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2021年 1月

藤森先生の研修

2021/01/30

今日はズームによる研修がありました。講師は藤森平司統括園長。参加者は全国のギビングツリー(GT)加盟園の先生たち約120人です。テーマはコロナ時代のおける保育です。保育園は家庭に代わって預かる役割だけではなく、これからの時代に必要な教育の役割について考えました。以下は要約です。

コロナの影響で明らかになったのは2つあります。まず1つ目は子どもへの影響です。子ども同士の関わりがなくなることによる悪影響です。子供の育ちにとって集団の場は不可欠であることが明確になりました。保育園は社会的スキルの基礎を培うために必須の場所なのです。

もう一つの影響は、時代の危機が早まったと言うことです。何が起きるか予測できない時代の中で、人は力を合わせて協力したり、それぞれに得意な事を発揮し合って生きていくための力が求められます。どんな状況になっても、それに応じて判断して行動できる力を育てる教育が不可欠であることがはっきりしてきました。

そのための乳幼児教育のおいて、子どもが何を身に付けるかと言うと、新たな価値を見出していく力です。これまでの保育はアートに落とし込みすぎていて、もっと科学的な視点を増やしたい。だからSTEM保育が必要です。例えば積み木遊びにしても、どうやったら倒れないかを考えたり、どの公園に散歩する話し合うなら、どういうルートを歩くかの見通しを述べ合ったり。それがプログラミング教育になります。科学的な視点の重視は物事の因果関係を考える力を育むことにもなります。

子ども同士の関わりから育つものを重視し始めたのはシンガポールや中国です。見守る保育を導入するようになってきています。特に国の人口問題から一人っ子政策を取った中国は、その見直しの中で乳幼児からの子ども同士の関わりの大切さに気づいたのと事でした。

またリモート保育のメリットデメリット、教科書のデジタル化などメディアのあり方などの話もありました。その後、乳幼児のとっての大人のマスク、保育園への共感的支援など参加者からの質問に答える質疑応答も行われました。

続・「人新世」時代の保育とは

2021/01/28

(園だより2月号 巻頭言より)

先月1月号の巻頭言で述べた「人新世」(アントロポセン)の保育について、具体的にその姿を想像してみたいと思います。持続可能な社会実現のためのポイントは、地球規模の自然資源と人類の生産活動との関係の中に、共有資産(コモン)を作り出すことです。保育園からそのことを考えてみましょう。

◆食材の地産地消とエシカル消費へ

給食の食材は玄関に「本日の食材産地」を蒲鉾板で掲示しているように、日本各地からやってきていることがわかります。江戸時代に航路を使った物流が発達しましたが、基本方針は地産地消に改変することです。都市とその周辺が食糧生産の社会資本ネットワークを再構築できるかどうか。ファーストフードからエシカル消費の食卓へ。身近な小規模産地を効率よく共有することにIT技術が活用できるかもしれません。鳥インフルエンザ予防のための鶏大量処分はあまりに痛ましい。こうなってしまう経済流通の仕組みを変えたいものです。本当の安全で健康的で持続可能な食の営みを取り戻したい。

◆エネルギーの地域管理への道

エネルギーはどうでしょうか。遠くで大規模に発電して延々と送電することを減らし、地域発電の割合を高めたい。保育園はささやかながら太陽光発電のパネルが園舎の壁面についています。戦艦大和を造船した呉で再開した船の第一号はタンカーでしたが、中東の化石燃料に依存するエネルギー体質を大転換したい。それを地域の社会資源を新しい形のアソシエーション(組織)で管理したい。町会のような組織を大胆に行政がバックアップできないだろうか。

◆保育園の絵本も遊具も共有資産

岩本町三丁目は既製服問屋街発祥の地。衣服はすでにリサイクルが普通になってきました。園がよくやるバザーのように岩本町・東神田バザールが展開できないか。そういえばコモンの代表格は公立図書館。保育園の絵本も遊具もコモンです。千代田せいが文庫が子どもの文化の共有財産だというのはわかりやすいですね。しかも読み聞かせボランティアの福田さんの寄付も含まれています。

◆子育ても地域の基盤財産

実は、そもそも子育ても人類は村単位でやっていた共有コモンでした。社会福祉法人は収益事業ができません。千代田せいが保育園は全額税金で運営しているので子育ての共有資産です。株式会社は株主への配当があります。そこをどう考えるのか。そして子ども自体が未来の共有財産だと私は思うので、望ましい保育ノウハウは共有するべきでしょう。保育士も学校の教員も医師や看護師と同じように使用価値を生産するエッセンシャルワーカーですからコモンであり、国家資格があります。水や空気や住宅と同じようにコミュニティが共同管理できるといいですね。

◆競い合わせない学力(環境にマッチした生き方)

そしてどうしてもそうなってほしいことがもう1つ。それは子どもの学力評価です。個人の資質・能力を測定することは、産業革命以降に効率の高い労働者を採用するときに始まったのが起源です。人的な富を個人に還元して分断させず、それぞれが所属する複層的なコミュニティの中で個性を発揮しあえばいいのです。せめてブランドで競う大学入試の選抜評価をやめ、働きながら学び続けることができる本当の生涯学習社会のインフラを作り出しましょう。

園長からの心からのお願い

2021/01/14

私の上司である藤森平司統括園長と一緒に働き始めた頃ですから、それは1997年頃のことです。「倉掛さん、保育園は今何でもやってあげすぎて、親が自分の子どもから聞こうとしなくなっているんですよ」と話し始めたことを覚えています。「どういうことですか?」というと、こんな話でした。たとえば遠足に持っていく物に「おしぼりと水筒を持ってきてください」とお願いすると、乾いたハンドタオルと空の水筒を持ってくる保護者がいるというのです。

「いつも何でもやってあげるものだから、先生からタオルも濡らしてもらえると思っているし、水筒にも麦茶を入れてもらえると思っているんですよ」

毎日給食のある保育園は、普段の持ち物として、エプロンやお手拭きタオルを持ってきてもらっていますが、確かに、それは乾いたタオルです。でも遠足の持ち物として弁当と一緒に濡らしていないタオルをリュックに入れることが不自然に思わなくなってしまうのが保育園の保育サービスというものなのか、と半分笑い話のように聞いた思い出があります。これが幼稚園や学校だったらありえないことはすぐにわかるはずです。藤森先生はこうも話を続けました。

「やり過ぎているかも?と思うのは、連絡帳もそうです。毎日どんな風に園で過ごしたのかを書いてあるので、お迎えに来たときに、自分の子どもと話をしようともせず、また子どもも見ないで、すぐさまお便り帳を読み出す親がいるんですよ」

この話は、実は深刻な問題を孕んでいたことが、四半世紀も経った今、はっきりとわかります。保護者は、自分の子どもが自立することよりも、保育園に説明責任を果たすことを強く求めるような時代に変わってしまったのです。自分の子どもを育てる第一次的責任は親にあるのですが、何を誤解しているのか、まるで保育園に養育義務があるかのような雰囲気ができてしまいました。

緊急事態宣言が出てから、きっと皆さんの職場や生活の中で、大変な状況に置かれてしまう方がいらっしゃるかもしれません。そこで予想されるリスクを少しでも軽減していくために、このタイミングで大切なことをお話ししておきたいと思います。

コロナの長期化で保育園も疲れているということです。話は保育の脆弱性についてです。実は保育園という組織は見かけと違ってとても弱く、ちょっとした人の言葉でガラガラと崩れてしまうかもしれないほどナイーブなものだということです。そうなってしまったのは歴史があります。

保育サービスという言葉が、市民権を得ていく過程で、児童福祉施設の役割を超えて、延長保育などの長時間保育、一時保育、病後児保育、休日保育などの「預かり保育」事業が増えていきました。確かに就労形態や社会構造が変わったとはいえ、この変化は保育園に勤める良心的な保育者を病に追い込みました。子どもが大好きな保育者が、精神的に参ってしまいました。そんな時代がありました。

一方で、子どもの保育に携わる保育士の数(国が決めている基準)は全く変わっていないのに、保育園に求められる仕事は「子どもの保育」を大幅に超えて、保護者への「子育て支援」という名の業務がものすごく増えていったのです。核家族の子育て環境では親の養育力が低下するのは当たり前ですから、保育園が社会的親として子どもの育ちを支えるパートナーの役割が期待されるようになるのも自然な成り行きでした。皆さんはすでにご存知だと思いますが、私が常々申し上げてきた「アロペアレンティグ」です。

そういう意味で、保育園や先生を信頼して手を携えてこの困難を乗り越えていきたいのですが、先程の歴史の中で、我が子可愛さからか、パートナーであるはずの保育園に対して問い詰めるように説明を求める親が出てきたのです。本人は保育サービスの需要者として正当な権利を行使していると思っているのですが、それは筋違いも甚だしく、保育者のストレスや心理的負担は計り知れず、保育現場から離れていく保育者がどんどん増えていった時代があります。保育者養成に携わる大学や短大、専門学校で学生に「保護者支援」をどう教えるか、大きな問題になったのです。

国の基準についても覚えておいて欲しいことがあります。その基準は最低基準というのですが未だに「サイテー」なままです。たとえば2歳児クラスは一人の先生が6人の子ども保育するという割合です。それが3歳児クラスになると一人の先生で20人をみなければなりません。6対1から20対1になるのです。それはそれだけ子どもが自立しているという前提になっているからです。

その自立というのは、いわゆる身辺自立です。食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔の5つです。これが自立していることが3歳児クラス(年少保育)の大前提です。ここに保育者の手が必要な子どもが多いと、3歳児以上の幼児教育はできません。幼稚園が3歳からなのはそのためです。

ですから当園の場合は、わいわい組(3歳児)10人に一人の先生をつけているので国の基準の倍の態勢にしてあります。さらにらんらん4歳、すいすい5歳は合わせて30人に一人というのが国の基準です。30対1なのです。この基準に従えば、らんらんすいすい合わせて20人ですから一人の先生もつけられないのです。つまり本当は幼児30人に対して、0.5人+0.66人=1.2人しかつけられないのです。

実際には各クラス一人ずつの3人によるチーム保育です。つけてもいいのですが「国からの運営費(公定価格)」がその計算でしか来ませんから、地方自治体が加算します。それでもギリギリの運営であるとは変わりません。

この日本の認可保育園の「貧しさ」を理解していただき、保育を支え合っていただきたいのです。あまりにも細かなことまで正確な説明を求めたり、職員が何でも共有理解を図っておくべきだ、などと思わないで頂きたいのです。

ましてや、新型コロナ対策が始まって以降、それまで以上に清掃消毒や換気などの業務も増えています。感染の可能性がある中での保育です。さらに今は緊急事態の中での保育なのです。

どうぞ支え合う姿勢を大切にしていただき、大変な保育環境の中で、不安を抱えながら保育をしている保育者を大切に守っていただけないでしょうか。心からお願いします。

人と人のコミュニケーションは言葉の気楽なやりとりが基本です。胸襟を開いた中での関係が基本です。人間関係には何度でも言葉が行き交い、心が通いあい、感情の交流があるものです。

保育園の先生と保護者の皆さんとの間に、信頼できる関係がなければ、その狭間で子どもは親の顔色を伺い、自分の気持ちを押さえ、親の意向に沿おうとして本音を隠したりします。

しかし保育園ではありのままの姿を見せてくれていることが明瞭です。親は家にいる時の子どもの姿が真実だと思いたいし、その姿しか知りません。でも違うのです。人はその環境によって見せる姿が違うのです。人間とはそういうものなのです。また人と人の間には言葉や気持ちのキャッチボールが成立することで人間になります。この大前提を肯定し合うことが、子どもの保育には不可欠なことなのです。

不安の中で確かなものを欲しがる心理について

2021/01/12

保護者の皆さんの職場でも、これまで以上の感染防止策の徹底が図られているかもしれませんが、保育園でもこれまで続けてきたことを再確認しています。千代田区によると今年になって、区内の園で職員に患者が発生しているそうです。私たちも改めて気を引き締めていこうと話し合っています。正直なところ、私たちも感染しないかと、ヒタヒタと迫ってくるような不安が強まっています。

連休明けの今日12日(火)、朝から冷え込みも厳しく昼頃には冷たい雨が降った東京ですが、肩を窄めがちな大人と違って、子どもたちは元気いっぱいです。子どもたちの持ち前の明るさが、私たち大人の重たくなりがちな気分を軽やかにしてくれます。その笑顔や無邪気さに救われるような気持ちになるのは、きっと世の中が緊急事態で、感染対策の意識を忘れることも許されず、その意識のコントラストが際立つからなのでしょう。

緊急事態宣言に限らず、外部から追い込まれないと大胆な決断ができない傾向のある日本人ですが、環境問題でも世界の潮流に逆らえないからか、エネルギー政策を大きく変えようとしています。あれだけの事故を起こしても原発を手放そうとしなかったのに、石化燃料から再生エネルギーへの転換を強力に進めることに舵を切りました。海上風力発電の割合を欧州並みの割合にするグリーン政策を始めます。そうでもしないと2050年までに二酸化炭素排出目標を達成できないからです。外圧をうまく利用するという意味では、緊急事態=有事だからと、国会で、特措法や感染症などの改正を議論するとき、平時なら無理なことも通りやすくなるバイアスが生じるんじゃないかと気になります。

強い他者の意向をうまく利用して自己実現を図ろうとする日本人の意識。そうした日本の歴史の真相に迫る作品を残した半藤一利さんが亡くなったというニュース。90歳でした。どこに主体性と責任があるのか判然としないまま物事が決まってしまうのは戦前も今も変わらないと語っていた半藤さん。今の一都三県から、明日には七府県にも緊急事態宣言が追加されることが決まりました。今年になっての一連の政府決断は、世論調査で緊急事態宣言を出すダイミングが「遅い」と思っている国民が半数を超えていたことが決定的だったように見えます。

何につけても、その決定がどうやって決まったのか、科学的な判断というよりも空気が決めているように見えてしまうこと。そのプロセスがすっきりと見えてこないと感じることが多いことも、毎日の生活の中に「不安」を感じてしまう要因になっているのかもしれません。大声ではっきりとモノいう人に人気が高まることも危ないなあと感じます。最初に結論ありき、ではなく本当に議論が深まっていくというプロセスがあることを信じたいと思います。

自然とヒトのバランスが崩れるとき

2021/01/11

日本海側で記録的な大雪が続いています。これも地球温暖化の影響かもしれませんね。産業革命以降、地球規模の気候変動をヒトが引き起こす時代になっています。近年の夏の暑さや大雨のように、自然の異変が身近に感じられるようになってきました。一説によると、2030年までに地球の気温を1℃上げてしまったら、北極の氷が溶け始め、そこに閉じ込められていた膨大なメタンが大気に放出されてしまい、ドミノ倒しのように2050年には気温が4℃上昇してしまうというのです。

気候だけではなく自然界と安定していたウイルスを、ヒトにも感染できるように変異させているのもヒトの仕業です。COVID-19もその例に過ぎません。過去にも、自然界の中で安定していたウイルスを人間社会に引っ張り出してきては、知らない間に疫病パニックを引き起こし、悪霊や魔女の仕業などと恐れてきたのが人類の歴史でもありした。

昨年6月に買った岩波新書『感染症と文明ー共生への道』(山本太郎著)をまた取り出してこの連休中に読み返しました。ウイルスは最終的にどうなっていったんだろう? コロナウイルスの行方を考える上で参考にしたかったのです。ウイルスは変異を繰り返しながら、最終的には発症しないで宿主である動物と共生することで安定していくものがあります。

例えば麻疹はメソポタミア文明ができたときヒトに定着しました。一定の以上の人口を持つ定住社会がないとウイルスは生きられません。ウイルスにとって都合のいいホスト集団(人間が集団を作って生活したこと)ができたからです。5000年をかけて地球上に広がってきたことになります。

それに比べて、ウイルスの感染効率はこの数百年で何10倍も早まりました。人口も増えたので広がり方も爆発的です。そのために変異スピードも速くなっています。それでも長い時間をかけてウイルスは安定するか消えていきます。山本さんは次のように書いていました。

「強毒ウイルスは、自らがもつ性格ゆえに消滅することになる。そして長い目で見たとき、強毒ウイルスは、自らの生存を支える宿主集団を巻き込みながら消えてゆき、潜伏期間が長く、感染効率と致死性の低い弱毒ウイルスが優位となる。このようにして、ウイルスとヒトとの間にある種の安定した関係が築かれていくのである」

これはHIVを例に挙げて説明しているのですが、コロナウイルスの場合は、まだ感染していないヒトがたくさんいて(感受性の高い人が多く残っていて)、感染爆発による変異爆発を起こしている真っ最中ですから、感染力が強かったり、強毒性をもったり、潜伏期間が短ったかりするような性質をもつ変異種が、これから出てきてもおかしくありません。日本でも数年たって、終息したように見えても、何年かしたらまた流行するということは大いにあるわけです。

記録的な大雪や水害や暑さなどの気象の変化も、ウイルスに影響を与えます。ヒトの中にはすでに安定して見えないウイルスと共存していて、その隙間があれば新しいウイルスが入ってくるような「動的平衡」(福岡伸一)も考えられます。宇宙ができて137億年、地球ができて50億年、ウイルスはすでに30億年前には発生していました。それに比べてホモ・サピエンスはたかだか20万年前に過ぎません。私たち自身の「生命」がウイルスとのバランスで成り立っているところがあるのかもしれません。

養鶏場の鳥インフルエンザの発生も同じ社会問題であると捉えたいところです。農林水産省は「ヨーロッパの動物福祉が輸入されたら養鶏産業は持たない」という判断にたっています。これもエシカル消費の世界基準から遅れを取ってしまいました。コウモリの中で安定していたウイルスが、ヒトにも感染するようになったのも変異だったこと、そして中国武漢の発生源が野生動物の売買市場だったことも忘れないようにしたいものです。

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