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園長の日記

ジレンマを抱えていることの専門性とは

2020/10/21

先週から今週にかけて、園の先生たちと少し深い話をすることが続いています。保育の話ですが、テーマは色々です。それでも個々の話題の背景にあって、共通していることがあります。それは「子ども主体の保育」における「先生が抱える葛藤」です。平たくいう、仕事の悩みです。結論から言うと、保育に悩みは付きものであり、悩みのない保育はありません。保育が楽しいに越したことはないのですがそれでも、その楽しさは「味わい深いもの」であって、単にファン(楽しさ)であるという意味ではありません。苦労もあり、悩みもあり、葛藤もある上での楽しさです。

毎月届く雑誌や広告の中に、子育てや保育を、まるで魔法かマジックのように「こうすればうまくいく」みたいなノウハウを紹介しているものがありました。それを読んでいて、「これは保育とはいえないな」と思いました。高い専門性を持った保育者ほど、意味のあるジレンマを抱えているものです。真っ白な洗い立てのワイシャツのように、眩しい白さしか感じない保育者ほど、子ども理解は浅くテクニックに走っていたりします。そんな風に感じる保育は、大抵が保育者主体の保育なのです。

しかし一旦、子ども主体の保育を目指してやり始めたら、子どもの多様性や不可解さを前にして、そんなマジックのようなわかりやすさが通用しないことはすぐにわかります。子どもも人間である以上、情緒の海の中で呼吸しており、彼ら彼女らも自分でも計り知れないところから湧き立つ欲求に突き動かされるようにして生きています。その心の声と対話しながら傍に立つのが保育者であり、何人もを前にして大きな声で語ったり、分からせたりことが保育ではありません。それは理解していても、なかなかそうできない状況で事を進めざるを得ないジレンマがつきまといます。

個々との会話と心の通い合いからしか、保育は成立しないものです。しかも一人ひとりの心としっかり向き合うことがスタート地点です。子ども一人ひとりに向かって「あたたは本当は何をしたいのだろう」という、子どもの願い(本人も自覚していないことが多い)を知ろうとすることが、保育の起点になるのです。大人がやってほしいことを言って聞かせて、子どもができたり、できなかったりすることを、保育の成果と勘違いしてはいけません。それは大人主体の上辺だけの結果でしかありません。子どもが自ら歩き出し、そして切り開く世界が育ちです。その世界を自ら歩いた足跡だけが本物の育ちだからです。

例えば、わらすの昨日20日のブログ「やりたい」をご覧ください。「やりた〜い、の意欲はどんな理由があるのかな?」と問うています。この分からなさを抱えて進むのが保育におけるジレンマです。「わからないってことが、その子らしさ、それぞれの力ということなんでしょう」。この実践的な告白に保育の真があるのです。

こんな「子ども観」や「保育観」がベースにないと、見せかけの成果に目を奪われてしまい、心の育ちが見えなくなってしまうでしょう。自分らしく生きて行くことができるように、一人ひとりの子どもの持っている可能性を最大限引き出すこと。そのために何が必要なのか、改めて保護者のみなさんと共有しておきたいと思います。11月に保護者会をクラス別に開こうと計画中です。

毎日のように怒っているのよ

2020/10/17

話はアンガーマネジメントの続きです。ある映画のなかに、このテーマがあったのを思い出しました。

娘ジョー「怒りを爆発させてしまって、反省ばかり」

母親アビー「お母さんも毎日、怒っているわよ」

娘ジョー「え? そんな風にはぜんぜん見えないけど」

母親アビー「40年も努力してきたからよ。でも、心の奥深くには抑えられない、変えられない強い魂があるものなのよ」

これは、小説「若草物語」を映画化した『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』(グレタ・ガーウィグ監督 2019年)の中のワンシーン。敬虔な理想主義者(超越主義者)の妻でもある母親が、自分の4人の娘の次女ジョー・マーチに語る場面です。ジョーとは「若草物語」の作者、ルーザ・メイ・オルコットのこと。自らの若き日々を小説にした「若草物語」の中では、主人公のジョーが作者の実際の体験を書いています。

母親から「私だって心の中ではいつも怒っているのよ」と意外な言葉で、慰められ、そして大きく励まされているのですが、この母親の姿と言葉は、今風に捉えると「アンガーマネジメント」であり、その成果とも言えます。

怒りを上手にコントロールすることは、非認知的スキルの1つとして、保育界では今、最もホットな話題のひとつです。例えば来年度の日本保育学会のテーマは心理学でいう「実行機能」を取り上げますが、これは脳機能の中枢的な働きの1つとされていて、一種の我慢強さ、忍耐力に当たります。人生の成功と結びつくとされているものです。

スキル(技術)というからには、生得的なものではなく、習得できる教育の対象とされています。学んで身につけることができるもの、とされているのです。オルコットは「若草物語」を書いて成功するのですから、彼女の母親と同様に人生の中で学んだのでしょう。この学びは、人間関係の中のリアルで豊かな感情経験が育んでいることがよくわかる映画になっていました。

 

育ちに合わせて変わる環境

2020/10/09

人は練習を重ねると何につけ上手になります。いわゆるスキルが向上します。それと同じことは子どもの遊びにもあります。どのクラスの子どもたちもそれが向上しているので、全体的にやることが高度になってきました。それに合わせて、過ごす空間も、扱う物も、そして人的環境も少しずつ変わってきました。

例えばちっち。歩ける子どもたちが多いので匍匐室にも立って遊べるマグネット遊具が壁にできました。これで手先の巧緻性や造形力も育まれます。ぐんぐんは見立てる世界が広がって「ごっこ遊び」の種類が増えてきました。にこにこは「お話の世界」が一気に増えて、動物など何かになったつもりの遊びに興じています。わいわいはぞれぞれの興味の対象が多様化しています。ゾーンの選び方にも個性が現れています。らんらんは、ぞれぞれの探求が深まっており、そのこだわりぶりには目を見張るものがあります。すいすいは心も体も常に「その先」を目指しています。これまで保育園になかった環境が必要になってきました。

そういう視点で今週を振り返ると、運動ゾーンのネットは過去にないほど高く張っています。

今日はネットの高さを3つのグループで変えました。夏のプールが水の深さで「イルカグループ」や「カニグループ」に分かれたように、ネットの高さで蜘蛛の巣のように天井に並行に貼った「クモグループ」と、低いところから高いところまで、大木に開いた丸い穴のように貼った「小リスグループ」に分かれました。つまり、運動遊びの習熟度別選択が明瞭になってきたのです。

スキルの向上はダンスにも現れました。今日は青木尚哉さんのダンサーグループの「いずみさん」と「ももこさん」が来てくださり、体を動かして遊びましたが、その楽しそうな様子の中に、これまでにない意欲と自由な発想を感じました。

自由に体を動かしていいと言われて、自由に動かせるものではないのですが、それを思い思いのアイデアでやっている姿を見ていると、「創造力」が生まれている具体的な場面を見ているかのようでした。

確実に成長している子どもたち。それに応えるために環境の再構成は続きます。

保育参観で見えるもの

2020/10/06

今日は保育参観の1日目でした(と、同時に今年度は初めての保育参観でした)。・・・うちの子はどんな風に生活しているのだろう? お友達とは仲良くやれているだろうか? 保育園を楽しんでいるだろうか? 嫌な思いはしていないだうか?・・いろんな「?」を保護者の皆さんはお持ちかもしれません。そんな「?」の謎が、保育参観で少しでも解けるようになるといいのですが、いかがだったでしょうか。お子さんの様子をじっくりとご覧いただけたでしょうか。

保育では「見える」ということがよくテーマになります。それをよく「子ども理解」といいます。人(研究者)によっては「保育は子ども理解に始まり子ども理解に終わる」とさえ言われます。始まりと終わりの間には何があるのかというと、「保育のプロセスがある」というわけです。

保育参観は、一日、しかも数時間ですから、ある意味で定点観測のようなものです。それでも、どんな風に過ごしているか想像していたものに、かなり多くの情報が新たに加わったのではないでしょうか。「こんな毎日の積み重ねなんだな」と理解してもらえると思います。

数ヶ月おきに定点観測してもらうと、その前の時の姿に比べて、「おしゃべりが上手くなった」「絵本を食い入るようにみていた」「家で歌っていたのは、この歌だったんだな」「積木をあんなに高く積めるようになったのか」「クライミングに登れるようになったんだな」・・などなど、いろいろ変化がよくわかるでしょう。毎日一緒にいると見えにくい小さな変化の積み重ねも、間を置いて見るとその大きな変化に驚くことがよくあります。

その一方で、毎日一緒に生活しているからこそ、よく見えることもあります。それは、保育のプロセスをみているからです。そうなった結果については、必ず原因があります。あのこときはこうだったけど、今はこうなった。それはこんな「経験」があったから、という繋がりのところ(因果関係や相関関係に近いもの)を意識しているからです。今日のわらすのブログにあるように、子どもが自分の感情を自覚できるようになってきた育ちに担任が気づいています。そして、その育ちに大きな成長を感じとっています。子どもの姿の「よさ」を担任は伝えたいと思っています。見ることだけでは見えないことが子ども理解にはたくさん含まれています。

保育は今の「子どもの姿」になるために、意図して環境を整え、それを通して経験することを計画しています。さらには、子どもたちの少し先の「未来」も想像します。「もうすぐきっとこんな絵を描くようになるだろう」「こんなパズルを完成させるようになるだろう」そんなことを期待しながら生活を作っています。

今回の保育参観は、コロナ対策で密を避けるために、参観数をほぼ均等にさせていただきました。そのため希望通りにならなかったかもしれませんが、ご了承ください。また保育園で見せてくれる姿をどう見るか、担任の見方を通した子どもの見方も、ぜひ参考になさってみてください。

明日からの保育参観で感じてもらいたい「子ども社会」

2020/10/05

家庭では見せない姿が保育園にあります!それは環境が異なるので自然なことです。家庭ではしないのに、園ではやっているとか、逆に家庭ではしているのに園ではやっていないとか、そんなことがたくさんあります。同じ子どもなのに、どうして?と思われるかもしれません。

子どもの発達はその個人の特性や能力によるものとは限りません。子どもの姿は状況に依存することが多いのです。環境が変われば引き出される力も変わります。人との関係が変われば、性格も振る舞いも変わるのです。これを「発達を関係論的にみる」と言うこともあります。

今日のブログを用いて説明すると、わいらんすいでスズムシを大切しているうちに、その対象に愛着が生まれて大事にしようとします。そこにスズムシへの優しさが引き出されます。その子が優しいからやっているというよりも、飼育するという生活があるからこそ、その子の持っていた資質が引き出されているのです。それがスズムシへの「あっ、ごめんね、ごめんね」という言葉になっているのでしょう。

にこにこ組のサーキット運動では、ぞれぞれの身体的な能力が、すずらんテープの運動棒、平均台、机のトンネル、トランポリンで引き出されています。使われる環境がなければ、その力の可能性は眠ったままでした。使われて初めて能力は伸びるからです。しかも一人でやるよりも、お友達と一緒の行動を順番にやることが楽しいのです。そんな環境は家庭にも地域もありません。親しく心を通わせることができる友達という関係があるからこそ、これだけの長い時間の遊びが成立しているのです。

また仮に障がいがあったとしても、それはその子の持っている特性だけでそうなっているのではなく、その子を取り巻く環境によって、その特性はプラスにもマイナスにもなるのです。親子関係についても、その子どもや親の個人の問題ではなく、その関係自体がプラスにもマイナスにもなりえます。それを相性ということもありますが、夫婦関係、家族関係から想像してもらうとわかりやすいでしょうか。

もしAとBの関係だけでうまくいなかいときCの存在が加わることで、関係が安定するということはよくあります。じゃんけんや動物占いの太陽・地球・月の関係、国の三権分立を思い起こしてもらってもいいでしょう。これは人と人の関係にもあるのです。逆に三角関係のように不安定になることもあります。

保育参観では、子どもにも社会があって、人間同士の切実な社会の中で生きている、その心の姿も感じ取ってみてください。子ども社会の中で人間として立派に生きている姿は感動的なはずです。

子どもにしかできない「分かり方」

2020/10/04

子どもは知識に貪欲である!これははっきりしているのですが、案外、保育界は誤った心情主義が蔓延っていて、そのニーズに答え切れていないのではないだろうか? そんなことを感じるのは、子どもと絵本を楽しんでいるときです。しかも絵本が「クイズ」や「なぞなぞ」や「図鑑」だったりするとき、それをとても感じます。子どもは、いろんなことを知りたがっているんです。

昨日3日(土)の午後、園児と2時間ほど絵本を読んだり、どんぐりで人形を作ったりして過ごしました。月刊のなぞなぞ本を、4ヶ月分ほど一気に読みました。何度か読んでいることがわかるのは、3択のクイズの答えをほとんど正解するからです。その時期に目にしそうな季節の植物や昆虫や鳥などが、どうしてそうするのか、3つの回答から正解を選ぶのですが、どうしてそうなのかを知りたがります。こういう「知りたがり」の気持ちは、ずっと持ち続けて欲しいものです。

そこでこう思うのです。大人になると、何かを知ることが、何かの役に立ったり、他人のためになったり、一貫した見方が面白く思えたり、美しく感じたりというように「善さ」の4要素を感じないと意味を感じなくなるのですが、子どもは違います。知ること自体が面白いんだろうと感じます。

大人は子どもの頃の感じ方や世界の見え方を忘れてしまっているのですが、そのことを、思い起こさせてくれる話があります。昔から伝えてられてきた分かりやすい例です。それは大人になると見えないけれど「子どもだけが見える」世界です。例えば、アニメの『となりのトトロ』だったら、まっくろすけやネコバスは子どもにしか見えません。映画『E.T.』だったら、エリオット(ヘンリー・トーマス)には宇宙人の気持ちがわかります。そんなふうに、大人になるとわからなくなってしまう「子どもの世界」があるのです。

子どもには子どもにしか見えない世界があるんだと想像すること、大人には見えなくなってしまっている子どもの世界があるんだと思うこと。それも「子どもを信じる」という、大切なことなのだろうと思います。

 

子どもが自分で感じて、考えて、決めることを大切に

2020/06/29

 

園だより7月号 巻頭言より

◆保育で大事にしていること

新しく入園した方もいるので、当園の保育方針の話を少ししましょう。園が大事にしている保育は、大人が子どもに言葉で言ってさせる保育の真反対です。自分でやろうとしてやれるようになる自立を目指します。やれない時は人に頼んだり、どうしたらやりたいことができるかを聞いてくるような子どもになって欲しいと思っています。

◆元園長「自律できる子を育てたかった」

昔、大阪の公立の元保育園長から次のような話を聞いたことがあります。「トイレにいく時間だよ、手を洗いなさい、静かにしなさいと、言って育てた子どもたちが小学校や学童に行ったらお漏らしをしたり、手洗いを忘れたり、人の話を聞けない子になってしまいました。自分で行きたくなったらトイレに行く、気持ち悪いから手を洗う(手を洗うとさっぱりして気持ちいいからやる)、うるさいと大切なことが聞こえないから静かに聞く、そうした自律(反対は他律)を育ててあげないと、困るのは本人なのです」という話です。全くその通りです。目に見える行動面ばかりではなく、子どもの精神面にも同じことが言えます。子どもが自分の考えを持ち、それを人に伝え、決定する力を育むことは、子どもの人権を守ることと等しいと私は考えています。

◆自分で感じて考える体験を

大人が望む行動ばかりを口やかましく言って聞かせることを繰り返していたら、子どもは自分でやるという体験ができなくなってしまいます。自分が自分で心に決めること。やりたいことを自力でやってみて、その結果を正面から見つめ、責任感を感じること。自分が原因で物事が変わる経験をすること。こうしたことには、うまくいかないことや失敗がつきものです。しかし自分で決めてやったことは、人のせいにできないので、自分を知る経験になっていくのです。「だから言ったでしょ」という思考は禁物です。実際に自分で経験して考えることが大事なのですから。この経験が希薄な子どもたちが多くなっているように感じます。可愛さゆえの大人の過干渉です。子どもに感じて、考え、迷い、揺れ動く幅を大きくとってあげてください。そのレンジが大きければ大きいほど、大きな成長を見せてくれます。

◆自分のことは自分で決める

この自由度が少ないと、子どもは自分で決めたいことを求めて、いうことを聞かない、返事をしない、大人が困ることをする、という反応パターンに嵌っていきます。また、それを否定されるともっとやります。これでは悪循環です。子どもが「自分でこうしてみた、そしたらこうなった、だから次はこうしてみたい」という好循環を作り出すには、大人は子どもが自分の力で自ら歩き始めるように、子どもを信じてじっと待つ、という子育ての構えを持つ必要があります。

◆子どもができることを信じましょう

子どもが自分で考えて、自分で行動に移していく過程をこそ、一緒に育てましょう。言って聞かせてできるようになるのは「他律」です。そうではなく、自分のことは自分で判断して適切な行動が選択できる、自律した姿を目指しましょう。そのための第一歩は子どもを丸ごと信じることから始まります。良いこと悪いことの決まりは伝えながらも、自分で決めて判断して行動に移せるように支えていきましょう。

社会の中で意思決定できる力を育てる

2020/06/20

6月からの園再開から3週間が経ちます。新しい生活様式の中での保育を考えるとき、子ども同士の関係が分断されないかと心配でしたが、乳幼児の感染リスクが少ないことがわかって、これまで大切にしてきた保育スタイルを大きく変更することなく、継続できることにほっとしています。写真は、幼児クラスで、朝、何をして過ごそうかな?と遊びのゾーンを選んでいるところですが、「何もしなくない」というのを「選ぶ」こともできます。あるいは、既存のゾーンだけでは収まらない活動ももちろんあるので、そういう発展的な活動を提案してくる子供もいます。そうした主張は意思決定力であり、他者との関わりのなかで育っていく大切な能力です。

当園の保育方針は「自分らしく意欲的で思いやりのある子ども」です。前半の「自分らしく意欲的で」というのは自由意志を育むテーマであるともいえます。また後半の「思いやりのある」というのは責任のテーマでもあります。その営みは、数日前の日記でお伝えしたように、赤ちゃんの頃から自由な選択行動や他者への配慮が見られます。このような関係発達が人の発達の基盤にあることをいかに守り抜くか、それがこれからの「新しい生活様式」の中での、日本の保育界、教育界の大きな課題だと考えています。

数日前の日記で、意識していないのに思わず真似をしながら遊んでいる中で、周りの文化を取り入れているものがあることを書きました。何でもやりたがる「自分で」という意志が強まる2歳ごろ、そして「僕はね」「私がね」と一人称を使い始め、自意識がはっきりしていく幼児の頃、そして小学生、中学生となっていく過程で、もう一度自分のアイデンティティーを確立しようとする時期がきます。思春期です。その頃の基盤が乳幼児の時期の経験が大切だということは、発達を学ぶと必ず出てくるものです。

教育や保育の勉強すると、最初の頃に「発達の意味」を考える科目と出合います。成長とか発達には、どんな価値があるかというテーマです。発達に良いとか悪いとかがあるのか。何を持ってそう判断できるのか。かなり重いテーマです。ですから議論はすぐに教育哲学のテーマになります。その中で必ず検討することになるのが、「自由」をめぐる価値判断です。簡単にいうと「赤ちゃんは自由が不自由か?あなたはどう思うか?」というものです。

人はどんな生き方をしても、それは確かに自由なのですが、自由の一般的な定義は、自分の意思でそれを決める、という自己決定の原理です。哲学の議論を遡ると、自由に決めたと本人が思っていても、それは生理的・社会的な欲求に突き動かされているだけであり、決して自分で決めたのではないのではないか、という決定論を乗り越えてきた歴史があります。したがって赤ちゃんは幼少の頃はまだ自分が本当に望んでいることを自由に決定しているのではないから、大人に比べて自由が少ないと考えられています。

そうだとしたら、いつ頃から「自分で決めること」が「自由に生きること」と一致してくるのでしょうか。それは「望ましいことを選べる自由選択の力」を獲得できるまでです。その社会が求めてきます。いわゆる「人に迷惑をかけないことを判断できる力」です。よく自由と責任の話になります。その発達の境目が「子ども」と「大人」の違いだとすると、児童福祉法は18歳ですし、選挙権を持つのも18歳になりました。自分がとった行動に社会的責任が発生するという形で、民主主義社会の法治国家は、そのバランスに一貫性を持たせています。

しかし、大人になって、その自由意思に基づいて行動していると本人も思っていても、実は幼少の頃の経験が、その後の可能性に大きな制約をもたらしていることも事実なのです。保育は子どもが大人になっていくスタート時点に関わるので、その子どもに待っている潜在的な力が十分に発揮できるような環境にしておくことを、私たちは意識して大切にしています。

保育の質を高める場所は感覚の入り口に

2020/06/19


年度の初めには、新しく園生活を始める方のために当園での生活や保育の方針を説明するようにしているのですが、今年はその話をする機会が6月になってしまいましたね。子どもたちの健康状態は17日(水)の全園児健康診断で問題がないことがわかりました。健康診断は国の基準によって実施が義務化されていて、日本の認可保育園はそれを実施しなければなりません。親が自分の子どもは健康だと思っていても、医師が見れば異常が見つかることがよくあるからです。定期的な健診は子どもにとっては、とても大事です。

長い閉園で子どもたちの心身の状態が心配でしたが、夏の水遊びを前に、予めその状態を確認することができました。ちなみに新型コロナウイルスは塩素に弱いので、プールの中で感染することはありません。毎年のことですが、水に触れたり紫外線に当たることが多い夏は、それへの配慮も大切です。当園はプールを使いますが、水泳をするつもりはありません。あくまでも暑い夏をいかに涼しく過ごすか、「涼を取る」という意味が大きいのです。水との上手な付き合い方や水の特性を知ることです。

昨日18日(木)は、避難訓練も行い、神田川の向かいの「佐久間橋児童遊園」まで避難の練習をしました。東京都は避難訓練と消火訓練を毎月実施しなければなりません。避難訓練は地震と火災によって避難パターンを変えています。いずれにしても火災が発生して避難する想定なのですが、身の安全を確保する行動に普段から慣れておくことが、いざというときに不要に怖がったり慌てたりしないですみます。避難階段を普段から使うことも重要な生活の一部です。

今日19日(金)は6月の誕生会でした。2階と3階のフロアを使って開催しました。2階のダイニングエリアを誕生会のメイン会場にして、今回はわいわい組が3階にいて参加しました。参観を希望される方はお申し出ください。ただし、新型コロナウイルス対策として、保育園内への参加は、普段一緒に家庭で生活しているご家族の方だけにしていただいています。

午後からは、子どもの咀嚼を研究されている管理栄養士の方と、離乳後の1歳半から3歳ごろまでの時期の「食育」の大切さを確認しました。どんな食材や調理方法、食べ方などが好ましいのか、その研究に協力することにしました。咀嚼というと、いかにもピンポイントなテーマのように思われがちですが、口腔での舌、上顎、下顎、まだ歯がない歯槽底の刺激、など色々な動きができるようになっておくことがとても大事です。その発達にも敏感期があることがわかっています。その時期の「咀嚼力」は、その後の食の基盤になってくる大切ものなのです。また子どもによって、感覚器の感受性は大きく異なります。見ること、聞くこと、味わうこと、匂うこと、触ることにも敏感な子から鈍感な子まで、色々です。咀嚼は口腔内の運動と言われるように、見ること以外の感覚が総動員されています。ただ味の問題だけではありません。その体験の質を向上させてあげるための環境とは何か、働きかけはどうしたらいいか、そこが保育の質になります。

見守る優しさを物語る右手の指の「コンコン」

2020/06/15

赤ちゃんは1歳7か月にもなると、こんな気遣いができるのかと、感動した15日(月)の朝。お集まりで先生が一人ひとりの名前を呼んでいると、Yちゃんはサッと手をあげてにっこり。その直後、右隣に座っていた1歳4か月のMちゃんの名前が呼ばれました。するとYちゃんは「ほら、名前を呼ばれたよ、手をあげたら」とばかりにMちゃんの腕を上げさせよとします。しかしMちゃんは、その気がないようなので、促されません。Yちゃんは、せっかく教えてあげているのに、手をあげようとしないMちゃんの左手をそっと離し、でも離した手の指だけは、Mちゃんの手の甲を優しくちょんちょんと触っていて、まるでその手が見守ってあげているような仕草なのです。言葉だけで説明するのは難しいのですが、その仕草の優しいこと。ああ、こんな風に人の気持ちというのは伝わっていくのだなあ、と感心しました。わらすのブログに心の窓の話が出ていましたが、心が通うというのは、たった右手1つの動きの中ででも饒舌に物語ることができるということに気付かされたのでした。

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