MENU CLOSE
TEL

園長の日記

2日目の保育参観〜室内遊びを通して

2020/10/07

3歳児クラスの子どもたちと体を動かして遊んでいるときに、その遊びに意味を考えながら保育をしている自分に違和感を感じてしまう瞬間というものがあります。そんなものを抜きにして、楽しいものは楽しい!と、ただ没頭して遊べばいいのかもしれませんが、私はそうは思わないのです。楽しければいいんだという誘惑に負けてはいけないのです。それは必要条件であっても、十分条件ではないと考える推進力が必要なのでしょう。

やっぱり、より好ましいと思える遊びに近づけるための「思考」を放棄してはならないし、やりながらでもその都度、自分のやっていること、子どもが経験していることをモニタリングしながら行為していることが必要だと考えています。

このことは、きっと、この日記のどこかで「反省的実践家」の話をしているはずなのですが、子どもの運動遊びひとつにしても、子どもの動機に働きかける仕掛けや環境や、安全に気を付ける配慮や、これまでの流れからつながりを持たせる展開とか、いろいろな視点を組み合わせながら保育をすることになります。

やっていることは間違いなく遊びなのですが、その中に、いかに幼児期に必要な運動を盛り込めるか。しかも子ども自らが発見していく創意工夫の遊びに付き添いながら、どうやって展開するか、そこに保育の醍醐味があるような気がします。

 

保育参観で見えるもの

2020/10/06

今日は保育参観の1日目でした(と、同時に今年度は初めての保育参観でした)。・・・うちの子はどんな風に生活しているのだろう? お友達とは仲良くやれているだろうか? 保育園を楽しんでいるだろうか? 嫌な思いはしていないだうか?・・いろんな「?」を保護者の皆さんはお持ちかもしれません。そんな「?」の謎が、保育参観で少しでも解けるようになるといいのですが、いかがだったでしょうか。お子さんの様子をじっくりとご覧いただけたでしょうか。

保育では「見える」ということがよくテーマになります。それをよく「子ども理解」といいます。人(研究者)によっては「保育は子ども理解に始まり子ども理解に終わる」とさえ言われます。始まりと終わりの間には何があるのかというと、「保育のプロセスがある」というわけです。

保育参観は、一日、しかも数時間ですから、ある意味で定点観測のようなものです。それでも、どんな風に過ごしているか想像していたものに、かなり多くの情報が新たに加わったのではないでしょうか。「こんな毎日の積み重ねなんだな」と理解してもらえると思います。

数ヶ月おきに定点観測してもらうと、その前の時の姿に比べて、「おしゃべりが上手くなった」「絵本を食い入るようにみていた」「家で歌っていたのは、この歌だったんだな」「積木をあんなに高く積めるようになったのか」「クライミングに登れるようになったんだな」・・などなど、いろいろ変化がよくわかるでしょう。毎日一緒にいると見えにくい小さな変化の積み重ねも、間を置いて見るとその大きな変化に驚くことがよくあります。

その一方で、毎日一緒に生活しているからこそ、よく見えることもあります。それは、保育のプロセスをみているからです。そうなった結果については、必ず原因があります。あのこときはこうだったけど、今はこうなった。それはこんな「経験」があったから、という繋がりのところ(因果関係や相関関係に近いもの)を意識しているからです。今日のわらすのブログにあるように、子どもが自分の感情を自覚できるようになってきた育ちに担任が気づいています。そして、その育ちに大きな成長を感じとっています。子どもの姿の「よさ」を担任は伝えたいと思っています。見ることだけでは見えないことが子ども理解にはたくさん含まれています。

保育は今の「子どもの姿」になるために、意図して環境を整え、それを通して経験することを計画しています。さらには、子どもたちの少し先の「未来」も想像します。「もうすぐきっとこんな絵を描くようになるだろう」「こんなパズルを完成させるようになるだろう」そんなことを期待しながら生活を作っています。

今回の保育参観は、コロナ対策で密を避けるために、参観数をほぼ均等にさせていただきました。そのため希望通りにならなかったかもしれませんが、ご了承ください。また保育園で見せてくれる姿をどう見るか、担任の見方を通した子どもの見方も、ぜひ参考になさってみてください。

明日からの保育参観で感じてもらいたい「子ども社会」

2020/10/05

家庭では見せない姿が保育園にあります!それは環境が異なるので自然なことです。家庭ではしないのに、園ではやっているとか、逆に家庭ではしているのに園ではやっていないとか、そんなことがたくさんあります。同じ子どもなのに、どうして?と思われるかもしれません。

子どもの発達はその個人の特性や能力によるものとは限りません。子どもの姿は状況に依存することが多いのです。環境が変われば引き出される力も変わります。人との関係が変われば、性格も振る舞いも変わるのです。これを「発達を関係論的にみる」と言うこともあります。

今日のブログを用いて説明すると、わいらんすいでスズムシを大切しているうちに、その対象に愛着が生まれて大事にしようとします。そこにスズムシへの優しさが引き出されます。その子が優しいからやっているというよりも、飼育するという生活があるからこそ、その子の持っていた資質が引き出されているのです。それがスズムシへの「あっ、ごめんね、ごめんね」という言葉になっているのでしょう。

にこにこ組のサーキット運動では、ぞれぞれの身体的な能力が、すずらんテープの運動棒、平均台、机のトンネル、トランポリンで引き出されています。使われる環境がなければ、その力の可能性は眠ったままでした。使われて初めて能力は伸びるからです。しかも一人でやるよりも、お友達と一緒の行動を順番にやることが楽しいのです。そんな環境は家庭にも地域もありません。親しく心を通わせることができる友達という関係があるからこそ、これだけの長い時間の遊びが成立しているのです。

また仮に障がいがあったとしても、それはその子の持っている特性だけでそうなっているのではなく、その子を取り巻く環境によって、その特性はプラスにもマイナスにもなるのです。親子関係についても、その子どもや親の個人の問題ではなく、その関係自体がプラスにもマイナスにもなりえます。それを相性ということもありますが、夫婦関係、家族関係から想像してもらうとわかりやすいでしょうか。

もしAとBの関係だけでうまくいなかいときCの存在が加わることで、関係が安定するということはよくあります。じゃんけんや動物占いの太陽・地球・月の関係、国の三権分立を思い起こしてもらってもいいでしょう。これは人と人の関係にもあるのです。逆に三角関係のように不安定になることもあります。

保育参観では、子どもにも社会があって、人間同士の切実な社会の中で生きている、その心の姿も感じ取ってみてください。子ども社会の中で人間として立派に生きている姿は感動的なはずです。

子どもにしかできない「分かり方」

2020/10/04

子どもは知識に貪欲である!これははっきりしているのですが、案外、保育界は誤った心情主義が蔓延っていて、そのニーズに答え切れていないのではないだろうか? そんなことを感じるのは、子どもと絵本を楽しんでいるときです。しかも絵本が「クイズ」や「なぞなぞ」や「図鑑」だったりするとき、それをとても感じます。子どもは、いろんなことを知りたがっているんです。

昨日3日(土)の午後、園児と2時間ほど絵本を読んだり、どんぐりで人形を作ったりして過ごしました。月刊のなぞなぞ本を、4ヶ月分ほど一気に読みました。何度か読んでいることがわかるのは、3択のクイズの答えをほとんど正解するからです。その時期に目にしそうな季節の植物や昆虫や鳥などが、どうしてそうするのか、3つの回答から正解を選ぶのですが、どうしてそうなのかを知りたがります。こういう「知りたがり」の気持ちは、ずっと持ち続けて欲しいものです。

そこでこう思うのです。大人になると、何かを知ることが、何かの役に立ったり、他人のためになったり、一貫した見方が面白く思えたり、美しく感じたりというように「善さ」の4要素を感じないと意味を感じなくなるのですが、子どもは違います。知ること自体が面白いんだろうと感じます。

大人は子どもの頃の感じ方や世界の見え方を忘れてしまっているのですが、そのことを、思い起こさせてくれる話があります。昔から伝えてられてきた分かりやすい例です。それは大人になると見えないけれど「子どもだけが見える」世界です。例えば、アニメの『となりのトトロ』だったら、まっくろすけやネコバスは子どもにしか見えません。映画『E.T.』だったら、エリオット(ヘンリー・トーマス)には宇宙人の気持ちがわかります。そんなふうに、大人になるとわからなくなってしまう「子どもの世界」があるのです。

子どもには子どもにしか見えない世界があるんだと想像すること、大人には見えなくなってしまっている子どもの世界があるんだと思うこと。それも「子どもを信じる」という、大切なことなのだろうと思います。

 

「月白風清」青山で尺八とダンスのぶたい

2020/10/03

「満月の夜に、尺八とダンスのしらべ」。こんなタイトルのイベントに2日(金)に参加してきました。

ダンスはご存知、青木尚哉さん。日本のコンテンポラリーダンスの第一人者です。保育園の24日の運動会をいま構成してくださっています。この夜は尺八とのコラボレーションです。

舞台となったのは、表参道駅から5分ほどの公園内にできた小さな野外ステージ「ぶたい」。都営団地の再開発「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト」でできた高層マンションの裏手。遊歩道に作られた小さな雑木林にせせらぎが流れ、虫の音と秋風が気持ちいい夜でした。夏井敬史さんによるエレクトロニクスの環境音楽が、尺八とダンスを引き立てます。

 

尺八は黒田鈴尊(れいぞん)さん(37歳)で今、注目のアーティストです。人間国宝の二代鈴木鈴慕と三代青木鈴慕に師事、国際尺八コンクール2018in Londonで優勝しています。プログラムによると、幼少よりピアノを学び、武満徹の「November Steps」を聴いた事が契機になり20歳で尺八に転向したそうです。青木さんが今回の企画に共演を誘ったそうです。

(この写真は黒田鈴尊さんのホームページより)

人の体は、それ自体美しいと思うのですが、動きがさらに美を生み出すためには、それにふさわしい環境が必要だという事に、このイベントで実感しました。これは当たり前のようでありながら、忘れがちです。秋の満月の夜の野外。風と光のなかに響き渡る音楽を、身体が即興で「それ」を見えるようにしてくれます。もちろん、青木さんがダンサーだからできることなのですが。環境と会話しながら体を自在に動かすことの美しさ。

尺八の音はまさしく「和」なので、月や雑木林にふさわしいのですが、青木さんのダンスは、その和に溶け込むような舞いでした。舞台で見る西洋的なダンスではなく、日本の舞踊やアジアのエスニックテイスト、モダンなステップなどを感じた方もいたでしょう。私が一番「ぞくっ」としたのは、やっぱり「間」や「呼吸」でした。高揚と静寂を沈黙がつないでいくのです。見事でした。

青木さんは、舞台演出もされる方だということも強く再認識しました。光や照明も大切な装置です。

このようなイベントは毎月、満月の夜にイベントを開催するそうです。主宰する「ののあおやま」(2020年5月オープン)の水野さんは記念すべき第1回を青木さんに依頼しました。その理由は「なぜ、ののあおやま、という名前にしたのか」という解説でわかりました。

「のの、という言葉は、日本で伝統的に使われてきた言葉です。自然の尊さに包まれ、その有り難さを感じられる場所になること、そして感性を磨いて共感する仲間たちを集め街に新しい魅力を育てていくことを願っています」

月が毎晩、少しずつ姿を変えるように、自然と人生に同じ日はありません。その日しかいない風や姿に日本と美しさを感じることのできたひと時でした。

 

 

♪出た出た・・いもが・・

2020/10/02

すいすいの子どもたちの「芋掘り」の格闘ぶりを手伝っていると「こうやっていろんなことを学んでいるんだなあ」、「遠くまでバスでやってきて良かったなあ」と思いました。

まず芋が地面の下に、どんな風に埋まっているのか想像できていません。到着すると茎や葉っぱは切られて「さあ、どうぞ!」と農家の方が準備してくださっているので、子どもたちは「ん?このへん?」という感じです。まずは、そこからイメージを持ってもらうところから、芋掘りのスタート。

一人二株ずつ掘るように、「○○ちゃんは、これ、とこれね」と、掘る場所の前に座ってもらいます。このサツマイモ畑には、今日は10団体が車で来ていたのですが、団体や家族に掘ってもらうために作っているので、掘りやすくしてあります。予めも盛り土をした小山の中で大きくなっているのです。

土から赤いサツマイモの肌が見えると「あった〜!」と勢いが増して、どんどん掘り始めます。それでも芋の周りの土が固いところは、幼児の指では掘り返すことができず、「助けて〜」「取れな〜い」と先生を呼びます。

ほとんどのサツマイモはラグビーボールのような形をしているので、大抵は半分以上姿を見せると、あとは細くなっているので、子どもでも引くと抜けることが多いのですが、凸凹の長〜い形のがあったり、曲がっていたりすると、てこずっていました。

「見てみて!これちびちゃん!小さいよ、こんなに!」と、大きさを比べている子や、「大きい」とか「重い」とかを何度も口にしています。前日の雨が少し土に湿り気を与えて、土は比較的掘りやすい状態でした。

それでも5分、10分と頑張っていると「取れた!」「できた!」と嬉しそうに掲げて見せてくれます。地面の下に食べられるものがあることを知った人類が、偶然ではなく、意図して育て始めた栽培の知恵。その収穫の喜びの一端を体験できたようです。

わざわざ、広い農地まで足を運んで芋掘り遠足をするのは、作物を育てるという人々が生きていく上で欠かせない「食べ物を栽培して育てる」という文化的実践の「入り口に立ってみる」という経験になってくれたら、というのもあります。

また、すべても食べ物は、スーパーにいけば魔法のように手に入るのでないことを、あとで「勉強」して知ったとき、あの芋を掘った時の土の硬さ、芋の重さ、大きさなどの感覚的な体験がよみがえったり、知識として学ぶことに実感をともなった理解の支えになったりしてくれたら、という願いもあります。

中秋の名月は、満月ですから太陽とちょうど180度反対の方向にあります。西に日が沈んだ頃、月はやっと東に顔を出します。月は東に日は西に、です。今日の満月は屋上からも、昨日のようには見えませんでした。ビルの谷間からの観察はお迎えの時間にはかないませんでした。次のチャンスは運動会の前の頃になります。

中秋の名月はいかに?

2020/10/01

今日10月1日(木)から、新たな気持ちで後期保育のスタートです。

気分転換を図るために、玄関幕を付けました。「江戸っぽいですね」「相撲部屋ができたみたい」「何かのお店みたいです」などの感想をいただきました。私が気に入った子どもの表現は「網から旗になったね」でした。よく見ていますよね。

午前中から雨模様の、すっきりしない1日。室内で過ごしましたが、運動はバッチリでした。

にこにこはトランポリンを楽しみ、わらすは運動ゾーンでダンスに取り入れている動きを楽しんでいました。

夕刻になると雲も晴れて、中秋の名月がビルの谷間から顔を見せてくれたのは6時40頃。屋上に登ってお月見をしました。

3組の親子に望遠鏡で月面を眺めてもらいました。今週は初めての観察会の成立です。月の出の時刻はだんだん遅くなります。

 

 

今日で上半期も終わり・・

2020/09/30

◆上半期の振り返り

今日9月30日は令和2年度の「ちょうど半分」が終わりました。この上半期を振り返ると、最初の4〜5月が休園でしたから、6か月のうち正味4か月しか開園できていないのですが、とても長く感じる半年でした。そして休園中のオンライン保育を含めて、これまでとは異なることの連続で「忙しかったあ!」というのが正直な感想です。しかし、新しい対策をいろいろ考えないといけない中でも、ブレていけないのは「子どものため」です。それはコロナ以前も以後も何も変わっていないので、「保育の体幹」が揺るぐことはありませんでした。

明日からの後半戦を考えるために、上半期の中で「子どものために良かったと思えること」をぜひ、教えてください。明日コドモンでご案内します。そこを深掘りしていくことが、子どもたちの発達をよりよくしていくことにつながると考えるからです。また保護者の皆さんと保育園と力を合わせて協力することで、子どもの育ちが本当に変わってきます。みなさんとのと対話を深めて、より良い楽しい生活を創り出していきましょう。

◆3つの「園からのニュース」

(1)親子運動遊びの会 お知らせ (配布)

(2)月別行事予定表 10月11月 (掲示)

(3)芋掘り(すいすい)の2日への延期

◆福田さんによる読み聞かせ

今日読んでくださった絵本は次の通り

にこにこ『ケーキ』『くれよんのくろくん』ほか

わいらんすい『えんそく ごいっしょに』『ふゆじたくのおみせ』『ももたろう』

 

 

 

保育参観で子どもの育ちをご覧ください

2020/09/29

本日、園だより10月号を配布しました。

ホームページのメニュー「園だより」にもアップしました(パスワード必要)

 

(園だより10月号 巻頭言より)

もう10年以上前のことですが、私が厚生労働省の審議会で保育所に必要なカリキュラムについて話したことがあります。そのとき、保育者を育てる短大や大学の養成校では、「養成課程も大事だが、その運用を含めたヒドゥンカリキュムラムが大事じゃないでしょうか」と語ったのですが、あとで議事録をみると「基準カリキュラム」になってしまっていました。私の発音と説明力が悪かったのだと反省した思い出があります。

ヒドゥンカリキュムラムというのは「隠れたカリキュラム」のことです。一見すると、そこにカリキュラムらしきものが見えない。生活と遊びの姿しか見えない。ところが、その姿の背後には私たちの教育的な意図が隠れていて、それは「可視化」しないと明らかにならないものなのです。

大学や短大でも、講義やゼミのその時間だけにカリキュラムがあるのではなく、学校の風土や学生生活のルールや習慣、あるいは教官の態度や姿勢にもカリキュラムが染み込んでいるものなのです。その境目を軽々とこえて作用し合う「学び」をもっと意識したい。例えば子ども主体を大切にしたいと語る教官自体が、学生主体になっていないということがあります。そんな思いをその審議会では語ったのですが、その思いは今も変わりません。この保育を考えるときの土台になっています。

ご存知の通り、このカリキュラム説明会を開こうと思っていた今年の春先、コロナになってしまいました。多くの園が保護者会を開けないまま今に至っていますが、当園では個別の面談などを通じて必要な情報のやりとりはさせていただいています。また私も意識して、その日の出来事に関係することを取り上げて「園長の日記」で説明してきました。保育園は学校のような「教科カリキュラム」ではなく「生活準拠型カリキュラム」です。学校は教科ごとの時間割がありますが、幼児教育にはありません。一人ひとりの学びのつながりはそれぞれです。それでも、どの子にも経験してもらいたいことが生活の中に埋めこまれているように環境を用意してあります。ですから見えないカリキュラムなのです。

しかし、この経験を可視化することは結構むずかしいものです。というのも、一人ひとりの学びのプロセスは異なりますし、育ちの中心にある心情や意欲は数値化できないものだからです。それでも、子どもの育ちには手応えというか、成長の実感というものが確実にあります。その実感を、保護者の皆さんと共有していきたいと思います。10月6、7、8日は保育参観です。ぜひお子さんの育ちと生活の様子をご覧ください。

日本人が月に感じてきたものは・・

2020/09/28

清々しい青空がトップニュースになった今日28日(月)、富士山に初冠雪も見られました。季節は確実に秋です。こんな気持ちのいい季節を子どもたちと実感したくて、10月2日(金)の中秋の名月までの今週1週間は、秋づくしの予定です。

布川先生による習字は「月」。ひらがなと漢字で、しかも楷書だけではなく草書も併せて、楽しみました。草書は元の漢字や平仮名を崩すのですが、月の場合はまるで象形文字のように受け止めて楽しめます。三日月のようにも見えたりして、月と文字に秋の風情を感じる時間になったようです。

いただいたものも含めて園内にいまある絵本の中には、「月」に因んだものが8冊ありました。そこで夕方の望遠鏡での観察の前に『お月さまってどんなあじ?」と「ぽんぽん山の月」を読んであげました。前者はわいわい・らんらんぐらいにぴったり。後者はすいすいなら主題が伝わるかな?というものでした。

うさぎがお月さまにいるのは、古い仏教の説話が元になっています。火に自らを投じて自分を食べさせようとした優しいうさぎの話です。それを彷彿とさせるのが「ぽんぽん山の月」。ここには優しい山姥(やまんば)が、可哀想な子うさぎを見かねて、自分のお団子を恵みます。お母さんが漁師に打たれて亡くなっていることを知らない子うさぎたち。その、子うさぎは、お月さまでお餅をついているおかあさんからのものだと喜ぶのです。

今日は夕方になって雲が出て、望遠鏡によるお月見はできませんでしたが、実は6時40分すぎに、山崎パン本社の真上に雲からのぞいてくれました。その写真は以下です。今日こそは見れるといいですね。

 

top