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園長の日記

13日の「そうそう、そこそこ!」保育者によって子どもを誘う世界に差

2023/09/13

保育を語るとき、ある種のキーワードから半ば自動的に繰り出されてくる概念のつらなりのようなものがあります。それを道標のように使って語られることに、ときどき生理的な抵抗を感じてしまうことがあります。手垢がついてしまった語り口の陳腐さとでもいうのでしょうか。それを力説されるほど「それだけじゃないだろうに」と思うこともあります。反対に、一見凡庸なように見えて、実はとても大事なところ語っているように感じて「そうそう、そこそこ。そういうところかもしれない」と思うこともあります。

今週は12日火曜日に松本市に出張していたので、その頃から今日15日までの間に、クラスドキュメントとホームページブログに記載されている中から私が感じた「そうそう、そこそこ」プレイバック!です。日記は13日の日付から3日間シリーズです。

今日は13日の2歳児クラスで起きた「アゲハ見つけた」の中の、「そうそう、そこそこ」です。

このクラスブログ(保護者だけがパスワードで見ることができるクラス日誌)は、他の園の子どもたちと偶然に起きた交流場面を取り上げたものです。男性の担任が、散歩先の公園でアゲハチョウをとってあげた時、園児と他園の子らの反応の違いに気づいたそうです。

・・・・・・・・・・・・・以下は13日のクラスブログからです・・・・・・・・・・・

今日の佐久間公園でのひとコマ。

T(担任)専用虫捕り網でアゲハチョウを捕まえました。

にこにこさん達(2歳児クラス)はもちろん興味津々で、

触ってみたり観察してみたり、とても楽しそうでした。

しかしそれ以上に興味を示し大興奮だったのは、近くにいた他園の子達でした。

憶測ではありますが、僕が虫好きなことや、園でも生き物を飼育している事もあって、

以前より虫と触れ合ったり探したりする機会が多くあったにこにこさん。

この他園の子達は今まであまり虫と触れ合う機会が少なかったのかも。

都心という環境下では、虫は積極的に見つけに行かないとなかなか触れ合う機会がありません。

虫が苦手な先生もいます。

なのでそのような場合、都心で子ども達だけでたくさん虫と出会うのは難しいかな、と思います。

 

誤解なく伝えたいのは、その他園の保育がどうとかではなく、

子ども達が経験していく事柄は、関わっている大人の得意分野や趣味嗜好も大きく関係してくるのかな、と。

ですので、きっと僕が虫好きでなかったり、園で生き物を飼っていなかったりしたら、

子ども達もまた違った反応だったのかもしれません。

 

保育園の子ども達が関わるのは保育士だけではないです。

きっとお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんも、

僕らには無い、何か得意な事や面白い趣味、明るい分野などあると思います。

何かの機会にぜひ、子ども達にいろいろ見せたり聞かせたりしてあげて欲しいなと思っています。

それが子ども達の新しい興味や発見に繋がっていくと思いますので^^

・・・・・・・・・・・・・ここまで・・・・・・・・・

その同じ日に、ちょうど12日の夕刻ですが、私の講演が終わった後の懇親会で、長野県のある保育団体の前会長さんと雑談になり、その方が佐伯胖さんのドーナツ理論の話を始めました。これは、大変大雑把にいうと、子ども(I)を保育者(You)が世界(There)へ誘う役割を持つという話なのですが、わあ、懐かしいと思いながら、そうか、ここは長野県だったと思い至りました。

確かに、子どもの主体性と大人の主体性が生み出すことは、時に、子どもが誘われる世界は大人の主体性がイニシアティブを発揮することがありますが、それに留意するなら、担任もそれに気づいて、保護者に「何かの機会にぜひ、子ども達にいろいろ見せたり聞かせたりしてあげて欲しい」と語っています。

園長の立場からすると、いろんな「とんがったもの」を持っている職員と保育をしたいということになってくるかもしれません。とんがったものとは、その人が好きな世界があって、そこにちょっとでも食い入るものを持ち、どんどんその世界を探求していっている人。それを面白がって子どもに見せてあげようとするような資質のこと、とでも、いっていいでしょうか。

ドキュメンテーションが伝えてくれること。先生たちに心から感謝。

2023/09/12

すこいです。このドキュメンテーション。何がすごいか? 子どもの躍動感と先生たちのその姿を目撃した先生たちの「伝えたい」という気持ちの一体感。こんなすごい子どもたちと先生たちがいる保育園であることの、心の底から誇りに思います。先生方、本当にありがとう。ここに保育の幸せがあると思う。

 

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

・・・

絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

保育園の新たな可能性としての「にちよう開放」

2023/09/10

こども基本法ができて、新しい政策が次々と打ち出されてきました。その1つに、それはこれまで無理だと思われていた保育所の多機能化です。保育所が新しい子育て支援、社会的養育、母子保健、発達支援制度を取り込んだインクルーシブな取り組み。

今日は「日曜開放」だったのですが、これが「点」のような取り組みだと思わず、大きな可能性につながる第一歩をやっているような気がしてきました。まだ未知数ですが、私の直感は大抵当たります。楽しみになってきました。

選択力も発達していきそうだ

2023/09/09

大人になることは物事への適切な判断や決定が下せるようになることだとも言えるだろう。それが発達するのだとしたら、大人もずっと「こども」なのかも知れません。(という「こども基本法の話ではなくて)選択することもある種のスキルであるなら、拙い段階から洗練されていくレベルまであるかも知れません。もちろん何かをさっさと選べることがいいのではありません。イヤイヤ期の子どもを見ていると、大人がどの選択肢を示してもうまくいかないという光景がよくあります。

今週5日のセミナーで、子どもは小さいうちから選ぶということをやっていくと、色々考えた上で自分で決めることができるようになるのではないか、ということが話題になりました。ランドセルのメーカーが子どもに調査をしたそうです。その色に決めたのはどうしてか?すると多くの子どもが本当に自分の好きな色で選んだのではなく、親がそれを望んでいたから、と答えたというのです。確かに最近のランドセル選びは「祖父母からのプレゼント」になっていることが多いそうで、子どもなりの配慮、忖度、遠慮という気遣い?が働いているのでしょう。それも納得してぎれば立派な選択なんでしょう。気に入らない色だったのに、我慢してそれにした、ということでなければいいのですが。

研修会では、どっちを選ぼうがあまり影響のないようなことも、小さいうちから選ぶようにしている事例が色々紹介されました。ジャム付きのパンをあまり食べないことがあって、ジャム付きとただのパンのどっち?と変えたら1歳児が躊躇なく選んでいく様子の動画がありました。面白いことに、どっちもジャム付きなのに「こっちのジャム付きにする、こっちのにする」と聞くと、子どもは選ぶんですね。「選ぶ」という行為を好むようなのです。やっていること、手に入れることは同じものなのに。シーナ・アイエンガーの本『選択の科学』にも、その事例が出ています。自分で決めた、選んだということ自体が重要だと。そして自分で決めるということは生得的なことじゃないか、と。

あるいは何かを「決める」というとき、大抵はそう白黒はっきりしたものではなく、積極的な肯定から消極的妥協まで、その幅は色々ありそうです。選ぶための情報が足りない、選択肢がない、我慢できない、恋に落ちた・・・まあ、色々です。でもその選択がずっと後々まで影響を与える場合もあります。昔、文部省時代ですが、キャリア教育や職業選択に関して「中学の時に将来なりたい職業が何回か変わるくらいでないと、それを調べたり学んだりしたことにならないでしょう」と担当課長Tさんから聞いたことを思い出しました。今はAIの時代。もっと違う<選択力>が必要かも知れません。科学としてその概要を知っておくといいと思うのですが。

しかも主体性の文化差ということも絡みそうです。選ぶのが「私」なのか、それとも「他者」や「集団」なのか。アイエンガーさんは、その本の中で、京都で砂糖入りのお茶を頼んだら丁寧に断られたというエピソードを披露しています。諦めてコーヒーを頼んだそうですが。自由な選択が許される幅が国や文化で違います。

それがアジア的と言っていいのかどうかわかりませんが、「他の人がしているかそうする」というのはジョークのネタにもなっているくらいですから個人主義の文化に比べると、個の弱い「あいまいな日本人」だったりするのでしょう。昨日の夜、ニューヨークなど海外で長く働いている方と夕食が一緒だったのですが、この「個人の押し出し具合の差」の話になりました。文化や背景との調和や、周りの空気を重んじて、自分の判断や意見や言わない、あっても一歩引くという感じが明らかにマイナスになるケースを色々教えてくれました。親や周りに合わせる選択や適応は、幼児後半あたりには影響を受けている気もします。

文化の差だとしたら、それ自体はいい悪いの話ではなく、そう自覚して対応していくとになりますが、子どもが小さい頃から「じゃあ、どうしようか?」と一緒に選択場面を考えてあげたり、一旦自分で「どう思う?」「いる?いらない?」とか、相手に聞いてから「やってあげる」ことや、子ども自身が「考える」プロセスを大切にしてあげるのは大事な気がします。それも子どもは頭だけで考えないでしょうから、手も体を動きながら、やってみながら後戻ったり、そうじゃないと気付いたりしながら。

子どもが選択するように見える時、昨日の日記にも付け加えましたが、選べない、選びたくない、あるいはどうしようと困ると言ったことが往々にしてあります。また、選択場面に見えないような、何か新しい世界へ一歩足を踏み入れていくときのように、どうしようかなあ、とちょっと逡巡して決めかねているような状態から、ちょっとやってみようと始めるとき、ある種の試行錯誤が起きているのですが、私が尊敬する先生が、それをこんなふうに表現してくださいました。

「何かを選んでいるように見えるとき、どういう意味で選択なのか。しばしば根拠がなんとなくで、選択肢もなんとなくで、衝動とも見えて、そのやってみて後から考えるというのが試行錯誤なのではないでしょうか。いいこと思いついた、というのは、具体的にこれからするアイディアが浮かんだわけですが、それもおそらくぼんやり何か面白くできないかなと思いつつ、試すことをイメージとして思いつく。で、やってみる。」

主体性や選択などの「ビッグワード」で語ることで終わらせず、このような場面をつぶさに拾いながら、子どもの姿から実際にどんな経験が起きているのか、そこの意味を探るようにしたいと思いました。

何もしないという選択も「あり」

2023/09/08

何もしない。これも立派な選択である。「これにする? あれにする?」って言われたって「どっちでもないんだけどなぁ」ということだってあり得る。

だから、何もしないという場所の保証するし、常にその他と言う選択肢を用意した方が良い。判断保留。何もしない。ぼーっとしておく。あるいは「ほっといておくれ」。これだってオッケーだ。

「いまやりたい」も選択である!

2023/09/07

今日の幼児のブログを読んでいたら、だれも選択だと思っていない出来事のなかに、選択と同じようなことが起きているのかもしれないと気づきました。

コードの不具合で電源が入らなかった電子ピアノが「乾電池で鳴るかも」と気づいた年長のMちゃん。発端は鍵盤ハーモニカをやりはじめたお友達に触発されたからですが、突発的に「やりたい」が盛り上がるのも子どもたちです。やりたいことをやる、ということを人は選択とはいいません。何かと何かから選んだと思わないからです。

でも「今やるか後でやるか、今でしょ!」ということなら選択したということができます。電源が入らないからあきらめていたのに、なんとかならないかと調べてみたら電池を入れる場所をみつけ、そのいきさつを知らずに私はMちゃんを連れてコンビニへ電池を買いに行ったのです。たまたま単三の電池が6本、園になかったのです。

子どものやりたいこをなんとか実現させてあげようとしたに過ぎないのですが、もし友達が鍵盤ハーモニカを弾かなかったら、先生とその子たちがやりたいと思わなかったら、もし私が電池を買いに行かなかったら・・・いくつもの「もし」という物語があり得ました。

なんでも後回しにしてしまう判断もありえました。子どもの「やりたい」に気づかない場合。気づいてもスルーしてしまう場合。どうせ大した差はないさ、と違う結果を予想する場合。いろいろな瞬間に大人の判断が働いています。それがチーム保育として成立するのは、保育に一つのゴールイメージを私たちが共有しているからです。先生たちの間で、子ども主体の保育が面白いと思えるから、できるだけ「今でしょ!」が選択されているようです。

 

選択から参画へ 脇道、戻り道、休憩所

2023/09/06

人生は選択の連続です。何をして働くか、誰と家庭を持つか、子どもを産むか、どの保育園に預けるか。みなさんは必ずこの岐路を選択してきたはずです。今日のご飯は何にするか、パンはどっちにするか、お迎えはどちらがいくか、延長保育は間食か夕食か。子どもたちも今日、電車で十指公園にいくか室内で遊ぶかを選び、幼児は結果的に全員電車で外遊びに出かけることを選びました。そして私は見学者を案内しながら、子どもたちが、何をどうするか、常に選択しながら生活している姿を追いかけていました。

今朝、親の腕からある先生の腕へ渡る時も、赤ちゃんは先生を選んでいます。ある遊具を棚から選び、絵本を手に取り、完成したパズルを棚に戻して新しいパズルセットを選びます。昼食をどのテーブルで誰と一緒に食べるのか、ご飯やおかずをどれくらいよそってもらうのか、おかわりをするかどうか、量はいっぱいかちょっとか。お昼寝をするかしないか、午後からは何をして遊ぶか。子どもが何かをしているとき、それは意識している、していないに関わらず「選ぶ」という行為が働いています。

そこにあるのは自分で決めることです。その決めた結果は自分と周りに影響を与えます。その結果が自分と他者にとっていい場合とそうでない場合があって、そのフィードバックをだんだん予想して決定していくようになっていきます。見通しと判断、実施とその被った結果への振り返り。それが選択という行動の中身、と言えるかもしれません。もしそうなら子どもは結果がすぐに返ってくる判断から、ちょっと先まで考えて下す判断まで、いろいろな選択をおこなっていることになります。最低限言えそうなのは、自分で自発的に決定したことがある影響を与える効力を自覚するので、それが自分がやったことという意味で自分を肯定することになるでしょう。

さらにその結果が自分に返ってきたとき、それに直面した自分が、そうなったのは自分がやったからだ、という自覚が生じる場合があるでしょう。その結果が賞賛されたら「またやろう」「もっとやろう」という再現したい、繰り返したいという意欲になるでしょうし、その積み重ねがアティテュードという態度、心構えが作られていくでしょう。

反対にダメだったら「あっちにしておけばよかった」という判断の修正が起こり、望ましい選択ができる方向へ自分を制御していく力になるでしょう。しかし選択肢が限られていると「やらなければよかった」に近くなり、肯定的な別の行動に気づく機会が生まれにくくなるでしょう。もしさらにマイナスの行き詰まりが続くと、諦めや無気力、無関心、自暴自棄、どうせダメだろうという自信のなさ、ひにくれた態度などが形成されてしまいます。

そう考えると、選択肢を枝分かれした道や迷路に喩えると、行き止まりになっても、戻ってこれることが大事。脇道から本線に戻れるルートがあることが大事でしょう。そこに試行錯誤が生まれ、できた時に自信が生まれ、自分が選んだ行為で他者が喜んだり嬉しそうにしていると、自分のおかげという効力感を感じてさらにそうしてあげたいという循環が生じるのではないでしょうか。

何をすればいいのかが決まっていることを率先してやる姿は自発的、自主的な、と言っていいでしょう。しかし、その動機が自分の選択から、自分の自己決定から始まることが欠かせない気がします。同じような行動に見えても、そこに至る過程に大事な宝物がいっぱい詰まっているのです。そのことが相互にぶつかり合って合意形成を作り上げていくこと、一緒に協力して何かを成し遂げようとしていく時に、さらに新しい自分づくりのプロセスが生じます。社会性、関係性の中での自分を作り上げていく過程がそこにはあります。選択から参画へ、という意思決定の高度化が予想されます。

保育環境セミナーで、子ども主体の保育を考える

2023/09/05

今日は保育環境研究所ギビングツリー(GT)が主催している研修会「保育環境セミナー」でした。高田馬場に全国から約180人が集い、オンラインを合わせると300人以上が参加しました。これは年3回のシリーズで開いているもので、今年の統一テーマは「人的環境」です。そのサブテーマは前回7月11日が「子ども同士の関わり・異年齢」でしたが、それに次ぐ2回目の今回は「子ども主体」でした。次回9月は「チーム保育」になります。この研修会は初日の午前中と3日目は園の見学です。中日の今日は講義や実践発表、質疑応答があります。

今回のサブテーマ「子ども主体」は、子どもを主人公にした保育のあり方を考えようというものです。「随分と前から大事にされてきたはずなのに、まだ保育で十分に実現されていない言葉の一つかもしれません」。そんな話から藤森平司代表の講義は始まりました。確かに「子ども主体の保育」はよく使われる言葉ですが、その保育の実際となると色々あります。

今回の研修会では、まず「子どもが主体になる保育」は、こういうことになるのではないかという保育事例をかなり多く確認することができました。要領や指針をはじめ、子どもの権利条約や、こども基本法、OECDの報告書、関連する研究結果などから、主体性やエイジェンシーなどが、どう使われているのかを整理し、その上で保育実践を検討する機会になりました。キーワードとして自己決定、選択、参加・参画、見通し、振り返り、話し合い、遊びといった側面から保育の特徴を抽出するという内容になりました。

午後からは当園からも担任二人がパワポで子どもの姿を映し出して実践を30分報告しました。乳児では3つの関わりの視点から。満2歳4ヶ月の子が8ヶ月の赤ちゃんに遊具を差し出して「いる?」とか「こっち?」とか、「相手がどうしたいのかを子どもが子どもに聞く姿」や「お友達がやってあげたいと思っていることを察してさせてあげる姿」などです。これらを「子ども同士がお互いの主体性を尊重し合っている」と捉えることができるだろう、というものです。

幼児では、子どもたちが何をして遊ぶかを1日に2〜4回ほど話し合う機会があること、複数出される「やりたいこと」が話し合いの中で相互に確認され、同じ時間にやりたいことが重なってできない時は場所を変えたり、やる順番を変えたりと工夫する姿が見られます。半年近くたち最近では月曜から金曜まで1週間でどの日に何をするか大まかな週案を決めるようになってきていることなど、子どもと大人が話し合って生活を作っていく様子を報告しました。

そこには子どもからの工夫やアイデア、達成するまでに必要なプロセスなどを思いつく姿もあります。例えば「新幹線で大阪へ行きたい」といいだし、どうしたらいいか話し合っていく中で「実現するにはみんなで電車に乗れるようにならないと」と、電車で公園にいく活動が始まったことが取り上げられました。

子ども主体の保育は、保育者が「子どもに尋ねる保育」になっていきます。相手がどうしたいのか、どう思っているのか、どう考えているのかを知ろうとすること。それは大人がそうしていることを子どもも真似て、取り入れていくのでしょう。人的環境としての大人の役割なのでしょう。保育者も子どもを見て想像して理解する、ということにとどまらず、実際にどうしたいのか聞く、たずねる、確かめる、どうなのか丁寧に寄り添うという姿勢になっていきます。

また子どもに選択できるように、色々と用意する、ということにもなります。先生が決めて用意したことを、子どもが意欲的にするなら自主的な行動と言えるでしょう。そこから一歩進めて「参画する」となると、まだ決まっていない活動内容そのものを作るプロセスにコミットすること、意見なり思いがそこに反映されることが子どもに見え、手応えがあること。自分の意思決定が何かに影響を与え、自分がそこに参加している一員であるように感じること。そういう意味での意思決定や選択、相互尊重などが含まれてくるような生活づくりです。このような積み重ねが、あの「主体的、対話的で、深い学び」になっていくように感じます。

 

ごっこ遊びは日常から「隔離」されていなければならない?

2023/09/04

独り言。

なぜ人は踊り、演劇を楽しむのか?

日曜日、ホイジンガとカイヨワの文庫本をバックに入れて、山中湖までのバスの中で開いて思い巡らした。帰りのバスには三島の文庫本も一冊加わった。そして遊びが日常生活と隔離されていることの大切さに思い至った時、だからわざわざ劇場空間を人は作り、遊びが安易に日常の感覚と混ざり合わないようにしたのか、と気づく。その空間は幼児教育施設でも、最も大切な空間のありようではないのか? そうなら「(自由)遊び」が守られるような場であることを、もっと鮮明に表す言葉にした方がいいだろう。預かり保育? とんでもない。こどもまんなか、というなら、そうした命名を廃止するべきだろう。フレーベルもキンダーガルテンと名付けた時にそう考えただろう。〜保育などという、大人を主語とした用語を思考実験として一旦廃止してみたい。指針要領がこどもを主語に書いてある姿のように。

月曜日。「遊びも堕落する」。カイヨワの説明である。ミミクリである演劇、つまりごっこ遊びの姿を見に行った。なるほどと思う。「何?なんのよう?勝手に入ってこないで」と私は叱られた。そこにはお母さんとお姉さんがいた。私はその演劇世界に勝手に闖入してはいけなのだ、と良くわかった。ここには見えない幕が上がったり下りたりしている。だから見守るということが必要な、意味文脈もある。

そして、やはりその中で何が起きているのか、目を凝らしたくなる。

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