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園長の日記

木場公園での自由遊び

2020/01/20

◆芝生広場か冒険広場か

木場公園は芝生広場と冒険広場があって、どちらで遊ぼうかと子どもだちに尋ねると、はっきりと自分の意見を持っていました。僕は原っぱの方で鬼ごっこやりたい。僕はアスレチックの方がいい。そこで手を上げてもらうと、芝生広場の方は5人の男子が選びました。らんらん(4歳児クラス)3名、わいわい(3歳児クラス)1名、にこにこ(2歳児クラス)1名の合計5名です。残りは冒険広場(秋の保育参観の時にかくれんぼのような参観をしたあそこです)。

私はまずこの選択ができたことに、子どもたちの大きな成長を感じました。どちらも散々遊び込んできたからこそ、その上で今やりたい遊びが明確にイメージできているということ。これは室内でいくつか分かれているゾーンを選ぶことに似ています。その広範囲なエリアの特色がまずあって、さらにそこでこんなことをして遊びたいという見通しもあります。

◆鬼ごっこの中にルパンが登場

私は5人の芝生広場を担当しました。するとまた面白い気づきがありました。鬼ごっこは、最初「通り抜け鬼がいい」というJくん(らんらん満5歳)がリードして遊びが始まりました。私が鬼をやったりして、タッチされないようにすり抜けようとします。何回かやると「鬼やる」と言って、捕まえる方をやりたがります。そのうち、遊びは「ルパン三世」の鬼ごっこになっていきました。「オレ、ルパン」とか「オレ、次元」とか「五ヱ門」とか言いながら、駆け回っています。映画かアニメの「ルパン三世」の躍動する登場人物たちの「ごっこ」が、鬼ごっこに融合していきました。

◆鬼ごっこの中から、役割分担のある「ごっこ」遊びへ

秋の運動会でお伝えしたように「鬼ごっこ」は、本来、鬼と子どもと親の3つ巴のロールプレイイングゲームです。子どもを捕まえようとする鬼から、親が子どもを守るという「ことろことろ」が原型ですから、その儀式的遊びが、伝承されていく中で現在は約3000種類あるとも言われる「鬼ごっこ」に枝分かれしていきました。今日の木場公園の「芝生広場」での鬼ごっこは、その中心はらんらんの3人でしたが、何かになったつもりで遊ぶ模倣遊びの中で、走り回って捕まえる、逃げるという運動にのめり込んでいました。これが1年後、年長さんになると、役割交代はもっと明確に頻繁になり、その交代のルールは厳密化されているでしょう。協同して遊びを創造していくようになっていく姿が目に浮かぶようで楽しみです。

◆自由遊びの大切な意味

この遊びはどんな意味があったのでしょうか。原っぱで走り回る鬼ごっこ。その中で垣間見られた役割交代のあるごっこ遊び。大人にとっての遊びは「娯楽」と捉えられがちですが、子どもにとってのこの遊びは「自発的」な活動であり、それ自体が目的になっていて、その遊びがどこまでいくのかはわからないようなものです。遊んでいる時、私はよく「子どもの時間が流れている」という言い方をするのですが、正確にいうと、子どもが本当に遊んでいる時は、意識も行動も日常のことから隔てられています。遊びがもし日常の生活に役立つようなものばかりになったら、それはもはや遊びではないでしょう。鬼ごっこという緩やかなルールはあるものの、自在にルールを変化させ、新しいルールが創り出され続けます。そうした遊びが今日の木場公園での芝生広場の遊びだったと思います。

◆まだ帰りたくない、もっと遊びたい!

そんな遊びだったことの証明は、「そろそろ帰る時間になってきたよ」ということを伝えた時、遊びの時間と空間を生きていた子どもたちは「嫌だ、もっと遊びたい!」と口を揃えました。私は「よし!それでよし」と心でガッツポーズをとります。そうでなければ、遊んだことにならないのです。その遊びこそが、この子たちに必要な発達を支えます。最近の流行りの言い方では「遊びが学びになっている」と、いちいちいう必要があるのですが、もちろうそうです。ここでいう学びとは成長に必要な経験をしている、という意味です。

もし、遊びが自発的でもなく、何かの目的のための手段で行われ、日常の意識となんら変わらず、解放感をもたらさない活動だったら、それは「遊び」ではなく「学び」にもなっていません。それを保育学では「学びのない堕落した遊び」と言います。

 

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