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園長の日記

どんぐりの譲り合い「わあ、浮いた!色が変わった!」

2023/09/27

以下は4歳児担任の振り返りです。

<今日は、和泉公園で子どもたち自らやりたいことがたくさん出来た日だった。昨日からお散歩バックをつくり、「これでいっぱいドングリ拾うんだー」と意気込んでる、Yちゃん、Rちゃんの姿があった。着くと「あそこにたくさんのドングリが落ちてるんだよねー」と二人で会話し、楽しくドングリ拾いをしていると、他園の子どもたちが集団できたが、その周辺には、ほとんどドングリが残ってなかった。二人が、「私たちがたくさん拾いすぎて、あの子一個しかもっていなかった、、、かわいそう」と具体的なその子の状況、それを客観視してかわいそうと思ったことに、思いやりの心がしっかりと育っているなと感じた瞬間だった。その後は、保育者に「先生、私たちたくさん拾いすぎたから、あの子たちにあげてきていい?」と確認して、様子を伺いながら、二人で言いにいこうと作戦会議を開き、自分たちのタイミングのいい所で関わりを持ち、ドングリをお裾分けしているところにとても成長を感じた。EQの観点からしても、感情の理解、感情の調整がしっかりと見とれたエピソードではないかと思う。>

 

子どもたちにとっての、どんぐり。やっぱり宝物のように魅力的なものなんですね。その後、園に戻ると、中に虫がいるのと、いないのでは水に入れるとどうなるのか?、色が変わってきた!とか実験していました。

保育界に来ているDXの可能性

2023/09/26

「・・・というように、子どもの見ている世界を大事にしている」「・・・など、子どもの体験している意図や意味を伝えようとしている記述になっている」。これは先生たちが毎日残している記録への主任のコメントです。そいういう保育の記録がデジタル化されて、クラウドでの共有が進んでいます。

たとえば今日は、小松川公園での遊んでいる45歳児の様子や、お煎餅を買いに出かけた3歳児、久々の和泉公園で体を動かす2歳児、神田消防署へのお散歩を楽しんでいる1歳児と0歳児、それらの様子を写真とコメントが連絡アプリにあがっています。

保護者の皆さんは、可視化されている子どもの姿が手に取るようにわかると思います。それは職員間でも同じです。別のクラスでの活動を毎日共有できるので、同じ時間に他のクラスでは、こんなことをしていたんだな、ということが分かり合えます。

またそれぞれの記録について、どんな意味があるのかとか、保育の振り返りの話し合いの記録になっています。その話し合いもデジタルツールを用いているので、タイムリーに伝え合うことができます。自分の記録に他者の視点が重なり合って、子どもの姿の見え方が多面的になっていきます。その結果が明日の保育への、ひらめきにつながっていきます。

一方で、定期的に話し合うことも大事です。そのためにも普段の時間的に区切らない、いわば「日常的なカンファレンス」が、特定の時間を設けた時の話し合いにおいて、その密度を増していくことになります。「このことは、もっと先まで届きそうだね」と今日は主任と話し合いました。このような仕組みは今後、保育園や幼稚園にどんどん増えていくことでしょう。そうなると、普段から交流している園との間に、園単位を超えてつながりあうことも可能になります。それは新しい形の公開保育や合同カンファレンスと同じようなことになってくるかもしれません。

また、さらに小学校の先生にも参加してもらえば、保育を見てもらう機会にもなり、いろいろな連携や協議にも役立つでしょう。今日、主任とは「保育におけるDXはすぐそこまで来ているね」との感触で一致しました。もちろん、話し合う内容の方が大事ですけどね。

不安・勧善懲悪・好みの違い

2023/09/24

ちょっと古い絵本だからどうかな?と思ったけど、予想以上に子どもはシーンと話に引き込まれ、深い沈黙が続いた。しみずみちを作・山本まつ子絵『はじめてのおるるばん』。22日金曜日夕方の園長の絵本タイムのことです。

出版は1972年で、当時、岩崎書店が「母と子の絵本シリーズ」と題している絵本30冊のうちの冒頭に置いた1冊。「身近なドラマ、新しいファンタジー」と銘打っているシリーズの代表作のような扱いになっている。この絵本は3歳のみほちゃんが、一人でおるすばんするお話だが、読む前に「おるすばん、したことある?」と聞くと、6人ぐらいから手があがった。

ウェキペディアには、この絵本についてこう書いてあった。「別視点からは、日本の高度成長期に伴い構造的に変化した社会背景(核家族化、生活共同体の崩壊等)が作品を通して感じ取られ、絵本においてエポックを画した作品である」と。こども家庭庁ができ、こども基本法のもとに「こどもまんなか社会」を再構築しようとしている今、この視点から絵本を見ておくことは大事な気がします。

あと数個なっていたピーマンを屋上から収穫してきて、みんなに匂いを嗅いでもらう。さくらともこ作・中村景児絵の「グリーンマントのピーマンマン」。ジェンダーによる差別には敏感なつもりなのですが、こういう話は男の子の反応がいい。バイキンをやっつける格闘シーンには、笑いが溢れた。この手のお話は、ウルトラマンやアンパンマンのように子どもたちにウケがいいのですが、我らが正義の味方が悪を懲らしめる、という、いささか「子どもだからって、こんな単純でいいのか?」と思わないではない。たぶん、子どもなりにすでに「嘘っこの世界」として割り切れる力が働いているのでしょう。

3冊目はマリー・ホール・エッツ。といえば「わたしとあそんで」が有名だと思うけど、『モーモーまきばのおきゃくさま』というのもある。他人に喜んでもらいたくてやったけど、相手は気に入ってくれなかった。そういう経験は子どもにもあるはず。誰でも大事にしていることや好みは違う。保育園の保育目標は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」だけど、「自分らしく」は、みんな違っていい、ということ。それを確かめ合うことも大事だろう。

この絵本を読み終わった時、キョトンとして「ぜんぜん、面白くない」と不満げだった男の子もいました。「そうか、ごめんね」と私。お話が期待していたことと違ったね。それも子どもなりのダイバーシティ。いいと言われている絵本がみんなにとっていいとは、もちろん限らないからね。

 

私は前の園で映画「こどもかいぎ」を撮影してもらった時に、状況を変えることで引き出されてくる「思っていることや考えていること」が変わるという経験をたくさん見出しました。それは当の子どもたちもそうで、いつも一緒に遊んでいるのに「こんなに考えが違うとは思わなかった」といった趣旨のことを言った子がいたのです。それを思い出しました。

最後は、これ。ハッチンスの『せかい一わるいかいじゅう」。弟くんが生まれて周りの大人の注目が集まることに、お姉ちゃんとしてはさびしい。一番を競うのも、注目を浴びたいのも、親の愛情を獲得するのも、子どもには競争になってしまう時もあるんですよね。

1歳4カ月の「意見表明」viewsとfeelings

2023/09/22

赤ちゃんの気持ちがよくわからないことがあります。今日もある子が私を見つけて「ペコリ」と可愛く挨拶して、トコトコと私の方へやってきました。0歳児クラスの1歳4カ月になる男の子です。あっち、というように指をさして、色々と教えてくれるのですが、時々、「え、それどういうこと?」「あっち?あ、そうじゃなくて、こっちか。ん?・・そうじゃないのね。まあ、いいか。よくわかんかなったけど」という感じで、その子の意向、きっとこういうことかなあ、ということに、ついていってあげるようにしているのです。

今日は玄関のところまで何度か歩いていって、外の景色を眺めては、指差して、何か言っています。その度に、私は「ブッブー、自動車だね、ぶ〜んって、早いねえ」などと返してあげるのですが、どうもそういう特定のことじゃなくて、何かしら「あっちの方らしい何か」のようなことを伝えたがっているようにも受け取れます。「ほら、あったじゃない、あれのことだよ」という感じ。外に連れてって!の時は、抱っこ!とせがんで、抱っこされたら「あっち」と外を指差してくれていたので、わかりやすいのですが、今日のはそうではありません。別に外へ連れてって、とかではないようです。

赤ちゃんのこういう感覚というか、頭の中に思い描いているview(ヴュー)、景色や風景のようなものを、身近な人とわかち合いたいというのも立派な意見表明なんでしょうね。それを受け止めて繰り返しているうちに、私にも彼にも、そして関わり方にも、何か心地よい方法が見つかっていくかもしれません。このように、はっきりしないことが、保育に時々起きるのですが、ああかなあ、こうかなあと、子どもたちとやりとりしていることは、それもコミュニケーションとして楽しんでいくようにしています。

子どもなりに、私やその場所に出会うことで、何かを思いついて、それをなんとなくやりたくなった、という感じの指差しなのかもしれません。何か思いついた!瞬間のようにも見えます。それをどうやったら実現できるのかは、まだわからないけど、思わず周りにそのfeeling(フィーリング)を表明してみる。面白くなりそうな予感を感じている感じ。そして周りがそれに反応してくれるから、本人もその気になっていくけど、また別のイメージが喚起されて他のことに置き換わっていってしまう時もあるみたい。うつろいゆく「あれこれ」の中から、また、「そうそう、そうだった!」と思い出しては伝えたくなる好きなものが、少しはっきりしてきて、それを自分に引き寄せようとしていく。それがそのうち「ねえ、見てよ」だったり「あれ、あれ」だったりしていくのかもしれません。

オムニバスドラマのワンシーンからの想像

2023/09/21

保育の1日を振り返ることは、子どもたち一人ひとりのその時の姿や表情を思い出すことになるのですが、その振り返りは、まるで終わりのない連続ドラマを毎日、一話ごとに短い「ダイジェスト版」を作っているように感じる時があります。しかも、その今日のダイジェストは保育者によって異なっていて、クローズアップされるエピソードも、保育者が出会ったものから選ばれるで、内容は違ってきます。

それぞれが主人公のオムニバスドラマになっているはずの生活全体について、実は全てを把握している人など存在しません。それでも物語の「あらすじ」は、当たらずとも遠からず、だいたい成立しているように感じるのも、面白いものです。そこはさすが担任、いつも一緒に生活している彼ら彼女らが残す毎日の日誌やドキュメンテーションを読み解きあっていく中で、それぞれの子どもの成長の物語が見えてくるのです。

例えば、3歳の担任が先週、模造紙に写真を拡大して廊下に掲示していました。それには小さなダンゴムシが写っているのですが、その大きさがクイズになっている保護者向けの掲示でした。

答えの写真には十円玉が添えられていて、いかにそのダンゴムシが小さいか?が、その掲示で伝えたかったことのようです。

そこまで驚く担任の心理が最初、私は正直言ってピンと来なかったのですが、そんな小さなダンゴムシを公園で見つけてしまうことに、先生は感激したのだそうです。そこを私たちが共感できるかどうかも、それまでの子どもの変化を具にそばで見届けてきたから気づく子どもの姿なのでしょう。

あるいはこんなこともあります。3歳の子どもたちが仲良く集まって絵本を見ているのですが、実はお友達がやっているお絵描きをそばで待っている光景だったのです。そこに新しい仲間意識の誕生を感じ、一連の写真入りコメントが数日間並んでいます。とびとびに拾い上げられていた同様の姿を並べてみて、なるほどと気づく協同性の動向です。

あるいは、数日前に数人が製作遊びに没頭しているな、と思っていたら、明日22日に「こども縁日」を開くそうで、そのために密かに準備に勤しんでいた子どもたちだったことを今日、記録を読んで知りました。

屋上に置いていたみかんの木に、また八匹のアゲハの幼虫がいたのですが、年中のMくんが「どうして鳥のフンみたいなの?」というので、「鳥もフンだと思ったら、食べようと思わないでしょ。食べられないように、こんななんだって」と説明したのですが、<そっか、といいこと聞いた>というような顔をしてくれたので、ホッとしました。それがこれから、またあの青虫になるなると思うと、私も説明しておきながら不思議なもんだなあ、と思います。

その奥には、ベランダに設けた砂場があります。夏は暑すぎて遊べなかったので、また砂を入れて遊べるようにしていくのですが、ザルを持ち出して遊びたいような様子だったので、バケツに入っていた水槽用の砂利砂で少しだけ遊びました。

スコップで救い出して容器に入れたり、手で掴んでアイスを作り始めたり、小一時間遊びましたが、そにいたメンバーの意味については、その前後にまた別の物語があったりすることを、これまた後で私は教えてもらうことになるのです。

 

子どもの人権と尊厳への保育者の感覚

2023/09/20

「今日は・・・などに限らず、探索に行ってみたい場所やお昼のタイミング・・・など、それぞれの子が自分自身で生活を作っているような雰囲気が感じられる一日だった。その姿の読み取りや、やりとりを、丁寧にたっぷりしていく中で、子どもたちも安心して、自分の生活を作っていくことができていると思うので、大人自身も気持ちに余裕を持って、ゆったりと過ごしていきたい。」

私はこの担任の保育の振り返りの記録のなかに、とても大切な人権感覚を感じます。大人が気持ちに余裕をもって、ゆったりと過ごすことで、「子どもの姿の読み取りや、やりとりを、丁寧にたっぷりしていく」ことができ、それが子どもの主体的な活動を生み出していくことにつながるというのです。

保育界は昨年秋からこの1年ほど、子どもの権利や子どもの尊厳というものを、根底から見直すということが続いているように感じます。きっかけは、昨年秋からのマスコミを賑わせた「不適切保育」への対応と、この春から「こども基本法」の施行に伴う議論が増えたことです。保護者のみなさんにとって、保育の実際としては、表立って目出つ変化は感じないかもしれませんが、私にとっては、かなり勇気づけられていることや、さらにもっと深めたいと思うことがあります。

ここで紹介した担任の振り返りもその一つです。勇気づけられることであり、もっと深めていきたいことです。

昨日19日は、は朝から区内の保育園からの見学を受け、午後からは保育者養成大学の先生がいらっしゃいました。目の前でおきている子どもたちの姿を読み取りながら、目指すべき保育のあり方を語り合うことになりました。それは子どもと環境の関係であり、子どもと保育者の関係だったりするのですが、そこで「起きていること」をどう理解するのか、そこには見る方の人権感覚が反映され、その子どもの尊厳を感じ取るかどうかによって、そこに大きな差異が生まれるように感じたのでした。

これはななかな、うまく説明できにくいもので、どう表現したらいいものか。抽象的な言い方になってしまうのですが、その違いは、保育者が「子どもがどのように変化していくのか」を見極めていこうとする「まなざし」の違いとして表れているとはいえそうです。その姿とは、環境との関係のなかで「引き起こされている」と表現したい事態なのですが、それがそうなるようにするには、担任の冒頭のような表現のなかに見出されると思うのです。

 

 

食べているお米に近づく過程

2023/09/16

栽培や飼育という活動は、食育や自然との関わり・生命尊重のテーマとして、生活の中に位置づいています。以下の記録は、5月から始まった長い活動が、一つの節目にきたことを取り上げています。12日月曜日に年長さん9人がやった稲刈りの様子です。収穫が終わると、これから白米に至るまでのプロセスを丹念に体験していく活動が始まります。

・・・・・・・・・・・

5月末にそれぞれのバケツに植えた稲🌾

 

 

・・・😳

こんなに大きくなりました..!

野菜と一緒に毎日水をたっぷりあげ、月曜日、ついに!稲刈りをしました。

たくさんの葉っぱの中にある 稲 を探し出し、根本からハサミで切る作業は難しくもありましたが、神宮司先生に説明してもらうとすぐにコツをつかみ、器用に収穫していました。

 

今日は、この稲が食べられるようになるまで(みんなのご飯になるまで)の過程を、みんなで観察しながら共有しました。

(少し見えづらくてすみません.. )

「どの順番でお米になると思う〜?」と子どもたちに言ってみると、

じっくり観察しはじめました。

Yちゃんが少しずつ稲からお米に近づいている過程を発見し、みんなに伝えると、「ほんとだ〜〜!」とみんなも近くで見ながら発見!

稲刈り→乾燥→脱穀→もみすり→玄米→白米になって、みんなの食べているご飯になっているという過程を、実際に育て、収穫して体験しながら学んだ時間でした。

14日の「そうそう、そこそこ」子ども理解の背景

2023/09/15

14日は実習指導に大学から懇意にしてくださっている先生がいらして、主任と一緒に「保育者は気づいたこと、見えた姿を積極的に出すことが大事」とということを、語り合いました。

実習生は9月4日から主に幼児と一緒に過ごしてきました。その姿から制作遊びと運動遊びの展開案を考えてやってみました。子どもの姿ベースの展開です。また保育日誌やドキュメンテーションは、デジタル化が進み、当園の実習日誌もこの大学とは紙がなくなっています。ですから実習生にもドキュメンテーションの作成を体験してもらっています。今後は実習日誌もネットでのやりとりに移行する予定です。

それらを読んでいると、私が実際に保育で目撃しているものよりも、担任が着目していることの方が発達の経過を踏まえたものなので、着眼点や見え方が「そうだったのか」と思うことが多いのです。

例えば、大学の先生と実習生、そして主任と私の4人で語り合っているときも、園児3人が私たちのいる事務室にやってきて何やら頼み事を言って帰っていきました。

主任は、その瞬間の姿を見て、その3人の組み合わせの中に、それぞれの思いと経過の物語があることを説明してくれました。そこには親御さんも含めた思いが詰まっている姿だったのです。そこには、一緒に遊びたいという思いを相手に伝えることがなかなかできないでいたのですが、その思いを上手に受け止めていく子どもたちの思いやりの物語があったのです。

そのような子ども理解の、よく言われる背景の理解といったことは、大人の世界でもあるし、当事者や関係者でなければクローズアップされることのないものです。またその内容や経緯は公になっていく性格のものでもありません。しかしその共有こそが、子どもの人権を大切にしていくためには欠かせないものだったりします。

14日の「そうそう、そこそこ」子どもなりの世界の広げ方

2023/09/14

14日の「そうそう、そこそこ」は子ども理解のバリエーションです。1歳の子どもなりに自分の世界を広げていく様を取り上げています。

というか、よくもそこに着目できているなあ、すごいなあ、ということなんですけども。

エピソードは2つ、二人あったのですが、どちらも子ども同士の間に起きている発達の最近接領域のことといってもいいでしょう。二人とも1歳児クラス。担任は「ちょっと上」とか、「チャレンジ」という言い方で、子どもがそ〜っと踏み込んでいく自分の世界を捉え、保護者の皆さんに伝えようとしてくれています。

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<エピソード1>

ヨーグルトのおやつが出た日、Sくん、自分でフタをあけることにチャレンジしています。

配膳をしてくれた先生が、”ここからはできるかな?”と、ヨーグルトのフタを最初のちょっとだけを開けると、フタつきのまま渡していました。 全部開けてから子どもたちに配膳するほうが、失敗することも少ないし、すぐ食べられるけれど… そろそろ自分で開けることができるようになってきているかな?と、あえてつけたまま渡してくれています。 大人がさらにちょこっと手伝って、『ここを持ってめくるんだよ』と示すと、Sくんも真似をして、見事自分で開けることができました。

ほんの小さなことにも思えるのですが、昼食のバナナやオレンジでも同じようなことがあります。 最初は皮ごと食べようとしてしまったり、皮をむかずに中身をなんとかかじろうとしたりしますが、徐々に「皮をむこうとする」仕草が出てきて、手先がうまく使えるようになってくると自分でむいて食べるようになります。

そうした様々な発達のステップがあるので、私たちはそのステップに合わせて、大人がむいてあげたり、子どもが自分でやりやすいように途中までむいてあげたり、自分でむけるようになってきたらそのまま渡したり…と それぞれの子に合った関わりをしていきます。ついこの間までバナナの皮ごと食べようとしていた子が、皮をむいてみようとしているのを見て、嬉しくなったりもします。

『発達のステップに合った関わり』というのがまた面白いところだと思うのですが、その子にとって簡単にできすぎてしまうことは、「発達に合っている」とは言えないように感じます。「発達」には、いつでも少し、「チャレンジ」という要素が必要なのかもしれません。 自分ができることの少し上、をトライする中で、子どもたちは少しずつ少しずつ成長を重ねています。

時には、ちょっと道草したり、あと戻りしてみたり…ももちろんあるかと思いますが^^(きっと、そのくらいの『あそび』も大切な時間なのですね。)ヨーグルトのフタも、ぐんぐんさんたちにはちょっとしたチャレンジでした。でも、Sくんが ちょっと頑張って自分で開けてみたり、うまく開けられた子が、「できない〜」というお友だちのをさりげなく開けてあげたりする姿もあって、子どもたちの発達や成長を引き出していく要素は、色んなところに色んな形で起こりうるのだなぁということを実感します。

子どもたちの力や、いま伸びようとしている姿を存分に引き出していくには、それぞれの子どものことをよく理解していないといけないのだと感じます。私たちも、子どもたちと一緒に挑戦したり試行錯誤したり…を繰り返しながら、一人ひとりの子どもの姿をじっくりと捉えていきたいと思います。

<エピソード2>

ところで、子どもたちがそうやって”一歩踏み出す”ための環境や関わりは、遊びの中にもたくさんあります。 お友だちの運動遊びをずっと隣の部屋から眺めていたIくん。一緒にやる?と聞いても『ううん』と首を振りますが、眺めているのは楽しそうです。楽しげな友だちの姿につられて、Iくんも時々にこっとしながら見ています。 そこからしばらくお友だちの姿を眺めるうち、だんだん近くへやってきて… Cちゃんにツン♩そのあとは、お友だちが遊んでいるマットをめくってみたり、こちょっとくすぐってみたり。

ほかのお友だちと一緒になってマットの上に寝転んで遊んでいたわけではないけれど、お友だちの遊びの楽しさをしっかりと一緒に感じながら同じ世界を楽しむ姿に、『こんな参加の仕方も良いなぁ』と小さな感動を覚えました。

とくに最初のうちは、パッと見ただけでは、「一緒に遊んでいる」ようには見えなかったかもしれないけれど、その時の Iくんの表情や姿を見ていると、たしかに、お友だちと同じ面白さを感じ同じ世界を一緒に楽しんでいるように見えました。

こんな風に、それぞれの子のタイミングや楽しみ方、味わい方があって、一人ひとりの世界の広げ方があります。それをいかに一緒に感じとり、支えていけるかが、「発達」や「成長」にとっても、大切なことなのかなぁと感じています。

・・・・・・・・ここまで・・・・・・

このように、本当に何気ないシーンなんですけれど、これまでの積み重ねから育っていきつつある姿を切り取ってくれていて、私は嬉しくなるのでした。

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