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園長の日記

書類作りで目が回る保育園

2025/06/03

このところ、園長の時間は、保育園で必要な書類の整理に時間を取られています。こんなことをやらされている多くの保育園(だけはななくて、補助金でやっている施設はたいてい同じような目に遭っているはず)は、もっと文句をいっていだろうに。ただでさえ子どもといる時間が惜しいのに、こういうで何かがもっとよくなるとは到底思えないのですが。

私が保育園に勤め始めたのは1996年ですが、その頃はこんなにたくさんの書類はありませんでした。その頃よりも保育がどれだけ良くなっているのというのでしょうか? 保育のために、何かが大切であるから、そのために保育でやることが充実していくのなら、それはいいことです。

しかし、その保育実践のために「なになに計画」を作らされて、それがとても多くなってしまっています。とにかく何かをよくするには計画から入る。プランというのは書類づくりではないはずなんですけど、実践の証拠が書類があるかないかみたいになってしまっています。事故や不祥事が起きるたびに増えてきた書類、という面も拭えません。

乳児は2歳までは個別指導計画がないといけません。しかも長期(年間から月案まで)と短期(週案とか日案とか)がないといけません。それだけでも大変なのですが、計画があるということは、結果があるわけで、それも記録が必要になります。日誌とか保育記録とか保育ドキュメンテーションとか言われるものです。

そして計画の通りにならなかった結果を記録して、その結果を振り返ります。結果を分析して、どうしたらもっとよくなるのか話し合って、その話し合った結果も議事録として残します。

その計画と実施と次の計画の間にどんな振り返りがあったのか、そのつながりが「ありますか」(やっているにきまっているのに、やっていますではダメで「ありますか」になるのですが)となってしまいます。つまり記録がそこにも要請されます。

保育実践はマクロな視点とミクロな視点があるので、小さな計画が大きな計画にちゃんと含まれているかということもチェックされたりします。その計画がこの計画に入っていないとか、書類間の整合性を問われるようになったりするわけです。

この増えていく書類は何かの証明行為でもあるのですが、誰のための証明なのかと考えると、法律にもとづく行政からの通知や事務連絡が膨大にとどき、その管轄がそれぞれ別のところからやってくるので、おそらく発信している先方は一生懸命に良くなるようにと考えているのでしょうが、やってくる場所は「ここ」一ヶ所のなので、計画やマニュアルで山積みになり、その膨大な事務処理やチェック記録などに追われてしまいます。

子どもに関することだけではなくて、職員の研修やあらゆる安全面への計画も義務化されています。たしかに大事なことなのですが、限られた人材資源と時間のなかで、これだけのことをこなすのは、それだけでも別の事務処理的な専門性が必要になっています。それぞれのPDCAが回ることになっているので、ほんとうに目が回ります。書類が踊っています。

さて、この事態を放置していいはずはないのですが、その簡素化と工夫も現場に丸投げなので、そこの支えてもらえるような何ががないと、働きやすい職場にはならないんじゃないかとさえ思います。とにかく保育に皺寄せがいかないように頑張ります。

 

保育園で夕食を食べませんか? しずくレストランのお知らせ

2025/06/02

5月31日にコドモンでお知らせした内容と同じです

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アンケートへの回答は、6月6日(金)朝までです。

日時:6月20日(金)17:15~19:00(最終受付 18:10)

※18:50頃には下膳、使用した箇所の清掃等も行い19時には退室をお願いします。使用した箇所の片付けをお願いします。

場所:千代田せいが保育園 2,3階フロアー

内容:保育園の給食を家族て食べる「しずくレストラン」

対象:在園児家庭(在園児のきょうだい児は参加可)

費用:人数によって変動します。 現在 大人600円 子ども 400円 を想定しています。当日受付にて精算となります。

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【開催趣旨】

保育園では、保育園の保育を様々な形で知っていっていただく事や、子育てを家庭だけでなく地域や社会でも担っていく事を大切にしています。

さらに、保護者同士の交流、子ども同士の関わり合いも活発に出来たらと考えております。

都心部では子育てが夫婦2人で担っている事が多いことから子育て負担の軽減なども家庭に向けて出来たらという思いもあります。

運営は、保育園だけでなく引退した調理員のボランティアの方々のお力もお借りして運営していきます。

【しずくレストランとは?】

この活動は、保育園の給食を食べられるだけでなく、帰ってお風呂入って寝るだけ。。。

そんなイメージも持っています。子ども食堂とは違う、保育園が主となって保護者と一緒に作る「レストラン」というイメージです。

また、子どもが保育園の給食を喜んで食べている背景には、調味料や食材、調理法など家庭料理にも役に立つ方法や、安心安全な食の環境を作るのが難しい現代だからこそ、

改めて子どもの食事、家庭の食卓について考える機会にも広げたいと思っています。

【お願い】

しずくレストランは、セミ・バイキング方式、保護者の皆様にも協力(会場設営や食具の返却等)をいただきながらのセルフ運営となります。

メニューは わかめおにぎり、ふりかけおにぎり、鶏のてりやき、副菜(検討中)、なめこ汁、ゼリー

至らない点も多いと思いますがご理解とご協力をいただきながら進めさせて下さい。

(写真は昨年6月24日のものです)同時付けの「園長の日記」より。

3階の保育環境を変えました

2025/05/31

先生たちが幼児クラス(3階)の模様替えをしました。新年度は2ヶ月が経って、これまでの子どもたちの様子を踏まえて変えました。このタイミングになるのは、自然な流れです。子どもたちの様子から「ほんとうはもっとこうしたいんだろうなあ」という<潜在的な育ちへの可能性>を感じるからです。子どものと環境の関係の調整です。子どもの姿に環境を変えます。月曜日からの様子をみて、また微調整を続けていきます。

養成校の先生からの園へのメッセージ「急がば回れ」

2025/05/27

養成校の先生から、こんなメッセージをいたただきました。全国保育協会が発行している会報「ぜんほきょう」5月に載っていました。

「最後に園の皆さんにお願いです 。『保育士にならない学生は実習に送らないで』と言わないでください。普通に考えて、高校を卒業したくらいで進路を確定しているほうが不自然なので、私など保育学生は多くが保育士になりたいと決めていることがすごいなと感心します。それにしても保育士にならないとしても、むしろ、保育士にならないからこそ、いかに保育がすばらしい仕事をかを知ってほしい。彼ら/彼女らが将来違う仕事に就いて子どもを預けに来た時、保育士の専門性を理解して応援団になってくれます。保育士になるかならないかにかかわらず、保育の楽しさや専門性をできる限り伝えてほしい。ある学生は、卒論を書くためにだけに園に観察に行っていましたが、毎週通って保育士たちと話しているうちに保育のやりがいに目覚め、有意義な仕事だからやってみたいと実際に就職しました。より人材が育つ業界にするためには、「急がば回れ」です。喫緊の課題だからこそ、業界全体として丁寧に取り組む必要があるでしょう」(特集「学生の声から保育現場の課題を考える」座談会より。最後の発言の中から。)

 

今年度2回目の日曜開放

2025/05/25

卒園された親子や転園された親子が遊びに来て、再会を楽しみました。保育園が在園の園児と保護者だけではなくて、卒園しても、転園しても、保育園が生活圏として続いていくような場でありたいものです。入園と卒園という意味を新しい言葉に変えてみたい。生活圏にはそのような区切りはないんじゃないだろうか?ネットワークが広がっていくということでいいだろうに。

 

実習のオリエンテーション

2025/05/22

私たちは何か生活や仕事がうまくいかないときや、困ったときは「どうしたらいいだろう?」というように考えます。ものをなくした、病気になった、家族が辛い思いをしている・・・その問題を解決するための方法を見出すために色々考えます。あるいはもっと良くするためにどうしよう?と知恵を絞ることもありますね。ただ私たちは自分や家族のことが滞りなく進むかぎり、あまり縁のない遠くのことは深く考えないものです。

ところが、他人があまり考えないようなことを「深く考察すること」が仕事になっている場合があります。研究者とよなれる人たちです。「どうしてだろう?」「どうなっているのだろう?」と探究することが「専門性」となっています。世の中には、一旦、一通り専門的な技能を修得してしまえば、その繰り返しで務まる仕事と、常に新たな知識を探究し続ける必要がある仕事があるといえるのかもしません。新たな知識を深めるといっても、その方法は同じ技能の繰り返しなのかもしれませんが、いずれにしても、常に刷新が必要かどうかということには仕事の種類によって差があるようです。

では保育という仕事はどうなるのでしょうか?私が個人的に思うのは、一旦専門的なスキル(知識と技能)を身につけて(豊かな人間性の裏打ちが不可欠ですが)しまえば、その応用で仕事の質を高めていけるように思えます。専門性の違いはあっても、その道のプロと言われる人たちの歩み方とそう変わりはないのではないかと思えます。でも実際のところ、これまでの経験から言えるのは、学び続けてきました。一旦身につけて終わりということはありませんでした。これはどう考えるといいのでしょうか。

確かに時代が変化するので、また保育も進歩するので、それに合わせてバージョンアップしていくという一般論はわかります。ただもっと本質的に保育が難しい、学び続ける必要があると思うのは、対象が「もの」ではなくて人間であり、子どもであり家族も対象になっており、そのうえ成長、発達、教育という目に見えにくい成果(を単に求めるのではない、という話もあったりして)を追求するという仕事だからかもしれません。

とくに最近思うのは、子どもや人間や世界についての捉え方が、刷新されてきていることに起因するのだろうといことです。言葉を変えると保育を進める上で考える概念が更新され続けており、それまで「そのことはこう捉えればいい」と考えてきたことが、そうじゃないかもしれない「こういうふうに捉えることが事実に近いはず」という見直しの連続だからかもしれません。

その難しさには、子どもの経験の意味を考察する必要があることも関係します。考察のためには、物事を理解していくために用意された概念を駆使する必要もあります。「いい保育というのはどういうことをすることなのだろう?」ということを考えることが、保育でもあります。そんなことを考えながら、今日はある学生さんと昨日話し合ったある光景について振り返ってみたのです。

園内を案内し、どんな保育をしているのかを説明しました。するとある3歳の女の子が、運動ゾーンから折りたたみの運動マットを一人でままごとゾーンに運び込もうとしていたのですが、その事例について「印象に残ったから」話し合っていたのです。そのときに、そのエピソードを考察するとしたら、どんなことを考えるかを話し合ったのでした。その時思ったのは、考察すること自体を専門性として、ちゃんと学ぶ必要があるのではないかと言うことでした。

保育園は保育士を目指す学生の養成機関の一翼を担っているのですが、具体的には「実習」の受け入れ先になっています。大学や短大、専門学校などを「養成校」と呼ぶのですが、その場での学びを実際に保育にいかしてみる実践の場というわけです。当園は毎年4〜6人程度の学生さんたちを受け入れていますが、実習が始まる1ヶ月ほどまえにオリエンテーションという事前の打ち合わせをします。昨日はその打ち合わせがあったのです。

でもぼく、もうかえるんだよ(ケ 言葉による伝え合い)

2025/05/21

さきほどお迎えのときの一コマ。体調を崩して休んでいた3歳児クラスの男の子Sくんが園に戻ってきて(と園側はつい言ってしまいますが)、昼間会えなかった先生と事務所で会った時、先生は「ああSくん」と話しかけていた。元気になってよかったね、という気持ちを伝えていた。

するとその子は先生に「会いたかった?」と聞くのだ。お、と思って私は耳をそば立ててしまった。それに対して先生は会いたかったよ〜というふうに答えたら、彼は「でもぼく、もうかえるんだよ」という。まるで恋人同士みたいな、なんてロマンチックな会話だろう。先生はその可愛さに笑顔満開で嬉しそうだった。

このほんわかエピソードは、それで終わり、その余韻を楽しもう。

それでいいものを、またちょっと理屈っぽく、考えてしまった。なぜこのような空間が生まれたのかということを。というのもAIでも似たようなことが起きるだろうかと思ったから。こんな状況でこんなロマンチックな会話とか、いろいろプロンプトを指定したら、そういう風なエッセイとか小説とか、4コマまんがぐらいできてしまうの世の中になってしまった。

「でもぼく、もうかえるんだよ」。

先生に近寄っていったSくんの先生への親密さの確認のさきに、休んでいた間「会いたかった?」と口にするのは、自然な成り行きかのかもしれない。思えば子どもたちは昼間、親に会いたいと思って寂しさを堪えることを幾度も経験しているのだ。その親を慕う思いは「ママあ〜」「パパ〜あ」といって泣く表現を言葉にすれば「ママに会いたいよう」なのであるから、会いたかった?と聞くのは当たり前、とても自然な言葉だろう。

でも今は、もうお迎えの時間。せっかく会ったのに、もう僕はいなくなってしまうんだよ。やっと会えたのに、ごめんね。その前後の空白の言葉を埋めるなら、こういう言葉が並んでもおかしくない。それに近い感情がどの程度あるのかはわからないけど、文脈としては人間性の吟線に触れてきます。

相手がいるからこその、人間関係があるからこその、そういう気持ちの湧き立つのだということをふと感じました。たった10秒ほどの出来事なんですけどね。

 

保育カンファレンスは動的な環境の調整のようなもの

2025/05/19

特定の子どもを選んで、じっくりと観察して、そのあとで話し合って保育の援助計画を修正しています。この話し合いを保育カンファレンスと読んでいますが、先ほどそれが終わりました。

子ども本人してみると、「きっと、こんな感じのことが無自覚に起きているのかもしれない」と想像しながら、支え方をああかな、こうかなと話し合います。だったらこんなふうしたら相互作用が変化するんじゃないか?とか、こんなふうに誘ったりすると、うまくいくんじゃないだろうか? こんなものや空間にしたらどうかとか。・・・

保育の話し合いでやっていることは、それぞれの子どもにとって、周りからの「呼びかけ」のあり方と、その子が「どう応答しているか」という関係を分析していることになっていそうです。そこで気づいたことがこういうことだろうから、こう思わず動いたのだとしたら、ここに空隙があって、越えられなかったからかもしれない、とか。

たとえば車の運転にたとえると、入ってくる視界情報と路面とスピードの関係を考えながら操縦している主体(子ども)は運転手です。当てずっぽうに運転する子どもの運転技術の度合いの違いが個性や発達の度合いで、保育とは、その車体がどう走りたがっているか、またそのスキルを想像しながら(この子はこうだね)、視界情報や路面環境などを整えているのに似ているかもしれません。

空間を止まったり走ったり常に動いている車の動的な動向を環境の方からうまく走らせていくような感じ。

運転手にとって、環境からの呼びかけ方は「聴覚からよりも視覚からのものがよさそうだ」とか、「声かけが先だと抵抗するから、そっと見えるように置いておいて、何気なく始まってしまった方がいいだろう」とか。そのカーブでは一時停止の標識は確認しにくいねとか。標識が多すぎて判別しずらそうだから、他の標識を隠してしまったほうがいいみたい、とか。運転しやすい道路空間のデザインを考える感じです。

子どもの姿が車の運転ぶりだとすると、この道路空間は「いつも走っているから、こうだ」と見通して安心できると好きなことに集中できる(車を快適に運転できる)が、予想外のものから呼びかけられたり、時間的にちょっと先に始まることの見通しがもてないと不安に感じたり、しているのかもしれない。急に「いやだ〜」になってしまったりするのは、どうして?その話し合いから、こんなアナロジーに似た感触を話し合いました。

本人にしてみたら、たとえば気持ちよく運転しているときに急に視界が遮られて、思わず急ブレーキを踏んでしまうようなことかもしれない。きっとこうなるとパターン化されているならできるが、未知の世界への入っていくときは、何かの既知からのつながりのある未知でないと不安なのだろうか?あるいは、「やりたいことがあってもできないことからのもどかしさ」がそうさせているのではないか?とか。

たとえは車の運転が相応しいかどうかわかりません。波乗りサーファーや川下りのカヌーのようなものでもいいかもしれません。いずれにしても動的な動きのある空間の例えがいいような気がしました。

それにしても私たちは本当に知らないことには不安を覚えるものです。その既知と未知はどうつながっているのだろう。そのつながり具合を工夫しているのが保育のようにも思えます。楽しい、面白いと思えるように世界への通路を作っているのが保育なのだとしたら、既存の世界と未知の世界の繋ぎ方として、楽しく運転していたら、新しい世界にはっていったというような形で運転をサポートすることが保育なのでしょうか。その微妙な調整の仕方を話し合っているのが保育カンファレンスのように感じました。

親子遠足は室内での童歌あそびと上野動物園のぶらり散歩

2025/05/17

あいにくの雨になってしまいましたが、室内での「わらべうた遊び」は、ゆったりと楽しい空気感に溢れていました。歌とリズムと声のハーモニーが子どもたちを包み込んで、幸せな気持ちになりました。このような空気感は保育園ならではのものでしょう。

上野動物園は雨の中でしたが、3グループに分かれてのんびりと散策できました。私がついて回ったグループではシロクマが水中でボールで遊んでいる様子を楽しみました。

雨のために団体がキャンセルしたのか、空いていたこともあってコウモリ、タンチョウヅル、象なども見ることができ、それぞれの場所をゆったりと楽しめました。

真剣に楽しい一本締め(コ 豊かな感性と表現)(ウ 協同性)

2025/05/16

金曜日の午後、1週間を振り返る話し合いがあります。その時間に私が子どもたちを見守っているのですが、そのとき、いろんなことに気づきます。保育ドキュメンテーションでも紹介されていましたが、ちょうど1週間前の神田祭で神輿をかついたので、その様子の再現遊びが繰り返されます。

どうも、毎日のように、気が向くと繰り返しているようで、運動ゾーンのマットが神輿で、わっしょいわっしょいと、1周すると止まって一本締めをするのです。「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」。そこが楽しみみたい。そして「キューケー」といって、自分の水筒の所へ行って水分補給しています。

私が見ていた時は、「ヨー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャン」がずれないように練習していました。スピードが早いのです。言葉では伝えられないんですが、2〜3秒ぐらいです。なので、みんな必死で早く手拍子しています。拍子木のつもりで積み木をカチカチやってらました。

面白いなと思ったのは、真剣にやってるということでした。あのお祭りの雰囲気をちゃんと感じているのです。そこもちゃんと再現しているあたりに、子どもの表現を感じました。

 

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