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園長の日記

子どもが子どもを理解していることへのまなざしを

2022/11/23

(今日はですます調ではなく、である調で始まります)

22日火曜日のこと。子どもの泣き声がする。まさに倉橋が書いている廊下の描写のように。

彼女は泣いて訴えている。春に満4歳になった女の子が「 ◯◯コちゃんのママがいい」と訴えている。「いい」というの中には、「まだいて欲しかったのに、どうして帰っちゃったの」という気持ちが含まれている。保育園の玄関で、お友だちもそばで泣き止むのをじっと待ってくれている。子どもたちは何をいうでもなく、頭を撫でてあげたり、どうして泣いているのかを大人に説明してあげているだけ。子どもの方が<気が済むまで、そうしていていいよ、だって寂しいんだから、しょうがないじゃん>といった風に納得している。私にはそういう風に見えた。もし困っていたら「先生」と言いにくるからだ。

その「子どもの子ども理解」。つまり子どもが他の子どもをどう理解しているか、ということをもっと知ってほしいと、子どもと一緒にいる私などはよく思う。心の安全基地は大人だけじゃないよ、って言いたくなることも多い。子どもの世界で起きていることをちゃんと事実としてみてほしいと。でも、それがそう簡単でないことも分かる。なぜなら、子どもが泣いていると、どうして泣いているのかを聞こうともせずに「はい、抱っこ」といって、連れていってしまう大人が多いから。それをそばで見ている子どもが「あ、待って、連れていいかないで!」と言ってくれるならまだしも、そんなことをする勇気は子どもにはまだない。

でもそれが5歳になってくると「先生はまだいいから」と言ってくるようになる。子ども同士がピーステーブルで話し合っていて、なかなか終わらないような時に、どう?って聞くと「もう少し」とか、教えてくれる。子どもたち自身が先生は、僕達のことをちゃんとみて、待ってくれて、困った時は助けてくれる、そういう距離感を知っている。

ところが大人は、子どもが子どもを見守っているというようには見ない。泣いていたら直接関わりにきて泣き止まそうとするし、またそれが世間一般ではそうだから、それが間違いとも言えず、泣いているそばにいる子どもが、まさかじっと待ってあげているなどと想像できないのだ。それも分かる。だから気のいいパートさんに、その関わり方を伝えるのに苦労する。

今回は、その子も周りの子も私の関わり方を知っているから、私ももそばに寄っていって「どうしたいの。助けてあげるよ」と言ってみるが「ううん」と首を横に振って助けはいらないと拒まれる。まあ、そうだろうな、それでいいよ、とうなずいてあげる「わかった」と。さっきまで木場公園で一緒に遊んでもらっていた「◯◯ちゃんのママがいいんだよね、戻ってきてほしいよね」と言ってみる。なんとも言わない。大人が気持ちがわかったからって、そう簡単に泣き止むもんじゃないよ、共感してあげたら泣き止むとでも思っているの!と感じただろう、きっと。すごく賢くて繊細なんだから。

ただ、彼女は私の言葉に否定も肯定もしないので、少し彼女の気持ちに近いところまで近寄れたのかもしれないと思う。私は「じゃ、一緒に◯◯ちゃんママのところに行こうか」と言ってみる。チラリと私を見るが、もういい、という風に「いや!」という。そう、それも嫌だよね、そんなお節介も嫌だよね。

私は心配してそばにいた子どもたちと一緒に、期限が過ぎた掲示物を外して、その紙をビリビリ破って、小さくしては花吹雪を作り始めた。飽きていた子どもたち二人が、その遊びを嬉々として始めた。

内心、もちろん彼女の気が紛れて機嫌が直らないかなあ、と願って、そんなことを始めてみたのだが、それまでの彼女との会話も手伝ってくれたのか、あるいは私もそのビリビリに熱中していたからか、ふと気づくその子も、じっとそれをみていた。もう泣いていなかった。どうして泣き止むことができたのかはわからない。

彼女の「訴え」は、誰かに向けられているものではあるが、研究者たちは私が二人称的に関わったからだと解釈するだろうか。そうだとしたら、子どもも一緒に、その二人称的関わりの一部に入れてくれないかしらん。それも解釈としてはありの理論にしておいてもらいたい。望むものが「訴え」を経て共有されて、望ましいへ変化するのだとしたら、日本的曖昧さの中庸的共有みたいなものがあるのかもしれませんが。

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