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保育アーカイブ

ゆうゆうサポートの講習会

2023/02/01

私が関わっているNPOは2つあります。いずれも八王子市時代に作った子育て支援の団体です。その一つは「ゆうゆうサポート」と言って、子どもをちょっと預かってもらいたいときに、助けてくれるサポーターを紹介します。ファミリーサポートセンターと同じ仕組みで作りました。ちょっと美容院へ行くので、学校の授業参観があるので、PTAがあるから・・・一時保育を頼むほどのこともないけど、でも小さい子どもがいると、ちょっと・・・子育てをしていると、しょっちゅう、そんなことがあります。そこで地域の子育てを助け合う互助組織が欲しかったのです。

八王子市は広くて、私がいた保育園は南大沢という駅が最寄駅だったのですが、あの辺りは、北はすぐに日野市で東は多摩市、南は町田市に隣接しています。ファミサポは八王子市民だけが対象だったので、近所なのに市民でないと使えないのです。年齢制限もあったり、食事作りはやれない、自動車での送迎も禁止でした。そこで自分達でファミサポと同じ組織を立ち上げたのです。

女性労働協会へ相談に行ったら、組織の立ち上げを手伝ってくれました。協会が発行するテキストを使って講習会を開き、それを受講したら「提供会員」になれるのです。すぐに小児科医や市の保健婦、知り合いの学校心理士などに講師を依頼して講習会を開き、子どものを預かることができるサポーターを育て、依頼があったらマッチングしてあげて、援助活動を始めたのです。かれこれ15年以上経つでしょう。今日はその講習会の講師をしてきたのです。8人ほどの受講生がいて、心の発達について説明してきました。久しぶりにエリクソンやワロンの発達論です。

アートとしての味覚体験

2022/11/28

けさ出勤するといい香りがします。なんだろう?と2階に向かうとバターで何かを炒めている香りです。子ども用キッチンの電磁調理器を使って、3つのパンで野菜を炒めていたのは、全日空ホテルのシェフ江口さん。実は今日28日、ちょっと変わった<食育活動>の準備をしてくれていたのです。

どんなものかというと、子どもがディップ状になった野菜ペーストをパンに塗って食べてもらうのですが、子どもは最初それが何かわかりません。うすうす「食べられるもの」だとはわかったようですが、どんなものでできているのかわからないところから、その活動は始まりました。

赤、黄緑、紫の3種類のパテをスプーンで好きなように塗って、いわば<遊ぶ>のです。ただ子どもたちも、パンに塗っているし、美味しそうな匂いがするので、絵の具のようなものだとは思っていなようです。「これ(黄色い方)はとうもろこしで、これ(橙色)はかぼちゃ、こっち(紫)はにんじん、じゃない?」などと言い合っています。

実際に食べてみると「う〜ん! おいしい!」と、食べ始めます。

このような状態の食べ物が普段は苦手そうな子も「おいしい」と言って食べています。それを見ていて私はおもしろいなあ、と思いました。そして手作り絵本で種明かしがされます。実はどの色のディップも「にんじん」だったのです。

私も朝いい香りがしている時に、これ何?って聞いたのですが、どれもにんじんだと聞いてびっくりしました。子どもたちは、パンに塗って、混ざて食べたので、それぞれの味はよくわからなかったはずですが、子どもたちもまさか、これがにんじんとは思わなかったようです。

こんな活動をしてみたのは、ちょっと理由があります。子どもが何かを体験するとき、その「出合い方」次第で、体験の質が大きく変わることがあります。それは食べ物もそう。子どもが環境とかかわると言っても、その環境から受ける刺激が、その子どもに合っておらず、選べない、という場面が生じます。

それは絵の具との出合い方でも感じてきました。描くための道具として絵の具と出合ってしまうと、その多様な可能性が狭まってしまうのです。絵を上手に描くための手段としての絵の具の上手な使い方、みたいになってしまうと、私などは「色との出会い方が残念」と思ってしまいます。

子どもによっては、音に敏感であったり、匂いに敏感だったり、大きすぎる空間だったり、食べ物の味や食感が合わないこともあります。肌に触られることを嫌がることだってあります。それは、大多数の人と違うからこそ、大切にされなければならない見事な個性です。私の知り合いに、生のりんごは食べられない女性がいます。でも、りんごジャムや焼きりんごは食べることができます。

ちょっと話が広がりすぎるかもしれませんが、この味がこんな味だと区別することは、その味との出会い方、状況によっても変わってくるのではないでしょうか。例えていうと、大人がセンスの良い服や部屋やデザインを好むように、味覚にも、その差異に敏感であることもありそうなのです。

私たちは青を青と思っていますから、誰でもそう見えていると思い込んでいますが、実は実際に見えている色合いは自分しかわからず、他人が同じように見えているとは限りません。ことばの音の文節を学ぶことで、母語(たとえば日本語)を獲得していくのと同じように、私たちは世界に任意の境界線を引くことで、何かを理解しているのです。昆虫や動物はそれぞれの線の引き方で世界を理解しているように、私たちもそういことがあるんじゃない? と思う次第。

 

この場合は、これもにんじん? という発見から多様な「にんじん」というものと出合い、そうでないものとが区別されたのです。こんなことを繰り返していく味覚体験は、きっと私が目指している、食べ物そのものを、もっとよく「味わう」という行為を深めていくことになるはずなのです。そして愛着を感じたり、そのものへのリスペクトが生まれながら、おいしい、という字には「美」が入っていることを、「美味しい」と書くことに納得していくのではないでしょうか。

味にもアート的に「美味しい」と感じる世界がありそうです。今日はその第一回目でした。

 

たにじゅん展 明日25日から 海老原商店で

2022/11/24

「見たもの・出会ったものを残すこと。愛でること」

明日25日から「谷川潤」さんの個展が海老原商店で開かれます。とにかく彼の「描く」という意味が大好き。個展のコンセプトをパネルにこう表していました。

https://www.instagram.com/p/Ck0rn3bJwgs/

 

<描くこと=

大学3年生になった頃にはじめた、「自分と素敵な人・もの・場所との出会いを形にして、贈り物としてその人たちにお渡しすることで、また素敵な出会いのきっかけになっていく、」(たにじゅん日記)

美味しかったパン、一緒に暮らすワンコたち、大好きな人

よく見ること、そして気づいたことを形に残すこと、その行為を通すことで、対象により愛着をもつようになること。

描くことは、僕にとって、目に見えている世界に愛おしさを、より自分の中に深く刻み込む行為であり、また、そうして得られた幸せを、他に人にお裾分けする手段の一つでもあるのです。>

・・・・・・・・・・

こんな関わり方ができる時間。

教育の五領域「表現」のこんなふうになっていくと、いいな。

 

 

自覚的学びへの移行について

2022/10/29

今日はずっと「自覚的学び」への漸進的移行の保育事例を探して過ごしました。そして気づきました。これだと。そしてもう一つの疑問も解消しました。無藤先生の指南のおかげです。それを説明します。

昨日27日午後、交流している他園の先生たちとSTEM保育の勉強会をズームで開き、こんな試みはどうだろうと事例を出し合ったのです。主に光や色、鏡、匂いなど「面白さや不思議さ」から試行錯誤する様子がたくさん報告されました。

その中で「幼児はわかりやすいが、乳児の場合はどうなるのか」が疑問になりました。過去の経験との認識のずれのようなものが「あれ!」という気づきや疑問を生み、どうして?と追究するのでしょう。しかし乳児から幼児前期ごろまでは、自分が「わからないことが分かっていない」ので、外界への問いかけが生まれません。

私はこんな例を出しました。拾ってきた石を洗っていたら、軽石が何個かバケツに浮いているのですが、その3歳児は不思議に思わないという例です。先行する経験の累積的記憶がないと矛盾なり新奇性なりの面白さを感じる認識を持てないのでしょう。これがだんだんと認識的に発達していくと「自分がわかっていないことに気づき、その分からなさに向けて理解を進める営み」としての自覚的学びが始まるというわけです。

例えばその勉強会で報告された事例は「白い花に色水を吸わせると、色がつくのとつかないのがあって不思議がっていた」「浮く沈むの実験に夢中になっていた子は、ちょっと時間があると自分から、これはどうなるだろうと、水槽に水を汲み、芋掘りで取ってきたさつまいもを入れて確かめている」。こういう姿は幼児後半です。

さて、もう一つの「納得的気づき」は、小学生の「自覚的学び」になっていない学びの例です。101日に南アルプス市の「南アルプス子どもの村小中学校」を訪問した時、堀真一郎さんが、こんな小学生にしてはいけない、という例を話されました。こんな算数の問題がわからないという子です。

「旦那さんは1980年生まれ、奥さんは1982年生まれ。二人の年齢の差はいくつでしょう」という問題。その子は「年齢の差を出す出し方は教えてもらっていないからわからない。教えて」と言ったので、堀先生が「そのわからないことを考えるのが、この学校だよ」と答えたら、「ケチ」と言われたそうです。

私はこのような学び方が、勉強に向かっているから「自覚的学び」のようでありながら、本質的な学びではないと考えてしまっていました。そうではなく、これは自覚的な学びになっていないことになります。なぜなら「自分で分かっていないことに気づいていない」からです。

能動的注意が自分の「わからなさ」に焦点化されていないから、と言っていいのでしょうか。理由や論理性のない理解が、ただ正解を解く方法の暗記になってしまっている学習が多くないか、それが学びを面白いものに感じることができず、成績も不振になって学校へ行く動機を見失う、そんなことも不登校の要因の一つなっている可能性は、やはりあるでしょう。

体が喜ぶ瞬間というものがある

2022/10/22

体が喜ぶ瞬間というものがある。そんな体験でした。たとえば会が始まる前から、子どもたちは、本人はそれと気づかずに、思わず体が動き出して気持ちよく踊っている子が出てきて、その光景に出会えて嬉しくなりました。抜群に心地よいパーカッションの「音」と「リズム」で、体が自然と動き出すのをアリアリと感じました。心地よく音やリズムに合わせて体を動かす。これが踊り、舞踏、ダンス、名前は何なわかりませんが、とにかく大切な体の動きのある種類の始まりなんだと思います。

皆さんはいかがでしたか?コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが内容を構成した、親子運動遊び。今回はこの催しも3回目になりましたが、青木さんの友人のアーティストも来てくださり、これまでの音楽に心地よい生のパーカッションのリズムが加わったものになりました。ドラマーの菅田幸典さんです。ミュージシャン坪井先生とのコラボもノリノリでした。

プロの演奏というのは、こうも違うということの体験にもなりました。私も会が始まる前から音楽にあったリズムが刻まれて、思わず歩き出し、体を揺すりたくなります。会が始まる前の注意事項のお願いアナウンスも、正直どうでもよくなってしまいました。

ふだん皆さんは自分の体を、どんな時に「意識」しますか? 鏡を見たとき、体重計に乗ったとき、病気やけがをしたとき、食べ物を選ぶとき・・いろいろな場面で、いろんなことを思い浮かべることでしょう。では、その体の「動き」を意識したことありますか?

ラジオ体操の時間でしょうか、朝や夕方の散歩やランニング? それとも「歩かないで立ち止まってのりましょう」と言われているエレベーターで、一向に歩く人が減らないのを見ているとき?かもしれませんね・・

でも、そこにダンス、踊り、リトミックといった言葉が加わると、一気にそのイメージするものに、私たちの持つイメージが、そちらに吸い寄せられてしまいます。そのような先入観を取り除くのは、とにかく難しい。

そういう概念を全部忘れて、白紙になって、空間や音やリズムに「出会うこと」が、私たち大人には本当に難しいものなんだなあ、と思います。人間は「自由に生きるために勉強する」(苫野一徳)のだとしたら、それこそ、乳幼児の頃から、この思い込みから解放させてあげないといけないのかもしれません。その営みが新しい学校などを作ろうとするときに、大切なものなのだろうと思います。

さて昨日22日の「親子運動遊びの会」は、私もグーパー体操したり、トンネルになったり、マネキンとデザイナーをやったり。見学に来られた方も一緒にやってもらいました。楽しかった。またやりたい!もっとやりたい!そういう気持ちで、また明日からの園生活を楽しみましょう!日常とつながらない行事はさよならです。

*私の大切な願い。厳密にいうと運動会ではありません。日本では運動会、というと別物になってしまいます。その運動会はやりたくありません。練習も入りません。出来栄えも入りません。訓練や鍛錬も入りません。(姉妹園では「成長展〜運動編」という名前になっています。)

本当に体を動かすことの楽しさ、美しさを、親子で実感して楽しむ会です。そう考え出すと学校も体育館、という名称を何かに変えないといけません。アリーナのような場が欲しい。そこには何の評価も要りません。集う人たちの感動と学びと称賛があればいい。生きている時間を愛おしむ時間があればいい。

どんな園ですか?指導計画を見せてください?第三者評価を受けていますか?・・これ、もうやめましょう! あたなの目で、あなたの感性で確かめてください。そしてあなたも一緒に加わりませんか、この楽しい時間作りに。そう言いたくなるのです、いろんな場面で。「あなた」がどこからきた主体者なのか、エージェントなのかが問題なのです。この閉塞感を感じ取る感性を、いつまでも忘れないように、保育の場を蝕まないように、本当に心からお願いします。

 

 

 

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

「夢みる小学校」と南アルプス子どもの村

2022/10/01

9月30日金曜日の夜、オオタヴィン監督の映画「夢見る小学校」を千代田区半蔵門のいきいきプラザで開かれた自主上映会で、やっと観ることができました。今年2月に上映されて話題になっていた映画だったので、ずっと観たいと思っていたのです。この映画は、山梨県南アルプス市の小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画で、こんな小学校が近くにあったら、子どもたちは幸せだろうなぁと思えてくるものでした。多くの人にぜひ見てほしいと思いました。保育園でも自主上映会を開きたいと思います。

そして今日10月1日土曜日、その映画の舞台となった小学校に来ています。南アルプスこどもの村小中学校です。この学園が主催する秋の教育講座に参加しました。話し手は、文化人類学者の辻信一さん。辻さんと言えば、スローライフ、シンプルライフを提唱されている方というイメージを待っていましたが、海老原商店で海老原さんに「ゆっくり小学校」の本を紹介してもらったり、青木さんが辻さんと対談したりして、地域的にも身近な存在になっていました。お目にかかって「これから必要な学校」の基礎固めになりそうな「てつがく」を聞くことができました。

子どもは自然栽培の味噌の「おいしさ」がわかる

2022/09/22

今日の給食のお味噌汁は、自然栽培で作った味噌を使いました。すると、ある子どもが「おいしい」と言って、おかわりをしました。どうも子どもは、この「おいしさ」の違いがわかるようなのです。子どもの身体はまだ自然に近いので、この違いをキャッチするセンサーがあるのでしょうか。この辺りの人体をめぐる科学は、非常に遅れており、身体についてはわかっていないことが、山ほどあります。この今日22日(金)のエピソードを聞いて、次のような話を思い出しました。自然栽培で作られた作物やその発酵食品(この場合は味噌)は、私たちの人体を自然の生態系の一部に戻してくれるという話です。ちょっと長くなりますが、人体と自然との関係を考えると、うちなる自然環境は、実は胃や腸だという話に遡ることになります。

私たちの体の<内部>はどこか?というと、胃や腸は<外部>であって、内部でないと考えることができます。口から肛門までは筒になっていて、外の環境に開かれています。口から物を食べて、肛門から排泄する。その途中で色々なものを体内に取り込んで、体内から不要なものを外の出すわけですが、この通り道の筒は、体の内部ではなく外部だと考えることができます。私たちの人体を大きな一つの筒、トイレットペーパーやサランラップの芯のようは円筒だと思ってください。

その人体の円筒模型は、もっぺらぼうではなくて、ビオトープのような生態系になっています。口と肛門という蓋がつているので、空洞部分の中身は、私たちの意志で開けたり閉めたりできます。ただその円筒の途中にも、幾つも開け閉めできる門があって、その部屋は閉じられています。口腔、胃、小腸、大腸、直腸などの部屋に分かれていると思ってください。その生態系は、例えると、口腔は石畳の庭の入り口のようなもので、食道は草むらの細長い道のようなもので、その先の胃は、洞窟になっていて中はうねるような林です。

さらにその後の小腸はまるで密林のようです。その中には、色々な液体が雨のように降っているジャングルのように湿っており、いろんな生き物が棲んでいます。乳酸菌やフェカリス菌、アシドフィルス菌、ビフィズス菌など、有名なものから、聞いたこともないような不思議な菌類がいっぱい棲んでいます。

私たちは自分の胃や腸を内部だと思っているので、ちょっと見当はずれなことをたくさんしてしまっています。私たちの本当の内部から見たら、この外部である胃や腸の中を、もっといい環境にしてあげる必要があるのです。それは棲んでいる部屋の空間をよくするのと同じように、外部である胃や腸の中をよくすることが大切なのです。最近、よく言われるようになった腸内環境を良くしようというのは、このことです。

すると、腸には口から入れても実は胃のところで強酸で分解されてしまうので、ほとんどの菌はそこで死んでしまいます。先ほどの羅列した菌たちは、腸のビオトープまでは辿り着けません。では、どうやったら腸内環境が良くなるのかというと、腸内環境を含めた円筒模型の中身を、自然の生態系に戻すことが必要になります。そのために、私たちは筒の中だけを問題にするのではなくて、筒の厚さの部分、つまり私たちの肉体、身体そのものを、内側から自然なるものに作り替えていく必要があります。その方法は、自然栽培の世界と私たちの身体を繋いでいくことなのです。

 

風であそぼう

2022/09/13

保育園では毎年、年間テーマを設けています。今年度は「風と光と・・・」というもので、生活の中の風や光に少し興味を持って、子どもの体験が深まったり広がったりすることにつながるといいな、と思っています。たとえば、13日(火)の2歳児クラスをのぞいてみると、うちわで風船を扇いだり、牛乳パックで作ったものを扇いで倒したりして遊んでいました。この遊びは実習生が考えた「風遊び」ですが、このアイデアは、10日(土)に開いた「納涼会」で遊んだ風の実験からつながっているものです。

この「風の実験」は、机の下から噴きあげるサーキュレーターの上に、筒を置いて、その上にいろんなものを「浮かべてみる」という遊びです。風船やスカーフやカップラーメンの容器とか、「こんなものが本当に浮かぶかな?」というものまで浮かんでしまうので、大人が見ても面白い実験装置です。でも大人が面白いと思うことと、子どもが思うものとは違うかもしれません。

風は見えないし、手で触ることもできないので、どういうものかというイメージも持ちにくいはずです。直接さわったり持ったりできないものだけに、それを感じる場面をいろいろ体験して、子どもは、そこから「風」に要素を抽出してくるのだろうと思います。その時の表現(言葉など)は、その子の感じたリアルな感覚なので、誰一人として他の人と同じものにはなりません。いろんな感じ方や表現になることでしょう。

納涼会では、風車を扇風機に当てて、クルクルと回すという遊びもしました。これらの遊びは、風を使ったものですが、普段の生活の中の風体験とどこかでつながって、いろんな気づきを生んでいるのだろうと想像します。暑いときに扇子やうちわで扇ぐと涼しく感じたり、蝋燭の火をふっと吹いて消す時も、それは同じものと思うことがあるのかどうかわかりません。

ジェット機に乗っている時、私たち乗客は外の風を感じることはありません。台風の最大瞬間風速が50メートルと言われても、きっとそれを実感することはできません。子どもの世界で感じる「風」の世界を、たくさん探して集めたりすることで、見えてくる「風」というものがあるのかもしれません。それは子どもなりに、新しい風の体験になっていくかもしれません。そうしたいろいろな経験を重ねる中で、きっといろいろなものを気づき、子どもなりの好奇心が躍動していくのだろうと思います。

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