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園長の日記

正しく恐れる(2)

2020/07/05

(NHKの1万人調査)

小池都知事の続投が決まりました。当選直後の会見で「今後は外出自粛や休業要請ということも考えていますか?」という質問に対して「これまでの緊急事態宣言下のように一斉に皆が休むという形ではなく、どこで何が起こっているのか、かなりピンポイントで定められつつあります。そういった意味で、全体での休業要請ということではなく、効果的な方法を進めていきたいと考えています」と語りました。今なら押さえ込みができるという判断のようです。それは200件になってでもしょうか。300件になってでもしょうか。リンクの追えない陽性者がこれだけ増えても、若者なら大丈夫というのは、本当に科学的な判断と言えるのかどうか。やっぱり、正しく恐れることは難しい。

正しく恐れる

2020/07/04

昨日3日(金)は保育環境研究所ギビングツリーの定例会議に参加してきました。この会議は世界や日本の保育の動向を知ることができる場の1つです。赤ちゃんは保育者の表情をよく観察します。ところが保育者がマスクをしていると保育者が意図を感じにくくなってしまします。ソーシャルディスタンスが取れていれば、マスクはできるだけ外して保育をした方がいいのです。実際のところ、新宿せいが子ども園の先生はマスクをしていません。乳児は感染しにくいという日本小児科学会の知見(実際は「誤った恐れ方に対する警告」といってもいいものだったのですが)をきちんと踏まえた対策を講じた方がいいのでしょう。その代わり、園内に入れるのは、2週間以上園児とその家族と一緒にいた人しか入ることができません。つまり園と家庭を守る一種の水際対策には力を入れるということです。東京都の動向にも目が離せない状況の中、正しく恐れることはとても難しいと思います。

時間との戦い

2020/07/03

◆教訓を活かして欲しいのですが・・何よりも急いで!!!

5月29日に政府の専門家会議が「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」を発表し、大きく報道されました。もう一度、読み直してみました。

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_00093.html

その分析結果の最後のページに次のような総括が述べられています。

「こうしたリンクが見えない孤発例が急増していく中で、4月7日には、緊急事態宣言による対策を余儀なくされることとなった」

今日7月3日の感染者数は東京だけで124人で、そのうちリンクの追えない事例はまだ少ないようなので、4月当初の様相とそっくりな今こそ、手を打つべきです。

◆緊急事態宣言よりも市民の自主的な行動変容が効果?

すでに広く報道されていますが、政府や専門家も解決していない次の「謎」も政策判断に影響しているのでしょうか。それは緊急事態宣言を出す前に、実際にはピークアウトしていたことが、この専門家会議の分析で明らかになっています。(冒頭の写真)緊急事態宣言が出たのは4月7日ですが、感染のピークは4月1日でした。

分析では、4月1日には実行再生産数が1を下回っており、そうなったのは緊急事態宣言によるものではないというのです。ですから、その「効果」を産んだんものが何だったのか、もっと踏み込んだ分析が欲しいところです。専門家会議も「さらに分析が必要」としています。

ただ、これによると、今東京で起きていることは、3月下旬に取り組めた対策の範囲のはずです。

脆弱性の高いところは、すでに予想されていました。そして今、予想された通りになっているのです。「接待を伴う飲食店など」と。この「など」は明らかに、ホストクラブなど若者が集まるスポットなどを含んでおり、リンクが追えない事情、公表しにくい事情が絡んでいました。ソウルでも同じケースがありましたね。新宿や池袋エリアという表現で「察してください」というわけです。

◆時間との戦い

大規模クラスターを防ぐのは時間との戦いだったはずです。その点、新しい会長の座についた日本医師会の中川会長は、前会長と違って率直に政府に意見を言う人なので、早速「サーべランス体制の強化」を要請しました。

もはや東京都が200人を超えるのは確実でしょう。ただ、それでも緊急事態宣言は出さなくてもいいので、実効性のある対策を地方自治体が独自に「早く」手を打ってもらいたいものです。

緊急事態か休業補償かという発想を乗り越える柔軟な発想が日本には向いていると思います。業態を絞って積極的な検査を実施する企業には補助してもいいでしょう。休業に向けた対策ではなくて、脆弱性のある業種には、手厚いサポートを施した方が、お金もかからないと思います。業態によっては、お客さんにCOCOA登録前提の入店を条件にするとか、クラスターを突破された時の具体的な収束策について知恵を集めたいものです。

107人

2020/07/02

(カブト虫になってみて)

東京都の感染者数が今日7月2日に100人を超えました。東京都は毎日、CPR検査数を一日遅れで公表していますが、最近は大体、一日2600件ぐらいで推移しています。そのうち107人が陽性だったというわけですから3%程度です。検査に至った人は「発症」による本人からの申告が発端となったケースの「周辺」だけですから、不特定多数の東京都民にならすと、もっと数字は小さくなるはずです。そう考えていいのか、それとも感染経路の不明な割合が半分はあるので、本人が知らない間に他の人に移している可能性がある以上、その分を想像するなら、もっと多くの人が感染しているとも考えられます。3月と同じように見えるグラフなので私は緊急事態宣言を出していい局面だと思いますが、ただ出しても効果がないだろうとも思います。みんな経済を止めてしまった、あの生活には2度と戻りたくないから、もっと切羽詰まった何かが起きないとこの流れは止まらないでしょう。いくら「感染拡大要警戒」と言われても・・・という感じでしょう。場所と業態が特定されているのなら、ピンポイントで補償とセットで防御策を講じてほしい。必要なら条例なりを制定して綿密な対策を早急に実施してもらいたい。予想できた事態を予想どおりに迎えていながら、「直ちに〜する状態にはない」(菅官房長官)というフレーズを聞くとゾッとします。すでに後手を引いている事態を自ら証明するフレーズでしかないからです。今年もすでに半年も経つのに、気の利いたきめ細かな対策がないまま、私たちは「困ったなあ」という感じを堪えながら、またしても推移していく事態を受け止めていくしかないのでしょうか。このままでは、なんだか無力感に襲われそうです。今度こそ保護者の皆さんに参加していただければと計画している行事も、また中止や延期を視野に入れながらの前進になりそうです。

私たちのスタートライン

2020/07/01

どこにいるか、誰といるかで、その時の子どもの心もちが想像できます。大人もそうでしょうが、その人なりの心地よいところに、人間は落ち着きます。水が高いところから低いところで流れるように、その人にとって心安らぐ場所が最も安定した場所になります。午前10時ごろから入園見学の方を案内していたら、ぐんぐんのRくんがお友達と遊んでいたらお気に入りなのか、ある「おもちゃ」に関して切ない結果になって泣いてしまいました。担任の先生の胸の中でその涙と思いを受け止めてもらいながら、私にも「ぼく、あれで遊びたいんだよ」と訴えていました。

2階のにこにこ組は、パズルに絵本に電車に夢中でした。Hちゃんが、私と見学者にアイスクリームのメニューを持ってきて見せてくれたので、私たちは、「アイスクリーム屋さんなのね。わあ、どれも美味しそうだな、どうしようかな、じゃあ、これくださ〜い」と、お客さんになってあげたら・・「だめ〜」という返事。「え!だめ!?あ、そう。ただ見せてくれただけだったのね、失礼しました・・・」これには、周りにいた先生たちは爆笑でした。

3階の入り口にいくと、KちゃんとSちゃんの二人が背丈ほどもある高い四角のダンボールの陰に座り込んで、仲良く楽しそうに何かしています。私が「あれ、何か楽しそうな声が聞こえてきたぞ、何かな〜?」と言いながら近づくと、にこにこしながら二人がやっていたのは、どの段ボールの外側の紙を毟っていたのでした。そうか、ビリビリと破っていく感触だけでも面白いんだなあ、そうか、そうか。と何も言わずに頷いてあげました。

今日は雨だったので、外には出られませんでしたが、それぞれの子どもたちは、予め用意されたゾーンやそれ以外の心地よい場所や遊びを自分なりに見つけて、自分の世界を広げているように見えます。ある場所や空間が、ある子どもにとってはただの隅っこかもしれませんが、ある子どもにとっては最高のリビングルームになっていたりするのですね。

今日の午後、先生たちが集まって保育の話し合いをしました。子どもの様子から何をしたがっているのか、どう過ごしたいのか、その心の動き(望んでいることや願い)を捉えて、それが叶えられるような環境に再構成していくことの大切さを話し合いました。同じ物や空間や遊具などであっても、子どもの心が感じるものは異なるからです。ただの箒(ほうき)が子どもは「魔女の箒」になります。ただの段ボールが高層ビルになります。その感じているものに共感しながら一緒に生活することが、私たち保育者のスタート地点(起点)なのです。

 

これまでに分かったことから次の一手を

2020/06/30

2020年も半年が経ちました。今日は八王子市の「せいがの森こども園」へ行って七夕用の笹の木を自動車で運んだのですが、その運転中に、この半年のことをいろいろ考えました。実際のところ、この半年でいろいろなものが変わり、いろいろなことが分かりました。COVID-19によるサイトカインストームの仕組みもわかってきましたし、日本に限っては感染率も死亡率も治療薬やワクチンのある季節性インフルエンザよりも遥かに低いことがデータから分かります。それにもかかわらずマスコミはちっとも報道しませんでした。新型インフルエンザと違って指定感染症にしたために厚労省の結核感染症課と感染研に権限が集中してしまって、他省の資源が使えなかったことや政府全体の機動性が確保できなかったこともわかってきました。また、なぜ日本が感染者が少ないのかというファクターXはウイルスのゲノムの違いによることもわかってきました。さらに7月以降の課題は「予防」としては変異したウイルスを海外から持ち込ませない水際対策の徹底と早急なワクチン開発であり、「診断」としては全自動CPR検査機の大量導入が不可欠であり、「治療」としては治療薬の開発と医療体制(重症患者の治療と軽症者の隔離)の再構築です。ただ、それに加えて、これらよりも先に7月にやらないといけないのは、政府も東京都も「経済は止めない」が大前提になってきているので、要所適時にモニタリングをして予兆を掴む体制を作り上げることです。学校や保育園や老人施設は、サンプル調査をして、子どもの不顕性感染率を明らかにして欲しいものです。そうしないと、いたずらに不安が続き、家庭でも園でも安心して子育てができません。ぜひやっていただきたいものです。

 

子どもが自分で感じて、考えて、決めることを大切に

2020/06/29

 

園だより7月号 巻頭言より

◆保育で大事にしていること

新しく入園した方もいるので、当園の保育方針の話を少ししましょう。園が大事にしている保育は、大人が子どもに言葉で言ってさせる保育の真反対です。自分でやろうとしてやれるようになる自立を目指します。やれない時は人に頼んだり、どうしたらやりたいことができるかを聞いてくるような子どもになって欲しいと思っています。

◆元園長「自律できる子を育てたかった」

昔、大阪の公立の元保育園長から次のような話を聞いたことがあります。「トイレにいく時間だよ、手を洗いなさい、静かにしなさいと、言って育てた子どもたちが小学校や学童に行ったらお漏らしをしたり、手洗いを忘れたり、人の話を聞けない子になってしまいました。自分で行きたくなったらトイレに行く、気持ち悪いから手を洗う(手を洗うとさっぱりして気持ちいいからやる)、うるさいと大切なことが聞こえないから静かに聞く、そうした自律(反対は他律)を育ててあげないと、困るのは本人なのです」という話です。全くその通りです。目に見える行動面ばかりではなく、子どもの精神面にも同じことが言えます。子どもが自分の考えを持ち、それを人に伝え、決定する力を育むことは、子どもの人権を守ることと等しいと私は考えています。

◆自分で感じて考える体験を

大人が望む行動ばかりを口やかましく言って聞かせることを繰り返していたら、子どもは自分でやるという体験ができなくなってしまいます。自分が自分で心に決めること。やりたいことを自力でやってみて、その結果を正面から見つめ、責任感を感じること。自分が原因で物事が変わる経験をすること。こうしたことには、うまくいかないことや失敗がつきものです。しかし自分で決めてやったことは、人のせいにできないので、自分を知る経験になっていくのです。「だから言ったでしょ」という思考は禁物です。実際に自分で経験して考えることが大事なのですから。この経験が希薄な子どもたちが多くなっているように感じます。可愛さゆえの大人の過干渉です。子どもに感じて、考え、迷い、揺れ動く幅を大きくとってあげてください。そのレンジが大きければ大きいほど、大きな成長を見せてくれます。

◆自分のことは自分で決める

この自由度が少ないと、子どもは自分で決めたいことを求めて、いうことを聞かない、返事をしない、大人が困ることをする、という反応パターンに嵌っていきます。また、それを否定されるともっとやります。これでは悪循環です。子どもが「自分でこうしてみた、そしたらこうなった、だから次はこうしてみたい」という好循環を作り出すには、大人は子どもが自分の力で自ら歩き始めるように、子どもを信じてじっと待つ、という子育ての構えを持つ必要があります。

◆子どもができることを信じましょう

子どもが自分で考えて、自分で行動に移していく過程をこそ、一緒に育てましょう。言って聞かせてできるようになるのは「他律」です。そうではなく、自分のことは自分で判断して適切な行動が選択できる、自律した姿を目指しましょう。そのための第一歩は子どもを丸ごと信じることから始まります。良いこと悪いことの決まりは伝えながらも、自分で決めて判断して行動に移せるように支えていきましょう。

見る力と学びの関係

2020/06/28

写真は歯科検診(6月25日)

子どもが何を考えて、どうしたいと思っているのか、それを言葉で人に表現できるようになる前と後で、本人の気持ちの整理の仕方はどう変わるのだろう。言葉にしなくても、表情や仕草や行動で伝わっていたのに、それだけでは伝わらない内容を心に抱えていることが、子どもにはあります。もちろん、大人もありますが。その思いが自分だけの世界で「〜というわけでした、マル」と完結しているならともかく、まあ、人間である限り、そんなことはあまりなく、誰かにわかってもらいたいという気持ちがあるものです。

これは人間だけが強く持つものなのですが、世界と自分を表すための道具としての記号、つまり表象を持つことができるようになった人間は、言葉もその表象の1つですが、その表象の世界の中に入り込んで、学び始めるということが起きます。没頭して遊んでいる時がそうです。また、昨日の日記で紹介したMちゃんが、モビールを触ってみたことで、それまでの「それ」とは全く異なる対象として「見る」ようになった時、モビールをじっとみているだけでも、それまでの「見る」とは意味が全く違う学びが生じていることになります。もし、また触りたいな、という思いが強ければ、それを見るたびに自分との感情的な対話も生じて、いつになるかわからないけど待つ、という能動的な「待つ力」を育む機会になっていくでしょう。見ることが学びにもなるのです。

その条件は、繰り返しますが、自分の世界の中に位置づくことです。その対象がMちゃんにとってのモビールのように、あるいは、ちっちのブログにあるようにAちゃんやYくんが「見た」くるくるチャイムのように、私もやってみたい、僕もやってみたいという興味の対象となっているような場合です。反対に節分に鬼が来たり、フェイスシールドをつけた歯医者さんが来て怖い体験をしたり、嫌な体験をしても、その対象は、避けたいものとして、その子の世界の中に位置づくわけで、これも「見る」こと、観察すること(思い出すことも含めて)が学びになっていくのです。どうやったら避けられるか、考える、みたいに。反対に、少し大きくなると怖いもの見たさ、というのもありますが。

そこに言葉が獲得されていくと、その自己の内面世界を「言葉」で再表現できるようになるわけですから、世界と他者と自分の3つの関係が「串刺しになって」(汐見俊幸)いく学びが、ダイナミックに展開されていくのです。面白ですね。子どもがそばにいることの面白さ、子育ての醍醐味は、その様相を大人が直に知ることができることにあります。子育ての楽しさを知るには、子どもの世界に私たちが入り込むことに限りますね。

1歳5か月の子の学び

2020/06/27

(写真は木場公園 6月26日)

 

土曜日の保育で子どもの様子を見ていたら、歩けるようになったMちゃんが自分で移動でき、移動していった先の物や人との出合いを楽しんでいました。時々、私に寄ってきて指を差すので、それに向かって一緒にいきます。たまたま、だったのですが、天井から下がっているゾウさんや、松ぼっくりモビールを指差すので、「あれ見て、ほら面白いよ」と私に教えてくれているかのように感じたので、抱っこしてあげて、それにだんだん近づいていくと、手を伸ばして触りたいような仕草をしたので、体を近づけては離し、近づけては離し、と触れそうで触れない、触れそうで触れない、と遊んでいたら「キャ」っと笑い出しました。遊んでもらっているということが十分に分かっているようです。そして、ついに触りました。とっても嬉しそうです。(本当は、触って遊ぶものではないのですが)

赤ちゃんなりに見ているものについて、こうしたい、という考えがあって、それを私に指差して教えてくれます。私のほうは、当てずっぽうで、こうしたいという意味かな?と想像して対応します。「Mちゃん、そうなの、触ってみたいの、そうか、よ〜し、できるかな、・・・(チョンと触る)あ、揺れたね、面白いね、Mちゃん、触ったら揺れたね、よかったねえ、ねえ。・・ん? もう一回、またやりたいの、よ〜し、ほら、・・(またチョンと触る。そして握ろうとする)。あ、掴んだね、ざらざらしているね」

こんなことを数分繰り返しているうちに、Mちゃんと私の間にモビールという第三項が位置づきました。当分は「あれ」という言葉でしかありませんが、Mちゃんの中に関わりの中でえたイメージが興味の対象として輪郭を持ったことでしょう。こうして言葉を獲得しているのですが、最初から興味があったわけではなく、私という関わりの中で、もう一度自分のものになっていった世界との出合いが成立しています。

このように子どもからみたときの対象を「見る」ということが、それまでは、ただ漠然とあった周囲のいろいろなものの中から、自分の世界の中の対象となったとき、見ることで発見された世界との関わり方が始まったと言えるでしょう。大人もこうして、今までもみていたはずの世界が変わって見えてくることがたくさんあります。子どもたちもそうして毎日、小さな気づきを積み重ねているのですね。

モンシロチョウを追って・・

2020/06/26

木場公園に出かけてみると、子どもたちがまず立ち止まったのは、目的地として想定したた芝生広場ではなく、そこへ着くまえの、駐車場と道路の間にある大きな樹木並木の根元でした。駐車場のアスファルトから黒土の地面へ足を踏み入れると、7人のらんらんさんは、どの子も枝や葉っぱを拾い始めたり、ワラジムシやダンゴムシを見つけたり、何の実だかよくわからない丸いものやら、根っこに土が絡まったモジャモジャした塊などに「何かあった」「みて、これすごいよ」と子どもたちが群がります。この姿に、子どもたちの「いま」をみる気がしました。バスの中で「今日何したい?」という小林先生の質問に「ダンゴムシ探し!」「蝶々をとりたい」と答える子どもたちだったのですが「ナルホド、もう、ここでそれが始まるんだ!」と妙に感心しました。

芝生広場に着くと、子どもたちをずっと惹きつけ続けたのは、やっぱり「蝶」でした。モンシロチョウの仲間のチョウが、ひらひらと芝生の中を蜜を探してとんでいるのを見つけると、走り出す子どもたち。それがずいぶんと遠くまで、飽くなき追跡が始まるのです。T君やK君が追いかけ始める後を私がついていくと、緑の帽子を網ががわりにして、葉の上の止まった蝶に帽子をかぶせて生け捕りにしようとします。が、そう簡単に捕まらないのが蝶の舞です。その蝶との鬼ごっこはかれこれ40分以上は続いたでしょうか。どうしても自分でとるんだという執念に近い情熱を感じます。この気持ち、わかりますか? 私も少年時代に確かにあったな、という感覚を思い出しながら、虫を捕ることにひたすら没頭した子どもたちのこの時間は、他では代替できない時間であることは間違いありません。

虫に興味のない方のために、日本で代表的な虫好き3人男(養老孟司・池田清彦・奥本大三郎)の鼎談を『虫捕る子だけが生き残る』(小学館101新書)からご紹介しておきましょう。

池田 「自分でいろいろ工夫して、我慢して、やっとの思いで捕れたときの喜びって、何物にも代えがたいですよね」

奥本 「標本を買っても嬉しいんだけどね」

池田 「欲しいものが手に入ったという意味では嬉しいですけど、自分で捕ったらやっぱり喜びもひとしおで」

奥本 「それは比べものにならないね」

養老 「そいういう喜びを、今の子どもたちにも味わってもらいたいということです」

この本の「まえがき」で池田氏は「虫捕りには、創造性、忍耐力、反骨精神などを養う、すべての要素が詰まっている。もし、あなたが、あなたのお子さんの人生を楽しく、有意義なものにしたいと願っているのなら、是非「昆虫採集」と「昆虫収集」を薦めたらよいと思う。(あなたではもう遅い)。金持ちになるかどうはか保証の限りではないが、幸せになることだけは約束しようではないか」と述べています。

虫が捕れた子も、捕れなかった子も、それぞれに喜びや悔しさを味わった1日でした。

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