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STEM保育・自然科学

ハエトリグサをめぐる学びの事例を考える

2021/09/02

話は昨日の続きです。これからの小学校以降の学びは「個別最適な学び」と「協働的な学び」が組み合わさった学習が期待されています。それを考えるための事例として、わいらんすいのブログに紹介されている「ハエトリグサ」をめぐる子ども二人の「知らせ合う姿」を考えてみましょう。

この図は、昨日お伝えした子どもの図の左側です。

左の「3段重ね」の一番上は「知識」、2段目は「スキル」、3段目は「態度と価値」となっています。

これが混ざり合って(より合わさって、ねじり合わさりながら)「コンピテンシー」が形成されていくことを表しています。コンピテンシーとは、ほぼ「能力」「力」のことです。

ここで注目してもらいたいのは、「態度」には個人的な態度の他に、協力的な態度が含まれていることでしょう。実物の「ハエトリグサ」、図鑑、それに詳しい友達、気心の知れた仲間、そして先生の存在。これらが「より合わさって、ねりじ合わさりながら」興味の対象が広がったり、調べる方法の知識やスキルを深めたりしているようです。

また「え〜っと」と考える姿も見られますが、子どもは何かに気づいたり、感じたりしたとき、大人のように頭の中だけで考えることはできません。手で触ったり、動かしたり、「ああかな、こうかな」を試します。試行錯誤です。小さいうちは「探索活動」というと、わかってもらえるでしょうか。

これはとても強い衝動で、これを押し留めようとすると、子どもから強い抵抗にあうことでしょう。子どもの興味や関心の最初の表れは、何かに気づいたとき、試行錯誤が引き起こされるのです。手足を使って「試すこと」と「考える」ことが混ざり合っています。

現行の保育所保育指針では、少し要約すると、知識は「豊かな体験を通じて、気づいたり」であり、思考力は「気づいたことを使い、考えたり、試したり、工夫したり」することだと説明されています。

この姿と子ども同士のやりとりも重なることで、子どもたちの姿は複雑に見えるのですが、さらに難しくさせるのは、子ども同士の関係のスキル(我慢したり、譲り合ったり、順番を待てたり、言葉で伝え合ったり・・)もそこで育ちます。

ちなみに、このような姿を捉えて遊びを発展させていくためには、一人の先生が2〜3人ぐらいの少人数の子どもを相手に、じっくりと見守ったり発展させたりする人的環境がどうしても必要です。

特にいざこざを通じて社会的スキルを育てる機会までその場に持ち込むと、学びの場は混乱してしまいます。社会的スキルが未熟な状態の何人もの子どもたちの中に、風船を投げ渡して自由にさせると、みんなが我先に「試行錯誤」を始めてしまい、ただパン!と割れて終わってしまうでしょう。

そのような子ども集団の理解に伴う学びの保障は、経験豊かな保育士がいなければ難しいということになります。単純に子どもの主体性を尊重するからといって、ただ興味をひく教材を与えるだけでは、混乱を生んで熱中できる遊び(つまり学び)にならないこともあります。子どもの状態と教材の間で起きることを見通しながら、子どもの環境(教材)の再構成は作られていく必要があるのです。

ハエトリグサをめぐる二人の学びは、そうした条件を満たしていたのかもしれません。

 

お店屋さんごっこはアナログな拡張現実

2021/08/19

お店屋さんごっこ、といっても昔のような市場でやられていたような「売り買い」を、このあたりでみかけることは滅多にないような気がします。三井記念病院の先にイトーヨーカドーがありますが、そのちょうど向かいに八百屋さんがあって、そこでは「今日は〇〇がお得だよ」などと、威勢のいい声を聞いたことがあります。

ある調査で子どもの「お手伝い」の内容が時代でどんなに変化したのかを調査したものがあって、それによると昔よくあった「おつかい」が、今はほとんどなくなっているという結果が載っていました。それはそうかもしれません。交通事故や誘拐事件などの事故に遭わないかと心配ですし、今は宅配という便利な方法も増えました。さらにこの、コロナ禍で人と会って言葉を交わして何かを買う、という行為そのものを避けるような便利さがさらに進行しています。レジで「レジ袋入りますか」と「〇〇円です」しか話さないアルバイト店員のコンビニでさえ、さらに自動支払い機の導入で、全く無言で買い物が成立するようになってきました。

≪・・お客さんたちは受付でチケットにハンコを押してもらい、どれを買おうかとお店の商品をじーっと見て・・・恥ずかしそうに「これください」。本格的なお店屋さんごっこに、お互いちょっと照れながらのやりとりがありました。≫

昨日までの納涼会プレイベント「屋台のお店屋さんごっこ」では、そんな会話の様子が報告されています。

人と話すという基本的なスキルを身につけるには、人と話す機会を設けることですが、赤ちゃんが言葉を獲得する(学ぶ、ではありません)ためには、他者に何かを伝えたい、という心情がなければそうなりません。自分の思いや考えを他人に伝えようとするには、伝えたい相手と伝えたい気持ちがないと言葉は動き出さないのです。その状況は生まれた直後から、親と子の関係を起点としがら発達していくのですが、核家族だけでは、その相手が不足します。保育園のような集団のある場所で、さらに年齢の異なる色々な子どもや大人との交流が起きる生活は、家庭にも地域にも、全くなくなっているのです。

地域で人と人が出会い、会話をかわし、気持ちを交流するような公的空間、井戸端会議や立ち話を含めて、人が何かをやりとりするアナログな機会を、私たちは子どもの生活から奪っているんだという事実を知っておくべきです。それを補うかのように、保育園の生活は色々な人間関係の体験の場になっています。「いらっしゃいませ」「これください」「〇〇円です」・・ごっこ遊びの世界は、こうやって現実では体験できにくいことさえできる機会だと考えると、このアナログな拡張現実(AR)こそ、大事な経験のような気がしてなりません。

今日の夕方、妄想公園に行ってきました。デジタルデバイスを使って、目の前の空間を魚の群れが泳いだり、電車が走ったりします。それはそれで大変面白い体験だったのですが、子どもへの与えたかは微妙だなぁと思いました。その話はまたしますが、アナログな「お店屋さんごっこ」こそ、子どもにとっては必要な拡張現実だと思います。その前に実際の体験がもっと必要なのですが。そこで、子どもが大好きな模倣遊びのことを、デジタルのARに代わって、アナログのAを頭につけて、AARこそ大事と言っておきたくなります。

活況だった屋台のお店やさん

2021/08/18

「いらっしゃ〜い、いらっしゃ〜い」。屋台のお店から売り子の声が聞こえてきます。「園長先生も買ってって〜」と呼び止められて、「わあ、おいそうなアイスに綿菓子、ドーナッツもカラフルで綺麗だなあ」と返事。ちょうど入園先を選んでいる見学者の案内をしていたのですが、2階の屋台マーケットは、活況を呈していました。

お祭りにつきものの屋台ですが、コロナ禍でまともにお祭りを経験してない子どもたち。でも4歳のらんらん、5歳のすいすいの子どもたちは、お祭りの夜店で「買ったことある〜」と教えてくれる子もいて、屋台のイメージを持っているようです。この2年間、ブランクを感じさせない子たちで、私はホッとして、嬉しくなりました。

昨日と今日の2日間、子どもたちが作り上げた屋台マーケットですが、すでに「お持ち帰り」でご覧になった方はご存知だと思いますが、どれもよくできていて、物をよくみているなあと感心です。焼きそばの上に乗っているのは、キャベツとにんじん、赤い紅生姜のトッピング。わたあめの袋は、「せいがぼうや」のお見本を真似て描いた子どもたちの絵です。たこやきの緑色は青のり、パックにはかわいいタコの絵もついています。

世の中はVR(仮想現実)やAR(拡張現実)が流行っていますが、子どもたちにとってはアナログな模倣が創造力の源泉です。実際の生々しい体験が大切で、その生々しさが何事も基準になっているからこそ、何かの模倣、何かの仮想、何かの拡張ということもわかることになります。最初から仮想や拡張だけの体験は、実に危なっかしい。

五感をフルにつかった実体験の面白さがあって初めて、それを再現したい!という強い欲求が生まれます。幸いなことに「食べる」ことだけは、代わりのもというわけにはいかないので、食べ物屋さんがメインの屋台になっているのは、わかる気がします。子どもたちにとっての食体験は、やっぱりインパクトが大きいのですね。

育ちを「支える」という意味

2021/07/17

子どもにとって自分からは言えないけど、大人に言ってもらえたことで、救われた思いになることってあるだろうなあ、と感じます。せいがの森保育園の頃なので、ずいぶん前のことですが、散歩から帰ってきた子どもたちの中に、玄関に一人立ちすくんでいた4歳の女の子がいました。泣いているだけで、部屋へ入ろうとしません。先生たちも「どうしたの?」と聞いてはいるのですが、泣くばかりで答えてくれないので、諦めて「お昼ご飯を食べに行こう」と誘ったり、気を紛らわしてあげようと、いろいろなことに注意を向けさせてあげようとしています。でも、大切なことを言ってあげていないと感じたので、私は次のように言いました。すると、その子は泣き止もうとして、私に気持ちを打ち明けてくれました。私はこう言ったのです。「部屋に入りたくないなら、入らなくていいよ」と言い、そして「困っていることをあったら言ってごらん、手伝ってあげるよ」と付け加えたのです。

その子は涙を堪えながら、玄関の方を振り向いて、今来た道の方をみて、ミミズを無くしたと話してくれました。どうしたらいいか分からなくなって泣いていたのです。私は一緒に探しについて行きました。ミミズは見つからなかったのですが、その子の気持ちは切り替わっていました。泣いていた時はきっと、自分がどうしたらよいのか、混乱していたことでしょう。でも人間には言葉があります。言葉は気持ちに形と安心を与えます。自分がどうしたかったのか、自分の気持ちが自分で見えるようになり、フリーズしていた気持ちがまた動き出したのです。

保育は「育ちを支える」という言い方をします。この「支える」というのは、何をどこまで支えるといいのでしょうか。それは「支える」のですから、代わりに全部やってあげるのではありません。主体は子ども自身です。子どもが自分でやるという主導権は持ちながら、それが叶えられるように、あるところまで支えてあげるということです。玄関に立ちすくんでいたその子にとって、「いま部屋に入らなくていいし、いなくなったミミズを一緒に探してもらえる!」と思えたら、そこから「自分で」やってみようという気持ちが生まれるでしょう。支えるのは、気持ちや思いを理解してあげたり、共感してあげるところまで、が大事なのです。

同じことが、今日の「ちっち・ぐんぐん」のブログにも書かれています。「タオルでふく?」と聞いてあげることは、案外できそうで、できないことかもしれません。大人の方が気持ちに余裕がなかったり、忙しく感じていたりしたら、そこまで歩み寄れないかもしれません。子どもが黙っているけど「自分もやってみたいなあ」と感じているように見えるとき、「タオルでふく?」と聞いてあげることは、子どもにとっては「やっていいよ」とほぼイコールに聞こえるはず。自分の気持ちがわかってもらえた、気持ちが通じた、私の気持ちに触ってもらえた、と感じたのと同じですから、質問形であっても、それは承認されたのも同然の、力強い後押しになったとこでしょう。あとは「うん」と答えやすいし、そこまで支えてもらえたら、もうすぐに行動に移ることが出来たことからも、それがわかります。

今日は土曜日で、登園した子は少なかったのですが、午後のおやつのあと運動ゾーンで2時間ほど遊びました。園長ライオンや、三びきのこぶた、警察と泥棒などのごっこ遊びと、円盤に乗っての宇宙旅行などを楽しみました。言葉の力は大きくて、子どもたちの心を、想像と物語の世界に連れて行き、そこで心の羽を存分に広げていました。そんな遊びに夢中になっている時、子どもの心のシワが伸びて、音を立てて根から水を吸い上げる樹木の芽のように、気持ちがふっくらと、ふくらんでいくことがわかります。こんな時間が絶対に子どもには必要なのです。子どもは、本当に心の底が躍動するような時間を求めているのです。

ウェルビーングとしての水遊び

2021/07/16

教育目標は子どもの姿で表すことが教育界の常識なのですが、保育目標も同じです。千代田せいが保育園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。この言葉は私がせいがの森こども園時代に、作ったものですが、そのとき苦心したのは、能力主義にならないようにすることでした。どういうことかというと、発達というのは「その人らしさ」が、ありのままに発現していくことなのですが、それは環境との関係で変わってきます。これをウェルビーングといいます。私はこれを「自分らしく」と表現しました。

たとえば今日、プールに入って遊んでいる子どもたちを見ていると、バシャバシャ水飛沫をかけあったり、水に潜ったりして遊んでいました。「イルカグループ」です。

これを選んでいるのは、3歳の子も、4歳の子も、5歳の子もいました。水との関わり方が、この子たちには「合っている」ので、どの子も「自分らしく」遊べていたのです。顔に水がかからずに遊びたいなら「カニグループ」で遊べます。潜ることはないけど、顔が水に濡れるぐらいは平気なら「ラッコグループ」が合っているのです。

この3つに優劣はありません。イルカの方が何がが優れているということではありません。泳ぐことができるとか、潜れるとか、そういう「ものさし」でみれは、蟹よりラッコやイルカが「優れている」ということになります。でも蟹は早く泳ぐことができることを求められているわけではなく、蟹らしく水と共生しています。ラッコも同じです。別にイルカのように、スイスイ泳げることが水との関係ではありません。蟹らしく、ラッコらしく、イルカらしく水と共生して豊かな活動をしているのと同じように、それぞれのグループらしい遊びができるし、その遊びで得ている力も大きいのです。

人間の能力を一つの「ものさし」で比較して並べるということをしてはならないのです。人の個性は多様です。外部から期待される能力を誰もが獲得するように期待されてしまうと、その力に向いていない個性は気の毒なことになってしまいます。人間の特性は多様にできていて、その特性に向いた学びや職業を選択できるようになるとよいのです。人間の特性は、旧石器時代からの長い時間をかけて環境に適応して進化してきた脳と身体の賜物です。その特性はそう簡単に変わるものではありません。

しかし、現代の生活環境は、人工的に激しく変わりすぎました。自然の産物である人間に、その特性に合わないような生活環境を押し付けてはいけないのですが、残念なことにそうなってしまいました。現実はこの200年の間、産業革命以降にできた工場労働者の「能力」を評価して選別するために始まった「学校」での学力評価は、今でも形を変えて「産業界」が「ものさし」に影響を与え続けています。まだ「自分らしく」に合った学びの環境を取り戻していません。

私たちが生命体である以上、そこには「意欲」があって、それが働くように生きることが幸せな人生に通じます。意欲的であるということは、生き生きとした生命の躍動ですから、そうなることは能力主義ではありません。誰もがもともと持っているものを発現することです。そして「思いやり」は、まさしく個人の能力に還元するものではなく、他者がいて初めて自分が成り立つような関係です。思いやりは、本来、個人的な能力として測定することはできないものです。個人の能力ではなく、関係の質の発達と捉えるべきものなのです。

発達障がいにしてもそうです。多動性は活動性が高いと思えばよく、衝動性は瞬発力が高いということです。スポーツ選手や起業家には、そのような個性の人がたくさんいます。先日、家具メーカーの株式会社ニトリの創業者である似鳥昭雄さんが「最近、私はADHDだということがわかった」とテレビで話していました。私がよく知っているIT関連の社長もADHDです。探究心が求められる研究者や科学者には、こだわりの強い特性を持っている人が成功しています。脳と身体に合っていない環境とのミスマッチ。このデザインをし直すことが、本来の教育改革でなければならないのですが、残念ながら、そうしたウェルビーングの視点からの教育改革は始まる気配がありません。

 

 

決まりの葛藤の中で学ぶ人との関わり

2021/06/21

決まりがどこまで適応されるのか、というのは、子どもにとって大問題になる時があります。自分はだめだったのに◯◯ちゃんはやっている、とかで揉める、アレです。この子どもの素朴な平等感がいつ頃、どのように芽生えてくるのかは面白いテーマなのですが、それはさておき、この手の矛盾を保育ではどう受け止めていくか? 大抵の場合は「やりたいけどやっちゃダメ」という場面で生じます。

もうお終いにして次のことをしないといけないとき。例えば今朝もありました。運動ゾーンで遊ぶには、今やっていた遊びを片付けてから移動するとか、人数が決まっているときはマグネットを移動するとか、靴下を脱ぐとか、あと好きなことを1回やって終わるとか、色々なところに「決まり」が出てきます。

子どもにとって不満が溜まるのは、自分は我慢しているのに、◯◯ちゃんは・・・というパターンです。この場合、◯◯ちゃんが、まだわいわい(3歳)だったりすると、そんなに問題になりません。まだ仕方ないよね、で年上の子どもたちには例外と共有できるからです。でも、それが同じ年齢同士になると「なんで自分だけ・・」のようになりがちです。それも余裕があるときは、自分もそうしている時があるから「お互い様」を自分にも当てはめることができるようになります。ようするに、お互いに「大目にみる」ことができるようになっていくのです。

しかし3歳ぐらい同士だと、まだそれができません。自分を高い棚の上に置いておいて「悪いのは◯◯ちゃん」で押し通すことが、この頃の自己主張なので、もう少し、育ちを待ってあげる必要があります。

こんな育ちを包み込むためにも、兄弟関係のような異年齢関係は、クッション材のように、年上の子が間に入ったり、それをそっとそばで見守ってあげたりすることがあります。そんな子は、どの子にもとても人気があります。子どもの中での気遣いは、子供同士でも心が通い合うもので、その紳士的な子はモテるようになります。また子ども同士にも信頼関係というものの濃淡があって、その不平等感を、周りの大人が同じように扱おうとしても、それはまたうまくいくものではありません。人間関係や信頼関係は、「育つ」ものだからです。子どももたちは、決まりをめぐる葛藤の中で「人と関わるスキル」を培っています。これも大事な経験ですね。

第55回保育環境セミナー 空間的環境(後編)実践から学ぶ

2021/06/19

今日は第55回保育環境セミナーの2回目が開かれました。今年度の一貫したテーマは「環境を通した保育」の環境についてですが、5月と6月はその中の「空間」についてです。前回の藤森先生の講義による理論篇に続き、今日は実践編となります。(1回目は5月29日の園長の日記を参照ください)参加者は会場参加の他に、オンラインで北は青森から南は沖縄まで、98施設述べ130名以上の参加者がありました。今回の司会は私がしました。

実践事例は、藤森先生が最初に創った八王子市の「省我保育園」(1978年開園)と、私が2018年までいた「せいがの森こども園」(1997年開園)の二つです。新宿せいが子ども園の森口先生による楽しい報告になりました。

保育環境は空間や物や人が含まれるわけですが、人だけは相互作用が特別なので人的環境は意味づけが異なります。また今回の空間も、室内も戸外も自然環境も宇宙もいわば全ての空間世界が含まれるわけですが、保育の場合は子どもにとっての生活圏、と考えます。具体的な生活の中での行動範囲と捉え直し、その動線の中での出会いをデザインします。

そうすると、園舎内だけが生活圏ではなく、散歩先や戸外活動の行き先も「空間としての保育環境」となります。その事例として2つの園を事例から振り返ってみると、要点は子どもにとっての「生活の場」として、どんな体験ができるような空間設計になっているか、ということです。思わず遊びたくなるような、子どもが主体となるような生活ができること。そこには一人一人にとって大切なこと、子ども同士の関わりが生まれるようなものが大切になります。

保育所保育指針には次のような4事項が「保育の環境」の留意点になっています。

ア 子ども自らが環境に関わり、自発的に活動し、様々な経験を積んでいくことができるよう配慮すること。

イ 子どもの活動が豊かに展開されるよう、保育所の設備や環境を整え、保育所の保健的環境や安全の確保などに努めること。

ウ 保育室は、温かな親しみとくつろぎの場となるとともに、生き生きと活動できる場となるように配慮すること。

エ 子どもが人と関わる力を育てていくため、子ども自らが周囲の子どもや大人と関わっていくことができる環境を整えること。

この4つの留意点を具体化したものを再確認しました。

ブランコでのコミュニケーション

2021/06/18

朝、運動ゾーンで「ブランコ」を楽しみました。園庭がない保育園ですが、運動ゾーンでは取り外しのできる遊具が何種類かあって、今年度からブランコもやっています。今日の朝の運動は、ネット、クライミング、トランポリンの他に、このブランコとスイングボール(大きな赤い球)、それから子どもたちが「豆ちゃん」と呼んでいる緑色の袋状のものを天井から吊るしました。

人気のある遊具は「次は◯◯ちゃん(自分の名前)」「ちがうよ、◯◯くん(自分の名前)だよ」と、順番争いが起きることがよくあります。そんな時、今朝は3歳児わいわい組の3人の女子たちだったのですが「じゃあ、ジャンケンね」と言って自分たちで決めようとしていました。大人が差配してしまうのではなくて、どうするかそばで見守っていたのですが、ここまで成長したんだなあ、と感心です。と言っても、負けた子が納得できなくて「嫌だ〜」とはいって、一旦は不満を口にしていましたが、それでも渋々、その次は自分の番だと待つ事ができました。

しばらくブランコに乗っていて、なかなか終わらないと、今度は「代わってくれない」と不満を訴えてきます。そんな時は「代わって」って頼めばいいんだよと教えてきました。言われた方も「黙っていないで、もうちょっと待って、とかあと少しとか、ちゃんと返事をしよう」と教えます。こうして、言葉のキャッチボールの仕方を伝えています。「もう少し待ってて」と言われたら「じゃあ、あとどれくらい?」と聞けばいいんだよ、とか、そう言われたら「あと10数えるまで」とか、自分で考えて返事しようね、という具合です。

自分の思いや考えを言葉で伝えようとする、そんな姿を育てたいのですが、ブランコの場合は、「あといくつ」を数えやすい。漕ぐたびに、い〜ち、に〜い、さーん・・・と数えていました。生活の中で数を数えるという場面は、こんなところにもあります。人数が増えてきたところで、ストップウォッチをつかって1分交代にしたのですが、その時はスマホの画面に表れる秒数を1から60まで読み上げるのが楽しそうでした。

ケアリングが見守る保育

2021/05/21

先生たちが「子どもの関わり方」を大事に見守っている様子に、私はとても安心します。子どもが対象をケアしていることを、大人がケアしているという関係が「見守る」ことの本質だからです。ここでいうケアとは、子どもが熱中して対象と「やりとり」が生じるような環境を用意してあげることも含まれます。その様子の報告がブログで続いています。

例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子が、ぐんぐん(1歳児クラス)のおともだちの靴をはかせてあげている姿と、それを温かく見守っている先生の眼差し。そのかかわりに注目してブログに取り上げたいほど、先生がその育ちや「やりとり」に「善さ」を見出し、またその「やりとり」の中に自然な「思い遣り」の姿を描いています。

ここでいう「自然さ」というのは、協力することの自然さです。報酬系とは無縁な脳の働きが生じています。これは強い。褒められたり、励まされてやっていることではありません。承認欲求からの行動ではないのです。「大人の出る幕はありません」という言葉が、見守れていることを意味します。

そうなんです。私は研修会で見守る保育の説明を求められた時、大人が見守るのが大事なのではなく、見守れるように子どもが育つことが大事なんです、という話から入ります。そうなるためには3つの条件が必要ですよ、と。一つが子どもの主体性を尊重すること。二つ目が意欲的にかかわることができる選択できる環境を用意すること。そして三つ目が、子ども同士のやりとりが生じるような場を用意すること。この3つです。

これが「環境を通した保育」という意味なんですが、多くの保育園との違いは、大人が、いちいち褒めたり、子どもがことさら「みてみて」と承認欲求を求めてきません。子どもに自信が育ち、大人にかまってもらう必要性が減っているのです。子どもは困った時は先生が助けてくれるという「信頼」を持っています。先生の方も、子ども同士の世界に過度に介入しません。

わいらんすいの子どもたちが「生き物」に、こんなにも心奪われている様子が、数枚の写真に表れています。カブトムシの幼虫が土(腐葉土)に、モソモソと潜りこんでいく様子を、じっと見つめている表情。ここにはカブトムシへの愛すら感じますよね。

さらに私が感動し、微笑ましく思ったのは、ずらりと並んで虫に見入っている「佐久間橋児童遊園の背中」の写真です。これはすごく面白い。写真コンクールに応募したくなるような一枚です。副タイトルは「都会の自然、子どもたちが見つめているもの」です。こんなところに、子どもたちが熱中するものがある、という子どもの目線を大切にしてあげたい。この背中の先に何があるんだろうと、関心を持ってあげる大人でありたい。そこが大人が持ちたい子どもへの眼差しであり、心配りとしてのケアリング(思い遣り)になります。

 

生活を作り出すための意見表明

2021/05/13

朝8時50分。3階では「どのゾーンを開けますか?」という話し合いが始まっています。聞いているのは先生ではなくて、子どもです。開けるゾーンを決める話し合いは、子どもたちが話し合って決めています。この話し合いに参加することは大きな意味があるような気がします。何かを決めることにコミットするからです。自分にも返ってくる意思決定への参画は、世界中で保育のキーワードになっています。生活への参画権です。与えられたものを従順に守れる資質ではなく、やりたいことを主張して勝ち取っていく民主的プロセスを、幼児の時から経験していくことは大事です。

この意思決定のプロセス参加は、物事を「我が事」として考える習慣に導き、自由と責任を学ぶことに通じるのです。誰かがどこかで決めたことを守れるということではなく、今この目の前で決まる場面に立ち合い、自分がどうしたいのか自己に向き合い、自分の考えをまとめます。そのためには、他人の話も聞かなければなりません。

9時半から10時までの間にある朝の会でも、その日何をするか話し合います。また夕方のお集まりでも、その後の遊び方を提案し合います。このように、1日の中に自分の考えを意見表明する機会が3〜4回あるのですが、その毎日の繰り返しはシチズンシップを身につけていくことになっています。

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