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2021年 9月

ダンスのある風景

2021/09/26

その日に感じたことは、たぶん一生かかっても体験できない内容でした。理解はできても自分で体験はできそうもないようなことです。理解や説明だけなら「たいそう意義深い話を聞きました。終わり」です。でも、それでは、ここの日記に書く必要もないので、どうしようか? と考えて、次のように書いてみることにしました。別にもったいぶるわけでなく。考えることも実践なので、それでも体験が経験に変わっていくような何かがあるからです。

それがあったのは9月26日(日)の夜です。「勉強会があるから来ませんか」とダンサーの青木尚哉さんに誘われて、北青山の「ののあおやま」へ出かけたのです。すると海老原商店の海老原さんもいて、二人並んで参加しました。青木さんが企画したイベントで、青木さんと平賀達也さんと対談でした。

内容は全部「人間は自然から分離されてしまったが、どうやったら人間は自然と交信できるか」というものだったのです。そんなテーマが掲げられていたわけではありません。でも、二人で交わされていた内容は、全部、自分と身体の関係、人間と住んでいる場所との関係、人間と自然との関係についての、しかも、交信できてしまうお二人の体験談だったのです。論でも抽象でもなくリアルな体験、身をもって身体を通過した感覚を伴った体験の話です。

話はダンサー青木さんが今ずっと試みている実験、つまり舞台から降りて、街や学校や路上や森で踊ってみると、それを観る人の反応や距離感が全部違って面白いという体験談から始まりました。実験してみてそれを話しあって学びを深めるというダンスの循環物語を紡ぎ出しています。対談の相手の平賀さんは、土地や地形が風土が持っている「自然の必然」が見えてしまう方(のように私には見えた!)で、体験談は、マンションを建設したり、道路を走らせたり、土地を改良したりするときに「どうあるべきか」という方針を、その土地の歴史や風土から導き出すお手伝いのようなことをしているというものでした。

平賀さんは「ののあおやま」の再開発デザインを担当し、青木さんには「ランドスケープ」というタイトルの創作ダンス作品があり、この場所「ののあおやま」で先日、新しいダンス「もりのダンス」を踊ったのでした。

平賀さん「四谷怪談の最後の場面で、ざあっ〜って風が吹いたでしょう。あのとき、私たちの足の裏から地面を通じて四谷まで通じ合ったんだよね」「昔の人は田んぼに足をつけて仕事しているとき、山の異変に気づけたんだろうな」「自然や人には樹状パターンというのがあって、元気な人がそれが躍動して見える」

青木さん「子どもと踊っているといっぱいインスパイアされている」「風景と景色の意味の違いがダンスを作り出だしたりしている」「渓流に身を任せていると傷つかないのに、不自然な力を入れると岩にぶつかって怪我する」

お二人に共通するのは、実践そのものが文明批評になっていること。実践していることがダンスだったりランドスケープデザインだったりと、分野は、全く異なるのですが、私たちが見失っている生き方の方向性や立ち位置、みんなが抱いている「迷子感」や「不自然さ」といったものを、無視しないで、その違和感がどこから来ているのかを明らかにしながら、「やっぱりこっちだよね」を探り当てながら、実践しているアーティスト、表現者なんだということでした。

 

 

青山星灯篭のダンス

2021/09/23

最近よく考えていることは、子どもの中にある「イメージの可視化」です。旧今川中学校の校庭で「鬼ごっこ」をしたときに、地面に引いてある線の上を夢中で歩き始めた子(9月14日)。アゲハ蝶を外に放すときに迸り出てきた言葉の数々(9月22日)。青木さんのダンスの時間に「こんなのどう?」っていうふうに見せてくれるポーズ(9月21日)。こんな瞬間はたくさんあるのですが、それでも旧今川中へ行かなかったら、アゲハを育てなかったら、コンテンポラリーダンスをしなかったら、そうした子どもの姿を確認することはできなかったでしょう。やってみなけりゃわからない(9月18日)ものです。

子どもの内面は「どうせ本人にしか分からないもの」と諦めてはいけません。やり方によって、子どもはそれを「表現」してくれることがあるのです。その「やり方」は色々で、こうじゃないといけない、というわけではないのですが、ただ共通するのは<何かと強く関係する状態のとき>であるのは間違いありません。校庭の地面の線に触発されて(ギブソンのアフォーダンス)その上を歩き出したことにも、<地面という物との関係>があります。何日もアゲハの世界に向き合いお世話をして育てたからこそ、子どもの中に優しい心情が育ったという<生き物への関わりという関係>があります(ノディングスのケアリング)。そしてインプロビゼーション(即興的表現)のダンスにおいても、自分と自分の身体との関係、あるいは自分の身体と見られている他者との関係があります。

昨日9月22日(水)の夜、北青山で青木さんのダンスグループZerOの野外公演を観てきました。高層住宅マンションを含む再開発された街「ののあおやま」の敷地中には、雑木林やビオトープ、遊び場やステージができています。夜空は満月。お彼岸のこの時期らしく、雑木林の中に22の灯篭が並んでいました。よそぐ風が涼しく、秋の虫の音も聞こえてきます。赤い灯籠が並んでいるのは理由があって、地元の有志が集まって江戸時代のある風景を蘇らせようとしているそうです。その風景とは歌川広重が約160年前に描いた浮世絵「青山星灯篭」の景色です(下の写真)。灯篭は二代将軍徳川秀忠の菩提を弔うもので、5年前から地元のギャラリーや善光寺で始まり、2年前から「ののあおやま」も加わりました。

なぜこんな経過を説明しているかというと、この歴史と舞台環境を知っていないと、青木さんのダンスの意味がわからないからです。この夜に演じられたダンスのタイトルは「もりのダンス」です。江戸時代から明治時代初期まで、青山・百人町周辺で行われてきた「星灯篭」がコンセプトです。イベントの企画者の意図は「逝きし人を偲び、土地の記憶を訪ね、地域の環境と文化を体験すること」というもの。ダンスを観るということが、古の祖先や両親、周りの方々へ感謝するような気持ちをダンスで表現しているように思えました。

子どもの内面に限らず、外から見える「表現」は、その表現を生み出している側の内面に動いているイメージがあるからです。現代アートが難しく思えるのは、その関係が見えにくいからです。どんなふうに「見えにくいのか」というと、見えやすいものと比較してみるとわかりやすいかもしれません。

子どもが「象さん」のイメージを持てば、象さんのつもりのダンスになります。見ていればすぐに「象さんね」とわかります。それは他の子どもにもわかります。では、そのイメージが「はらべこあおむし」だったら? アゲハ蝶だったら? これだったらその「お話」を知っているので、知っているもの同士でお互いに通じ合うでしょう。一年目のお楽しみ会の劇にもしました。誕生会でペープサートにして楽しみました。さあ、ここからが今日の日記のお題です。

それでは満月だったら、どうなるでしょう? お彼岸だったら? 人間も自然の一部、という考えだったら? 祈りだったら? 感謝だったら? それはどんなダンスになるでしょうか。それを青木さんたちは演じたのです。そこには、こうじゃなければ、という統一された振り付けがあるのではなく、それぞれの演者が直観する動きが折り重なって「わあっ・・すごい」という日本らしい風情を目の前に表してくれていました。素晴らしいものでした。

きっと子どもの表現にもそれがあるのです。言葉、作ったもの、積み木を並べたもの、描いたもの、叩いてみる楽器、鳴らしてみる音、走っている姿、飛び跳ねている瞬間、何かに感動しているとき。子どもの心の動き、イメージの躍動。それをなんとか「表現」にしていく営みの工夫が、創造と協働(協同)を目指すレッジョ・エミリア市の保育実践でしたし、イメージを可視化して子どもと子ども、子どもと大人、園と地域が繋がっていくために記録(ドキュメンテーション)があるのでした(9月17日)。

「バイバ〜イ いいところで暮らしてね」

2021/09/22

さて、この写真、子どもたちは何をしていると思われますか。

「バイバイ、いいところで暮らしてね」

「お花の蜜、たっぷりある場所のお花で暮らしてね」

「カラスに食べられないようにね」

「また遊びにきてね」

「海に溺れないように」

子どもたちは口々に、こんな言葉をかけていました。そうなんです。今日は朝早く、アゲハがサナギから孵化(じゃなくて羽化でした)して蝶になったのです。

そして3階のベランダから、自然に返してあげているところです。

私のスマホに一人ひとりの発言がはっきりと録音されているのですが、面白ことに気づきました。

こんなに多くの子どもたちがいて、何かを自由にしゃべっていいという状況になると、大抵はそれぞれがしゃべり始めて、声が重なってしまうことが多いのですが、この時ばかりは、そうなりませんでした。それはまるで、劇のセリフを順番にいう時のように、それぞれの発言を他の子どもたちが、しっかりと聞いているかのようでした。

そうなったのは、一つには、ベランダのネットにじっととまっているアゲハが、いつ飛び立つんだろうと、じっと見つめていたからかもしれません。固唾を飲んで見守っていたからです。

みかんの木に卵を見つけたのが9月2日。それから20日で蝶になりました。

人間に例えるなら二十歳で成人したわけで、蝶の1日は、人の1年にあたります。この間、ずっと毎日のように観察を続けてきた子どもたちだからこそ、冒頭のような言葉が次々と浮かんできたのでしょう。

・・・気持ちの優しい、子どもたちです。

中秋の身体で表現する「なんかいいやつ」

2021/09/21

今日は中秋の名月にふさわしい表現活動の日になりました。

アーティストのダンサー青木尚哉さんがやっていることは、子どもが描く自由画に似ています。写生ではなくて、子どもがイメージしたものを画用紙に自由に表現してみる絵のようです。輪になって「鬼さん、鬼さん、何するの?」と尋ねるられた子が即興で「これするの」と応え、それをみんなで「これするの」と真似します。リズムはイチ、ニイ、イチ、ニイの二拍子です。

イメージを形にすることは、紙やキャンパスの平面なら描く、といういのでしょうが、身体を使うのでやはり「踊り」や「舞」や「ダンス」なのでしょう。まあ、それはどうでもよくて、大事なのはその表現の起点と終点です。身体を動かし始める始まりがあって、終わりがくる。そしてまた始まり、終わるという短い時間の中で、身体が形作るものが存在して消えていく。絵画や造形物のように残ることがなく、なくなってしまうのですが、確かにそこには「子どものうちにあったものが引き出されていく創造」が行われているのです。

体を動かすといっても、「運動」でも「スポーツ」ではなくて「踊り」や「ダンス」であるのは、その「身体の形」に子ども自身がセンスの良いものを、なんだかいいと感じるものを、必死で嗅ぎ取ろうと、引き寄せようと、生み出そうとしていることがはっきりとわかるからです。その表現が楽しそうです。

身体表現として、「どうやろうか」と考えながら、「こんなのどうだろう」と試しながら、思い思いに体の動かし方をデザインしているのです。

それは「鬼さん、鬼さん、何するの?」に限りません。「ステップシークエンス」も「マネキンとデザイナー」も「じゃあ、今度はこんな風にしてみたい」という試行錯誤の身体表現です。

らんらん、すいすいの子たちにとっては、その意味あい、というか勘所、面白さがわかってきたようです。一方で、にこにこさん、わいわいさんには、「動物遊び」のような、ごっこ運動が楽しいようです。

そして、やっぱり花より団子です。こっちも歓声が上がっていました。

体験を表現して共有したい

2021/09/19

根が出たメロンの種が育つかどうかや、水をかけたら黒くなるか「やってみないと、わからない」ことを、子どもと一緒に試してみるのは、大人も楽しい。種も水も自然界の話ですから、そこには一定の理(ことわり)、法則、因果関係が見つかるものなのですが、いかにも「自然科学」とか学校の「理科」につながっていく傾向を見つけることができます。身の回りの「物質」や「生き物」には、そうした特徴を見出すことができます。対象についての「知」です。

確かに、保育は対象そのものの特性に気づくということも「保育内容」(特に領域「環境」など)にあるのですが、日本の保育内容は、それを「子どもの姿」で捉えることになっているのです。面白いと思いませんか? メロンの根が出たね、今度はどうなるかな。早く芽が出るといいね。・・・ここには「メロンの種についての知識」を得ることが保育内容になっていない、のです。

子どもたちは、メロンの種を見て、触り、土にそっと大事に埋めてみて、水をかけて、「どうなるかなあ」「芽が出てくるかなあ」って、感触を味わったり、生き物に気にかけてあげること、そんなことに何かを「気づき、感じ、試したりすること」の姿があるようにしましょうね、ということが保育所保育指針や幼稚園教育要領の保育内容なのです。

(うちわ話ですが、これが乳幼児の「考える」姿だというように捉えています。なので子どもの「思考力」の育ちは、領域「言葉」ではなく、領域「環境」に位置付いているのです。)

アゲハの幼虫が今、また蛹になっていますが、もうすぐ蝶になります。これに「驚くこと」や「不思議がること」や、「面白い、やってみたい」と子どもの興味や意欲が動くのです。子どもの情動的知性が働くことが大事だからです。生き物の飼育がいい経験になるのは、ある程度の時間がかかり、その繰り返される観察と餌やり、水やりなどの「お世話」が生まれるプロジェクト型の活動になっているからでしょう。

さらに、本当はもっと大事なのは、それを見守る大人側の方が、本気で「驚くこと」「不思議がること」「面白い」とおもうこと、なのでしょう。研修でレッジョのDVDを見て、「先生たちが楽しそうだった」という感想を持った先生がいたのですが、私たち保育者が大事にしている色々なキーワードの一つが「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)でもあり、それは保育者の専門性として持ち続けたい資質です。

レッジョから学ぶとすると、この子どもの心の動きを、ここから、絵にしたり、粘土で造形したり、ダンスにしたりします。20年前の映像でも「古典的な道具である粘土や針金だけでなく、パソコンで絵を描いたり、プロジェクターで光を当てること」などをしていたのですが、今なら多分、最新のテクノロジーも使いこなしながら、子どもの内面を外に表す遊びをするのです。それをまた共有し合います。アート表現が他の子どもたちや大人たちと生まれるコニュケーションの「道具」に位置付けているのです。さらに大きな価値の創造のために。当園での例でいうと、はらぺこあおむしの歌を歌ったり、ペープサートや劇にしたりしていることと同じです。一年目のお楽しみ会で、その世界を親子で親しんだことが子ども文化のコミュニティ作りになると確信しているからです。

自然界の営みを知ることが「知」なら、そこへ向かうだけではなく、子どもが受け取る内面の体験を、再現遊びや表現としてのアート(=アルス=手や体を通した技)にすることも保育なのです。「自然界」と「人間界」が「子どもの内面を外の表すこと」でつながるのです。自然科学と文化的活動を繋げているものが「人間の内面の躍動」なのだと思います。それが小学校以降の学習や生活につながっていくのです。

アキバ分室で初めての睡眠講座

2021/09/01

9月1日(水)、今年4月に万世橋にできた「子育てひろば」で、初めての睡眠講座を開きました。講師はお馴染みの永持伸子さん。子育てひろばは、基本的に毎週水曜日の午前中に開かれているのですが、そこでいつものようにZOOMでリモート講座を開きました。ただパソコン画面をプロジェクターで映し出し、音声もスピーカーで流して、そこへ赤ちゃんと一緒のお母さんたちが、一緒に講座を受けることができるようにしてみました。

会の始めに会場の方から睡眠のことで聞いてみたいことを尋ねると・・

「夜の授乳をそろそろ終わらせたいのですが、どうやったらいいですか」とか「昼間のお昼寝はどんな状態が好ましいのですか」など、いろいろな?(はてな)がいっぱいでした。

多くの人にこの講座のことを知ってもらうためにも、感染対策を講じた子育てひろばで開催してみたのですが、睡眠講座を開いてみると、はやり「対面」のよさが分かります。画面越しでは伝わりにくいコニュニケーションがあることがよく分かります。ただ、コロナ禍や距離を気にしないで済む、家から参加できる、夫婦で一緒に参加できるなどリモートの良さもあります。

今年度前期は9月7日(火)と21日(火)で一旦終了します。リピーターの方もいらっしゃいます。子どもの成長に従って睡眠のポイントも変わります。気軽に何度でも参加してみてください。お申し込みは千代田せいが保育園のメール(c.seiga@chiyodaseiga.ne.jp)までどうぞ。

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