MENU CLOSE
TEL

園長の日記

保育環境セミナー開かれる

2020/01/21

昨日の午後から本日21日の丸一日、保育環境研究所ギビングツリー(GT、藤森平司代表)主催の研修会「保育環境セミナー」の講師スタッフとして参加していました。この研修会のことは、この日記で何回かお伝えしてきましたが、北は北海道から南は沖縄まで、全国各地から100人を超える保育士や幼稚園教諭、理事長や園長たち集まる研修会で、みなさん、それはそれは、とても熱心です。なぜなら義務でやらされる研修ではなく、学びたいから学ぶという自発的に参加している方で成立している研修会だからです。これとは反対に、制度的にやるしかない研修というものがあって、私はそれを「アリバイ研修」と呼んでいるのですが、そうした研修の講師をやってみるとわかります、昨日今日の研修の参加者とは参加者の「熱量」が全く違います。いい保育を求めている切実さの違いです。

私が毎回担当している講義は、「見守る保育5つのポイント」というもので、質の高い保育を実現するためには、この5つの考え方が大切ですよ、という内容です。参考までにその5つはこうです。

(1)個性の尊重(2)子どもの意欲と選択(3)子ども同士の関係(4)こどどもを見守る(5)チーム保育

千代田せいが保育園の子どもたちは「自分らしく意欲的で思いやりのある子ども」になってほしいという保育目標を持っています。5つのポイントの最初の3つが保育目標の3要素と相関関係になります。それが実現して初めて子どもの主体性と社会性が育まれ、子どもを「見守る」ことができるようになります。

この保育、実は中国や韓国でも広がり始めました。中国政府は乳幼児期にはその時期に必要な経験をすることが大切だと判断し、小学校教育の先取りを禁止しました。また幼児教育を投資の対象にさせないように、上場している株式会社は保育園を運営できません。

そういう教育改革の真っ只中にある中国が、英語に訳されている本「見守る保育」を読んで、中国の保育のスタンダードにしようとしています。中国語に訳された「見守る保育」もすでに出版されています。一人っ子政策から二人っこ政策に切り替えた中国は、子どもの自律に問題を抱えています。主体性を持った大人になるために、幼児期の教育のあり方を具体的に実現している保育に強い関心を寄せているのです。

 

 

 

木場公園での自由遊び

2020/01/20

◆芝生広場か冒険広場か

木場公園は芝生広場と冒険広場があって、どちらで遊ぼうかと子どもだちに尋ねると、はっきりと自分の意見を持っていました。僕は原っぱの方で鬼ごっこやりたい。僕はアスレチックの方がいい。そこで手を上げてもらうと、芝生広場の方は5人の男子が選びました。らんらん(4歳児クラス)3名、わいわい(3歳児クラス)1名、にこにこ(2歳児クラス)1名の合計5名です。残りは冒険広場(秋の保育参観の時にかくれんぼのような参観をしたあそこです)。

私はまずこの選択ができたことに、子どもたちの大きな成長を感じました。どちらも散々遊び込んできたからこそ、その上で今やりたい遊びが明確にイメージできているということ。これは室内でいくつか分かれているゾーンを選ぶことに似ています。その広範囲なエリアの特色がまずあって、さらにそこでこんなことをして遊びたいという見通しもあります。

◆鬼ごっこの中にルパンが登場

私は5人の芝生広場を担当しました。するとまた面白い気づきがありました。鬼ごっこは、最初「通り抜け鬼がいい」というJくん(らんらん満5歳)がリードして遊びが始まりました。私が鬼をやったりして、タッチされないようにすり抜けようとします。何回かやると「鬼やる」と言って、捕まえる方をやりたがります。そのうち、遊びは「ルパン三世」の鬼ごっこになっていきました。「オレ、ルパン」とか「オレ、次元」とか「五ヱ門」とか言いながら、駆け回っています。映画かアニメの「ルパン三世」の躍動する登場人物たちの「ごっこ」が、鬼ごっこに融合していきました。

◆鬼ごっこの中から、役割分担のある「ごっこ」遊びへ

秋の運動会でお伝えしたように「鬼ごっこ」は、本来、鬼と子どもと親の3つ巴のロールプレイイングゲームです。子どもを捕まえようとする鬼から、親が子どもを守るという「ことろことろ」が原型ですから、その儀式的遊びが、伝承されていく中で現在は約3000種類あるとも言われる「鬼ごっこ」に枝分かれしていきました。今日の木場公園の「芝生広場」での鬼ごっこは、その中心はらんらんの3人でしたが、何かになったつもりで遊ぶ模倣遊びの中で、走り回って捕まえる、逃げるという運動にのめり込んでいました。これが1年後、年長さんになると、役割交代はもっと明確に頻繁になり、その交代のルールは厳密化されているでしょう。協同して遊びを創造していくようになっていく姿が目に浮かぶようで楽しみです。

◆自由遊びの大切な意味

この遊びはどんな意味があったのでしょうか。原っぱで走り回る鬼ごっこ。その中で垣間見られた役割交代のあるごっこ遊び。大人にとっての遊びは「娯楽」と捉えられがちですが、子どもにとってのこの遊びは「自発的」な活動であり、それ自体が目的になっていて、その遊びがどこまでいくのかはわからないようなものです。遊んでいる時、私はよく「子どもの時間が流れている」という言い方をするのですが、正確にいうと、子どもが本当に遊んでいる時は、意識も行動も日常のことから隔てられています。遊びがもし日常の生活に役立つようなものばかりになったら、それはもはや遊びではないでしょう。鬼ごっこという緩やかなルールはあるものの、自在にルールを変化させ、新しいルールが創り出され続けます。そうした遊びが今日の木場公園での芝生広場の遊びだったと思います。

◆まだ帰りたくない、もっと遊びたい!

そんな遊びだったことの証明は、「そろそろ帰る時間になってきたよ」ということを伝えた時、遊びの時間と空間を生きていた子どもたちは「嫌だ、もっと遊びたい!」と口を揃えました。私は「よし!それでよし」と心でガッツポーズをとります。そうでなければ、遊んだことにならないのです。その遊びこそが、この子たちに必要な発達を支えます。最近の流行りの言い方では「遊びが学びになっている」と、いちいちいう必要があるのですが、もちろうそうです。ここでいう学びとは成長に必要な経験をしている、という意味です。

もし、遊びが自発的でもなく、何かの目的のための手段で行われ、日常の意識となんら変わらず、解放感をもたらさない活動だったら、それは「遊び」ではなく「学び」にもなっていません。それを保育学では「学びのない堕落した遊び」と言います。

 

卒園した後の居場所と育ちで語り合う

2020/01/19

園を卒園した保護者や、高校生になった子どもたち、そして地域の学童やひろば、児童館の職員らが集い、地域に子どもたちに必要な居場所のあり方を話し合いました。主催したのは新宿せいが子ども園の保護者の皆さん。千代田せいが保育園の保護者も参加してくださいました。藤森先生による幼児教育のあり方、保育者養成校の先生による本当の遊びの意味、そして参加者からの現状報告など、とても学びの多い会となりました。

待機児童を解消するために保育園は急ピッチで作っているものの、学童は定員を大幅に超える鮨詰め状態で、法律では本来6年生まで利用できるようになっている学童ですが、実情は3年生までしか入れない状況になっています。しかも児童館が少なく、友達の家やいろいろな地域のスポットを自転車などで回遊して過ごす子どもたちもいるという報告もありました。運動場の開放で走り回って遊ぶことができても、そこは男の子ばかりで、座って過ごせるような場所が少ないようです。

新宿せいが子ども園を卒園した子どもたちは最年長でいま大学生になっており、昨日と今日の大学入試センター試験を受けている高校生もいました。主体性を育てる保育を経験しているので、小学校に入学すると自分で判断したり、行動することが染み付いており、小学校3〜4年生になるとリーダーシップを発揮するようになっています。また男女が別々のグループにならず、性差の垣根を超えての友達もできやすいようです。

異年齢児保育で過ごしているので、小学校に行くと知っている2年生や3年生がいて、学校に溶け込みやすいのも、せいがの保育のよさ。それは学童でも同じで、保育園時代に一旦別れてもまた再会できることが、子どもにとっては保小の円滑な接続になっているという話もありました。

 

1月は移行保育のはじまり

2020/01/18

◆楽しそうなにこにこ組探検

1歳児クラスのぐんぐん組。クラスの正式名称は「大きくのびるぐんぐん組」ですが、本当におおきく伸びたんだなあと、金曜日の「にこにこ訪問」が伝えてくれていますね。クライミングに登ったり、ままごとのおもちゃでクッキングをしたり、お店屋さんごっこも楽しそうです。

◆1月は移行保育の始まり

1月の保育計画でポイントにしているのは上の学年への移行保育です。4月に全員がひとつ上のクラスへ進級するわけですが、4月になってから突然新しいクラスで生活を始めると、慣れていないことからスムーズな生活になりにくいので、今月くらいから、次のように徐々に慣れていくようにしていきます。

まずは、遊びから始めます。子どもたちは4月からこれまでの間に成長しているので、ちょうどやりたくなるようなものが、進級するクラスにあることになります。例えばパズルのピースの数もちょっと多いものがあったり、レゴブロックの種類も多くなったり、自分の体を手と腕で支える力もついていたり、ままごと遊びのような模倣遊びも真似する対象が増えていたりします。

ちょうど発達にあった遊びができることは、子どもにとって「また行きたい」という動機付けになって、移行保育が楽しみなります。このように、まず起きている時間帯に新しいクラスの環境に慣れるようにします。

その次に「食事」を進級したクラスで食べてみます。テーブルや椅子が変わったらどうなるか、配膳の方法や喫食の姿勢などを確かめながら進めます。食器も変わるので、それに慣れることもこの時にできます。

そして「お昼寝」もそこでしてみます。寝るというのは安心していると寝つきが良くなるのですが、新しい場所でも安心して眠りにつけるようにしておきます。

◆遊んで、食べて、寝てみて・・という移行保育

このように遊んで、食べて、寝てという生活の三本柱を一つずつ丁寧に移行していくのですが、この慣れる方法は、入園した時の慣れ保育と同じ考え方です。覚えていらっしゃいますか。初日は親子で過ごしてもらい、二日目から一人で遊んでみて、大丈夫なら食事もして、さらに大丈夫ならお昼寝もして・・というように時間を伸ばしていきました。移行保育もこれと同じように、いっぺんに全部やるのではなく、生活の三要素をそれぞれやっていくことになります。そうすることで、子どもたちも負担なく意欲的に新しい環境に慣れていくとができます。

そして3月までにすっかり慣れたところで、新しい担任、新しい友達との出会いという4番目と5番目の要素が加わることになります。この話は、ぐんぐん組だけの話ではなく、どのクラスにも基本的には共通したものです。今月末のクラス別保護者会でまたお話ししますが、これからこうした移行保育が徐々に始まります。

◆旧石器時代の環境に最適化されている私たち

この移行保育を人類進化の必然という視点から眺めてみると、こんな話になります。私たち人間だけが持っている特徴は、社会性です。ホモ・ソシアリス(社会的なヒト)です。約200万年の間続いた旧石器時代に身につけた人間の特性が今の私たちの脳であり、身体ですが、その頃と基本的に変わっていません。その頃の環境に最適化されているのです。その時の子育ては、親が世話するよりも兄や姉、従兄弟たちでしたから、子どもはそうしたちょっと年上の「お兄ちゃんやお姉ちゃん」に世話をしてもらことが大好きなようにできているらしいのです。

◆子どもが進級を喜ぶわけは・・

それは赤ちゃんの時からそうで、知らない大人には人見知りをして泣くことがあっても、自分たちと同じか、それよりも少し大きいくらいの子ども(小学生くらいまででしょうか)には、人見知りで不安がることはしません。これは私の実感でもあります。子どもは子ども集団の中で生き延びるようにいわば「プログラムされている」というわけです。一つ上のクラスに進級することが、こんなにも嬉しそうなのは、発達があっているというだけではなく、もともと心許している、子供からしたらリスペクトしているお兄さん、お姉さんの部屋へ行くのですから魅力的なことなのです。異年齢児保育の大切な意味はここにもありますね。

ホモ・ファーベルとしての子ども

2020/01/17

◆天体の法則と人間の法則

私のカレンダーには、月の満ち欠けの図が載っていて、「今日のお月様は下弦に入ったな」とか、25日が新月か、などがわかります。すると、今時分にはあの辺りに月があって、太陽からの光をこっちから受けて半分輝いているんだな、といったことを思い浮かべることができます。今、見ているわけではないけれど、きっとそこで輝いている、と確信できて、確かめれば実際にそうなっています。

ところが、子どもの心は「きっとこうかな」と想像してみて、「当たった!」という結果になることもあれば、「あれ、そうなんだ!」と意外なことになることもあって、それが面白いものです。子どもを理解するというのは、映像に映っているものがその子の姿ではなく、その姿の中にある心の動きを捉えなければ、人を理解したことにはなりません。月がどこにあるかを理解することと、子どもを理解することとは、雲泥の差があります。

◆食パンを私に「どうぞ」4回

規則正しい「天体の動き」と、子どもが見せてれる子どもの「心の動き」の違いを語りたくなったのは、今日、第三者評価のために、ある保育園を一日、訪問調査をしていたからです。その園の1歳児クラスのままごとゾーンに座って、そこの女性の園長先生と話をしていたら、ある男の子が、おもちゃの食パンを持ってきて私に差し出すので、「ありがとう。いただきます」と言って、もぐもぐ、わあ〜美味しい!とやったら、それなら、と今度は、ハンバーガーを持ってきたので、「あ、おいそうなハンバーガーだね、でもお皿が欲しいな」と言ってみたら、そそくさとお皿を持ってきて乗せてくれたので「ありがとう、もぐもぐ、アッチーチー!」と大げさにやってあげたら、もう、その子は喜んで、次から次へと食べ物を持ってくるので、丸いテーブルの上は食べ物がいっぱい並んで「まるでパーティみたいだね・・云々」と色々喋ったり、食べたり、お代わりしたり、注文したり・・・そのうち、別の4人のお友達も集まってきて・・と遊びは発展していきました。最初に食パンを出してくれた子は、都合4回も私に食パンを食べさせてくれました。この子はきっと朝はパンに違いない・・・

◆子どもと過ごしてみて想像できるようになること

もし、この状態のまま、その子どもたちだけがいなくなったとしても、そこに居合わせた私は、テーブルの上の食べ物や食器の数々を見て、そこで遊んでいた子どもたちの姿を思い浮かべることができます。今日、初めて出会ったあの子どもたちが、嬉々として遊んでいる光景をありありと思い浮かべることができます。あの子らと言葉と身体で、心を通わせてきたからです。

保育園での子どもの生活を知ることは、実際に子どもと過ごしてみると、分かることがいっぱいあります。一度一緒に過ごしてみると、子どもの姿が見えなくても、その子の心の痕跡をたどることは難しくありません。保育者はまるで考古学者のように、その痕跡から「きっとこうだったのかな」と想像することもできます。それも楽しいのです。

◆映像に残らないものを「見る」ことの大切さ

同じような意味で、写真や動画に子どもは写っていなくても、分かることがあります。例えば、わいらんすいのブログで紹介されている写真、いらなくなったコピー用紙らしきもので作った銃のようなもの、丸めて一方が尖った細長い、錐柱のようなものが残っています。そこには子どもの姿はないのですが、子どもの心が動いた証拠が歴然とあります。

考古学者は、中央アジアから出土した鉄器が、摂氏1200度の高熱で溶融しないとできない純度だとわかったことから、そこに高度な文明があったことを明らかにしていきます。それと同じように、銃の形、円錐の形、テープの切り方、LaQの形から、そこに至る子どもの「造形思考」の発達を読み取ることができます。これは幼児でないとできないこと、子ども同士の遊びがなければ、それを作る動機がないだろうこと、日頃から丸めたり折ったりセロテープの技術に慣れていることがわかります。日頃から何をして遊んでいるかを知っているから、読み取れるコンテキスト(文脈)というものがあるのです。

◆子どもが味わっているモノづくりの楽しさ

冒頭の写真のように両手が伸びた怪獣のようなものの造形力は大したもので、相当の時間をこの小さな造形パズルと粘土造形の遊びを経ているだろうこと・・・想像できます。この集中力や根気を大人が真似できるかどうか。相当なものです。このように子どもが再現しているものは、子どもが目の前に写っていなくても、あるいはたとえ映っていたとしても、「見ようとしなければ見えないもの」に属します。

また、子どもが作っているこれらの形は、具体的な何か(銃や鉄砲やラッパや怪獣・・)を「再現」しているだけではありません。ある明確な形をイメージして作り始めただけではなく、作りつつある形が別のイメージや感覚と結びつき、あるいは別の着想を引き出し、「なんでもないもの」から、「なんでもあるもの」へ発展しているプロセスが見られます。そこには不明瞭なものが輪郭を持ち始め、明瞭な境目(文節)を持って立ち現れるモノに、子ども自身が予期せぬ仕方で出会っているのかもしれません。

◆ホモ・ファーベルの私たち

もしそうなら、子どもは面白くてやめられないでしょう。創造すること自体を体験しているのですから、こんなに面白いことはありません。文化の文節を作り上げることは、言葉に限らず、絵や音楽でもアーティキュレーション(明瞭さ)という言葉で大切にされているものです。これができるのもホモ・サピエンスの特性です。私たちはホモ・ファーベル(ものを作る人、アンリ・ベルクソン)という異名も持っているのわけですから、不思議なことではありませんね。

(余談ですが、もし幼児に早期教育をさせたいと思っている方がいらしたら、これが本物の早期教育だと理解していただきたいのです。小学校教育の先取りをしても意味がありません。今の時期にしか伸びない適時性を踏まえた体験が大切です。あくまでも「例えていうと」ですが、こういう遊びをちゃんとやっておくことが「ハーバード大学」での学びに結びつきます。地頭が育ちます。)

このような創造することの真っ只中を思う存分に過ごせる時間があると、子どもはとても幸せです。それをたっぷりと吸収して栄養にしておくことが、この時期の子どもたちに必要なものです。

 

 

1月25日の「鬼ごっこ遊び」参加票を配布

2020/01/16

 

休日もお友達と遊びたい!そんな子どもたちの願いに応えたいということもあり、土曜日の1月25日の午前中に、鬼ごっこ大会を和泉小学校の体育館で開きます。

(秋の「運動会」=「親子運動遊びの会」で楽しんだ「鬼ごっこ」を継承、発展させるための、2回目の「鬼ごっこ大会」になります)

園児は誰でも親子で参加できますので、気軽に遊びに来てください。ただ「保育」ではありませんので、保護者同伴になります。

鬼ごっこ協会のインストラクター養成指導者の羽崎さん(運動会で来ていただいた方)が今回も来てくださいます。

いろんな鬼ごっこで遊びますので、ぜひ参加してみてください。広いところがあれば、どこでも子ども達だけで遊べるようになっていくことが目的です。

また、回を重ねるごとに、子ども達が安全に遊べるように見守ってくださる大人の方や、鬼ごっこのプレイリーダーが育ってくださることを目指しています。

20200125 鬼ごっこのある町ちよだ(ポスタ2)

乳幼児期は実際に「体を動かす」ことが楽しい!と実感することが極めて大事です。体をあまり動かさないスポーツ(eスポーツなど)やゲームを否定するものではありませんが、人間は自分の生身が健康であることが幸せの基礎になりますので、それを育てる大切な時期は、せめてその両立を目指しましょう。まずは、実際に体を動かすことを楽しみましょう。

 

イヤイヤが始まったら具体的にどうするか

2020/01/15

◆悪循環にならないように・・

図らずも、長いテーマになってしまった第一反抗期(いわゆるイヤイヤ期)ですが、いろいろな説明があったとしても、いざ、目の前で子どもに「イヤ〜」を連発されると、また泣きじゃくられたりすると、親として冷静ではいられないものです。下手に反応できない!どうしたらいいの?と困ってしまいます。まだ家の中ならともかく、外出先だと周りの目も気になるし。こんな悩みを抱えながら、結構長い期間を耐え忍ぶ、というもの辛いものがありますね。

私が知っているケースだと、そうしたイヤイヤ期のメカニズムを全く知らないでそれに直面すると、子どもが悪者になってしまったり、子育ての方針を巡って夫婦間に亀裂が走ったりしてしまうこともあります。あるいは、つい子どもに我慢できなくなって、手が出たり、頭ごなしに子どもを叱ってしまったり、ということもあって、その後でお母さんが自分を責めてしまうという悪循環に陥ることだってあります。

そうしたことにならないように、生まれてまだ2年も経っていない子どもが、果敢にも第一回目の「自分づくり」を始めようとして、周りからの働きかけを一旦全部「違う !」と遮断して、「自分で・・」と始めようとしているんだと思ってあげるのと、そうでないのとでは、大人の心持ちも随分と違ってくるのではないでしょうか。子どもの気持ちを受け止める、ということが、なるほど大切だなと思えると同時に、返ってそれが「難しい」と感じるという、矛盾した気持ちになるものです。あるいは返って理想と現実のギャップが大きく感じてしまうかもしれませんね。

◆いざ、イヤイヤ開始!では、どうしますか

さて、そうした心構えができたと仮定して、いざ始まった時はどうしたらいいのか考えてみましょう。初回のコーヒータイムのとき、こうした事例を話し合いたかったお母さんもいらっしゃいましたよね。これこそ、これには正解がなくて、子どもの個人差も大きいですし、これまで説明してきた「メカニズム」の理解の差によっても対応が異なってきますから。

ここで紹介するのは、40年以上に渡って乳児保育の現場で子どもの素晴らしさをいっぱい発見して世の中に発信してこられた超ベテラン保育士の井桁容子さんの話です。昨日紹介したNHKすくすく子育てによく出てます。遠藤さんとペアで出ていた回から、ご紹介します。

まずこの発言に勇気付けられます。

◆イヤイヤの状態を見ると「かっこいい!」と思う

井桁「人生の中であんなに周辺のことも考えずに「嫌」っていることって、そうそうないんですよ。なので、思いっきり言えている状態を見ると「かっこいい!」って思う。そう、今やっておこうよって、逆に応援したくなる感じですね。」

鈴木「この大事な時期に、親はどのように関わっていけばいいですかね」

井桁「(イヤイヤ期は、子どもが)他人と自分は、どんな関係にあるかってことを知っていく、ということですよね。ですから、何かあった時に、自分の気持ちをわかってくれようとする大人と出会えるのか、自分の気持ちを押し付けてくる人に出会うのかで、全体に対する信頼感が変わってくるんですね。『イヤ!』っていうと『何が?』って聞いてくれるのとかね、『あなたは、ほんとうは、どうしたかったの?』って、聞いてくれることが大事なんですよね」

鈴木「イヤという気持ちを受け止める、ということですが、大切なのはわかるんですが、こんなお悩みもあります。子どもの気持ちを受け止める、というけれど・・・イヤイヤの原因がわからないときはどうする?ということなんですが」

◆番組に出演していたお母さんの話

さて、ここからが今日の本題です。

・私はダメとはわかっていても、おやつをあげて機嫌をとっちゃいます。でも、おやつをあげちゃうと、もっともっと、ってなちゃって、どうしようかな、と。

・動画を見せるとピタって泣き止むので、つい動画を見せて頼ってしまいます。

・下手に声をかけたり、手出してしまったりして、もう悪化してしまうことも怖いので、もう公共の場とかでない限り、ひたすら“地蔵”になって、待ちます。

・いつもほとんど二人っきりで、過ごしているので、結構辛くなって泣きたくなったり。

◆お母さんは「フラフラ期」で行こう!

鈴木「井桁先生、このように、忙しい時に子どもと接するのは難しいんですが」

井桁「うまくいかない時に、ママもうまく答えがわかんない時は、一緒に泣こうと言って、私も、わ〜って泣いて、あ〜スッキリしたね、っていうこともあっていい。我慢して、正解だけを大人が整える必要はなくて、一緒に揺れてあげるということも大事なことなので、一緒に泣こうというのもアリです」

鈴木「イヤイヤ期だけど、大人はフラフラ期でオッケー、ていう感じで。少し緩くいくといいのかなあ」

井桁「お母さんだけがカチンと硬いと、お子さんはぶつかる感じがするけど、一緒に揺れてくれれば、『あ、おんなじだ』って思う中で、子どもが「そんなに泣かなくてもいいよ』って、涙拭いてくれますから。やってみてください、ホントに」

◆イヤイヤ保険・・

井桁「忙しい時は難しいです、誰でもね。でもね、保険的なことがあるんですね、イヤイヤの保険。何かなっていうと、ご機嫌な時、お父さんもお母さんも余裕がある時ってあるじゃないですか。そういう時に、楽しい時間を共有するってことが、関係ないように見えて、イヤイヤ期の大切な保険なんですね。面白ね、すごいね、なるほどね、っていう気持ちのいい共感をお母さんやお父さんとしておくと、この人たちわかってくれるというベースができるんですよ。本当にイヤイヤの時は、子どもも大人も余裕がないので、あの時の、こないだのあれ面白かったなあ、という思いがあると、お父さんお母さんは楽しいことを共有してくれるけど、時々忙しくてこうなるんだなあ、と。ということは、理解の幅で効いてくるんです。なので、実は楽しい時間を、子どもが楽しく遊んでいる時、大人は上の空が多いじゃないですか。逆で、楽しい時に一緒に面白いことをしたっていう感覚が子どもに必ず生きてきます。」

 

最後に、このサイトをご紹介します。

征矢里沙さんのページです。
・『生きる力』をはぐくむ教育研究家
・NPO法人いきはぐ代表

11の「乗り切り方」が紹介されています。

https://tg-uchi.jp/topics/5143

 

イヤイヤ期を発達の専門家はどう説明?

2020/01/14

◆イヤイヤ期の第一人者の解説は・・

いわゆるイヤイヤ期(第一反抗期)がある理由や、その受け止め方を考えているうちに、そもそも「自分づくり」って何よ?ということになってきました。でも、その前に、今一度、イヤイヤ期について、日本のその分野の第一人者はどう考えているのか、ちょっとだけ紹介しておきたいと思います。

誰がいいかなと考えた末、遠藤利彦さんにしました。今は東京大学大学院の教授で発達心理学が専門です。彼にした理由は、地域の子育て支援を長らくやっていた方なので、親御さんの困り具合をよくご存知なのです。保育界では、遠藤先生と言えば「愛着の先生」というイメージですが、遠藤さんの書いている本はたくさんあって、学術的な文章よりも、もっとわかりやすい話し言葉はないかと探したところ、ちょうどNHKの「すくすく子育て」に出ていたいので、その時の解説を紹介することにします。

◆NHKの「すくすく子育て」からーーーー

MCの鈴木あきえさんが聞きます。

鈴木「早速ですが、遠藤さん、イヤイヤ期というのはどういった時期になるんですか」

遠藤「これ違うな、これ違うな、ということでイヤイヤ、とずっと言い続けるわけです。だけど、そういうことを繰り返しているうちに、あ、自分が好きなのはこういうことなんだな、ということがちょっとずつわかり始めて、自分がしたいことはこういうことなんだな、と、自分を探していく、自分のしたいことを探していく、言ってみれば自分探しのような時期と考えるとわかりやすいかな、思いますね」

鈴木「子どもって、どうしてイヤイヤをするんですかね」

遠藤「別にお父さんやお母さんを困らせようと思ってやるわけじゃ、当然ないんですね。この時期にはいろんな心の力が身についてきて、子どもはいろんなことがわかり始める。そうすると、あれもやりたいし、あっちの方も良さそうだし、という風に、心の中でもいろんなものが膨らんでいく、膨らんでいくんだけれども、じゃあ、実際何をやりたいかってなったときた時に、まだ漠然として整理されていないので、要するにこれやりたいんだという風に、ストレートに主張ができない。逆にいうと、だから提示されたもの、差し出されたものに対しては、でもこれは違うなということはわかり続けるから、嫌って言っちゃう、嫌っていちゃうんだけれども、まだこれがしたいとはっきりわからないということで、フラストレーションが湧いてくる、子ども自身も困っていると考えたほうがいいかもしれないですね」

鈴木「言葉では伝えられないですからね。どうしてこのような時期があるんですか」

遠藤「この時期から自分についての理解が、どんどん高い水準になっていくんですね。自分て、こんな存在で、こんなことが好きでということがわかり始めていくというふうな、そこから急速な自分探しが続いていくと考えていくといいですね」

◆自分探しが始まる1歳半から2歳ごろに「イヤイヤ」が始まる

この番組では、まだ自分がよくわからない1歳ごろまで、そして自分探しが始まる1歳半から2歳ごろ、それがもっと発展してく2歳半〜3歳ごろの3つの時期について、どんな風に成長していくかの動画解説がありました。

<1歳ごろまで>まだイヤイヤはない時期

この頃の子どは、自分が写っている鏡を見ても自分だと気づいていない。赤ちゃんは自分の姿や特徴を理解しておらず、自分のことをよくわかっていない。

<1歳半〜2歳>イヤイヤが始まる時期

このころ自分を発見していきます。自分の顔や性別を認識でき、鏡を見て自分だと認識できます。こうして自分というものがはっきりしてくると自分以外の人もはっきり認識するようになります。そのために他の人に対して、恥ずかしいという感情や、友達と自分を比較して羨ましいという感情を抱くようになります。

こんなふうに自分と自分以外の人の区別がはっきりしてくる頃に、イヤイヤ期が現れます。自分以外の人が提案してくることは、たとえそれが親であったとしても、自分がやりたいこととは違うと感じるようになるからです。

子どもは「いや」という意思ははっきりしているが、これが好きという好みは確立していません。そのため嫌としか主張できないのです。このような経験を積み重ねていくことで、自分の好みや心地よい状態などを発見していくのです。

<2歳半〜3歳ごろ>だんだん収まっていく時期

さらに自分探しは発展していきます。自分が他の人からどう見られているのかが気になりだします。「見て〜」このように、他の人からの評価に気づくことで、さらに自分探しが進んでいくのです。

(事例)お友達に取られそうになったおもちゃを「ダメ〜」と言って、とられないように取り返したあと、「あ、ちょっと悪いことをしてしまったのかなあ」といった風に、戸惑ったような様子を見せる男の子が映し出されました。自分のとった行動に対する相手の反応をみて、悪いことをしてしまったと気づいたようです。そんな時、取ろうとした子へ保育士が「借りて見てもいいかな、って聞いてみたらどうかしら」と落ち着いて提案していました。

相手の反応を見ることで、罪悪感など複雑な感情を抱くようになります。こうした経験を通して子どもは他の人の気持ちに気づいていきます。この時期に本当の自分を知ることが、相手の気持ちへの理解につながっていくんですね。

他人への思いやりなど大人と近い感情を持てるようになると、やがてイヤイヤ期も落ち着いていくのです。

ーーーーーーーー

以上が遠藤さんが監修したと思われるビデオ解説でした。

さて、いよいよ明日は、イヤイヤが始まった時の具体的な対処法を考えます。

イヤイヤ期は「自分づくり期その1」

2020/01/13

昨日の「イヤイヤ期」の話の続きです。今日は子どもの心の支え方を考えます。

0歳から満3歳ごろ前の「発達の特徴」を並べてみると、イヤイヤ期の特徴がはっきりしてきます。イヤイヤ期が始まるのは、言葉を獲得して、同時に自分が自分であることがわかり始めて、周りの人々とのやりとりが盛んになっていく頃からです。言葉を獲得する頃に、盛んに指を指したり、物をあげたりすることが増えます。これを三項関係というのですが、自分と相手(母や父)の二者関係から、間にモノが入ってきてやりとりするので三項関係になっていきます。

その時期に、子どもは、自分の意図と相手の意図をくっつける、ということができるようになります。保育園でも、まだ言葉でうまく言えない時期の「う、う」と指差している意味が「おもちゃとって」だったり、抱っこしていたら指差しているのが「あっち連れてって」だったりします。実際にあったのがですが、せっかく履いた靴下をまた脱いで最初から自分で全部やろうとしたり、します。絵本を持ってきて前において「これ読んで」だったり。

こうした行動の顕著な共通点はなんだと思いますか?

それは、全部「子ども発信」だということです。発達の言葉では「自発性」です。

ところが反対に大人発信の「こうしようか」とか「これ食べて」とかになると、ある時期から「いや〜」ってなったりします。「何して欲しかったの」と聞き返しても、本人もわからないから、そうじゃない!ってことだけが「いや!」となってかえってきます。今日はその時の対応を考えようというわけです。どうしたいのかがわかれば、解決できるのですが、これには本人も答えがない、と考えてあげましょう。それがこの援助の最大のポイントです。

お腹が減った(食欲)とか、眠い(睡眠欲)とか、体を動かしたい(運動欲求)とかなら、お母さん(お父さん)も察しがつくのですが、この時期の子どもは色々なことがわかってきて、やりたい気持ちが大きく膨らんできているので、過去に経験した「心地よさ」を味わいたくて、その感触を思い出すのですが、それを経験するには、どうしたらいいのかわからないので「ねえ、あの心地好さを味わいたいんだよ、どうにかして!あれ、あれができるようにして!」と一方的に要求してくる感じですよね。まだ答えがないことを自分でもわかっていないけど、そうじゃない、違う!という感覚だけははっきりしている、という感じです。私たちは発達のことを勉強するので、それは正常発達の特徴だと教わるのです。でも、そこをどう噛み砕いで説明していくのがいいのか、悩みます。

ポイントは、子ども本人もどうしたら、それがゲットできるのかは、本当はわかっていません。だから「どうしたいの!」ってムキになって聞くのはやめたほうがいいです。原理的に本人もかわかりようがないのです、まだ。生理的欲求じゃなくて、社会的な(人との関係の中での)しかも文化的な(生活や遊びの)ものなので、子どもはそれを自分のものにしていく入り口に立っているのです。これからそれを学んでいくので、これから自分なりの居心地の良さを見つけていくことになります。それが自分づくりの道です。

社会的な欲求には、愛情とか、甘えとか、承認とか、達成感とか、所属感とか色々ありますが、ほとんどが人間関係の中で満たされるものです。それを三項関係(言葉の発達)と組み合わせながら、子どもはパズルのように自分づくりを始めていると考えてあげましょう。すごいことに挑戦し始めているんです。

(余談ですが、昨日もお伝えしたように、この社会的欲求の方は、今の時代の親や地域の価値観で変わるものなので、みんなが共同して信じ込んでいる虚構(というと、がっかりするかもしれないので、共有主観的世界とでも言っておきますが)です。生理的欲求の方は虚構ではありません。生物学的な自然の摂理です)

さて、イヤイヤ期はいつまで続くのでしょうか。

だんだんと、自分のやりたいことはこれだったんだ、とやってみてわかるということの繰り返しなので、その子どもなりに、納得の仕方が違います。しかも言葉が発達していく中で、脳の言語野のシナプスの発達が整理されていきます。ですから私たちは、子どもの気持ちを代弁すること、言葉でモヤモヤした意識を整理してあげることをしています。整理するというのは、子どもの脳内の概念ネットワークを、この日本文化の象徴体系に適応させることだとも言えます。

「う、う」といったり、「ぎゃー」と騒いだりしながら、それを私たち保育者は「これ(靴箱の棒)にぶら下がってみたかかったんだね(でも、危ないから別のところでやろうね)」とか「くるくるチャイムの球を下から上に転がしてみたかったんだね」とか言葉にしてあげならが、子どもには「受け止めてもらえた」ということを返す、という心のコミュニケーションを必ずやるようにします。やってみたいことが社会的に認められないことでも、受け止めたよ、という意味の共感は必要です。社会的にできないこと、物理的に不可能かなことを、学んでいく機会になっているからです。

(ちなみに自然現象を相手に学んでいる姿を、ちっちのブログのように「小さな科学者」と捉えているのも、秀逸な共感です)

援助のポイントとしてよく言われていることをまとめるとこうなります。

(1)イヤイヤ期は自分の快さを求めて自発性を高めている発達上の大切な現象である。内発的な心の発達なので、そのマイナス感情を制御する経験を学んでいる貴重なもの。

(2)自分づくり(探し)の時期であり、その子の感性で引き寄せようとしている世界を一緒に探してあげるつもりで接しましょう。それがなかなか見つからなくても、それは子供のせいでも親のせいでもない。ホモ・サピエンスの必然からくるものなので。

(3)自分づくりは、身近な他者との心の通い合いで育ちます。特に楽しい経験を共に過ごすことが、イヤイヤ期を短くするコツです。保育園ではそれが有利です、子ども同士の豊かな関係がありますから。イヤイヤの現象が起きている時以外の時間が大切です。

(4)イヤイヤ期は子どもが大人と近い感情、例えば他人が辛いと自分も辛いとか、他人が嬉しいと自分も嬉しいとか、そうした思いやりなどの大人と近い感情が持てるようになった頃、自分づくりの第1期終わりです。その頃、イヤイヤも収まっています。

何年か前に朝日新聞で「イヤイヤ期」という名前はマイナスのイメージだから、他の名前に変えたいという読者キャンペーンをやったことがあります。その時に、私だったら「自分づくり期その1」ぐらいにしたらいいのに、と思ったことがあります。

人類進化から考える「イヤイヤ」の意味

2020/01/13

今年は「人類進化の『必然』を踏まえて生きる!」と宣言した意味について、今日、ある友人に聞かれました。「それって、ヒトだけが何かに否応なく仕向けられているってこと?」と。「そう、そう。人間だけがやることって、意味があるんだと思う。それがあるから、これまで生き残ってきたわけだから」。そう言って「ほら、イヤイヤ期ってあるんだけど、あれも人間だけなんだよ」という展開になって・・・

人類がチンパンジーの共通先祖から分かれたのは約700万年前。こんな数字はイメージできないでません。何世代になるか計算してみました。仮に25歳で子どもを産んで、その子も25歳で子どもを産んで、という間隔なら100年で4世代。1世紀100年で4世代なら、1000年で40世代、1万年で400世代、700万年で280,000世代(28万世代)になります。

これだけの回数の親子を繰り返してきた上に、今の私たちがあると考えるだけで、まず、よくもそんなに途絶えることなく続いている事実に驚きます。そして、なんと多くの「ご先祖」の必死の生存競争のおかげで、今の私たちの命が繋がっているいるんだろう!と感動します。

これだけの間に突然変異などを繰り返して、環境に適応した資質が形成されてきたと、現代の生命科学は証明してしまったわけですが、その資質の中で、人間だけが持っている重要なことは何かというと、「食物を分け合うことができたことと、共にあるという心を持っていること。核家族ではダメで複数の家族が近隣関係を作って子育てを担ったのです」(山極寿一)という話が原点になってきます。

「共にある心」とは、協力的であることです。人間だけが「協力的なコミュニケーション」をするのです。これは進化の賜物です。そのような社会的に助け合う方が、生き残った、優位だったというわけです。動物も広い意味での言葉(鳴き声やさえずり)を持ちますが、状況に応じて対応を変えて協力するためには使えません。言葉は表象ですから、その地域や時代によって異なります。「サピエンス全史」のハラリは、それを社会的な虚構だと言っています。その通りです。ヒトは共同幻想(吉本隆明)を創って生きているのです。

虚構ですから、小さい社会集団ごとに言葉や社会ルールは異なりました。これまでに確認された言語の数は6000以上、話し言葉は化石のように残りませんから、もっとあったでしょう。日本でも方言がこれだけ違いますから。

時代と地域に応じた異なる文化を身につける必要があるので、子どもの脳の中で、自分を作っていく時期がどうしても必要になります。持って生まれたものを基盤にして、その上にその社会の「虚構」と思わずに、心底信じて身につけていく必要があるのです。それだから、安心できて心を寄せあえる大人や子ども同士の中で、そこで使われている言葉や振る舞いを身につけることに夢中になります。

「・・・それがイヤイヤ期の現象なんだけど」と、友人に説明しました。もう少し続けましょう。

ここで大きなポイントがあります。大人はその社会に適応できているから、社会的に成功して今の自分があリます。勉強したり、社会人として勤めたりして、これまでの四半世紀の社会に適応できてきました。信じている社会的規範も強く持っています。大人はその考え方やルールがしっかり身についているので、子どもの試行錯誤の「イヤイヤ、そうじゃなくて、僕だってわかんないんだよ」という表現が「否定」のように映るのです。

と、そこまで友人と語り合っている時、ふと気づきました。「イヤイヤ」って日本語だなと。だから日本語を覚えていく頃から、感情コントロールの感受性もピークになるのか、と勝手に合点しました。

1歳半から2歳〜3歳の子どもは自分の心(脳)の交通整理が必要になって、とっても不安な気持ちになっているのかもしれません。今の自分にとって何が必要かわからないから、「そうじゃなくて・・・(でもわかんないよ)」を訴えるのです。それだけ、きっぱりと自分を作り始めることに踏み出せる力を持っていることを、大いに喜ばなければなりません。

では、その交通整理をどうやって助けてあげるといいのでしょうか。過去28万世代の親は、そんなことを考えて子育てをしたことはありませんが。そこには子育てを助け合う村があり、村中の人がほぼ親で、子どもは子ども集団の中で自分を創っていったという事実から考え直してみる必要があるのです。

top