を園外に連れ出して、隣のビルの1階から神田川を挟んで、北側の和泉橋やヨドバシカメラなどの方面を観察してみました。

続いて先週から作り始めた光遊び用の「色セロファン」での形カードづくり。前のチームは三角と四角を切ったので、今日のチーム3人は「丸」と「好きな形」にしました。

「好きな形」となると「ハート(マーク)がいい」というのですが、ハサミではうまくその形になりません。そこで二つに折って「つ」の字に切るとハート形になる切り方を教えました。切る線をマジックで書いてあげ、その線に沿って切ってもらいました。そしてラミネートをして、ライトボックスの上に乗せて、色の変化を楽しんでいました。

こんなことをしていると、体を動かしくなったので、散歩に行くことになりました。でも今日も外は暑いので運動ができません。そこで神田川を挟んで向かい側に立つ和泉橋出張所の中を探検した後、その隣の書店に入って絵本コーナーを見てきました。

最後に、水鉢に浮かべていたほおずきを洗って浮かべ直しました。もうすぐ葉脈だけになった「透かしほおずき」ができそうです。

「作る」を経て「使う」へ

2023/08/22

今月8月から年長組による週1回の「お手伝い保育」が始まりました。今日は事務所担当(つまり園長担当)の2回目でした。年長の子どもたち9人が3人ずつ0〜1歳、2歳、事務室に分かれます。私のところにはKさん、Yさん、Sくんの3人がやってきました。私は主に生き物のお世話や、教材作りを手伝ってもらいます。

今日の教材作りは2つ。一つは、階段に掲示してある「お月様」に、「きのう」「きょう」「あした」の三匹の「たぬき」を作ってもらうこと。もう一つはライトボックスの上で、図形を並べて遊ぶための遊具です。

「たぬき」は「今夜はここだよ!」と教えてくれるためのものですが、そういうものを作ってほしいというと、わかった!こうするといいよ!と張り切って作り方を話し出します。「画用紙にたぬきを描いて、切って、周りをセロテープで貼って・・・」。「そうそう。じゃあ、テーブルを用意しておくから準備して」というと、早速、クレヨンと画用紙をクラスへ取りに行きます。

絵本「つきよ」に出てくるたぬきをモデルに描きます。できた絵は、透明な名前ケースに入れて手すりに結びつけて、ずらせるようにしました。

百均で買った色セロファンを、ハサミで四角や三角の形に切り、ラミネートをします。ヒラヒラして柔らかく、手につきやすいセロファンをハサミで切るのは難しいのですが、私がマジックで引いた線に沿って切り抜いてくれました。ラミネートをかけるところを見たのは初めてらしく、触っていい場所を確認したり「出てきた!」「あったかい」など気づいたことを色々話してくれます。

赤、青、黄、緑の4種類の四角、三角ができました。すかしてみると「おもしろい」「ねえ、みてみて。赤いよ」と、その色で見える景色を眺めています。机の上に乗せて見るのと、明るい場所にすかしてみるのとの違いなどを、色々と気づいてくれたら。ライトボックスは7月の納涼会でも使ったので覚えているらしく、明るさを変えたり、できた図形を並べてみたりしました。早速、重なったところの色が変わることをしばらく楽しんでいました。

この教材作りは、3人ぐらいでやるのがいい。光遊びの遊具は、すでに同じようなものが市販されているのですが、それを「使って遊ぶ」に留めず、あえて「作ってみる」ことで、それが出来上がるまでに、予想しなかった仕組みに気づいたり、難しいことに出合ったり、どうやったらできるかを考えたりする機会になります。子どもたちもそこが面白いようです。

 

ゆっくりと秋を迎える準備を始めます

2023/08/07

ゆっくりと秋に向けての準備。夏の夜空といえば、今は花火が話題ですが、あと1ヵ月もすれば秋の話題が聞こえてきます。長新太さんの絵本「つきよ」の表紙をちょっとお借りして、「今夜のお月様はどんな形だろう?」と、たぬきさんが、月夜めぐりを楽しむ階段にします。

今年は9月29日金曜日が十五夜です。その前の半月「はんげつ」になる頃、保育園では天体望遠鏡を出してお月様を観察します。

レンズの向こうに金細工でできようなお月様が見えると楽しいのです。

満月の時刻ではお迎えの時間に間に合わないからです。早めにお月様が顔を出してもらわないといけません。

毎日変わっていくお月様の形を追いかけていくのも楽しい時期になります。その装飾の準備を始めました。来週子どもたちと完成させます。

美味しかった七夕のカップゼリー

2023/07/07

七夕会は所どころ、入園見学の方と一緒に見ました。子どもは楽しかったことや面白かったことを再現させたがります。それは実際に「もいっかい」とやることになることもあるのですが、たいていは再現遊びになります。

今日は行事食だったので、いつもよりもちょっと凝ったメニューだったのですが、夕方の自由遊びの時間に、今日のおやつのカップゼリーを制作している子がいました。ブルーハワイ色のゼリーには炭酸も入っていて、食べるとプチプチ弾ける清涼感も味わえました。

そんなときに、「子どもはスキルを学びたがっている!」と強く感じます。こういうのを作りたいというイメージがはっきりしているときに、とくにそうなります。どうやったらカップゼリーが作れるか。その4歳児の女の子は、その味や美しさに心奪われているのでしょう、どうしても作りたいという熱意が伝わってきます。実物と同じ透明なカップに、青いゼリーを入れるのですが、過去にソフトクリームでやったことがあるらしく、テーパータオルをクシャクシャにして丸くすると、青色の折り紙で包み、その丸くなったぜリーをカップに押し込みます。

その上に黄色い紙を星形に切って(そこは私が手伝いましたが)セロテープでくっつけました。ほとんど自分でできたのですが、出来栄えに納得しているようで、うれしそういです。ところが実物の写真とくらべて何か違うと気づきました。白いクリームが抜けていたのです。またすぐに星を外して白い紙の上に載せなおしました。お迎えに来た母親にもその制作物をみせ、展示食ケースに入っている実物を親子でみていました。

私は模倣というのは人間の本質的なところに働く何かだと思うのですが、心動かされた世界と出会い、その魅力をもう一度味わいたいから、言い方を変えればもっとよく知りたいから、再現させているように見えます。それを繰り返しながらさらに、そのことが好きになり、その世界へ入り込みながら、またいろいろな差異に気づき、さらにもっと知りたい、できたいとつながっていくのでしょうね。

水遊びにおける表出から表現へ

2023/07/06

水遊びは気持ちを解放させてくれる。その文章表現を見て、ちょっと考えることがありました。当園の夏の「保健だより」にそう書いてあります。今日は屋上やベランダで子どもたちが、バシャバシャと水をかけあってキャーと声をあげて遊んでいる姿を見ると、健康的ないい活動だなあと実感します。

そこで、そうか!と気づきました。水という媒体とのこの「かかわり方」を領域表現で大切にしているプロセスと重ねあわせてみると、気持ちが解放される子どものありようのこと、つまり表現以前のことと思われる中に、表現へとつながっていく何かがあるな、と気づいたのです。

確かに保健的な養護的な側面と、なぐりがきをしたり、新聞紙をちぎっては投げあげたり、かえ歌をある種デララメに歌って、繰り返し口ずさんだりしている教育的な保育内容的な姿との重なり合いです。

それは感覚的、感性的にうちから出てくるエネルギーがあって、それが表出されているのですが、それが一旦十分に楽しまれた後で、さあ、水ってこんな感触があって面白いね、と改めて向かい合っていきたいと思います。

水というのは固定されにくいので、ジョウロや色水遊びのように別の何か容器のようなものを介するか、雨や川や海のように自然にあるものを利用するか、あるいはコップや水筒や食事などの「飲む」という、もっと生活に密着したものもあるかもしれませんが、いずれにしてもを水を表現の媒体にはしにくいのですが、身体的なかかわり方の対象としての水を考えることは大事です。浮く、沈む、泳ぐという身体的な体験も領域健康としても、これから始まるわけですが。

それを造形や音楽や劇やダンスとは同じように扱えませんが、身体的な水遊びではしゃぐ姿を見ていると、領域環境では何か対象化されすぎているようにも思えてきます。色水遊びや絵本の楽しみ、水族館で見た生き物たちの水中での動きなどがつながっていくときに、子どもが自分の身体と水との間に何かしらのコミュニケーションがもっと起きていでしょうし、実際にすでに対話が繰り返されているだろうからです。

 

色々なことの「いつ頃から、どのように?」

2023/07/03

伝統的な行事と言っても、それには必ず歴史的な起源があるはずです。日本に根付いているものが、いつ頃どのようにできて、またどう変わってきたのか。はっきりしているものから不確かなものまで色々です。七夕はどうなのでしょう。なぜ「たなばた」というのか、についても諸説あるようです。その話はまたの機会にするとして。

さて、保育園にも笹に願いごとを書いた短冊が飾られています。昭和や大正のころの願い事は、機織りや習字が上手になりますように、といった生活上切実なものだったのでしょうが、今ではそういう願いとはいささか違いますね。

保育の活動としては、七夕飾りの製作や装飾を楽しんでいます。飾りは折り紙などを使って、色々な形になるのが面白いですね。四角い紙が、切れ目の入れ方はひねり方、糊でくっつける場所の違い、輪にしてつなげてみたり、「色とりどり」になっていく、できている中に「わあ、きれい」「こんなになったよ」が色々できて、そこには確かに「いいね」「きれいだね」ができていきます。

そういう美への感性が育つのは、どんな時なのだろう。ということを改めて考えてみると、考えれば考えるほど、結構、謎めいてきて大人にとっても面白いテーマです。確かに「それいいね」はあるので、それをを作っていくことが楽しいのですが、子どもにもその差がわかるとすると、いつ頃どのように芽生えてきて、どのどうに育っていくのでしょう。

私の世代は橋本治を読んだり、一つ上の(つまり10年上の)世代は吉本隆明の「言美」だったりしますが、どうして「美しい」がわかるのか、や何かにとっての美とはなにか、ということも、「いつ頃どのように」の経緯がありそうです。孔雀の羽が美しいのを、雌の孔雀がそう思うのなら、動物にも「それがある」ということなのでしょうから、さて、それは人間の「それ」と同じなのかしらん?などと考え出すと、果てしない美の冒険となっていくのでしょう。

運動の中の「美」を体験する

2023/06/28

今年で4年目を迎えるコンテンポラリーダンス。今年もその遊びが始まりました。子どもたちに指導してくださるのは、子どもたちが大好きな青木尚哉(あおき・なおや)さん、芝田和(しばた・いづみ)さん、木原萌花(きはら・ももか)さん。ダンスと言っても何か決まった振り付けがあって、それを覚えて上手に踊る、というものではなく、自分の身体を気持ちよく動かす回路を開いていくようなものです。乳児から幼児まで、全てのクラスで楽しみました。

乳児の子どもたちとは、まずダンサーの方々と親しくなることから始めます。いつもの歌を歌ったり音楽に合わせて体を動かしたり。普段の遊びを一緒に楽しみました。この人たち、誰だろう?という感じから、すぐに慣れていってくれました。にこにこさん(2歳児)たちとは、膝の上にのってヒコーキになって跳んだり、ペンギンになって歩いたり。わいらんすい(345歳)になると、バリエーションが増えます。

じゃんけんのぐーやパーの形(格好)を顔や手や足や全身で表す「グーパー体操」。相手とてのひらを重ね合わせる「やさしくタッチ」。それを歩いたり走ったりゴロゴロ転がったりしてやります。タッチの代わりに「ぎゅー」になったり、「高いたかい」になったりと触れ合い方は様々に変化。これらは自分の身体が人と触れるという、関わり方のバリエーションの広さに改めて気づくことになっていきます。

青木さんのダンスの面白さは、それが「よくなること」が、自分の身体と周りとの接触の仕方や度合い、距離感というものに敏感になっていくこと、その感覚の解像後が高くなっていくことが「よさ」なのです。その運動の代表が「ポイントワーク」という青木さんが開発したメソッドです。例えば「マネキンとデザイナー」は、片方がマネキン(人形)役になって、もう片方がデザイナー役になります。そしてデザイナーがマネキン役の体をゆっくり優しく動かすのです。

子どもたちは身体の骨の模型を見せてもらっており、体には骨があって、関節のところで動くことを学びます。それ以外のところは動かないことを体感します。音楽に合わせて1、2、3・・・と数えながら、デザイナーはマネキンの手や指や腕や胴や脚や踵などを動かしていくのです。10まで数えたら、つまり10回手や足や頭の少しずつ動かして、最終的には「いい感じ」の格好を作り上げます、そして、その格好をデザイナーも真似ます。

ダンスのためのオリジナルわらべうた「鬼さん鬼さん何するの?」は、円陣を組んで鬼が「これするの」と応えると、みんなもそれと同じ動きを真似します。輪になって並んでいるので、順番に「これするの」をやる番が回ってきます。どんな動きをしようかなあと考えながら、思い切って動いてみると、どんなものであっても、それが表現として受け止められていきます。即興的に考える創造力、それをみんなが真似する面白さ。その中に、格好やポーズのかっこよさや美しさが垣間見あられるのです。慣れてくると、早く自分のところに来ないかなあというようになっていくのがわかります。

鬼ごっこやわらべうたでも、体を動かしますが、その関連を調べてみると面白いことがいろいろ見つかります。例えば「わらべうた」を「遊び方」と「隊形」で整理されているものと比べると、青木さんとやっている運動と重なり合ったり、独立している領域が見つかったりします。

やっていることは違うことだと思っていても、身体の関節が動いている運動であること、それと同時に起きている身体「感覚」の体験は、重なり合っているのです。

その運動の起点となっている前後の動機やイメージなどは、移り変わっていくのですが、その連続性の中に「美」がいたるところに見出されるのが、ただの運動ではなく、アーティストであるダンサーの作り出す運動の楽しさです。何度も楽しんできたものなのに、今回の「マネキンとデザイナー」の動きの中に、主任はいたく感動していました。「青木さんたちがデザイナーをやると、違う。10カウント目の最後の動かし方で、ドキッとするくらいよくなる」と。それはきっと子どもに伝わっています。あんなふうに自分も「やる、やる」と、デザイナーやりたいという顔にそれを感じます。

さらに「なるほど」と思う感想を主任からもらいました。「これって、感覚統合からみると、とてもいい運動になっていると思う。そして主体性ということでは、マネキンの方がやらしてあげていて、デザイナーと対等じゃないか」と解説してくれました。自分の身体が教材や環境になっていく協同的活動としての遊び、とでもいうのでしょうか。

子どもにとっての風景や光景とは

2023/05/06

普段は考えないようなことを思い出しては、頭の中でパズルのように遊んでいられる時間があるというのは幸せだ。確かに言われてみると、保育でそういうことはあまり意識してこかなったと気づく。何かというと風景画です。

(写真は、5月20日に予定している親子遠足で、ちょっとだけ歩く隅田川テラスに掲げてある浮世絵の拡大図です)

塗り絵、自由画、人物画、そういうカテゴリーで子どもの「作品」を整理することはっても、子どもは風景や光景そのものを再現しないかもしれません。そこにある物にはもちろん興味はあっても。

それに似たことは、いろいろやるけれども、いわゆる大人が思うような(と言っても人それぞれでしょうけど)自然とそれを再現(リプレゼンテーションとしての、ですが)はしないと言っていいのかなあ。でもこんなことはやってました。

以前の八王子の園でのことですが、インスタントカメラで子どもが写真を撮って、展示するとか。その前は、ネイチャーゲームにハマっていた時にいろいろなゲームがあって、自然の中の美しいと思ったところに絵葉書大の額縁をかざして空間的に切り取るというのをやっていました。

千代田区に来てからは須田町二丁目の会長に頼んで、会長がオーナーのビルの11階に昇らせてもらい、そこから秋葉原絵周辺の光景を眺めたことがあります。園に戻ってくると、幼児は早速、室内に駅や線路を作り、新幹線を走らせて遊びはじめました。

下を散歩で歩いているだけでは見えない風景だからでしょう。園周辺を一望することで、あそこにこれがあったとか、こっちの道がどうとか、神社がこっちでこれはホテルとか、模造紙の上に建物の箱が並びました。散歩マップ作りにどう役立つかな、と思って楽しみでした。絵にした子がいたかどうかわかりません。

確かに風景画という切り口は、科学と同じでただの日常的な生活だけでは、子どもからは出てこないような気がします。虫眼鏡で見るのと同じように、この枠で見たらどう見える?的なものを置いておく必要があるかもしれません。

高尾山に子どもたち(年長)と卒園前の時期のお別れ遠足で登った時、広い場所に出ると子どもは走り始め、わ〜っと展望できる場所へ駆けていきました。高い場所に上りつめて、目の前がば〜っと開かれていく風景。その開放的な気持ちのいい感覚を子どもたちは山登りで味わいました。

そこで、もし子どもに写真を撮らせたとしても、きっと物を撮りたがるだろう。それを「風景として」は、撮れないだろうという気がします。そういう認識の枠組みをまだもっていないでしょう。そのフレームがどういう意味で必要なのかと考えると、別に枠組みの話ではないでしょうね。その枠に縛られない方がいいでしょうから。

どこに何をどう描くか、再現させるかは、その時の制約から生まれました。古代の洞窟壁画にしても、教会の祭壇画も、飾る部屋の大きさに合った人物画も、どこに飾るのか、大きさや形、画材などの制約を受けながら、おおむね成立していったと見ていいでしょう。

その展開の中で慣習的に今にも伝わっているのがキャンバスのサイズだったり、額縁舞台から始まった舞台空間やコンサートホールでしょうから、日本の能舞台は西洋とは全く違うし、画用紙がどうして四角なのかも、まあ、裁断機のサイズなどいろんな意味で落ち着くべきところに落ち着いていると見ていいのでしょう。新聞紙の大きさもそうでした。

ここにきてデジタル化です。その辺りもどうなるのでしょう。「書く」や「描く」という言い方では収まらなくなってくるのでしょうか。若い人たちはネットでの注文をポチるというように。

保育園の目の前を流れる神田川。その川にかかる和泉橋。散歩の時にそこを渡りながら、船を眺めたり、ゆりかもめが羽を休めているのを見たり。

そういえば、ちょっと意識してやってきたのは、風景に季節感を感じることです。春にはたんぽぽやハルジオン、ヒメジョオンを摘んできます。夏には朝顔や園舎の屋上のひまわりの黄色が見えるように、また同じ場所に秋にはコスモスが見えます、そして冬にはクリスマスの電飾がツリーをかたどります。子どもがいつも通る同じ場所から、季節の変化を感じてもらいたくて、そうしています。そうでもしないと、都市のビル街に自然や季節を感じるものが少ないからです。

それらを子どもが写真にとって、季節ごとの変化を「絵はがき」にして飾るという活動を子どもがやってみようと思います。そこから何か見え方が変わってくるかもしれません。

話は、そもそものことに戻りますが、子どもは心動かされたこと、印象深いことは再現したがります。「ねえねえ、あのね」と話してくれたり、絵にしたり、ごっこ遊びになったりします。いずれにしても、何らかの再現・再演・表象表現が起きて、表しやすい表現手段と結びつくと、その表象を目に見えるコトに変えていきます。

アイスクリームにもして、パン屋さんにしても、蕎麦屋さんにしても、お寿司屋さんにしても、実演があると子どもは食いつきます。そこを再現したがる。そこを面白いと思うのです。遊びの模倣というジャンルをひろ〜く捉えれば、遊びはそこに入ることがとても多いような気がします。なので幼児の自由遊びはごっこ遊びが多くなります。その表現のバリエーションに風景や光景などが入っていくための、心動かされる体験とは、どんなことなんでしょう。・・・

子どもたちと覗くと「見えた!」と喜ぶお月様の観測。スマホで撮った写真です。

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