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2020年 8月

能は飛び出す絵本だった?!

2020/08/31

能や狂言は、大人の絵本だと思って見てごらん、と学生に語ったことがあります。物語の内容にそれほどの差異はなく、舞台芸術か紙媒体かという違いはあっても、能は飛び出す絵本のようなものだよ、そう思って見たら、とても面白いよ、と。

能の物語の中で、この世のものではない幻想性を背負って登場するのがシテであり、その物語を可視化してくれるものがワキの役割ですから、絵本はその製本と編集の中にワキと同じ役割があるのかもしれません。

そんなことを考えてしまったきっかけは、物語の中に潜む「日本らしさ」を調べていた時です。子どもに読んであげたい絵本を紹介しているものの中に、必ずといっていいほど登場する「さんびきのやぎのがらがらどん」と、柳田国男が日本のオリジナルな物語だと思い込んでしまった「大工と鬼六」が、実はどちらも同じ北欧の伝説に起源を持ちます。

論文「大工と鬼六」

子どもたちがお話の中に引き込まれていくのは、「次はどうなるんだろう」というワクワク感、ドキドキ感があるのが大きいのですが、大人になると「子ども騙し」では本気になれないので、大義や正義や手の込んだミステリーや圧倒的な力の張り合いなどを必要とします。

横浜で今、展覧会が開かれていますが、私はバンクシーの絵が、良質な絵本の物語のあり方に最も近いものを感じます。「あ、絵本を紙じゃなくてストリートにしたのか!と」。ちゃんと時間が止まっていて、絵を(言葉じゃなくて)読むことができて、その気づきまでの間が楽しい。

きっと印象派が登場した時のセンセーショナルな新鮮さは、こんな感じで当時のタブーに触れていたのかもしれないとさえ、感じます。そして、この新鮮さに似た面白さを子どもたちは絵本の昔話に感じてほしい。子どもは本来的に、そんな風刺的センスをもっていて、それを楽しんでいるなと感じるからでもあります。また、狂言のようなおかしみのセンスも持ち合わせています。そんな言葉と表現の感性をくすぐるような、絵本との出会いの時間があったらステキだなと、最近考え始めています。

いい絵本やお話が想像力を豊かに

2020/08/29

私たちは、この子どもの想像力が作り出している物語に気づくことができるといいのですが、そばにいてもそれがわからないことが多いものです。そばにいる子どものことでさえ、紡ぎ出している「物語」の内容を知ることが難しかったりするのですが、さらに知ることが難しいかもしれないのは、私たち自身が、知らない間に、大きな物語の中の「役者」になっていることです。

◆ライフサイクルの物語

たとえばーー。自分や家族のために努力して生きてきた人たちが、我が子の子育てを終えて、自分の仕事もリタイアしたとき、次世代を担う後継者の育成に力を入れたり、あるいは孫や他人の子どもの教育に「人生最後の情熱」を傾けようとする姿に出会います。

この世代間のバトンタッチもまた、人間だけが見せる「文化」の一つかもしれません。しかも世代から世代へと後戻りしない前進です。それまでの功績や遺産を後世に受け渡していくので「文化の累進的進化」といわれています。

紐を締める工具に「ラチェット」というのがあります。カチャカチャとハンドルを回すと紐がピーンと締まるのですが、手を離しても歯車は戻りません。そこから、後戻りしない前進を「ラチェット効果」といいます。これが人類の文明の前進力になっています。

現役の時は同世代と熾烈な競争を演じるのに、その戦場から退くと、次世代には今の世代を乗り越えていってほしいと願うようになるのは、面白いですね。

ところで、競い合いの舞台から降りて初めて、自分を客席から眺めてみて気づくことがあるのです。「あのガムシャに勉強し、競い合わざるを得なかった市場原理とは、いったい何だったんだろう?」と、今になって冷静さを取り戻すわけです。ただ、もっと早く、その市場から撤退して生きている人も増えている気がします。私たちは経済成長という物語から逃れられる方法を発明しなければなりません。

◆いい絵本やお話が子どもの想像力を豊かにする

文字がまだない時代。旧石器時代から伝わる口承文化には、人生とはなんたるものか、ということを物語で語り明かしてくれます。人生の大先輩が子どもに語り聞かせておきたいと願ったものが、綿々と受け継がれてきたもの。それが昔話でした。人生の最後の情熱が昔話を語ることだったと考えると、その内容に目を凝らしたくなります。

そうだったからこそ、言葉を聞いて意味が分かり始めるころ、昔話を聞かせてもらうことは、再現衝動の中で生きる子どもにとって、紡ぎ出す遊びも豊かにしていたはずです。絵本を読んであげたい理由はこの辺にもあります。

昨日、2歳の子どもたちが取り合ったウサギの話をしましたが、それに投影された子どものイメージがあるはずで、そのイメージは、良質な物語に接することで、また違ったストーリーになっていくのでしょう。子どもたちのウサギが必要になった物語を想像しながら、どんなお話で彼らが生きる世界を用意してあげたらいいのか。それを考えることも「環境を通した保育」に違いないのです。彼らにふさわしい昔話というものがあるかもしれません。

物語の中で「気」が躍動する

2020/08/28

園だより9月号「巻頭言」の続きです。

このところ、絵本や昔話に関する話を語ってきましたが、次のような物語に、似ているものを見つけました。2歳の子ども同士の「人形の取り合い」を生じさせる物語と、ライフサイクルの最終段階になって気づく人生の物語です。

◆2歳の子どもの物語

25日(火)のことでした。午後2時過ぎから30分ほど、午睡中の2歳児クラス「にこにこ組」で担任とミーティングをしていました。そのとき、子ども2人が、私たちのそばで、パズルをして遊んでいました。傍らで見ていると、仲良く遊んでいた2人ですが、突然、お気に入りのウサギの人形を独り占めしたくて、取り合いになります。

なぜ、ついさっきまでは誰も気にとめてもいないその人形が、突然、2人にとっては、一歩も譲れない「わたしのもの」になるのでしょうか。

それは一重に「想像力」の力なんだと思えます。

想像力とは、目に見えないものを思い浮かべることができる力のことですが、そのウサギの人形が、それまでの人形ではなくなり、それぞれの子どもにとって、何か特別な、魅力的な、といってもいい、それじゃなくちゃダメな、何かに変貌したのです。その「何か」は、それぞれの子どもの想像力によって生まれたものです。

◆「気」が変幻自在に物語を動き回る

これを興味や関心が「向いた」という言葉で語りたく「ない」のは、自我と対象を律儀に遠ざけてしまうような言葉遣いに感じるからです。そこで日本語は、「気」という言葉を上手に使い分けます。2人はウサギが「気に入った」のだと説明します。この「気」は子どもからウサギに入ったのか、それともウサギから子どもへ入ったのか、どっちなんでしょうか?

子どもと物との関係を「気」で表す日本語。このテーマに深入りするのは避けますが、ここでは、その気にさせたものはなんだったでしょう? 私はそれは「物語」だと考えています。ウサギが二人に想起させたもの、それは二人が何かをストーリーの中を生きている時に、そのウサギと出逢ってしまったのでしょう。

こんなことができるのは、人間だけなのですが、そばで見ていて、それは一瞬で終わってしまったショートストーリーでした。そして、2人がどんな「物語」の中を生きていたのかわかりませんが、それぞれの遊び始めたストーリーの中で、どうしてもそのウサギには登場してもらわないとならない主役に変わったのです。だから「取り合いになった」のでしょう。

人は物語の中で生きている

2020/08/27

園だより 9月号 巻頭言より

子どもが物語の中で生きるようになるのはいつ頃からなのでしょう。

この数カ月間、子どもがどのように言葉を獲得していくのか、そのプロセスをいろいろ調べてみて分かったことは「多くの謎はまだ解明されていない」ということです。人間はなぜ言葉を操れるのか? どうやって言葉を使いこなすようになったのか? このことは、まだ分からないことがたくさんあるということがよくわかりました。私たちは、子どもが話せるようになることなんて、当たり前のことだと思っていますが、「どうして」とか「どのように」を解明しようとすると、今なお謎だらけなのです。

その上で、さらに当たり前のように見えて、子どもたちが「絵本」や「お話」に目を輝かせて見入る、聞き入る姿を見ていると、「物語」というものが持っている力の凄さを感じます。子どもたちが、こんなに物語の世界に没頭できるのは、どうしてなのだろうか、と。言葉の獲得と同時に「ものがたる」ということができるようになって、さらに絵本などのお話の世界が面白くてしょうがないといった子どもの姿に接していると「物語のある生活」というものが、保育の大きなテーマとして浮上してくるのです。

ところで、人生という言葉は、すでにそれが物語であると宣言しているように聞こえませんか。人生は旅であり、生きること自体が物語です。人はそれぞれ、どんな物語を生きるのでしょうか。その長い人生航路の船出が幼少期だとしたら、彼らはこれから青年になり、大人になり、大海原で荒波に遭遇し、幾多の試練やドラマの果てに、年老いてまた港に戻ってくるのでしょうか。保育園の子どもたちは、まだ港に泊まっている状態でしょう。出航を夢見るようになるまで、先人の経験談をたくさん聞いたり見たりして、憧れている時期なのかもしれません。こんなに物語を好むのは、これから起きる出来事を先取りして楽しんでいるかのようです。

児童文学者によると、昔話もそうですが、児童文学の物語には2つの基本形があります。1つは主人公が出発して帰ってくる「出発・帰還型」(たとえば「うらしまたろう」や「スターウォーズ」)と、もう1つは見知らぬものがやって来て、しばらく滞在して最後に消えていく「来訪・退去型」(たとえば「かぐやひめ」や「未知との遭遇」)です。大抵の物語はこの2パターンを踏襲しています。このパターンは人生そのものです。私たちは生まれ、冒険し、成長して帰ってくる(行く)のです。どこから、どこへ?それだけは永遠に謎のままです。もしかすると、物語はその謎の答えを、例示してくれているようにも見えます。いろいろな絵本があるように見えて、実は人生の縮図が物語なのかもしれません。

そうだとしたら、冒頭の問いは、質問の仕方を間違っていました。私たちは生まれる前から物語の中を生きており、始まりと思えた地点は、実は別の物語の終わりだったのかもしれません。ネバーエンディングストリーはファンタジーではなく、ノンフィクションなのかもしれませんよ。

福田さんによる絵本の読みきかせ

2020/08/26

絵本の読み聞かせのボランティア活動を長らくされている福田旺子(あきこ)さんが、園児のために絵本を読んでくださいました。今日読んでくださった絵本は、4〜5歳には『くらやみこわいよ』と『まっくろネリノ』。2〜3歳には『まっくろネリノ』と『しゅっぱつしんこう』。子どもたちは、初めてお会いした福田さんのお話に、ちょっと改まった面持ちで見入っていました。そして「面白かった」「また読んで」と大好評でした。

福田さんは、25年にわたり、保育園や幼稚園、小学校の他、図書館やブックセンターなどで絵本の読み聞かせをなさってこられました。保育園のお近くにお住まいなので、今後も定期的に来ていただき「読み聞かせの会」を開いてくださることになりました。さらにお持ちの絵本を「千代田せいが文庫」に寄贈していただきました。いい絵本ばかりです。保護者の皆さんとも分かち合いたいと思います。

 

再現遊びとしてのダンス

2020/08/24

今年の運動会は「コンテンポラリーダンス」のテイストを含んだ「親子運動遊びの会」になります。10月24日(土)の午前中に、和泉小学校体育館(昨年度と同じ)をお借りして、完全入れ替えの2部制で実施します。親子運動遊びにダンスを取り入れることになった経緯は8月8日付のこの「園長の日記」でご紹介しましたが、今日24日(月)は、青木尚哉さんを含むダンサー4人に来園していただき、2歳児にこにこ組、3歳わいわい組、45歳らんすい組に分かれて、体を動かして遊びました。三密を避けるために、それぞれ30分、40分、50分ずつ、2階と3階を使っての運動です。ずっと録画しながら見ていて、次のような感想を持ちました。

私たちは「ダンス」というと、音楽やリズムに合わせて、予め決まっている振り付けに合わせて体を動かすというイメージがあります。型があって、それを真似して身につけ、正確に再現できると「上手」となるようなダンスです。体がその振り付けやリズムに合わないとダンスが「下手」ということになってしまいます。これでは、それが「できる」子どもでないと楽しくありません。

青木さんのグループが目指しているダンスは、その真逆です。例えば、身体をマネキンのような素材として動かしてみるという「ポイントワーク」は、10 カウントの間に「10回だけ動かしてみる」型はあっても、その制限の中で、その子なりの自由な発想や想像力が引き出されていくような楽しさがあります。紙が丸められたり、くしゃくしゃになっていくのに合わせて、体を小さく縮めてみたり捻じらしてみたりするのです。先にイメージが動いて、そのあとで体が動き出すという順番です。そのイメージの想起力がこのダンスの決め手です。この心の動きは「再現遊び」と同じですから、ごっこ運動といってもいいかもしれません。

これを「お絵かき」に例えると、描く対象物にそっくりで写実的なら「上手」と評価されるような絵ではなく、それぞれの心に思い描かれた像(イメージ)を形と色で自由に表現してみるような絵です。その描きたいという意欲を大切にしながら、思い浮かべたイメージの通りに描きたいというモチベーションが結果的に表現スキルも高めていくようなアプローチです。

このように、保育の原理と同じだなと感じたのは、子どもの身体の動きは心の動きと連動しているが故に、まず子どもの意欲や動機に働きかけることから始まることです。動物の絵を見たり、録音された動物の鳴き声を聞いて、動物の動きを真似してみることが「ダンス」になっていきます。NHKの「おかあさんといっしょ」の「ブンバ・ボーン!」や「からだ☆ダンダン」などの「体操」と何が違うのでしょう。きっと、それは「振り付け」をみてただ真似するよりも、個々が思い浮かべる「イメージ」の想起が、動きの起点(スタート地点)になっていることです。つまり表象としてダンスなのです。再現欲求に働きかけるようなダンスと言っていいでしょう。

運動会では親子でこれを楽しみましょう。練習は全く不要。必要なのは柔らかい頭の方かもしれませんね。ところで今日は全国各地で2学期が始まりました。短い夏休みを惜しむように、今夜、東京でも花火が上がりました。

 

処暑から振り返る1週間

2020/08/23

今日23日は厳しい暑さの峠を超えるとされる処暑です。暑さは確かに少し和らぎました。屋上のひまわりは最盛期を過ぎて夏の終わりを告げています。

さて、8月17日から今日までの1週間は、どんな7日間だったというとーー。お盆休みが終わり子どもたちの数もほぼ定員に戻り、しかも連日30度を超える暑さがつづく「まなつのほいくえん」でした。月曜と誕生会のあった木曜を除けば毎日プールでの水遊びを楽しみ、昨日は初めて「プール開放」もありました。以前も感じましたが、テラスと屋上で水遊びができることで、暑さから解放されます。

◆20日の誕生会から

8月生まれの園児を祝う誕生会では、シルエットクイズを楽しみました。驚くことが2つありました。1つは子どもは「わかったら答えを言わないで黙って手をあげてね」が難しいこと。ハイハイと手が上がると同時に「スイカ!」とか「ちょうちん」とか言っちゃうんですよね。これはしょうがない。

2つ目は、ピカチュウなどのキャラクターへの反応が凄いこと。その人気の根強さがわかります。

あと、もう1つありました。このシルエットを当ててしまうのです。みなさんわかりますか?答えは子どもに聞いてみてください。

◆すいすいの「筆アート」

「とても味がありますね」と保護者の方の感想です。3階に向かう階段の展示スペースに飾っている年長組すいすいさんたちの「習字作品」です。すべての「かたち」には、それが「図」だとしたら、その背景となる「地」が必要です。地によって図も見え方が変わりますが、ひらがなという「かたち」にも、余白とバランスが美を生むという体験を子どもたちに味わってもらうつもりです。これは感覚的に「いいな」という体験を積み上げておくことが大事。

この感覚をすべての生活圏に広げていったらどうなるか?・・そもそもそんなことが可能なのかどうか?面白いテーマだと思いませんか?

◆絵本の誕生と進化

旧石器時代からの口承文化から「文字」が生まれ、日本ではもっぱら墨と筆で記録され、近年になって紙に印刷されるようになり、そこへ挿絵が入り、雑誌や本が編纂され、神話や民間伝承から「昔話」が独立し(「昔話」という言葉は柳田国男が作った学術用語です)、編集者と児童文学者(物語作者)と画家による三位一体の造形作業としてつい最近になって「絵本」が成立しました。そして、その絵本の記念すべき到達点は、奈良美智の絵本「ベイビーレボリューション」だと思います。理由は文(詩)が浅井健一で、同名の名曲が先にあって、それが絵本になっているのです。今日はミュージシャン坪井コレクションから借りた「baby revolution」を聴きました。これまでにない絵本体験です。ザ・クワガターズの「ベイビーロード」に通じるものがありました。

さてさて・・

お泊まり会以降、どんな絵本を選んだらいいのかしらん?その問いの延長として、ここでは絵本を通じた保育を語ってきました。

◆子どもにとっての絵本の意味を探る営みはこれからも続く

凄い時代です、本当に。全体を見渡している人がいないくらいの広がりです。絵本のこの爆発的な膨張の只中で、つまり、同時に、文明社会の歪みを一気に「お母さん」に押し付けている事実に無自覚な「日本の子育て事情」の中で、どうやったら窒息しないで生き延びられるか?という<切羽詰まった感>が解消されないままの子育て事情の中で(何度も言い換えて申し訳ありませんが)、この1ヶ月ほど、その「剥き出しの生」が干からびないように、少しは<元気の出る絵本>を紹介してきたつもりです。

その歴史的到達点の「しるし」になっている代表作を並べてみたのですが、その背後には、もちろん無数の絵本があって、たまたま「あれが北斗七星だよ」というようなもので、その背景に広大な銀河が広がっています。そこにどう切り込むか、どんな天体望遠鏡を持ち込むか、福音館書店と相談することになっています。

◆誰も否定できない空論はいらない、もっと方法論を!

「コロナ禍の影響」として教育実習生の受け入れ拒否問題が議論されました。マスコミは1つの事例をもって大上段に「差別しないように」などと精神論を展開しますが、これも空論に近いおかしな話です。現場をつぶさに取材していないことが多いですね。例えば保育者養成校のほとんどは、学生に発熱などがあればPCR検査をして陰性を確かめたあと、期間をおいてから送り出しています。

◆感染のピークは7月下旬だった

政府の専門家分科会は感染のピークは7月下旬だと分析しました。

この日記で7月24日に、その頃報道されていた「K値」(感染数の増加率)を紹介しましたが、その予想が大体当たったことを記しておきます(マスコミはある理由で無視していますが)。

問題は「どうして減少するのか」です。それを明らかにする手法が、政府と日本感染症学会から、まだ出てこないことが最大の課題です。その根本の問題は、サーベランスが足りないので(都のやっているモニタリングは、本当の意味でのモニタリングになっていない、ただの行政検査結果です)、第一波の時から今でも感染の全体像のデータが足りないので、肝心のところで議論が二分してしまうのでしょう。

◆私たちのそばに動物たちがいる意味は?

いまNHKの「Hot spot 最後の楽園」(ダイジェスト版)を見ながらこれを書いているのですが、地球上の生物のすごさには本当に目を見張るものがあります。これは、泳いでいるゾウです。

絵本の主役に動物が多いのは、そもそも「昔話」のジャンルとして「動物昔話」があることに遡ります。最後の楽園とは、人間が追い詰めた余白のことですが、それにしても、この映像から感じる「畏敬の念」を感じるように、古代の私たちの先祖も同じ畏怖の念を動物に感じていたに違いありません。

絵本を何度も繰り返しよむ意味

2020/08/21

「こたえ、いっちゃダメだよ。つまんなくなるから」と年長のSさんが言います。お友達が絵本のページを開くと、すかさず「これとこれと・・」と答えを言ってしまうからです。絵本を楽しむ流儀というものが、子どもたちなりにあって、ちゃんと楽しみたい、という感覚を求めていることが伝わってきた場面でした。

私は今日夕方、3階の絵本ゾーンの整理をしていたら、二人が私の両隣に座って「これよもう」と誘ってきたのですが、何冊目かの絵本が「トリックアートおばけやしき」だったのです。見開きページの左側に、クイズのように「○○はどこにあるでしょう?」のような「問い」があって、その問いにしたがって「だまし絵」や「錯覚図」など楽しむ絵本になっているのです。

私が、その絵本の文章を読み終わってから、Sさんは「髑髏(ドクロ)はここだよ」とか「コウモリはここ、とここ」とかやりたいのです。なのでSさんはフライング気味のお友達に「まだ、言っちゃダメだよ」と嗜めるのでした。

この言葉というか、その時の仕草や口調、雰囲気には「自分がやりたいんだから邪魔しないでほしい」という感じもあるのですが、それよりも「ちゃんと手順を踏んで楽しみたいんだから」というニュアンスの方が強いのです。二人とも何度も読んでいる絵本だけに、答えは9割がたわかっていても、面白いからまたやりたいという、その気持ち。ちゃんと最初からやりたいという感覚。これ、なんだから、よくわかります。この感覚は「きちんと」とか「ちゃんと」とかの言葉で表す何かなのですが、鑑賞や探究や学びの質と似ていてる、あるとても大切なプロセス感覚だと思います。そういう姿勢を育て、引き出す力があるのは、絵本がアートになっているゆえんでしょう。

何かをよく味わい尽くすとき、ある種の方法や手順が重視されるということがあります。例えばプロ棋士は将棋の勝負が終わると、感想戦というのをします。初手から巻き戻して、戦局の節目で「どっちが良かったのか」を指し直してみるのです。実践では頭の中で数十手先までシミュレーションした上で、最善手を選んでいくのですが、それが本当にそうだったのか、もう一度盤上で再現してみます。

絵本も何度も何度も読んでいる時、子どもにとって初読と再読と再々読と・・そのたびに深まっていったり、別の観点に着目していたり、新たな発見があったりしていて、概ねその多面的な探索を経て味わい尽くしたら、いったん「おしまい」になるのかもしれません。そして数年経って、同じ絵本を見てみると、きっとまた新しい発見があるものなのです。

ただ、この時期の子どもたちの最大の特徴は、ここで何度も繰り返してきたことになってしまいますが、棋士の感想戦と同じように、遊びとして再現すること、つまり模倣遊びやごっこ遊びとして繰り返されるということです。絵本を何度も読みたいということが、模倣遊びの衝動と同じだということです。ですから、ごっこ遊びもまた、「きちんと」「ちゃんと」再現されていくことが楽しいのでしょう。

進め!子どもたち。

2020/08/20

子育ての長い旅の途中には、思いもよらない出来事があるものです。例えば、今日も遊んでいるときに、子どもが列を作って並んでいました。子どもたちは、早くそれをやりたいから、順番を競ってケンカになったり、涙さえ流します。またある時は、大人の目から見たら、とるに足らないような小さなことなのですが、当事者にしてみれば、絶対に譲れない大事なことなんだろうと想像できることがありました。

子どもたちのこの「切実さ」たるや、大人には決して「かなわないな」と思えます。その時は私は「もう勘弁してよ」と降参気味だったり、あるいは「ハア、どうして、そうなちゃうのかな」と諦めモードになったり。でも、こうやって今振り返ると「子どもって凄なあ」と本気で感心していまうことだらけです。私たち保育者も、個人差はありますが、そういう感情の揺れ動きを味わいながら、自分とも向き合って子どもと接していることになります。

ただ、どんな大人にも、こんな幼少の頃の時間があったに違いなく、みんな自分のことは、きれいさっぱり忘れてしまっているだけでしょう。自分の過去のことは棚に上げておいて、大人が生きている世界の価値観やら、待ってくれない刻まれていく生活の流れの中で、子どもの行動の結果を問題にしてしまいます。昔からきっとそんなことが繰り返されてきたのでしょうね。それにしても、子どもの切実な願いは、どうやったら理解できるのでしょうか。

ただ泣くばかりの子どもを相手にしている時は、なおさらでしょう。その状況の中に放り込まれたら、誰だって平常心ではいられません。今日も私は、そんな出来事の連続の中で、自己との対話を繰り返しています。というと、ちょっとかっこいいですが、要するに、今日も悩んだり困ったりしていました。しかし、それをなくそうとも思わないし、またそうあることが自然なことでもあるのです。

私はこう思うようにしています。子育ての大前提としての心構えは、こうです。

「子どもはまだ数年しか生きていない。だから、自己中心的だし、失敗もするし、他人のいうことなんか聞けない。それが当たり前なんだ。これを裏返せば、こんなに自分というものをしっかり持ち、伸び代がいっぱいあって、はっきりとやりたいことを自己主張できる。最高じゃないか!」

「もし、これが反対だったら、もっと困ることになる。まだ数年しか生きていないから、自分というものがなく、何事も興味がなくて挑戦もせず、相手のことばかり優先して自分を抑えていい子になっている。こうなったら大変だ!」

時代は止まってくれません。忙しいこの世界の中で、未来の可能性をどこに見出すことができるでしょう。それはやっぱり子どもたちなのでしょう。子どもたちのパワーがどこから来るのか。その「しるし」を表しているなあと思うのが奈良美智の描くベイビーです。8月15日に取り上げようと思っていた絵本ですが、これは大人向け絵本でもあるので、こんな文脈の日記での紹介となりました。進め!子どもたち。

うんとこしょ、どっこいしょ

2020/08/19

今日は朝から大根3本、サツマイモ4本、ゴボウ2本を引き抜きました。とても大きく育っていて、なかなか抜けないので「うんとこしょ、どっこいしょ。それでも、ゴボウは抜けません」と、何回かやって、やっと抜けるのでした。抜けた野菜はその場で洗って、生のまま「むしゃむしゃ、美味しいなあ」といって、いただきました。根菜は洗われるときも、食べられる時も、ケラケラ、ぎゃあぎゃ笑って幸せそうでした。

朝9時ごろから3階で運動遊びをしていると、いつの間にか子どもたちは野菜になっていて、私に「引っ張って」(抜いて)というのです。うつ伏せになって、床のマットの端を両手でしっかり握って、私が両足を持って引っ張るという「野菜抜き遊び」なのですが、抜かれるもんか!と必死でしがみついているので、最初はなかなか抜けないフリをしてあげるのですが、徐々に力を入れて「うんとこしょ」とやると、スコーンと抜ける時、子どもたちは、それが嬉しいのです。もう一回!といって、またうつ伏せに寝転がります。

「うんとこしょ、どっこいしょ」

何気なく、調子のいいリズムで、それでもかぶは抜けません。とやっているのですが、もちろん、そうさせているのは1962年発行の『おおきなかぶ』があったからです。私たち保育者と子どもたちは、知らず知らずのうちに、日本ならではのこの児童文化に浸っているという事実に気づきます。さらにトルストイのおかげかもしれませんが。

このロシア民話を訳したのは、1928年東京生まれの内田梨紗子さん。私が前いた保育園ができた年の1997年に亡くなられていたことを後で知ります。早稲田大学露文科を卒業しているので、さすがロシア・東欧の児童文学にすこぶる詳しい方で、東欧の昔話や民話を日本に多数く翻訳して紹介してくださいました。ロシア語では、なんと発音するのか分かりませんが、よくぞ「うんとこしょ、どっこいしょ、それでも〜」と訳されたものです。この『おおきなかぶ』をはじめ『てぶくろ』や『ちいさなヒッポ』そして『しずくのぼうけん』も、内田さんです。

さて「うんとこしょ」が終わると、子どもたちは今度は野菜から動物になっていました。というより、私がエンチョウライオンにさせられていたのですが、ライオンは高いところに登れないから、小猿たちが枝振りのいい大きな木(ネットやクライミングウォール)に登って「ここなら捕まらないよ〜」とか「ここまでおいで!」などと囃立てるのです。私はライオンだったりワニだったりして、見守る保育どころか、まだ遊びの相手をしているのですが、どうやったら子どもたち同士で遊びへと発展していくのか、その見通しを想像すると楽しくなります。

そうなるには、子ども同士が再現したいと思う「物語」を共有することが必要なのです。子どもたちが再現したがるお話が、まあテレビのアニメやレンジャーものであってもいいのですが、そこには繰り返し味わえる心情やリズムが乏しい。呼吸を合わせて、ハラハラドキドキできるような物語、例えば北欧民話『三びきのやぎのがらがらどん』(1959年)のような世界を楽しみたい。私がトロルをやらされている時、きっと子ども同士での遊びが作られていくことでしょう。

「がらがらどん」は、これを手掛けたのは日本の児童文学の大御所である瀬田貞二。あのトールキンの指輪物語を訳した人です。「こどものとも」でも、ダントツに多いのですが、福音館書店の絵本をホームページでざっと拾い上げてみると、「あふりかのたいこ」「かさじぞう」「 ねずみじょうど」「三びきのこぶた」「ふるやのもり」「おんちょろちょろ」「お父さんのラッパばなし」「きょうはなんのひ?」など、よく知られるものばかりですね。岩波書店の「わらしべ長者」も瀬田貞二の再話です。

子ども同士の遊びの中でも、年中、年長ぐらいになると、登場人物を演じ合う<物語遊び>を楽しめるようになっていくのですが、そのためにも絵本による物語が大きな力を持っていることになります。内容が楽しく、それを再現したいという衝動をもたらすアート性、つまりごっこ遊びが表象になるということですが、これは「こどものとも」が発刊される頃にはびこっていた「童心主義」の絵本では、できなかった遊びなのです。

童心主義とは子どもの感性を絶対視して子どもの世界を理想化するような傾向のある、一種、センチメンタルな物語です。これらの絵本は教育臭くて子どもが再現したいという衝動になりにくいのでした。

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