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園長の日記

子どもが子どもを理解していることへのまなざしを

2022/11/23

(今日はですます調ではなく、である調で始まります)

22日火曜日のこと。子どもの泣き声がする。まさに倉橋が書いている廊下の描写のように。

彼女は泣いて訴えている。春に満4歳になった女の子が「 ◯◯コちゃんのママがいい」と訴えている。「いい」というの中には、「まだいて欲しかったのに、どうして帰っちゃったの」という気持ちが含まれている。保育園の玄関で、お友だちもそばで泣き止むのをじっと待ってくれている。子どもたちは何をいうでもなく、頭を撫でてあげたり、どうして泣いているのかを大人に説明してあげているだけ。子どもの方が<気が済むまで、そうしていていいよ、だって寂しいんだから、しょうがないじゃん>といった風に納得している。私にはそういう風に見えた。もし困っていたら「先生」と言いにくるからだ。

その「子どもの子ども理解」。つまり子どもが他の子どもをどう理解しているか、ということをもっと知ってほしいと、子どもと一緒にいる私などはよく思う。心の安全基地は大人だけじゃないよ、って言いたくなることも多い。子どもの世界で起きていることをちゃんと事実としてみてほしいと。でも、それがそう簡単でないことも分かる。なぜなら、子どもが泣いていると、どうして泣いているのかを聞こうともせずに「はい、抱っこ」といって、連れていってしまう大人が多いから。それをそばで見ている子どもが「あ、待って、連れていいかないで!」と言ってくれるならまだしも、そんなことをする勇気は子どもにはまだない。

でもそれが5歳になってくると「先生はまだいいから」と言ってくるようになる。子ども同士がピーステーブルで話し合っていて、なかなか終わらないような時に、どう?って聞くと「もう少し」とか、教えてくれる。子どもたち自身が先生は、僕達のことをちゃんとみて、待ってくれて、困った時は助けてくれる、そういう距離感を知っている。

ところが大人は、子どもが子どもを見守っているというようには見ない。泣いていたら直接関わりにきて泣き止まそうとするし、またそれが世間一般ではそうだから、それが間違いとも言えず、泣いているそばにいる子どもが、まさかじっと待ってあげているなどと想像できないのだ。それも分かる。だから気のいいパートさんに、その関わり方を伝えるのに苦労する。

今回は、その子も周りの子も私の関わり方を知っているから、私ももそばに寄っていって「どうしたいの。助けてあげるよ」と言ってみるが「ううん」と首を横に振って助けはいらないと拒まれる。まあ、そうだろうな、それでいいよ、とうなずいてあげる「わかった」と。さっきまで木場公園で一緒に遊んでもらっていた「◯◯ちゃんのママがいいんだよね、戻ってきてほしいよね」と言ってみる。なんとも言わない。大人が気持ちがわかったからって、そう簡単に泣き止むもんじゃないよ、共感してあげたら泣き止むとでも思っているの!と感じただろう、きっと。すごく賢くて繊細なんだから。

ただ、彼女は私の言葉に否定も肯定もしないので、少し彼女の気持ちに近いところまで近寄れたのかもしれないと思う。私は「じゃ、一緒に◯◯ちゃんママのところに行こうか」と言ってみる。チラリと私を見るが、もういい、という風に「いや!」という。そう、それも嫌だよね、そんなお節介も嫌だよね。

私は心配してそばにいた子どもたちと一緒に、期限が過ぎた掲示物を外して、その紙をビリビリ破って、小さくしては花吹雪を作り始めた。飽きていた子どもたち二人が、その遊びを嬉々として始めた。

内心、もちろん彼女の気が紛れて機嫌が直らないかなあ、と願って、そんなことを始めてみたのだが、それまでの彼女との会話も手伝ってくれたのか、あるいは私もそのビリビリに熱中していたからか、ふと気づくその子も、じっとそれをみていた。もう泣いていなかった。どうして泣き止むことができたのかはわからない。

彼女の「訴え」は、誰かに向けられているものではあるが、研究者たちは私が二人称的に関わったからだと解釈するだろうか。そうだとしたら、子どもも一緒に、その二人称的関わりの一部に入れてくれないかしらん。それも解釈としてはありの理論にしておいてもらいたい。望むものが「訴え」を経て共有されて、望ましいへ変化するのだとしたら、日本的曖昧さの中庸的共有みたいなものがあるのかもしれませんが。

体が喜ぶ瞬間というものがある

2022/10/22

体が喜ぶ瞬間というものがある。そんな体験でした。たとえば会が始まる前から、子どもたちは、本人はそれと気づかずに、思わず体が動き出して気持ちよく踊っている子が出てきて、その光景に出会えて嬉しくなりました。抜群に心地よいパーカッションの「音」と「リズム」で、体が自然と動き出すのをアリアリと感じました。心地よく音やリズムに合わせて体を動かす。これが踊り、舞踏、ダンス、名前は何なわかりませんが、とにかく大切な体の動きのある種類の始まりなんだと思います。

皆さんはいかがでしたか?コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが内容を構成した、親子運動遊び。今回はこの催しも3回目になりましたが、青木さんの友人のアーティストも来てくださり、これまでの音楽に心地よい生のパーカッションのリズムが加わったものになりました。ドラマーの菅田幸典さんです。ミュージシャン坪井先生とのコラボもノリノリでした。

プロの演奏というのは、こうも違うということの体験にもなりました。私も会が始まる前から音楽にあったリズムが刻まれて、思わず歩き出し、体を揺すりたくなります。会が始まる前の注意事項のお願いアナウンスも、正直どうでもよくなってしまいました。

ふだん皆さんは自分の体を、どんな時に「意識」しますか? 鏡を見たとき、体重計に乗ったとき、病気やけがをしたとき、食べ物を選ぶとき・・いろいろな場面で、いろんなことを思い浮かべることでしょう。では、その体の「動き」を意識したことありますか?

ラジオ体操の時間でしょうか、朝や夕方の散歩やランニング? それとも「歩かないで立ち止まってのりましょう」と言われているエレベーターで、一向に歩く人が減らないのを見ているとき?かもしれませんね・・

でも、そこにダンス、踊り、リトミックといった言葉が加わると、一気にそのイメージするものに、私たちの持つイメージが、そちらに吸い寄せられてしまいます。そのような先入観を取り除くのは、とにかく難しい。

そういう概念を全部忘れて、白紙になって、空間や音やリズムに「出会うこと」が、私たち大人には本当に難しいものなんだなあ、と思います。人間は「自由に生きるために勉強する」(苫野一徳)のだとしたら、それこそ、乳幼児の頃から、この思い込みから解放させてあげないといけないのかもしれません。その営みが新しい学校などを作ろうとするときに、大切なものなのだろうと思います。

さて昨日22日の「親子運動遊びの会」は、私もグーパー体操したり、トンネルになったり、マネキンとデザイナーをやったり。見学に来られた方も一緒にやってもらいました。楽しかった。またやりたい!もっとやりたい!そういう気持ちで、また明日からの園生活を楽しみましょう!日常とつながらない行事はさよならです。

*私の大切な願い。厳密にいうと運動会ではありません。日本では運動会、というと別物になってしまいます。その運動会はやりたくありません。練習も入りません。出来栄えも入りません。訓練や鍛錬も入りません。(姉妹園では「成長展〜運動編」という名前になっています。)

本当に体を動かすことの楽しさ、美しさを、親子で実感して楽しむ会です。そう考え出すと学校も体育館、という名称を何かに変えないといけません。アリーナのような場が欲しい。そこには何の評価も要りません。集う人たちの感動と学びと称賛があればいい。生きている時間を愛おしむ時間があればいい。

どんな園ですか?指導計画を見せてください?第三者評価を受けていますか?・・これ、もうやめましょう! あたなの目で、あなたの感性で確かめてください。そしてあなたも一緒に加わりませんか、この楽しい時間作りに。そう言いたくなるのです、いろんな場面で。「あなた」がどこからきた主体者なのか、エージェントなのかが問題なのです。この閉塞感を感じ取る感性を、いつまでも忘れないように、保育の場を蝕まないように、本当に心からお願いします。

 

 

 

「ありのまま」の受け止め方について

2022/10/17

「アナ、かわいいね!」って声をかけたら、「ちがう!エルサ!!」っておこられました。

ごっこ遊びの場所には、コスチュームや衣装が置いてあるので、それを来てアナ雪の世界を楽しんでいます。男の子もアナかエルサになったりしています。

こういう失敗が、私の場合、時々あります。この辺りの会話は、キャラクターやジェンダーのテーマとからむので、気を使うのですが、そういうことを考えていると、冒頭のように大事なことをハズしてしまいます。「そこ、はずしたら、ダメじゃん!」のパターンです。

「アナと雪の女王」は先生の女王役が登場したりして、数年前に劇遊びでよく盛り上がりました。そして例の「♪ありの〜ままの〜」が歌われます。思い出すと、懐かしいですね。

当園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」なのですが、昔、タレントの木梨さん(とんねるず)がテレビ番組の収録で保育士の体験に来たことがあって、保育を体験した後の感想で「この保育園なら、うちの子がどんなタイプかわかるなあ」と言っていました。つまり、その子らしさを、そのままま出せる場所だという意味です。そういう感想をもらうと嬉しかったことを思い出します。

また転園してきた子のお母さんが「初めて保育園でトレイできました」と泣かれたことありました。ストレスで頭部に丸い脱毛があった子が、うちにきて治ったりしました。「大声を出しているから声が枯れてしまう」という先生が見学にいらして「ここなら定年まで働けそう」と言われたり。居場所というのは、精神的な安全基地になるということが大きいのでしょう。学校に居場所がないなら、家庭も地域も新しい学校にするといい。ネット技術があるからできるはず。それがソサエティ5・0です。

さまざまな欲求が適切に満たされることで情緒は安定し、エネルギーを補給してもらって、自分から一歩を踏み出したり、歩み始めたり、走り出したりします。そうするスタート地点になれる「場」というのは、鯨岡先生が強調され続けておられるように養護の最も大切な働きです。心の安定した生活にすることが養護ですから、心理的な安全基地、避難場所がどの子にも必要です。大人も持っていますが。

一向に虐待が減らないという話で「安全感の輪」を持ち出すなら、安全基地の方は、何か困った時に戻ってくる場所でもあるので、その場は見通しがよく、動かないことが大事だと言われ、子どもにとっては「あそこに戻ればいい」という見通しが、安心感をもたらします。

でも今度はその輪の右側の方はどう考えましょう。子どもが安全基地から歩み出し、遊び始める場の方です。こちらは遊びや学びの文化的実践の場であってほしい。こちら側を教育の面から見たら、心情や意欲や態度が育ち、学びに向かう体験の場と言ってもいいのでしょう。

「ありのまま」「その子なりの」「自分らしく」といった言葉の後に「〜でいい」がくっつくと、「そうかな?」「ママでいいかしらん?」となるかもしれませんね。もし、何か物足りないような、積極的に感じられないような、それは安全基地の機能、養護の機能だけを感じ取るからでしょうか。

実は、私たち保育者が大事にしている養護は、常に教育と一体なので、養護の場でありながら、同時に子どもは一歩を踏み出す先の空間、もの、事象としての場とコインの裏表のようにセットで考えます。別のモデルですが佐伯さんのドーナッツ理論でいうなら、三人称側の外側との接面も常にある。でないとドーナツの厚みにならない。現実的には共同生活の場である保育園には、たとえ「かけっこ」で尻込みしても「ネット遊び」や「ダンス」や「泳ぎ」や「お絵描き」や「歌」や・・・と、その子の周りには、自分らしさを発揮している子どもたちがいっぱいです。その選択肢が少ないと、みんな同じ活動に向かわされてしまい、子どもに切ない思いをさせてしまいかねません。

子どもと大人が向かい合っている状況の中での「問い」は、大抵の場合、人類の長い子育ての歴史から見たら「例外」です。大人がどう考えるか、謎のように思える問いは、子どもたち同士の関係が豊かにある「場」では、さほど問題になりません。実際には子どもは自分で他の子どもの中へ体験し学び取る力を持っているからです。そんな事例は毎日のように起きています。やってみたくなる選択肢が身近にいくらでもあるし、それぞれに没頭している<本気なモデル>や<魅力的な刺激>がいっぱいあります。子ども同士、集団の中での精神の生態学がもっと語られてほしい。

アフォーダンスの拡張理論ができたら面白いですが、従来の社会構造主義でもいいので、子ども同士にもっと目を向けてほしい。無藤先生がずっとこの分野をていねいに整理なさってこられたところを。集団的敏感性のところを。

どの子にっても、多様な参照・選択・自己決定がしやすいように環境(子どもという人的環境が要)を用意したい。困ってる子どもに、アドバイスをする子どももいます。映画「こどもかいぎ」には、そんな子ども同士の話の場面もあります。タレントの木梨さんは、その多様性が受け入れられていることを感じたそうです。インクルージョンです。

この辺りのことを、「保育所指針の解説書」には保育所の目標のところで、こう書いています。

・・・保育所は、それぞれに特色や保育方針があり、また、施設の規模や地域性などにより、その行う保育の在り様も様々に異なる。しかし、全ての保育所に共通する保育の目標は、保育所保育指針に示されているように、子どもの保育を通して、「子どもが現在を最も良く生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培う」ことと、入所する子どもの保護者に対し、その援助に当たるということである。

乳幼児期は、生涯にわたる人間形成にとって極めて重要な時期である。 保育所は、この時期の子どもたちの「現在」が、心地よく生き生きと幸せなものとなるとともに、長期的視野をもってその「未来」を見据えた時、生涯にわたる生きる力の基礎が培われることを目標として、保育を行う。その際、子どもの現在のありのままを受け止め、その心の安定を 図りながらきめ細かく対応していくとともに、一人一人の子どもの可能性や育つ力を認め、尊重することが重要である。・・・

このようにして、赤い文字の抽象的な記述のところの意味を、具体的な保育事例を通じて実感していくために、学生たちには実習期間を長くとってあげてほしい。そして「子どもと大人」のセットの保育モデルと保育の心理学の語りから抜け出し、「子どもたち」の中の子どもこそが、本来の子どもがいるべき関係なのだということ、しかも異年齢の生活の方が関係が選択できる仲間関係も豊かになることを訴え続けたいと思います。その子ども同士の関係の中で、子どもの持っている潜在的な力も引き出され、生かされていくことへ、保育の形態を導くべきでしょう。

#アフォーダンス

#生態学的知覚システム

表象としてのコンテンポラリーダンスの魅力

2022/10/05

「今日は青木さんがくる!ダンスができる!」

そういうふうに「嬉しがる子どもたち」の姿に接すると、こちらの方が嬉しくなります。コンテンポラリー・ダンスにしていて、よかった、と思います。決まった振り付け通りに踊るダンスではなく、自分のイメージ(表象)を身体表現にするダンスです。ですから同じ形にはなりません。その子らしいダンスです。しかも、これがダンス? と思うほど、その表現は幅広いものです。じゃれ遊び、わらべうた遊びのようなダンスでもあり、私はこれこそがダルクローズが思い描いたリトミックの再生ではないかと思っています。

ジャンケンの「ぐー」をしてみてください。そう言われたら、大抵の人は手で「ぐー」を作るでしょう。では「顔でグーをしてください」と言われたら、どうしますか? 子どもたちは、難なく顔でグーを表します。では全身だったら? こんなふうに表象と表現を結びつける想像力を楽しむダンスなのです。走ったり、跳んだり、転がったり、急に動いたり止まったり。頭から足先までの身体の部位を意識して動かしたり、動くところと動かないところを意識したり、自分の格好がどうなっているのかを想像したり、常に頭の中も動かしています。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には、教育の領域「健康」の心情のねらいとして「自分から体を動かすことを楽しむ」、意欲のねらいとして「自分の体を十分に動かし、様々な動きをしようとする」とあります。これを具体化したものの一つが、ダンスです。0歳の赤ちゃんから6歳の年長まで、同じ考え方です。また教育の領域「表現」では、心情として「身体の諸感覚の経験を豊かにし、様々な感覚を味わう」が、意欲として「感じたことや考えたことなどを自分なりに表現しようとする」が、ねらいになっており、ダンスにはそれも含まれます。

ダンスですから、健康や表現がまず、教育のねらいとしてふさわしい活動になるのは、想像しやすいでしょう。ところが、実際に楽しんでいるダンスを見てみるなら、さらに人間関係や、環境でもそのねらいを具体化したものになっていることがわかります。人間関係の「身近な人と関わる心地よさを感じる」「周囲の子ども等への興味や関心が高まり、関わりをもとうとする」も当てはまります。また環境の「身近な環境に親しみ、触れ合う中で、様々なものに興味や関心をもつ」「様々なものに関わる中で、発見を楽しんだり、考えたりしようとする」さえも該当するから、面白いのです。

総合的な保育、というキーワードがあります。これは一つの活動が色々な要素を取り込んで総合的な活動になるように、という意味ではありません。子どもの体験はいろんな場面で起きており、一見、バラバラに起きる体験が、実はつながりを持った発達の経験になっていくという意味での「総合的」なのです。しかし、このコンテンポラリーダンスを、五領域の視座から分析してみると、とても豊かな経験になっていることがおわかりいただけると思います。

さらに実は、言葉の領域からも「非言語的コミュニケーション」や「身体の声」という活動になっていることも、添えておきたいと思います。

自分の感情をしり相手の感情にも気づく

2022/10/03

この図は、脳のセンシィティビティ、つまり脳の感受性(敏感性)が年齢とともにどう変化するかを表したグラフです。藤森先生はこの8年ぐらい、何度も何度もこのグラフの重要性を説いてきました。今の保育所保育指針で乳児が重要視されることになったことのエビデンスの一つです。いろんな線がありますが、ほとんどが満3歳までにピークを迎えていることに、ご注目ください。そのテーマの力が身につくには、その時期に体験することが望ましいことを意味します。

例えば白は視力ですが、誕生時にすでに最も高い感受性を持っています。ですから、生まれてすぐに光に当たること(ものを見ること)が必要だということがわかります。もし目に光をあてないで塞いだままで数年過ごすと、失明します。その時期をすぎて光を当てても、視力は回復しません。ものを見る力が発達せずに失われてしまいます。聞くことも、同様に生まれる前から聞こえていることがわかります。その力を基盤にして、言語の発達も、黄色の曲線のように初語を発する満1歳ごろがピークなのです。このような時期を臨界期ともいいます。人類は長い進化の過程でこのような脳の発達の特徴を得たわけですが、この特徴の中に、人類の生活の姿、子育ての姿を読み取ることができます。

さて、ここでピンク色の「エモーショナル・コントロール」、つまり「感情を制御する力」が最も敏感なのは、1歳半ごろだということも注目に値します。感情は、人との関係がなければ、あまり生まれないものだからです。喜怒哀楽の感情は、人間関係の多様性があって初めて豊かになるものだからです。

どんなに豊かな感情体験をしているのかは、1歳児クラスのブログをご覧ください。特に今日3日の内容は、この感情体験の重要性がよくわかる内容になっています。当園では1歳児クラスの子どもたちが、いろんな関わりを体験しながら生活しています。中でも、好きな先生に自分が感じている感情について「楽しいね」とか「悲しいね」と、言葉で表現してもらいながら、先生は子どもの気持ちに「偽りのない共感」を寄せてあげています。これは極めて重要なケアでありエデュケーションです。まさしく質の高い「エデュケア」(保育という意味)になっているのです。ここに教育におけるケアがいかに重要かということが、見事に描写されています。この描写は、幼稚園や学校の教育者が噛みしめていただきたい教育原理を示しています。

ところで、なぜ、感情コントロールの敏感期がこんなに早い時期なのでしょうか? ここに極めて重要は示唆が含まれています。乳児の担当制がよくない理由もここにあります。人間の子育ては、村を単位にしていました。子育ては共同保育だったのです。核家族で子育てをしてきたことはないのです。毎年子どもを産む多産が人類の特徴であり、脳が大きくなった人類は未熟なうちに出産し(ポルトマンの生理的早産)、一人の子どもが育つには村中の人が必要(人類発祥の地であるアフリカの諺)だったのです。その人的環境が、赤ちゃんの脳の感受性の特徴に現れているのです。

0歳の時から、赤ちゃん同士の体験が必要です。満1歳になる頃までに、豊かな人間関係を体験することが大事です。保育園を見学に来られる方と仲良くなると、お母さんに抱かれていた赤ちゃんは私に抱っこされても平気です。「お母さんが警戒していない人だから、抱っこされても大丈夫だな」と、赤ちゃんはすでに感情的な判断をしています。いろんな人に抱っこされる経験が、赤ちゃんには大切なのです。そして、子ども同士の関わりがたくさんある人的環境が、乳児保育には必要です。だから、全ての赤ちゃんが数時間でも保育園で過ごすことが大事なことなのです。

それは子どもの発達を保障するだけではなく、子育てのつらさを軽減して児童虐待を防ぐ、子育て支援の本道であり、子育てのコミュニティづくりに貢献します。その延長上に、その子らしく生きる子どもたちの学びと自治力(自信を持って他者と共存していく力、共生と貢献の力)が育っていくのです。

子どもの感情に気づき、言葉を結びつけてあげること

2022/09/27

「自分の感情に気づく頃なので、Kちゃん、怒っているんだよね、って、言ってあげるようにしています。そしたら、自分で『もう、◯◯(自分の名前)、怒ってるの』と、言ってこうやって(怒っているという仕草)・・」。

実習生の反省会で、1歳児クラスのS先生が、保育の意図を説明してくれます。それを聞いていて、私は感動してしまいます。子どもの発達を理解しているからこそ、その時に必要な言語環境をデザインしているからです。1歳児クラスといえども、4月以降に誕生日を迎えている子どもたちはすでに満2歳になっており、言葉の爆発的な獲得期に入っています。質問期でもあり、何にでも「これは?」と聞いて、いろんな言葉を覚えていく頃でもあります。

そんな時期は、自分のことをもう一人の自分が客観的に眺めるような視点を獲得して、自分はこうなんだ、と他者に説明できるようにもなってきます。その時、自分が楽しいんだ、嬉しいんだ、怒っているんだ、悲しいんだ、辛いんだ、というような大まかな感情も「自己認知」できていることに、担任は気づき、冒頭のような言葉をかけているのです。あえて意識して、そうしてあげているのです。

実習生たちは、「保育の過程」というものを学びます。それは「子ども理解」に始まり、その子どもの姿にふさわしい「環境の(再)構成」を行うことで、子どもは新しい体験をします。その体験が発達を促したり、新たな学びになるので、その子どもの姿を予想する、ということをします。指導案の書類には「予想される子どもの姿」という欄が用意されています。

今回のケースでも、子どもの発達理解があって、言葉を変えている担任の判断の中には、このような「子ども理解」をもとにして担任という「人的環境」のあり方を変えている、という「保育の過程」を見てとることもできます。実際の保育というものは、そんな回りくどいことを、いちいち考えているわけではないのですが、いずれにしても大事なのは、子どもが何を感じてどう思っているのかを、敏感に感じ取る力が保育者には必要で、そのセンサーの感度が、子どもにふさわしい次の体験を用意していくことになる、ということでしょう。

そんなことを反省会では実習生に伝えています。そして伝えながら、私たち自身も自らの保育を振り返るのでした。

0歳からの入園をお勧めします

2022/09/23

全ての赤ちゃんが、0歳児クラスに入園してほしい。育児休暇が長く取れるようになったから1歳児クラスからでいいと思わないで、0歳から子ども同士の関わりを体験してほしい。そう思うことが、保育園をやっていると、強く思います。その理由はいろいろあるのですが、最も大きい理由は、子どもの成長、発達には満1歳前後からの、子ども同士の関わりが、とても大切な体験になっているからです。それは脳の発達からも人類の進化からも、自然なことになっているからです。そのようなことの積み重ねを、小さいうちから行っていくことがいかに大切なことかを、日本全国の子育て家庭に強く訴えたいという衝動に駆られます。

たくさんあるエピソードの中で、昨日のちっち組(0歳児クラス)のエピソードは、それをよく表していますので、いかにそのまま載せたいと思います。名前はイニシャルに、写真はイラストに加工しました。

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タイトル「取り合いっこも大切な経験に」

Yくんが、鏡を手に入れて遊んでいると、Rちゃんがやってきて、鏡をのぞいています。

するとだんだん、ふたりとも鏡で遊びたくなって…

『ちょうだ〜い〜‼︎』

でも、Yくんもまだ使っているので、再びしっかりホールドしています。

ゲットできなかった悔しさで大人のひざに顔をうずめにくるRちゃんでした。

「Rちゃんも、ほしかったのねぇ。。」
最近のちっちさんは、こんなふうにお友だちと玩具を引っ張り合いっこしたり、取り合って怒ったり…という姿が見られるようになってきて、春のころの小さい”赤ちゃん”から、だんだんと、ぐんぐんさんらしい姿も出てきたなぁと成長を感じています。自分の気持ちを思い切り主張し合えるようになってきたようです。

これからきっと、もっともっとたくさんケンカして、怒って泣いて、悔しい思いをして葛藤して…といろんな体験をしていくでしょう。
そんなときに、まずは、お互いの子どもの気持ちを言葉にのせて伝えてあげることを大切にしています。大人がジャッジしたり解決したりしようとするのではなく、あくまで、子どもたち自身が自分の気持ちや相手の気持ちに少しずつ気付いていくことができるよう・・・そして、子ども同士の気持ちのやりとりの橋渡し役となれるよう、支えていきます。
大人が「良い、わるい」…を判断して押し付けなくても、ほんとうは、子ども自身がよく分かっているのではないかな、と感じます。
実は、この取り合いっこの場面でも、Rちゃん、もう少し引っ張ったら鏡を取ってしまうことができたと思うのです。でも、すぐ引っ張るのをやめて、手に入れられなかった悔しさを大人に受け止めてもらいにきました。
こうやって、子どもたち自身、自分なりに(どうしようか)と選んでいるんだなぁと感じました。

気持ちを受け止めてもらったり寄り添ってもらったりしながら、その経験を重ねていく中で、子どもたちは少しずつ友だち同士でやりとりしていくことを学んでいきます。それは、とても時間のかかることですが、一つ一つが ちっちさんの頃からの積み重ねなのだと考えています。
そう思うと、ちっちぐんぐんの時期は、お友だちとのやりとりや関係を学び築いていくための、最も大事な時期とも言えそうですね。

このあと、にこにこ組のAちゃんとRちゃんが、ふたりでおしゃべりしながら鏡を覗き込んでいました。


この場面はこの場面で なんだかほほえましい光景ですが、このふたりも、これまで何度も何度もケンカして気持ちをぶつけ合ったり気持ちを通わせたり…という経験をちっちさんの頃から繰り返してきたはずです。

にこにこ組(2歳児クラス)の頃になると、こんな風にお友だち同士の関係もますます深まって、一緒に使ったり、取り合いになっても相談し合ったりできるような姿も見られます。
それは、ちっち組のみんなの数年後の姿でもあるのかもしれないですね。そんなことを考えながら、いまこの時期を、丁寧に大切に過ごしていきたいなぁ、と改めて思ったのでした。

すいすいの「こどもかいぎ」

2022/06/20

すいすい組がミーティングを続けています。年長による「こどもかいぎ」です。何かのテーマについて自分の考えや思いを口にしてみる、伝えてみる、受け止めてもらう、そして場合によってはみんなの考えになっていく・・・そんなプロセスを経て、ある物事が決まっていく。年長組という小さな社会での意思決定プロセスにも立派な民主的手続きが芽生えています。

最近、目に見える形で「すいすい殿の10人」が決めたものは、今週の散歩でどこにいくか、何をするか、でした。その結果、すいすい組の今日の戸外活動先は「秋葉原練塀公園」に、先週のうちから決まっていたのです。

週案をこどもたちが決めていく。生活や学びをプランニングしていく試みが、年長さんたちから始まっています。

3〜5歳の部屋は3階ですが、朝のお集まりは2階のダイニングで開かれます。すいすい組の部分的週案をもとに、らんらん(4歳児クラス)、わいわい(3歳児クラス)のこどもたちも、外に行くか室内で過ごすか、考えながら選んでいました。

選ぶときに「行ったことがないから、どんなところか行ってみようかな」とか「あそこに行って、こんなことしてみたい」とか「お部屋で園長ライオンしたい」とか、いろんなプランを思い浮かべていることがわかります。この見通しをもつ、計画を思い描くことが大事です。この「思考」のところが、まさしく非認知的スキルの育成の瞬間なのですが、ポイントは見通しや思い描くための「材料」を、一人ひとりの子どもが持っているか、です。

一度行ったことがあれば、その体験に基づいて「また行ってみたい」「もっとやってみたい」ということになるのですが、やったことのない場所や活動については、選択対象に入ってこないので、自分でこれまでやってきた体験から選ぶことになってしまいます。

そこで新しい体験をこども自身が選ぶことは難しい、という前提に立って、誘う、導く、試すといったことが必要になります。これが教育界でよく使われる言葉「動機づけ」です。私たち保育の中では、子どもに見えるようにすることで、子どもたちが最初から持って生まれてくる好奇心や利他性などに働きかけます。

子どもは本来「新しいもの好き」なので、その新規性の刺激を与えて、触ってみたい!やってみたい!に点火します。手にとってやってみる、行ってみる、試してみる・・その世界を広げていくことが環境を通した保育の動機づけの部分になります。晴れた日に出かける公園をどこにするか。それも子どものが生活を作り上げていく参画になっていくのです。

すいすい「ブレーメンのおんがくたい」

2021/12/23

私は、社会の中で大人になるというのは、自分の意見をしっかりもつ、ということと同時に、他人の意見もしっかり受け止めるという両立や合意や共生を創り上げていくことだと思っています。保育所保育指針や幼稚園教育要領の教育のねらいにこうあります。「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」(人間関係)。人は協力するために自立するのです。

現代の社会の大きな課題の一つは、このデモクラシーの危機と直面していることです。保育園生活といえども、立派な人格を持った一人ひとりの子どもたちが、大人と一緒に創り上げていく生活ですから、その生活の中には、意見の調整という力の育ちも期待されています。何かを創り上げていく中で、そうした営みに、どれだけ一人ひとりが「参画」できているかが、保育の大きな焦点になります。

人間関係が発達していくというのは、このような力が引き出されて育っていくような集団になっていくことを意味します。すいすい組という小さなコミュニティが、どのように成長してきたか、そこを感じてもらえたら嬉しいです。

ですから、まず、好きなお話がそれぞれあって、どれにするかを自分たちで決めることができたところに、とても大きな発達の意味を感じます。

以下、担任が見とった言葉を紹介します。公開動画のイントロダクションから、引用したところは<  >で表します。

<数冊ある絵本との出会いから始まった話し合い>。テーブルには「おおさまとこどもたち」「ブレーメンのおんがくたい」が乗っていますが、実は「スイミー」も候補になっていました。

<子どもたちが元々知っている絵本もあれば、新しく見た絵本もある中で、話し合いが始まりました。初めは「ぼくは、わたしは、これがいい」と自分の意見を伝え合うだけだったのが、話し合いの途中から。「どうやって決めようか?」「どうしてこれがいいの?」「やりたい役はどれ?」と相手の気持ちを引き出すやりとりが始まりました。ただ、そうはいってもなかなか決まらず、「こっちの絵本で◯◯役をやりたい」と、話し合いは1時間続きました。そんな中、子どもたちの中で意見をまとめる役が生まれて、一人ひとりの気持ちを聞き、譲ってあげる子がでてきたり、提案する子が出たりして、劇遊びは「ブレーメンのおんがくたい」に決定しました。>

まず、ここが素晴らしいですね。決まるまでの過程に大きな成長を感じます。

さらに、すいすい組(5歳児クラス)の劇遊びを見ていると、劇が仕上がっていく過程で、子ども自身がその面白さを発見してくことプロセスが伝わってきます。

<台本を見ながら読み合わせをしたり、自分の役の台詞を何度も練習したり、練習する時間は少なかったですが、すいすい組みんなで協力しながら取り組んできました。練習が終わると「またやりたい!」とアンコールが出るほど、子どもたちは楽しんでいたようです。友だちと一緒にいう台詞、一人でいう台詞、それぞれの表現で楽しんで出来たと思います。>

関係性の発達として、付け加えるなら、子どもたちは保護者の皆さんに録画して見られる、ということを知っていますから、「よく演じる」という意識も感じられます。その場合の「よく」ということは、本人たちは、それこそ「よく」は、わかっていないのですが、それでも「見られる自分」ということから「演じる」という役者的な振る舞いが感じられるところが少しありました。

またナレーターも登場したり、台詞も随分と長いものになっています。らんらん組の時に「人生は旅に例えられる」という話をしましたが、この「ブレーメンのおんがくたい」も、その典型的なお話でしょう。旅に出て知らない人と出会い、悪と闘い、守るべき価値に気づく。生きることの真実に触れている感触が、謎のようになって残るような物語。長く伝わっている神話やお話というのは、どの物語にも、行って帰ってくる幸せの場所が示されていますね。

劇遊びの世界と現実の世界。その区切りも、自分たちで「おしまい!」と宣言して、「〇〇を演じた◯◯です」と自己紹介という形で、保育園生活に戻ってきます。そして「また、やりたい!」と、子どもの本分=遊びへと帰っていくのでした。

 

らんらん組「らんらん電車」

2021/12/22

本編の始まる前の、イントロダクション動画で、ごっこ遊びが大好きな子どもたちの様子が紹介されています。ごっこ遊びの中に、「お昼寝ごっこ」があるって、保育園らしいですね。布団をかけてお昼寝中♪です。ホントに可愛いですね。さて、らんらん組(4歳児クラス)になると、興味や関心の世界が広がって、多様性が増していく時期です。物語のヒロインやお気に入りの動物や恐竜など、まさしく十人色。やりたいごっこ遊びも多様になって、一つのまとまりを持たせた劇遊びにするのはむずかしい年頃かもしれません。そこで先生が注目したのは「のりものごっこ」でした。

子どもたちの「ごっこ遊び」は、生活体験の再現であることが多いのですが、その生活体験の中には、絵本や紙芝居をみたり、物語を楽しんだりすることも含まれています。リアルな生活の中に空想や仮想の世界が広がっています。この精神世界を持っているのは、人間だけです。動物はその世界を生きることはできません。しかも自分の人生を大きな物語の中に位置付け直すような想像力を持っているからこそ、聖書が書かれたり、仏典が残されたり、昔話や神話が語り継がれたりしているのです。

その大きな物語の世界へ、大きくなるにつれて、子どもたちも次第に参加していくようになるのですが、それがまた大人になること、成長することとも言えるのでしょうが、その物語には決まって同じ要素が含まれます。それは一体、なんでしょう?

神話学の中で定説になっているものは、人生を旅に例える物語性です。どこからかやってきて、どこかへ去っていく。出発があってたどり着く場所がある。誰からやってきて何かをして去っていく。どこかへ旅たち何かを探し求める。その過程で誰かと出会い、何かが起きる。その過程の中に、人は意味や意義を見出そうとする。絵本のお話も、大人向けの映画も、語り継がれている物語は大抵、人生が旅であるというモチーフになっていることになります。子どもたちの人生号「らんらん電車」も、新しい出会いを求めて出発していくのでした。

<・・・友だちと設定を決めて楽しむ姿がたくさんあります!こちらは、のりものごっこを楽しんでいます!みんなでアイデアを出し合って工夫して遊んでいますね♪のりもの好きのらんらんさんの姿から・・・お楽しみ会のテーマは「のりもの」にしようと決めました! ・・・>

運転手さんが「らんらん電車 出発進行!」と電車を走らせていくと、いろんなお客さんが待っていました。こやぎ、恐竜、プリンセス、うさぎが、それぞれの駅で「乗せてくださいな」と乗り込んできます。<・・個性豊かなところがとっても素敵ならんらんさん!一人ひとり、自分の好きなもの、好きなことがありますね。一人ひとりにぴったりの役を用意し、みんなで話し合ってなりたい役を決めました・・・>

他愛のない乗り物ごっこですが、あえて、やや大袈裟に捉えてみました。この子たちがすでに大きな人生の入り口に立っているんだあ! どんな人生が待っているんだろう! そう思うと、イントロダクションの説明が、なんだか示唆的に見えてきませんか?

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