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園長の日記

劇という遊び

2021/12/07

今週に入って、劇遊びの収録が始まりました。コロナ対策のために今年のお楽し会はネット配信にしたのですが、そのための収録です。昨日はらんらん組(4歳)、今日は午前中にすいすい組(5歳)とわいわい組(3歳)のテイク2、午後からはちっち組(0歳)を撮りました。続けてみたので、はっきりと分かったのが1年での成長の大きさです。

わいわい、らんらん、すいすいという1年ずつの差ですが、これにクッキリとした成長の差が見られました。この頃の1年の成長は、本当に大きいものを感じました。

各クラスの保護者の方には、すでにそれぞれの劇の内容をお伝えしていますが、年長組は、グリム童話の「ブレーメンの音楽隊」、年中組は創作劇「らんらん電車」、年少組はケロポンズ(*)の「ねこのおいしゃさん」です。

いろいろなお話にたくさん親しんできた年長組は、スイミーなどの中から子どもたちが選びました。年中組は、子どもたちの好みが絵本やお話につながる形で意見がまとめることは難しいので、みんなが好きなものでまとまりました。それが「のりもの」でした。そして、年少組は遊びも劇もあまり区別のつかない段階ですから、遊びのように楽しいものが選ばれました。

物語から劇遊びへ。その流れにも発達の特徴がよく現れていていました。どの劇遊びも、子どもが楽しそうでした。あくまでもやることが楽しい!という気持ちを大切にしてきました。日々の生活も行事も、そこに差があってはいけません。もっとやりたい1またやりたい!という気持ちで楽しんでいた劇遊び。違うのは行事仕立てになっているということだけです。その繋がりを大切にしたいと思っています。

ZOOMでコーヒータイム(12月11日)ゲストは青木尚哉さん

2021/12/06

第3回 リモート・コーヒータイムは12月11日(土曜日)です。

時間は10時〜11時

今回のゲストはダンサーの青木尚哉さん

誰でも参加できます。聞いているだけでも大歓迎です。

参加される時は、名前を保護者名にしてください。

 

https://us02web.zoom.us/j/84453167261?pwd=NFQ1QkVySU9xUlhGVHh5RXRMdHltQT09

ミーティングID: 844 5316 7261
パスコード: 244238

人権を守るための人間性

2021/12/05

もし人間性が遠い将来に向かって、今よりも少しでもよくなっていく可能性があるとしたら、私はどうなって欲しいと考えているかというと、現代人は、もっともっと他者に共感したり、優しくなってほしいと、強く思います。早く「国民国家」の発想を超えて、世界のことを力強く語る大人が増えないと困るのです。

アジアにブッダが現れた時代のその前と、その後を比べると、人間は人に対して共感する力や倫理的な力が強まっただろうと想像します。仏教が慈悲の心を広めたからです。同様にイエス・キリストが人類に奇蹟を示したものが愛の力であるように、人類は明らかに「他者への愛」の力を強める方向へ向かって、その人間性を高めているのだと、はっきりと見てとることができます。

それは宗教史だけではなく、社会学からみても、そうです。18世紀にたどり着いた自由と平等と博愛の理念は、一人ひとりの人権を守るために、20世紀には、人類はやっと「世界人権宣言」を手にしました。それでも、人類の人間性は、その理性的な力に比べて、道徳的、倫理的な力を支える「共感力」が、まだまだ足りないと思います。

現代は認知的な力が、科学や技術を大きく進展させています。しかし、人間性はどうなんでしょう。巨大な摩天楼に匹敵するだけの「温かい人間性」が、私たちにあるのでしょうか。身近な家族の中だけにとどまっている愛でいいのでしょうか。世界人権宣言を記念した世界人権デーが12月10日ですが、4日から「人権週間」が始まりました。知識としての人権ではなくて、必要なのは人間らしい包容力や優しさ、その前提になっている人への共感力が心の中を脈打っていないと、本当に必要は行動に結びつくことはないでしょう。

子どもはそれを持っているなあ、といつも思います。今日は岩波ホールで「ユダヤ人の私」を観てきました。

説明には、こう書かれています。以下、引用します。

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「終戦から74年間 悪夢を語り続けたホロコースト生存者による最後の警鐘」

ユダヤ人のマルコ・ファインゴルトは1939年に逮捕され、アウシュヴィッツを含む4つの強制収容所に収容される。終戦後は、10万人以上のユダヤ人難民をパレスチナへ逃がし、自らの体験とナチスの罪、そしてナチスに加担した自国オーストリアの責任を、70年以上訴え続けた。本作はマルコの数奇な人生を通じ、反ユダヤ主義がどのように広まりホロコーストに繋がったか世界初公開のアーカイヴ映像も交えながら映し出す貴重なドキュメントである。
“国家と人は過去の過ちを忘れていると語るマルコのインタビューは、過去と地続きにある現在に警鐘を鳴らす。”

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生存者のマルコさんの言葉を聞きながら、ナチスが400万人を殺害した事実を前にして、たった74年前に、人間というのは、こんなに酷いことをやってしまうという事実を前にして、人類の人間性というものの中身を考えた結果、キーワードは一人ひとりの「共感力」だと思ったのです。そして、ちっとも感じきれない私の感性に、私は私にとてもがっかりしたのでした。

 

 

現象の理由〜済んだ気持ちで

2021/12/03

子どもは決して、大人が学ぶようには学ばない。

大人はすでに知っていると思っているから、知らないことに気づけない。

・・・パスカル風の断章を呟きたくなるようなまなざしで、子どものやっていることや、感じていることを感じてみたい。

この写真は、二キロまで測ることのできる秤。メモリはちょうど2キロ。

 

らんらん組のMKくんが「お月様は新月だよね」(のようなことを、挨拶代わりに、ふと、話した)

同じくらんらん組のKHさんも「お月様はどこ?」という。

私たち大人は、検察して知識を得てしまう。

そのうち、実際に夜空に月を探す親子はいなくなり、12月の冬の青空の向こうには「夏の星座」が広がっている宇宙があることを想像しなくなるのだろう。

 

だから、実際に望遠鏡で見てみたり、ちょうど2キロの重さを実感してみたい。

パスカルはいう。「知恵はわれわれを子ども時代に連れ戻す。もしも、幼児のようにならなければ」(82)塩川訳

そこで、新月の今日、クリスマスの電飾を点灯してみました。

 

子どもの集団的思考、関係的思考

2021/12/02

「人間は考える葦である」と言ったのは、かのパスカルですが、彼が17世紀に「パンセ」の中で書いているのは、私には人間の宗教的ともいえる幾何学的視野の持ち主でした。そんな人間が考えること自体の美しさを、彼が自身で見本となったように、数学者でもあったパスカルは人間の特性をそこに見出しています。

ところで、人間に限らず、動物でも考える力はあるのであって、人間だけが何をどう考えるか、あるいは考えるということそのものが、他の動物とは、何がどう違うのか、それが問題なのです。

子どもと大人の「考え方」の違いをよく見ると、面白いことがわかります。

子どもは考えるときに、感覚と体も使って考えます。何かを考えるとき、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったり、といった五感の感触と常にセットです。だから、遊びながら考えるのです。今日は塗り絵をしている、らんらん組のOSさんに「ハリネズミの色は何色?」と聞かれたので、一緒に図鑑を開いて調べました。このような「考える」を、アクティブラーニング、というわけですが、写真では白黒に、イラストでは茶色に見えました。OSちゃんは、黄土色の色鉛筆を持っていたのですが、他の色鉛筆を探しに行きました。

これからの時代に必要な力は、非認知的な力だとよく言われるのですが、子どもの考える力は、私には「身体知性」のようなものだと思われるので、認知も非認知も未分化な知性ではないでしょうか。ハリネズミの色は、何色だろう? そう思って実物を見たくなるのが、画家や写真家です。そうした芸術家たちは、間違いなくアクティブラーニングをします。教科書に載っている正解を机の上で覚えて終わり、という勉強は、もうやめましょう、というのが、これからの「考える」スタイルです。探求なので正解があるとは限らない学びです。

これと同じアクティブラーニングを、屋上でボールを転がしならが、1歳児クラスのぐんぐんさんが、学んでいます。ボールを転がしても、相手から帰ってくることがわかると、それを信じて転がしあうことができるようになっていった姿が報告されています。この場合の「考える」は、相手の行為を信頼したり、予想したりする「他者込みの考える」なので、関係的思考、集団的思考、といっていいでしょう。

実は、こんな「考える力」が、まさしくこれからの時代に必要な、「人との関わりの中で生まれる非認知的スキル」なのです。最近の保育や教育の世界では、やたらと「最後まで成し遂げる力」だとか、「我慢強さ」だとか、「立ち直る力」だとか、まるで大人が必要だと考える力を、そのまま子どもにも当てはめようとしているような言葉遣いになっていて、私には、その粗雑な言葉遣いの押し付けが、訓練や鍛錬を連想させて、危なく見えてしょうがありません。

これまで、その力は「心の根っこ」と表現したり、心情や意欲と言われていたものに他なりません。ヘックマンがノーベル経済学賞を取った研究者だから、説得力が高まったのかどうか知りませんが、彼は認知的な力ではない、名付けようのない何かだから、「非認知的なもの」と、そう言ったに過ぎないのですが、簡単に「最後まで成し遂げる力」だとか、「我慢強さ」だとか、「立ち直る力」だとか、そういう側面だけを強調して言わないで欲しいと思います。それだけを、取り出してしまうと、無理矢理我慢させるといった、訓練や鍛錬をさせてしまう危険性を感じてしまいます。

そうでは、ありません。あくまでも、自由遊びの中で、しかも子ども同士の遊びの中で、自然に起きる葛藤の中で、それらの力「も」同時に育っていくもなのです。

自由と民主主義と市場経済と

2021/12/01

(今日から始まった、クリスマスまでのアドベントカレンダー。玄関に飾った赤い靴下の中に、サンタクロースからの手紙が届きます。)

・・・・

政治のニュースを見ていたら、若い頃のことを思い出しました。高田馬場で開かれていたルドルフ・シュタイナーの勉強会。ドイツ語で書かれた「社会有機体三層構造」を日本語に翻訳して持ち寄るという勉強をしていた時期があります。20代の頃です。

社会は自由と公正と友愛からなると説くこの説は、この三つは精神、政治、経済によって、それが実現されると同時に、自由がない精神は退廃であり、公正のない政治は腐敗した社会を生み出し、友愛のない市場経済は過酷な格差社会を生み出すということを予言していました。まったくその通りじゃないかと思えます。

人の内面には自由がないと、おらかさや思いやりは育ちません。公正があるからこそ信頼できる人間関係が作れるのでしょう。そして本来の経世済民はお互いの幸せを願ってなされてきたのではないでしょうか。

今日の日本、米国、韓国の関係を考えるとき、北朝鮮や中国、ロシアの独裁的国家が目指すものとの違いを考えていたからです。園児たちがあと20年経った頃、この東アジアはどうなっているのでしょう。20代になったこの子たちが、活躍している社会です。

 

自由、民主主義、市場経済を成り立たせている思想的な背景には精神的自由度、公正や正義を目指す政治的成熟度、そしてお互いを生かしあう、つまり持続可能でウェルビーイングな考えを基礎とした経済活動が必要です。

クラスのブログを読んでいると、この3つが、子どもたちの生活と遊びの中にも見られることがよくわかります。自由遊び、子ども会議、協力し合う生活です。

自由遊びによって、創造的な精神が発達します(環境、表現)。子ども同士の会話、やり取り、コミュニケーションは自分の考えや思いを言葉で伝えることや、相手の考えや思いをよく聞く姿勢を育てます(人間関係、言葉)。そして教え合い、助け合い、協力することは人間である証のようなものであり、ホモ・サピエンスの最大の特徴なのでした(健康、人間関係)。

現在を最もよく生き、望ましい未来を作り出す基礎を培う、という保育原理における「保育の目標」は、選択できる自由遊び、子ども同士の話し合いによる意思決定、そして異年齢児保育やお手伝い保育など、そんな生活を豊かにすることで達成できるのだろうと思います。

 

ちょこっとした気持ち

2021/11/30

(写真は文章とは直接関係がありません)

子どもと過ごしていると、ほんのちょっとした心の動きに、何か大事なこと感じます。でも、その信号がどんな意味を持っているのはわからないうちに、その微かな信号は消えてしまいます。言葉にするのも難しいような、でも確かに表している、何かのサイン。

昨日は夕方になって、園長ライオンをやってほしいと頼まれて、4時から30分ほどやりました。なぜか、年長さんたちが続々と集まってきて、それぞれが「こんな遊びがいい」というイメージを持っているので、「じゃあ、どれにするか話し合って」というと、それぞれが、自分の思いをどの程度主張していいものか、ちょっと遠慮がちなのが、いつもと違っていて、ちょっと相手を気遣っている感じがしたのです。

自分の思いが募ってしまい、なぜが泣き出してしまう子がいて、その理由を私にそっとつぶやく子もいます。「ネコのまたたびは、相手にしないで」。ちょうど捕まえてほしいタイミングだったのに、どうも私が他の子の相手をしてしまったことが、続いてしまったことが原因だというのです。そこ子には聞こえないように、私の耳元で、そう囁くのです。子どもにしか見えていない心の動き。泣き出したくなる気持ちの理由。

久しぶりに今朝は、朝から絵本を読んでほしいということになり、朝のお集まりが始まる前まで、数人の年長の子どもたちに「日本昔ばなし」を読んであげることに。「かさじぞう」「さんまいのおふだ」「ないたあかおに」でした。年長にもなると、あかおにが泣く理由に共感できるようになってきます。人間と仲良くなりたいあかおにの気持ち。あおおにのとった行動の意味にも気づくことができるのです。

一方で「かえうた かえうた こいのぼり」をフルバージョンで読まされました。制作ゾーンで、キャンディを作っていた子からは、包み紙をねじって「飴玉」にする方法を尋ねられたき、3歳の彼は中に飴玉を入れないで、そんな形にしようとしていました。中が空洞なので、それは難しいはずです。もしかすると、そんな包装のキャンディは、今時ないのかもしれない!と気づくのです。絵本に出ているものは、大人にとってそれらしくても、子どもはまだ実物を食べたことがないものなのかもしれません。

事務室に戻ると、あるものを鉛筆で書いた紙の前でニコニコしています。その顔から、こんな気落ちが伝わってきます。「ほら、見てみて、すごいでしょ!」。誇らしげな笑顔です。私に見せたかったのは、それまでの経過を私が知っていることを、彼が知っているから。この「すごさ」を私なら、認めてくれるだろうという期待がこめられたにっこり!なのです。

(写真は文章とは直接関係がありません)

 

大学生の卒論研究「移行対象」

2021/11/29

保育士養成を担っている大学は、学士の資格も取得することになるのですが、そのために卒業論文を書かなければなりません。保育士資格や幼稚園教員免許を取得して先生になろうという学生の卒論は、大抵、保育や教育に関するものが多いのですが、当園には時々、その協力をすることがあります。

先週の11月26日(金)には、白百合女子大4年生がアタッチメントについて研究するために、アーサー・ミラーの絵本「ジェインの毛布」を読み聞かせにきました。複数の保育園や幼稚園で年長さんを対象に、同じ絵本を読んで、その感想を聞くという方法です。面白い研究方法だなと思いました。

ところで、子どもたちは、ふわふわしたものが好きです。毛布といえば、「ライナスの毛布」が有名です。スヌーピーが登場する漫画「ピーナッツ」でライナスがいつも毛布を持っているので、そう言われます。「ライナスの毛布」という言葉は、イギリスの精神分析系の小児科医でもあったウィニコットが「移行対象」の例として取り上げて、「安心毛布」という心理学用語にもなっています。

子どもは何かに依存しながら、だんだん自立していく発達の過程をたどります。ウィニコットによれば、安心で安全な心休まるところが、依存対象である<母親>です。成長するということは、そこから独立していく、離れていくことだといえます。

何から何に移行するのかというと、簡単にいうと<母親の乳房>から<ぬいぐるみ>などへ、です。その、中間にある物です。移行の最中の対象という意味です。

赤ちゃんは、最初、指をしゃぶったり、幼児は髪をしゃぶったりすることもあります。それが、徐々に自分の手や指ではなくて、毛布の端とか服の袖の端、タオルなどへ「移行」していく、というのです。ウィニコットはその対象を、「移行対象」と呼びました。

ぬいぐるみ、に象徴されるようなものは、大人も持っています。人によってはそれがタバコだったり、お酒だったり、最近はそれがスマホだったりする人がいるかもしれません。では、どんな状態が健全なのだろう?と、私はよく考えます。

私の結論はシンプルです。自立の反対が依存ですから、人は誰でも、その中間を行ったり来たりしながら生きています。大人も時には甘えが必要です。ですから、物や何かに一時的に依存するのはいいのですが、それがなくなると困った状態になってしまう「中毒」になることは避けたい、ということだろうと考えています。お酒を嗜む程度はいいとして、お酒には飲まれないように、というわけですね。

子どもにとって、何かに依存したり、甘えたり、その心の支えや安全基地があることは大切なことです。徐々に自立に向かう力を得ていくためには、必要な時に十分に依存したり、甘えたり、安心したりすることができる体験によって満足することが必要です。それが十分に満たされれば、その充実感から、自分で安心して離れていくようになります。外から離そうとするのではなく、十分に満たされるようにすること。そうすると「自分で」自立していく道を歩み始めるのです。

安心毛布は、懐かしく、温かい、心の故郷のような場所ですね。

 

換気扇の全館清掃

2021/11/28

11月28日(日曜日)、毎年1回の換気扇の分解清掃をしてもらいました。天井についている換気扇です。

当園は目の前を昭和通りと首都高速道路が走り、車の排気ガスや騒音があるので、ホテルと同じような全館換気システムを導入してあるので、24時間、常に室内の空気を吸い出しています。

基本的には窓を締め切っても換気されるように、通常の保育園よりも多くの換気扇が天井に設置されています。

将来を思い描きながら現在をよく生きる

2021/11/27

(園だより 12月号 巻頭言より)

12月になると、卒園や進級に向けた生活が増えてきます。小学校以降の生活とのつながりを考える機会も増えてきます。この生活は、保育園だけで完結できるものではなく、小学校以降の生活と学びにもつながっていくものです。中学、高校と進学していくこともそうですが、さらにその後の社会人としての生活は、世界中の人々にとって、望ましい未来を作り出す仕事や生き方である必要があります。このことは昔に比べてSDG’sのように、とても身近なことに感じられる時代になりました。大人も何がしかを学び続けることになります。

そういうことを思う時、もともと保育は、将来に必要となる力の基礎を育成するという役割があると同時に、現在の生活と遊びを豊かにしていくという役割があることを思い出します。この二つのことは別のことではなく、同時に満たされていくようなものになります。このことを、保育所保育指針は「保育の目標」として「現在を最もよく生き、望ましい未来を作り出す基礎を培う」という言葉で表してきました。

では、望ましい未来とは、どんな未来でしょう? 現在を最もよく生きるとは、どんな生き方でしょう?

この二つに分かれているように思える方向は、昔からずっと考えられてきたテーマと言えます。たとえば、私たち保育者は、必ず保育者論のなかでルソーを学ぶのですが、望ましい未来についての考察が「社会契約論」になり、現在を最もよく生きることについての提案が「エミール」になるのです。この二つの領域のことは、切っても切れない関係になっていて、両方をセットで考えていく必要があります。ルソーもそう考えていました。

将来の社会は、一人ひとりの能力を発揮されやすいようにすることと同時に、協力したり、助け合ったりしながら、共生社会を実現することが必要になります。どうやったら自分らしく貢献できるか、何をすることがそうなることなのかを考えながら、自分のキャリアパス(進路)を探り続ける社会になっていくでしょう。

私たちの保育園の保育目標は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」ですが、自分らしくあるためには、その持って生まれた多様な個性がそのまま発揮されるような生活や遊びを用意しておく必要があります。発達課題にあった生活や遊びが選択できるようにします。そしてお友達の気持ちに気づいたり、どうしたらもっとよくなるかを考えたりすることが楽しいという生活を体験していきたいと思います。

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