
昨日の図の説明をもう少し続けましょう。
1歳ちょっとの赤ちゃん(Hちゃん)が私にアンパンマンの絵が載っている靴を見せてくれます。玄関にある保育園の靴です。私がそばにしゃがんで、相手をしてくれると分かっているからか、その靴を手にして「ほら、これ」といった風に、見せてくれます。そのときHちゃんは「ウンパンマン」といいます。靴を黒マットに置いてみたり、棚に戻したり、きっと靴はこうやってここに置いて履いて、と靴を履く動作をしているのでしょう。
大人からみると、何をしたいのかはっきりしないようなことなのですが、その靴が気になって仕方ないようです。そのたびに私が「そうだね、アンパンマンだね。アンパンマンのクックだね」などと、何度も同じことを言って、ことばを返します。

言葉を返す、といっても、私はべつにそれが言葉を教えているつもりはありません。それが「アンパンマン」であるとか、それが「靴というものだ」とか言葉を教えたいわけではありません。Hちゃんのが気になって手にして「これ」と見せてくれているかのように振る舞うジェスチャーに、私が応答し、それを彼女が受け取り、言葉にならない何かがそこに生まれては、交互に行ったり来たりしているかのようなことが生起しています。
ただ、そこで何が起きているのかを明示的に言葉で説明することは難しいのですが、何かコミュニケーションであることは間違いありません。保育の用語では「身近な人と気持ちを通わせる」としかいいようのないことです。これはHちゃんの世界のなかに、身近なものとしての「アンパンマンのクック」が気になるものとして立ち現れ、その世界に私を招き入れてくれているような三者関係ができています。

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さて今日の本題はここからです。
Hちゃんは実物に接するたびにイメージとしての「アンパンマンのクック」を頭の中に思い描いています。実物とつながって表象されているのですが、そこに「アンパンマン」という人の「声」を何度も聞くことを繰り返し経験し、これが「アンパンマン」という名前であることを獲得しています。こうして身体的知は、映像イメージ系と音・言葉系とに分化してそれぞれが豊かに発展していきます。実物の靴の代わりにシンボルとしての表象が分化していくのです。
昨日の図は、その分化発展していく表象の世界のモデル図案です。
Hちゃんが生きている世界に誘ってくれた私は、「アンパンマンのクックだね」などと繰り返し応答するたびに、「Hちゃんの世界」に入り込み、勝手な区切り線を描きこんでいるように感じてしまいます。この社会化の強制力は、無くすわけにもいかなので、やめるわけにもいきません。それでも全体から部分に枝分かれしながら生成変化していく世界が、少しでも輝くように膨らんでくれたらいいな、と願うのです。











