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STEM保育・自然科学

ハエトリグサをめぐる学びの事例を考える

2021/09/02

話は昨日の続きです。これからの小学校以降の学びは「個別最適な学び」と「協働的な学び」が組み合わさった学習が期待されています。それを考えるための事例として、わいらんすいのブログに紹介されている「ハエトリグサ」をめぐる子ども二人の「知らせ合う姿」を考えてみましょう。

この図は、昨日お伝えした子どもの図の左側です。

左の「3段重ね」の一番上は「知識」、2段目は「スキル」、3段目は「態度と価値」となっています。

これが混ざり合って(より合わさって、ねじり合わさりながら)「コンピテンシー」が形成されていくことを表しています。コンピテンシーとは、ほぼ「能力」「力」のことです。

ここで注目してもらいたいのは、「態度」には個人的な態度の他に、協力的な態度が含まれていることでしょう。実物の「ハエトリグサ」、図鑑、それに詳しい友達、気心の知れた仲間、そして先生の存在。これらが「より合わさって、ねりじ合わさりながら」興味の対象が広がったり、調べる方法の知識やスキルを深めたりしているようです。

また「え〜っと」と考える姿も見られますが、子どもは何かに気づいたり、感じたりしたとき、大人のように頭の中だけで考えることはできません。手で触ったり、動かしたり、「ああかな、こうかな」を試します。試行錯誤です。小さいうちは「探索活動」というと、わかってもらえるでしょうか。

これはとても強い衝動で、これを押し留めようとすると、子どもから強い抵抗にあうことでしょう。子どもの興味や関心の最初の表れは、何かに気づいたとき、試行錯誤が引き起こされるのです。手足を使って「試すこと」と「考える」ことが混ざり合っています。

現行の保育所保育指針では、少し要約すると、知識は「豊かな体験を通じて、気づいたり」であり、思考力は「気づいたことを使い、考えたり、試したり、工夫したり」することだと説明されています。

この姿と子ども同士のやりとりも重なることで、子どもたちの姿は複雑に見えるのですが、さらに難しくさせるのは、子ども同士の関係のスキル(我慢したり、譲り合ったり、順番を待てたり、言葉で伝え合ったり・・)もそこで育ちます。

ちなみに、このような姿を捉えて遊びを発展させていくためには、一人の先生が2〜3人ぐらいの少人数の子どもを相手に、じっくりと見守ったり発展させたりする人的環境がどうしても必要です。

特にいざこざを通じて社会的スキルを育てる機会までその場に持ち込むと、学びの場は混乱してしまいます。社会的スキルが未熟な状態の何人もの子どもたちの中に、風船を投げ渡して自由にさせると、みんなが我先に「試行錯誤」を始めてしまい、ただパン!と割れて終わってしまうでしょう。

そのような子ども集団の理解に伴う学びの保障は、経験豊かな保育士がいなければ難しいということになります。単純に子どもの主体性を尊重するからといって、ただ興味をひく教材を与えるだけでは、混乱を生んで熱中できる遊び(つまり学び)にならないこともあります。子どもの状態と教材の間で起きることを見通しながら、子どもの環境(教材)の再構成は作られていく必要があるのです。

ハエトリグサをめぐる二人の学びは、そうした条件を満たしていたのかもしれません。

 

咲いた朝顔の花

2021/08/12

子どもたちが種から育てた「朝顔」が玄関で咲きました。

先生に抱っこしてもらって、花の中を覗き込むと・・・

「オシベみたいなのが、4つあった」「キラキラしてた」

すいすい(年長)ともなると、雄蕊って言葉を知っているんですね。

ほんとに綺麗でした。

春に植えた稲も穂が実っています。

玄関周りの緑には、すいすいの子たちが、毎日のように水やりを続けてきました。

 

お手伝いが大好きなすいすい組のお世話のおかげで、さいた朝顔。

いろいろなことを伝え合い、話し合う姿が頼もしいすいすい組の子どもたち。

最近のすいすいさんの成長ぶりを表しているかのようです。

不思議なハンターがやってきた!

2021/08/10

年長のNKくんが上野の国立科学博物館で開催中の「特別展 植物ー地球を支える仲間たち」で見つけたらしく、ハエトリグサを持ってきてくれました。

パカっと開いた歯のある葉が、中に虫が入ると、一瞬のうちに閉じて捕まえるという、植物ハンターです。こういうの、子どもにはタマリマセン。私も小さい頃、アリを中に落として、閉まるかどうかやったことがありますが、あれ、なかなか閉まらないんです。

調べてみると、葉の口の中には、感覚毛が生えていて、2回ないしは2箇所以上触れないと閉まらないようになっているらしい。雨の雫や枯葉など、生き物ではないもの、消化でいないものが偶然入っても閉まらないようにできていると言うから、面白い。植物が虫を食べるという、動物が草を食べるなら分かるけど、草木が昆虫を食べちゃうんだから、それだけでも不思議な生態ですよね。北アメリカで発生したのは6500万年前となっているので、ユカタン半島に巨大隕石が落下して、恐竜が絶滅した頃になります。ちゃんと花も咲き、種もつけます。

カブトムシを手に乗せて

2021/07/02

6月下旬に土から出てきたカブトムシですが、わいらんすい(3〜5歳)の観察技術が向上しています。「手についている汚れがついちゃダメだから、手袋してからだよ」とか「引っ張ると痛いから棒に乗せてあげるんだよ」などと、教えてくれます。どの子も触りたくてしょうがないようで、手のひらに乗せて「ほら、見て」と嬉しそうです。

雄のツノの部分を摘んで、持っているときは自慢気です。じっとしていたり、のそのそ動き出したり、カブトムシの動きをじっと見つめながら、その感触を確かめています。棒の端まで来て、少し羽を広げようとすると、「あ、飛んじゃう」「逃げちゃうよ」「大丈夫だよ」「ダメだよ、飛んじゃう、飛んじゃう」「大丈夫だって、こっちに入れて」と、興奮する時もあるのですが、それもカブトムシへの愛着からでしょう。

こうして子どもたちは、カブトムシについて詳しくなっていきます。からだの表面に生毛のようなものがうっすらと生えていることや、足にトゲトゲがあって、それで「痛い」ってなることや、しがみついている時に無理にとろうとすると、引っかかって取れないこととか、色々なことを感じたり、気づいたり、試したりしています。棒から手にうつそうとしているのですが、なかなか思うようにいきません。上に登っていくので、棒の先に棒を継ぎ足してうつさせることに気づいている子もいました。知識を使って工夫しています。その過程で思考力が育まれているのです。

優しく手に乗せて、じっとしているカブトムシをまるでペットでも飼っているかのように、うっとりしている女子もいます。虫をとりたい、観たい、育てたい、触りたい、という関わりから、愛でたい、育てたい、大切にしたい・・と子どもたちの心も成長しているのですね。どうやったらいいのか、自分軸からカブトムシ軸へと関わり方が変化しています。よりよい生活を営もうとする学びに向かう力や人間性の育ちがみられます。こんな「生き物」との触れ合いを通して、いたわったり、大切にしたりする気持ちも育っているようです。

 

アゲハ蝶の誕生

2021/06/10

毎日、いろんなことがおきますが、やはり今日10日(木)の最大のトピックスは、アゲハの誕生でしょう。そして夕方には大空に旅たりました。その時々の子どもの言葉に胸を打たれるでした。

朝6時30分。蛹から蝶へ。動画撮影をねらっていたのですが、予定よりも二日早い成虫変化でした。

朝9時ごろ。観察コーナーは子どもたちが興奮状態に。

夕方、屋上で蝶を放す。子どもたちが丸い輪を作って、はなむけの言葉。なんと、幸せそうな顔でしょう!

「また卵をたくさん産んでね」

 

生き物の不思議

2021/06/07

アリの巣をじっくり観察している子どもたちは、いろいろな気づきを教えてくれます。

自分の体よりも大きな石をくわえて運んでいる様子を「ほら、みて。あごでこんなに強いんだよ」と。

そのアゴをどうにかしてよく見ようとして、拡大鏡を当てて、覗き込んでいます。

また、アゲハ蝶になるのを楽しみ待っている子は「もうすぐかなあ」と、聞くのであと1週間ぐらいかな?と話しています。

私も同じようによく見たいものが見つかって、スマホのカメラを拡大鏡の代わりにして探しました。神宮司さんに教えてもらったのですが、玄関の稲の水の中に「ホウネンエビ」がいました。

小さな小さなビオロープができていたのです。卵が土の中にいたのでしょう。稲を植えた水の中が、居心地のいい場所になっているようです。

 

はらぺこあおむしがサナギに

2021/05/31

今朝、運動遊びをしようと3階へ昇ると、それどころじゃない、という雰囲気です。生き物の観察棚の前に子どもたちの人だかりができていて、Sくんが「Tくん、園長先生が来たよ」とTHくんに声をかけています。「なに、どうしたのの?」というとSくんが「蛹になった」といって指を差し、Hさんが虫かごを持ち上げて見せてくれました。

あのウンチのようにしか見えなかったアゲハ蝶の幼虫が綺麗な青虫になった(5月19日)ところまで、お伝えしていましたが、それがいよいよ蛹になったのです。これで、大騒ぎできる子どもたちの、なんと素晴らしいことでしょう!

アゲハの変態に詳しくないと、気づけないような変化です。それが証拠に、私がつい「はらぺこあおむしになるんだね」と、いうとHさんに訂正されました、そうじゃないと。「ちょうちょになるんだよ、園長先生」と。そうです。蛹になったら次は蝶でした。はらぺこあおむしが、蛹になったんですから。

感触体験の意味

2021/05/19

ぐんぐん組の食用素材での「粘土」との出合い、楽しかったみたいですね。

最初は、おっかなびっくりといった感じです。

でもそのうちに、ストローを介して、ちょっとずつ近寄っていっている姿がいいですね。この接近の仕方がとっても大切で、「自ら」ものへ関わっていくプロセスをちゃんと大事にしていることになります。何事も、このプロセスに発達があるからです。

最後は手についている感触まで楽しんだようです。

さて、この「感触」ですが、粘土に限らず、水や砂や土や、あるいは手掴み食べの時の食べ物まで、いろんな時に子どもは「感触」の違いを確かめています。その経験が、素材に違いに対する向き合い方(姿勢=態度)を育んでいきます。その中には、手先の柔軟な使い方や、巧緻性の発達にも寄与するのですが、面白ことに、感触体験は、「心地よさ」という内面の体験になっているのです。

今日も、カブトムシの幼虫を観察している子どもたちが「触ってみたい!」といっていました。でもカブトムシの幼虫は触ると手にある病原体をうつしてしまうリスクがあるので、あまりさせるわけにはいかないのですが、手袋の上からでも手のひらに乗せてあげると、そのずっしりとした重さを感じることができます。

ところで、感触体験というのは、幼児教育ではどんな位置付けになっているのでしょうか?

ものの性質や特性の違いを楽しむというのは教育の領域「環境」の中にあるのですが、これはSETM保育の科学やエンジニアリングやアートの基礎体験を作り出します。「これって、どんなものなんだろう?」「もっと知りたい」という気持ちが、触りたい!という意欲になります。

乳児の場合は、保育所保育指針の3つの関わりの視点になります。

その中に、「身近なものと関わり感性が育つ」(精神的発達)という、関わりの視点があります。このような感触遊びは、ここの視点で見ることになるのですが、実は昨日までのこのブログで説明してきたように、子どもの方から一方的にものへ関わっているのではなく、双方向の「やりとり」が生じています。

この粘土の場合も、その素材の方から、ぐにゅっと形が変わること、穴が開くこと、ベタベタしていることなど、実にいろいろな性質や特性を「もの」の方が子どもに教えてくれているのです。

少し深入りすると、指針の説明の仕方では、子どもに「表現する力」が独立してあるかのように読めてしまう限界があるのですが、これは文学的レトリックの差異ではありません。ものへの(しいては世界への)迫り方という、生き方の根本に関わる差異なのです。

さらに人間存在をどう捉えるかという次元の「ものの見方」でもあります。子どもの方にだけ「表現する力」を無条件に想定して、この子は表現力があるだとか、無いだとかいう話にならないようにしたいものです。全くそんなものではありません。

 

 

アゲハの劇的な変化

2021/05/19

今日は感動的な事件が起きました。園のみかんの木で見つけた幼虫が、あおむしに変身したのです。朝はまだ茶色いフンのような姿だったそうですが、午後のお昼寝の頃には、鮮やかな緑色に変化していました。内線で教えてもらい、私は早速3階へ上がると、その変化を子どもたちが見逃すはずもなく、午睡の時間に起きている年長のすいすいさんたちを中心に、熱心な観察が続いていました。

何人もの幼児クラスの子どもたちが、よく見ようとして懐中電灯を当てて眺めています。しばらく見ていたすいすい組のYHさんは「やっぱり、これ死んだふりしている」と言います。繰り返し「園長先生、これ死んだふり」と笑って、そう言います。私が「怖がっているんじゃないのかな。カゴを揺すられて動くから」というと、「だってずっと動かないんだもん、死んだふり」と笑顔で楽しそうに言うのです。

その時、そうか、と気づいたのです。YHさんはその時、虫になっているのです。虫になってみたら、ずっと動かないのは「死んだふりをしているから」ということがわかったのです。虫の方が教えてくれたのであってYHさんが勝手に想像しているとはちょっと違うのです。この対象から語りかけてくるような「世界の開示」は、これまで子どもが模倣する「ごっこ」とは違います。YHさんが死んだふりをしているのではなく、ちょうが死んだふりをしているというのですから。自分が一旦ちょう(幼虫)の立場になって、そのちょうが「死んだふり」をしているという、2重性があります。

このようなことは、対象への心配りがあってこそ生じるのではないでしょうか。蝶への関心の深さがあってこその共感に基づく対象との対話です。これは大人の例で言うと、世界の真実や神の声を聞いた聖人の言葉や、世界の真善美を描いた画家、あるいは漢字の成り立ちを甲骨文字をなぞり続けて解明した白川静と同じアプローチに思えます。物事の学ぶプロセスにこのような、対象のものに「なってみる」という学び方があるとすると、何かを「感じ、気づき、わかり、できる」という分かり方とは違うものを感じるのですが、どうでしょうか。

見ている幼虫が、あの「はらぺこあおむし」であることを、子どもたちはみんな知っていることを付け加えておきましょう。茶色いうんちのような姿の幼虫と、綺麗な黄緑色のそれとは、子どもの共感力が違うだろうことも確かだからです。

 

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