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2022年 12月

身をもって実感したVUCAだったこの1年

2022/12/31

令和4年は皆さんにとってどんな1年だったでしょうか? 子どものこと、家族のこと、仕事のこと、社会のこと、いろんなことの中で、生活の節目になるような大きな出来事もあったことでしょうね。私は家族の中で大きな出来事がありました。仕事と並行して新しい活動も始めました。社会はその変化を対処することが複雑で困難なるばかりで、時代は大きな変化の只中にあります。近年、次々と新しいタイプの学校創設がニュースになり、それが求められている原因や背景を考えることが増えました。そこにも市民意識の変化を感じます。

その中で保育園での生活を振り返ると、はやりコロナ禍の影響はズシーンと、とボディブローのように色々なダメージを与えたことを恨みます。2月からのコロナ第6波の中で新年度から始めた「医療的ケア」が夏の7波によって突然に集結してしまったことや、一見すると淡々と進んでいるように見えながら、職員の肉体的、精神的な疲労感の蓄積は相当のものがありました。それが、数ある要因の一つとして、年末の保育園の問題として噴き出てきたようにも感じるのは、それほど的外れとも思えません。

一方で子どものことがやはり心配です。自殺、虐待、貧困、いじめ、障がい、精神的な病い、ヤングケアラー、ケアリーバーなどについての解決への道筋は依然として見えにくく、家庭と同時に生活の場でもある児童福祉施設や学校などの子どもが集う場のあり方というものが、新しい視点で検証されているように感じた年でした。

この傾向は続いてしまうのでしょうか。もし、その動きが波の比喩で例えていいものなら、きっとその振幅は大きくなることはあっても、収束することはないのかもしれません。それは鎮めなければなりません。あるいはアハ体験の映像のように、気づかないうちに「こんなに変化していた」と後でわかるようなものになっている可能性もあります。1年の中でも3ヶ月先や半年先を正確に見通したものは誰もいなかったように。ウイルス感染症、プーチンの戦争、安倍首相の暗殺、物価高騰、急激な円安・・・本当にVUCAの時代にいるのだと思う1年でした。

 

神話の力

2022/12/30

この年末年始は、現代の結婚式や成人式が、それよりも遥かに長くあった人類の「伝統的社会の通過儀礼」から、どこれくらい離れてしまっているのか、個人の自由を支援することが教育で可能なことなのか、そんなことを「千の顔をもつ英雄」のジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」から学び直すことにしました。この本は、ジャーナリストのビル・モイヤーズのインタビューからなっているもので、随分前にテレビ放送で見たのですが、その時の衝撃と面白さを思い出し、改めて本で読み直すことにしたのです。

きっかけは、ある人の言葉からです。「理解すると言うことは、思い出したと言いかえることができるかもと感じています」。そうだった、私たちの精神の奥底に、無意識や集団的意識を発見した経緯の中には、あの豊穣な神話的世界を、私たちの先祖は生きてきた歴史があったんだった、と。

神話と聞くと「3歳児神話」のように「誤った信念」という意味で使われることが多いかもしれません。しかしキャンベルの話を聞くと(これは対談なので)、それが全くそんなことはないことがよくわかります。いかに現代社会が、神話が伝えるようなあり方に比べて、人間の社会と精神の関係が、薄っぺらいものなってしまっているのかに気づかされます。また多くの今の現実がそうなっている、ということからの普遍性探求では足りないアプローチを、キャンベル流の「神話学の見方・考え方」から学ぶこともできます。ちょっとだけ、現代人の思考とキャンベルの思考の違いがよく表れている箇所の一端を紹介します。まえがき29ページから。

彼がやってきた探究について、自身がこう語っています。

「世界の神話に共通した要素を発見し、人間心理の奥底には絶えず中心に近づきたい、つまり、深い原理に近づきたいという要求があることを指摘することだ」。

モイヤーズがたずねます。「人生の意味の探究が必要だということですね」と。するとキャンベルが答えます。

「そうじゃない。生きているという経験を求めることだ」

また人生の苦悩について語る箇所では、「あらゆる苦しみや悩みの隠れた原因は、生命の有限性であり、それが人生の最も基礎的な条件なのだ。もし人生を正しく受け入れようと思うなら、その事実を否定することはできない」と述べた上で、私たちの信仰や信念の中に、神話が語るエネルギーが生きているのだという。そしてそのエネルギーを儀式が呼び覚ます。・・・

この本の要約を試みることなど不可能なのですが、私の拙い散文的な要約表現で我慢してもらえるなら、神話に触れることは、どういうことかというと、そこで語れている内容を、私たちが慣れ親しんでいる現代的な、いわば冷めた観点から、頭で理解することいったことではなく、まるで、美しい絵や音楽に心動かされるように、私たちが生き直す、とでも言っていいような経験になっていくことなのです。

ああ、こういう体験の一つが、イニシエーションになっていくようなものとして儀式があるのだ、ということに納得できるのです。そして気づきます。なんと現代の式典が形式的でつまらないか。卒業や卒園の儀式はどうあるべきか。もし子どもが大人になっていく過程に必要な、ある種類の生命エネルギーの再生がモチーフでありたいのなら、一体、何を祝って歌い踊ることなのか。

 

 

最近の私の探究テーマ

2022/12/29

最近、もっと深く考えないといけないな、と思っている分野があります。それは次のような事柄なのですが、とてもよく聞くようになったので、否応なく考えることが増えました。それは要約するとこんな感じです。

「最上位の目的」を明確にすれば、その実現のための「適切な手段」が見つかることが多い。学校教育では、最上位の目的に合意できていないから、手段が目的化されてしまうようなことが起きている、そこを改善しなければならない。また、その教育哲学からは、人生の目的を「自分が生きたいように自由に生きること」とするなら、依存を含めた個人の「自立・自律」が上位目的となってくるだろう。だから「個別最適な学び」や「主体的・対話的な深い学び」のこととも親和的である。一方で社会に目を向ければ、それぞれが自由に生きたいのだから、それはお互いに認め合う関係として「持続可能性」と「格差のない共生社会」の実現が、上位の目的になるだろう。そして先の「自由の相互承認」が大切になり、手段としての民主主義を身につけておく必要がある。

こういった論旨で語られていることが目につくようになってきた気がします。これらの議論は整合性のある、わかりやすいものだと思います。それだけに、説得力があり、色々なことが包摂されているように思えます。だからこそ、異論を聞いてみたいし、反論もあるだろう。最近の私の探究のテーマです。

デンマークのフォルケホイスコーレ

2022/12/28

デンマークの国民は幸せ。OECDの調査で有名になったこのイメージ。どうしてそうなんだろう? そうずっと思っていたら今日28日、早稲田大学文学学術院教授の山西優二先生から、デンマークの国民学校「フォルケホイスコーレ」の話を伺い、もしかすると、こういうことも関係あるかもしれないと、思いました。とても面白いです。学校教育を終えた国民の9割以上が体験するのだそうです。詳しくは、以下のホームページからどうぞ。

フォルケホイスコーレとは

学校や学びを考えるときに、日本だけでなく、世界にも目を向けたり、また過去の歴史や将来の学校のあり方を想像することも、とても大事なことだと思います。私たちは目の前のこと、また自分が受けた教育の体験に強く縛られているので、それをどこかで一旦、柔らかくして、自分と世界を見つめる機会を作ることは有意義だと思えます。そんなことを、来たる1月15日のに私たち「東京に新しい学校をつく会」が主催するイベント「みんなで考える“新しい学校”vol 1」で、語ってもらうことになりました。

20230115 新しい学校VOL1

山西さんは、自分と世界を見つめる機会として、「15歳のギャップ・イヤー」をすすめます。高校から大学へ進学するときのそれでは、ちょっと遅い。中高がつながることで、高校3年間がもったいない。あの時期は大学の方に近づけてあげて、中学が終わったら、一旦、人生の探究の機会を作るために、国内でも世界で旅に出たり、知らない世界に触れて、出会って体験してみる方がいいんですよ、とおっしゃいます。ご自身がそうされた体験もとても面白くて、聞き入ってしまいました。

「人生のどんな場面においても、自分を見つけ出すために人々が向かう場所がフォルケホイスコーレなのです。」

この考え方は、これからの学校の在り方の参考にしたいと思っています。

「保育士礼賛」藤原辰史さん

2022/12/27

日経新聞に「保育士礼賛」というタイトルで、歴史学者の藤原辰史さんが、次のような文章を寄せていました。まったく同感です。嬉しくて涙が出そうです。ですから、多くの方に読んでもらいたいので、内容を紹介させてもらいます。このような眼差しを、たまには、でもいいので保育園に向けていただきたい。

・・・・・・・・・・・・・・

ここ5年くらい、保育士との交流が増えた。講演会に招かれたり、保育園に伺って悩みに耳を傾けたり、驚くほど美味(おい)しい給食やおやつをいただいたり、子どもたちと遊んだりしている。

「給食の歴史」を執筆中に保育園の栄養士にインタビューしたり、「分解の哲学」という哲学書で、未就学児の教育施設を創設し積み木を開発したフレーベルを論じたりしたこともあり、「保育」は私の研究の中でも欠かせないテーマである。カントやドゥルーズを読むのと同じように、私は保育士の言葉と表情を読み、自分の思考を鍛えてきた。

先日、京都山科にある西野山保育園を訪れた。私の研究のためだ。やはり保育士の仕事は難しい。「保育なんて誰でもできる」という人もいるらしいが、片腹痛い。そんな人にはぜひ保育園を訪れ、エプロンを着て保育の仕事を体験してほしい。

園庭の子どもたちは思い思いに遊んでいる。不確実な動きに目が回りそうだ。数十人の子どもをわずか2人の先生がカバーする。サッカーで言うならば「ゾーンディフェンス」か。いや、そんな甘っちょろいものではない。味方ディフェンスの数は相手チームのフォワードの数に比べて圧倒的に少ないのだ。

ふと気づくと、隣の保育士はすっくと立ってある方向へと歩いていく。私は全く気づかなかったが、今にも泣きそうな子どもがその場に駆けてきた。保育士は寄り添って話を聞き、解決の糸口を探った。ミッドフィルダーの鋭いパスの先にフォワードが走りこんでくるようだ。その子をケアし終わるや否や、園庭のかたち、子どもの大きさや性格などを私に解説する。起こりそうな事故を未然に防いでいるのだが、その様子を微塵(みじん)も園児に見せない。園児が自由に失敗できるように、過剰な介入も回避する。

乳児の部屋の仕事もプロフェッショナルとしか言いようがない。手、足、目、耳は、それぞれ別の子どもたちに向けられている。ぐずる子どもをあやしながら、隣の子どものご飯をチェックし、訪れた私に笑顔で挨拶をする。保育士たちの身体はどうなっているのか。手に目があり、足に耳があるのか。全身の感覚が研ぎ澄まされている。

保育士たちのハスキーボイスは美しく、遠くまで響き聞きやすいが、威圧感がまるでない。調理室も忙しさを感じさせず、テキパキとなれた手つきで料理をし、様子を見にきた園児たちの鼻腔(びくう)をくすぐっている。絵や写真の添付された手書きの日誌は芸術品だ。給食室や部屋に貼られていて、保護者たちがその日の子どもたちの様子を温かい気持ちで知ることができる。

子どもの教育やケアに予算を出し渋るこの国では、園児の数に対し保育士の数はかなり少ないし、評価が著しく低い。西野山保育園の保育士の口から、ロボットで保育仕事が代替できると勘違いしている開発者たちのことを聞いた。いったい保育士の仕事をなんだと思っているのだろう。保育士たちは能力を向上するために夜も勉強会を重ねる。休日の一部を使って集会を開き、歌って踊って演奏して自分たちを高め合う。保育士のハスキーな歌声を聞いていると胸が熱くなる。あれほどの高度な仕事を支えているのは、保育士たちのあくなき探究心と誇りにほかならない。それに私たちが甘える時代はいい加減に終わりにしたい。

 

保育園の「構造的な質」について

2022/12/26

年内最後の週、と言ってもあと3日。今月は保育園のことが毎日のように報道されて、なんだか肩みの狭い思いを感じる年末になってしまいました。このテーマは法律違反の犯罪レベルから保育の不適切な対応まで、問題をちゃんと整理して対策が講じられるべきでしょう。行政からは「通報制度」が確立されているか、また職員のメンタルヘルスへのケア体制がとられているかという調査が来たので、確立していると答えました。また職員の休憩やノンコンタクトタイムの実施状況などの視察も受けました。さて、これからどんな保育園へ支援制度ができてくるのか、期待しています。

これらの問題をもう少し大局的に眺めてみると、長い間放置されてきた制度の歪みが吹き出しているようにも感じます。乳幼児の保育が長時間になっても、それに見合った保育士の配置基準は何も変わっていません。すぐにでも改善してほしいのは、最低基準では保育ができないので、実際に多く配置している職員分の補助金を正規職員換算で出してほしいことです。それを上回っている保育士を配置する園に対しては、それに見合った運営費を出してもらいたいものです。細かい話かもしれませんが、運営費(補助金)の計算は、小数点以下が四捨五入です。小学校の30人学級の基準は切り上げです。この差はとても大きいのです。

保育園では4歳5歳は合わせて30対1です。幼児30人を一人の保育者(教諭・保育士・保育教諭)でみます。ですから、もし4歳児クラス15人、5歳児クラスが15人いても、それぞれ一人をつけますよね。でも補助金は、2クラス合わせて30対1で計算、しかも、小数点以下を四捨五入ですから、ピッタリ一人分しか来ません。二人いる先生に対して運営費は一人分しか来ないのです。

(当園の場合は、4歳10人、5歳10人に一人ずつ担任がいますよね。でも合わせて20人なのに、最低基準は合わせて30対1ですから、運営費は07人分しか来ないのです。)

さらに、もう一人増えた場合を小学校と比較してみましょうか。すると、その格差がもっとはっきりします。

4歳と5歳を合わせて31人ですから 、これを30で割ると「1.0333・・」となりますね。保育園の場合、補助金はほぼ1人分しか来ません。私たち保育園は、4〜5歳が30対1です、と言うと「ああ、小学校1年生の30人学級と同じですね」と言われることがあります。とんでもありません。学校の場合はいわば「切り上げ」ですから、31人になったら15人のクラスと16人のクラスの2クラス、つまり教諭は2人になります。そして、公立ならその職員2人は公務員ですから、そのような運営費の計算などしなくても済むのです。そもそも経費(人件費)の出どころが違うからです。

こういうのが些細なこと、トリビアなことと言えるでしょうか? 保育園では人件費が経常支出の8割近くになります。公立はそのような計算そのものがありません。もし計算したら、ほとんどが人件費でしょう。公設民営にした流れを作った要因は、自治体の経費削減でしたから、民間に任せた方が、保育運営費が安く済むからです。根本的な国と自治体の姿勢が生み出している構造の質にもっと目を向けてもらいたいものです。

「これ、あげる」・・どうして?

2022/12/25

「先生、これあげる」と言って、自分で折った折り紙などを、私に上げようとする時があります。私はその意図がわからないときに「どうして?」って聞くことがあるのですが、はっきりしないことがあります。人に何かをあげる、ということを子どもは気軽にやる時があります。どうして、子どもは「これ、あげる」ということをし出すのでしょう? 何かをあげると「ありがとう」って言われることが多いので、嬉しい、という体験をしているからなのでしょうか。

1歳前後の三項関係が成立していく頃から、自分と人との間に物が入って「はい(どうぞ)」「ありがとう」といったやりとりを楽しむことが増えていきますが、その後、かなり経った3歳4歳ぐらいの子どものことなので、それとは別にどんな意味があるのだろうと考えてみるときがあります。別に気に留めるほどのこともないのかもしれませんが。

保育でよく語れるのは「やってもらった嬉しい経験から他人にもやってあげるようになる」といった言い方をよく耳にします。本当にそうなのでしょうか? そうはなっていない現実もある時に、何がその差を産んでいるのでしょうか。大人になると、他人に何かをあげる、プレゼントをするということは、そう簡単にはできなくなります。必ず、どうしてか、という意味を伴わないと、気軽にものをあげたり、もらったりすることはできません。誕生会やクリスマスイベント、お年玉のように、こういう時ならそれを気しないでやっていいという状況を作り上げてきたというように解釈できます。

その民俗学的な考察はとても面白いのですが、それはともかく、子どもの「これ、あげる」の行動にあるものは、ものを介した人との関わりの一つに違いありません。それが「交換」になっていく様相のなかに、協同性の方から自立心に影響を与えている要素を見出すこともできそうだと思えます。

考えてみれば、伝統的社会の獲物や採集物の分け方(採ってきたきた者の手柄にしない知恵など)、貨幣的なものの成立の条件、経済での商品と市場の関係、マーケットの公平性や政治の贈収賄事件など、至る所に人や権力とのかかわりの中に、「物」の介在したバリエーションが見出されます。

国家の成立と現代社会のグローバリゼーションまで、文化文明を「贈与や交換」で語ることができるからです。その中には必ず道徳やモラル、タブー、汚れたものを生贄にして純化を果たす動向などがあって、その起源としての人間性の中に、その生得的な性質も探られています。

その中から、主に保育にとどいてくる知見は、なぜ人は協力するのか、とか、なぜ教えあったり、分かち合ったりするのか、ということを調べているものがいろいろあります。交換することで私たちの経済が成り立っているように、人類史にも黒曜石だったり、塩だったり、貝殻だったり、ゴールドだったりが今の「お金」と同じ役割を果たした人類の歴史があるそうで、私の関心は子どもの利他性の発達との関係になったりします。

話はまたサンタクロースからもらうプレゼントのことにもどってしまうのですが、こんなに物質的に豊かになった現代社会の中では、聖ニコラウスの時代とは違う意味を見出しておく必要があるでしょう。まず、子どもが喜んでいるのは、それが欲しかったものだからです。日頃から叶えたかった願いをサンタが叶えてくれた、という喜びを子どもは嬉しがっているのでしょう。だとしたら、「はい、これあげる」と意味もなく差し出される折り紙をもらうときに、どうしてくれるの?という反応をすることで、なんでもあげれば喜んでもらえるとは限らない、ということを体験していくことにもなるのでしょう。そういう心情の機微はもっといろいろあるでしょう。

もう一つは、祝祭と園行事の関係です。社会自体が伝統的な文化を失っていっているように見える中で、子どもに体験させたいことはどういうことなのか、その再吟味です。そこに作用していることを、丁寧に取り出してみて初めて気づくことがあるので、その取り出し方も研究してみる必要がありそうです。人が「気づく」ことからしか、物事が見出せないとしたら、その気づきを生むような作業とはどんな営みなのか、ということです。質的研究の手法にヒントがありそうです。

 

サンタクロースをめぐる考察

2022/12/24

信頼している方の感想や意見というものは、本当にハッとさせれます。実に恥ずかしい思いを感じながら、自らの考えの浅さというものを感じてしまいます。さて、どうするか? 以下は昨晩からの、私なりの考察です。

信頼している専門家の方の意見とは、次のものです。大事なことなので、この感想はたくさんの人が共有した方がいいでしょう。

「大人がいたいけない子どもをよってたかって騙す日が無事に終わりましたか? 日本いや世界の道徳はどうなっているのだ。嘆かわしい限り。ちなみに、この風習が広まったのは19世紀あたりだと物の本にあるが(それ以前はローカルなもの)、さらに全世界に広げたのはネズミがボスの連中だという。新自由主義の陰謀だね。」
なんのことかは、わかりますよね。クリスマスのサンタのプレゼントのことです。そうか、ちゃんと考えよう、と思ったわけです。そこで、ポイントを絞るとサンタクロースがプレゼントを渡すという話そのものは多めにみていいのでしょう。
問題はそれを「昔話」か何かにしておけばいいものを、大の「大人が子どもをよってたかって騙す日」になってしまっているあり方、現実の風習の方でしょう。当園のクリスマスの行事の持ち方もそうですね。それはどうなの?ということのようです。

サンタの話そのものは、まあ多めにみていいんだろうと判断したのは、たとえばノーベルト・ランダの絵本「ねずみのフィリップ ぼくがサンタクロースだったらね」を訳しているのが小澤俊夫さんなので、サンタクロースの話そのものが、児童文化財として、ふさわしくないということではないのでしょう。

この絵本を読んだ方の感想を紹介すると、「クリスマスの本は、沢山ありますが、子どもたちがプレゼントを届けてくれるサンタクロースを心待ちにするようなストーリーが多い中で、この本は、逆の立場...もし、自分がサンタクロースだったらという発想の転換が素敵です。そうか!自分がサンタクロースだったらその立場も本当にわくわくするものだと気付かせてくれました!」と書かれています。

ですから、問われているのは、主としてそこではないのでしょう。商業主義的なことが本来の文化や伝承などを捻じ曲げてしまうというのはよくある話で、ハロウィーンやらバレンタインデーやらは、それがわかりやすいのかもしれません。

でも、子どもにサンタクロースって本当にいるの?(と聞かれることは実はあまりないのですが、いると信じさせているからでしょう)と、もし子どもに聞かれたら、みなさんはどう返事しますか。それを学生に調査したものがありました。C短期大学保育学科1年生110人(男性14女性96人 18歳〜23歳)によると、「いるよ」などと実在肯定する学生は5歳相手なら6割、12歳相手なら4割いました。結構な数の大人が「嘘をつく」ことを許容していることになります。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202937272832

面白いのは、調査の学生も歳をとればサンタの実在は信じなくなるのですが、信じなくなっていった年齢と子どもに期待する年齢が同じぐらいだったことです。その調査は「自らのサンタクロース体験と重ね合わせるように、自分と同様か、それ以上の道筋を子どもにも味わせたいと考えている」と分析しています。この学生の感覚は、わかる気がします。せっかく信じている「夢」を壊したくないと思うのです。私もそう思ってしまいます。

さて、ここから私たちの知恵が発揮されなければならない話になってくるのでしょう。過剰にその夢を膨らませてしまうことや、プレゼントの日にしてしまうことは趣旨が違ってくるでしょうし。また親御さんがせっかくサンタの用意をしているのに、保育園がその試みに水を差すわけにもいきません。社会全体でそっと、落ち着いていくようなことを考えてみることがいいのでしょうか。さて、みなさんは、どうしたらいいと思いますか。

当園は毎年、新しい遊具を追加購入するタイミングなので、サンタクロースに持ってきてもらい、また親子で楽しんでもらえる手作り遊具をプレゼントしてきたわけですが、子どもにそれが届くための条件を求めることは一切ありませんでした。さてこのテーマ、視野を広げて認識を深めておきたいトピックスです。

 

やってきたサンタクロース

2022/12/23

「朝こなかったね」「寝坊して遅れてるんじゃない」「あ、わかった。プレゼントを持ってくるのを忘れて、取りに帰ってるんだ!」・・お昼ご飯を食べているときに、年長の女子3人が、今日もサンタクロースが来ないかもしれないと、心配して話していた。・・しかし楽観的な見通しで合意された。理由も本人たちの経験からの類推であり、これが、もっとも納得できる理由であるらしい。(今日の日記は、歯切れよく「である調」になります)

どうしてこないのか、と私にも聞かれたので「サンタさんだって忙しいんだよ、いっぱいこどものお家を回るんだから。トナカイだって走り疲れて、ちょっと休憩、ってことだってあるかもしれないし。みんなもお散歩でいっぱい歩いたから、疲れたら休んでたじゃない、ね。大丈夫、きっときてくれるよ、お手紙にもそう書いてあったじゃない」などと、話してみた。「そうだ、遠くから来るんだから、休んでるんだ。そうそう。」・・私はそれ以上、何も付け加えなかった。

そうやって午後2時。今朝「エルマー読んでね」と頼まれて「いいよ、おやつの前にしよう」と約束していた時間に、階段を客席にして、「エルマーと16ぴきのりゅう」の続きを読んであげる。子どもたちは、開園以来、ずっとこの話が好きで受け継がれている。

3時のおやつが済む頃に、サンタは来ることになっている。そして、なぜが先生がわざとらしくサンタクロースの歌を歌っていると(わざとらしくならないのが、子ども相手だからだが)、鈴の音が聞こえてきて(園内放送の天井のスピーカーから)、「あれ、なんか聞こえる!」という子どもの声で、みんなが気づく。サンタだ!

階段から本物のサンタが姿を表すと、10人ぐらいの子どもたちは駆け寄る。のそのそと歩くサンタは他の子供たちも固唾を飲んで見つめてるダイニングで、立ち止まる。先生がジェスチャーだけのサンタから、あっといまに饒舌な言葉を聞き取り(まるでテレパシーのように)「ねえ、みんなにプレゼントがあるんだって」というと、飛び跳ねて喜ぶ。本当に嬉しい時は、大人も立ち上がり、子どもは飛び跳ねるものなのだ、ということがはっきりとわかる。

「みんなに見せるから席についてくれるかな」という先生の言葉がまるで魔法のように、めずらしく効果がある。すごい。さっと席に戻る。なんだ、この聞き分けの良さは・・

「ほら見て、これは、紙芝居じゃない・・・」と子どもたちへのの意識はそこへ吸い取られ、静かな興奮に包まれている。サンタからのプレゼント。本当だった・・・そんな真剣な顔。(去年も経験しているはずだが、そんなものか)。

一番驚いたのは、サンタさんへ何かお礼をしなくちゃね、となって「歌を歌ってあげよう」ということになり、その歌声の気持ちの入りようは、本物だった。心がこもる歌声というのは、こういうことだったんだと納得する。お見事。サンタも喜んだことでしょうね。(先生たちもこんな姿を見ると、嬉しくなるのです。なお乳児の様子は、クラスブログをお読みください)

・・・・

さて、一体、クリスマスというイベントは、キリスト教の本来の趣旨から随分と離れたところに来てしまっているのですが、私は日本の一般的な社会の常識的な世界とそう違わないから構わないと考えています。(なぜか、ここからはデスマス調に戻ります)。

これが遊び、ということではないのですが、楽しい体験の中で世界を肯定的・積極的に取り入れ、随分と真剣に向き合いながら、仲間や文化の営みに参加していくこととして、成長や学びの芽生えをいくつも発見できるからです。

そこには隠されている知識が伝わっているはずで、つまりサンタクロースという存在がもつ、言葉にはならない暗黙の知の世界に耳を傾けようとする姿勢(本来のミメーシス)が息づいていると思えるからです。一方で、レインがサンタが両親だったことに気づいてトラウマになったという逸話も気になって調べたいと思ったりもしていますが。

サンタからの手紙

2022/12/22

「サンタさんはあしただよね」「ちがうよ、にじゅうよんだよ」「でも、せんせいは、あしたって言ってた」。

こんな会話が聞こえます。クリスマスイブは24日でも、保育園には明日23日に来てもらうことになっているからです。

「サンタさんはね、トナカイでくるんだよ」

「ちがうよ。起きたらきてるんだよ」・・・

トンチンカンな会話も微笑ましくて、言いたいことが、そうなるんだと、私たちには理解できます。そこが子どもの言葉の面白いところであり、大切にしたいところでもあります。

子どもたちは真剣です。サンタはいつくるのか、本当にくるのか。どうやってくるのか・・・

子どもは知りたがっているし、分かりたがっているし、実現するようにしたいと思っています。

ああだこうだ、と想像して、考えたりもしています。「お母さんが言ってた」とか「じゃあ、先生に聞いてみよう」とか判断したりしています。ここには知識も理解も技能も思考も判断も、それにともなう心情も、そのほか、いろいろなものを総動員して、子どもは成長したがっているようにみえます。

子どもの姿はあまり個人の内面的なものだけに限定しないで、周りとの関係や関わり方そのもの、あるいは状況に目を向けようというのが、保育の捉え方の一つと言っていいのでしょう。

クリスマスに向けて、アドベントカレンダーに届くサンタからの手紙と、そこに書かれたサンタの言葉は、子どもたちにしっかりと届きます。それに基づく継続的な1ヶ月間の積み重ねが、こんな会話を生んでいるのかもしれません。

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