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2023年 1月

チュンちゃん 子どもの手に乗る

2023/01/09

年末年始を職員の自宅で過ごしたセキセイインコのチュンちゃんが、保育園に戻ってきました。いつの間にか、手に乗るようになったチュンちゃん、子どもも鳥も、その間に「信頼関係」成立です。動物が人に懐くというのは、警戒心が解かれていくことでしょうから、そこには学習があるのでしょうが、きっとそこには生まれながらの傾向と、これまでの経験からのものとがあるんでしょう。それまでの経験の中には、園児たちの大事にしてあげようという優しいケアも含まれると思います。何らかの形で鳥にもそれが伝わっているのでしょう。そう思うと、金魚やカメとの間にはなかった、気持ちの通い合いのようなものを感じやすいと言えるのでしょうか。インコは警戒と信頼の差を見せてくれる性質を持っているから、人気があるのかもしれません。人は自分に懐いてくれることを嬉しいと思うものですものね。そこに愛情の通路ができるからでしょうか。

春の七草をお粥にして

2023/01/07

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、おとけのざ、すずな、すずしろ これぞななくさ。

語呂合わせで覚えているものが、結構あります。

言葉の豊かさ、というものを保育士ならその専門性として考えざるを得ないのですが、あるだじゃれが大好きな方は、言葉遣いの名人でもあり、「ああ、そんなふうに説明できるのか」と、簡潔にしてポン、と私の方に意味が飛び込んでくるような語り方をします。あのね、それはね、昔日本人はね、と、まるでボールがゆっくりと投げられて、見ていたらヒューッと戻ってきて、私の手の中にあるといった感触があって心地よいものです。

五七調の調べに乗せると、なぜか覚えやすいのは、そういう文化に慣れてきたからなのでしょうが、子どもたちにもそういう言葉の環境を用意してあげているかというと、どうでしょうか? 日本の言葉の調子というものを、子どもが気づき面白がる時期があって、先日もやたらと「いちじゅうひゃくせんまん」と呟いていたので、何?と聞くと、それきた!とばかりに、その子が「クーイズ、クイズ」と始めたので、気前よく私が「な〜んのクイズ?」とやると、「一番大きな数はな〜んだ?」というので、さっきからぶつぶつ言っていたから答えはわかっていたんだけど、あえて「じゃあね、100億!」とでまかせに答えてあげたら、「ブッブー、むりょうたいすう」でしたあ〜。

園生活には落語のじゅげむが流行ったり、出会い頭に必ず「やろう!」と誘われてアルプス一万尺をやらされたりすることがあります。早口言葉とか回文、かるた遊びで俳句と出会ったりもします。これぞ七草のように、こうでもしないと覚えられるものじゃないというものがたくさんあって、何度も口にしているうちに、忘れられないものになります。ちはやぶる〜も、遊んでいるうちに覚えてしまったということであって、和歌や短歌を忘れないのは、よくよく考えると面白い脳の記憶方法になっているのかもしれません。

ちなみに、秋の七草は「萩すすき、桔梗かるかや、女郎花、ふじばかま葛、秋の七草」です。

せっせ、せっとと・・

2023/01/06

子どもがせっせ、せっせと何かやっていると感じるとき、そこにささやかな幸せを感じます。昨日5日(木)はお昼ごはんを屋上で食べることになって、トレイに乗せた昼食をこぼさないようにそ〜っと運んでいました。年末からよく晴れて気持ちがいい日が続いています。風もなく明るい日差しが降り注ぐ屋外で食べるごはんが特別なのを知っているようです。ぼくもわたしもと、ぞくぞくと屋上へ集まってきます。やりたい子だけがそうしているのですが、そのきっかけは今月28日(土)に行う予定のお楽しみ会(パート2幼児編)に向けての話し合いから偶然そうなったものです。

「お父さんやお母さんに楽しんでもらうために、何をしようか」

この問いかけかけから、いくつかの活動が生まれています。その一つが「クッキングをして食べてもらう」というのが生まれました。何を作るかの候補が決まり、どこで食べてもらうかを考えていたら、「屋上がいい」という案が出て、いつも二階で食べているダイニングのテーブルを屋上へ運ぶことができるかどうかを検討することになり、それを運んで並べてみたら、「うん、これでいいね」となって、そこから「すぐやってみたい」が始まって・・・せっせ、せっせとが始まりました。

テーブルを拭くタオルや手洗い用のハンドペーパー、必要と気づいたものを「あたし、とってくる!」と、われ先に動き出す子どもたちのはつらつとした顔つきがいい。お代わりにいかなくてもいいように「いっぱいもらっておくの」と、いつもより多めによそってもらったご飯が、日に照らされて輝いていました。

初詣

2023/01/05

1月4日の保育はじめは、初詣でした。保育園から柳原通りに沿って200メートルぐらい、毎日のように遊ばせてもらっている柳森神社へお散歩です。2回お辞儀(二拝)をして、2回パンパンと拍手をして(二拍手)、お願いをしましょう、済んだらもう一度、お辞儀(一拝)をしましょうね・・「〜ね、ディズニーランドに連れてってもらうの」だそうです。

この神社は、室町時代に、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして建てたと言われている有名な神社(方除いなり)です。江戸城から見て、ちょうど東北の方向になります。入り口に大きな狸の石像「おたぬき様」があり、「たぬき」なので、他を抜く、他のものに競り勝つということから、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されています。ですから朝夕にはスーツ姿のビジネスマンらしい人たちが、商売繁盛の祈願と感謝に訪れる方も多い場所となっています。

ちなみにこの神社は江戸三森(この柳森神社と椙森神社と烏森神社)の一つで、観光名所にもなっています。京都の伏見稲荷大社を勧請して創建されたので、主祭神は倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ)です。いなたま、と言えば稲の神様です。古事記では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、日本書紀ではでは倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されているそうです。

【宇迦乃御魂命】

いなたま、だから稲の神様といいましたが、もともと食べ物を「うか」とか「うけ」と呼んでいたらしいく、農耕文化に根ざした神様は、キャンベルによると世界の多くの神話は女神です。日本も「うかのみたま」は、大地から命をうむ女神でした。写真は滋賀県守山市の小津神社が所蔵する「木造宇迦乃御魂命坐像」(重要文化財・平安時代)です。

また白川静によると、神という字の「申」は稲妻の形です。稲光は天にある神の威光のあらわれと考えられたので、金文では「申」をカミの意味に用いていたそうです。ですから神の元の字は「申」でした。ピカリと稲光が天から差してきたとき、それは神様のお告げと感じたのでしょう。そこから神を祀るときに使う祭卓の形である「示」を合わせて「神」の字となったと考えられています。注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)も稲光のイメージから来ているのでしょう。

二つの根本問題について

2023/01/04

さあ、仕事が始まりました。体と精神がいつもの生活に戻っていきます。そして、こうして1日を振り返るたびに、二つの世界の往還の周期の中を歩んでいるという感覚が鮮明になります。もっとあの「精神世界」の中で魂の認識を深めたかったのに、とりあえず、それはもう棚上げして「現実の世界」でやらないといけないことをやるしかないという、山から降りてくる感覚。そしてきっとこの「現実の世界」に没頭していくと、またより大きな自由を感じる精神世界へ戻り、思索を深めたいという衝動に駆られて山を登っていくに違いないのです。

この行ったり来たりのリズムは、明かに精神世界から現実世界へとエネルギーをもたらしており、両方の世界のバランスが崩れると、よくありません。現実の世界はいくら体験や学問を深めていっても、それだけでは解明できないと感じる事実の前で、それ以上の思索方法が見つかりません。感覚的な認識では把握できないような世界です。たとえば宇宙や素粒子の観測データが示すような科学的な仮説(ダークマター、ビッグバンなど)です。脳科学にしても、そういうものだと、受け入れるしかなく、体験からくるものとは違うので自己の納得レベルは浅いものにしかなりません。

一方で、生身の欲求を制御して意志する力を感じる時、あるいは体験から直感的に納得するものは、そこに自由な精神を感じます。しかも、私にとって、その自明性は論理的認識の向こう側からやってくる感じのものです。例えばピタゴラスの定理の証明なら、辺の比率が3:4:5の直角三角形を使って、短い方の2つの辺の二乗の和(9+16)が、最長の辺の二乗(25)に等しいということを、正方形が並んだ方眼紙による展開図を書いてみれば、直感的に照明など入らずに、自明のこととして納得できます。この「明らかさ」と同じ「確かさ」を、自己の体験として求めているのです。数学的証明の確かさです。

ところが数学と違って、生物、とくにその存在が謎である人間について、しかもそのより良いあり方といった事柄については、どういうことがそうなのかを解明していくことは、極めて複雑で困難極まりないものだということがわかります。人間や人生の謎について、自然科学と人文科学、社会科学が総がかりで取り組んでいるわけですが、科学的エビデンスの積み重ねが明らかにしてくれている説明は、それを読んで理解することさえ、難しいことが多いので、それの要約や解説に頼るしかないというもどかしさと不自由さを抱えています。

それでも保育や教育は「現実の世界」として、一時も待ってはくれず、その歩みを止めるわけにはいきません。そしてまた同時に、生きる力の源泉に立ち返りたいという強い衝動があるのは。「現実の世界」に生かすことに中に、その意義を見出したいし、そこに自由を感じたいからなのでしょう、きっと。

 

脳科学を子育てに応用してみると・・・

2023/01/04

正月三が日も昨日で終わり。多くの方は今日から仕事始めですね。子どもたちは保育園へ、親御さんは職場へ、大家族生活の再開です。休日はともかく、平日はこの保育園生活の方が、いろんな意味でバランスが取れて安定することでしょう。子どもは子どもたちの中で、大人もやりがいのある仕事の中で、それぞれの生活の充実が図られていきやすいからです。この年末年始で出合った考え方で、子育てに応用できそうなものがありましたので紹介します。

脳科学が進歩して、私たちの意識や行動がどのように働いているかがわかってきたことから、心理学で「再評価」と呼ばれているものがあるそうです。小児神経科医師でバーバード大学医学部助教授の内田舞さんが紹介していました。その私なりの応用です。

子どもがやってほしくないことをやった時、「どうして私のいうことを聞かないの?」というイライラを解消できるかもしれません。大人側(自分軸)からの見方をちょっと変えて、子どもがやろうとした「こと」や、やってほしい「こと」に着目する課題軸(相手軸)で捉え直してみる。そうすると例えば、遊んで散らかしたおもちゃを片付けなさい、という場面や、先に準備をしなさいという行動切り替えの場面。そんな時に、どうしてパパやママのいうことを聞かない、の方ではなく、どうやったら片付けられるか、どうやったら次の行動へ意識が向くか、という方法を一緒に考えよう、というものです。

ここで思いもよらない発見が始まることがよくあります。子どもは親が自分のことをわかってくれている、気持ちや考えを聞いてくれると感じると安心して、それを出しやすくなります。この子どもが安心感を感じる地点まで、心理的な関係が戻ると、ミラクルな気づきがきっと起きます。(と私の経験から、5割ぐらいかな?)

例えば「ママに先に見て欲しかった」「自分でやってみたかった」「それが嫌だった」とか、何かしらの「そこだったんだ!」が見えてくることが多いのです。確かにそうかもしれません。しかも、大抵は大人側にとっても、その状況を抜きに考えれば、嬉しいこと、良いことだったりすることが多いものかもしれません。でも、その状況ではやっぱり無理!なことが多いのですがね。

それでも、その「気づき」があるのと、ないのとでは、親子の心理的なつながりと安定感は違ってくるのではないでしょうか。つまずきの石は、私たちの生物学的な脳の仕組みにあって、それを知らないうちは、自分のせいじゃないと思うといいのかもしれません。

イライラするのは感情を司る扁桃体と、そこからダイレクトに心拍や呼吸に影響を与える脳幹、そのことで生まれる行動は抑えようがないように出来上がっているからだそうです。怖かったら逃げる、不安だったら避ける、嫌だったら攻撃する・・そういう仕組みのことでしょう。それでうまくいかないことが人間関係なので、そこを制御するのが大脳皮質の働きなんだと。考えてみる、振り返ってみることで、感情と行動の間の適切なコントロールが、我慢してではなく、納得してできるようになっていくのだそうです。考え方次第で子育てもハッピーになるというわけですね。

 

ぼんやりと徒然なお正月の時間

2023/01/02

子どもがそばにいる家族と、私のように乳幼少期の子どもがそばにはいない者と、あるいは親戚や友人が集まってワイワイ過ごしているのとでは、正月の過ごし方も時間の流れ方も全く異なるものでしょう。どんな形であっても、それぞれが自分で過ごしたいように過ごせているなら、それに越したことはないし、またそうではなくても、ひと時の「お正月」という、子どもが好きそうな時間だけに、そちらに譲ってあげているという気分の方もいらっしゃるでしょう。

身近なところに郵便局にお勤めの方がいらして、昨日の元旦は配達で大忙しの日。せっかく正月返上で届けてくださる方に申し訳ないので、よる保育園に一度出かけて年賀状を確認しました。お年賀、ありがとうございます。今日は郵便配達の方にはゆっくりと休んでいただき、本当に一年の中で何もしない、と決めた今日は、キャンベルの神話の世界に没頭させてもらいました。徒然なるままの時間をぼんやりと夢でも見るかのように・・

・・・この神話の世界は、まるで大人のお伽噺のようであり、また真面目にも、全ての現代人にとっての精神の人生案内のようでした。人間はどこからきてどのように生き、どのように帰っていくのかの物語です。そして個人も世界のありようの偉大さに気付かされてくれるという意味で、本当に大きな示唆をもたらしてくれます。ここでその反復は避けます。ちょうどテレビで「詩は感じてなんぼ、音楽は聴いてなんぼ、おせちだって食べてなんぼやろ」って、関西の料理人が言っていて、生きる喜びを言葉で説明しようとして台無しにしちゃうのと同じ。キャンベルも「神話は真実の一歩手前を伝えている」みたいなことを言っています。

そんなうとうととした中で、いろんなことが思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消え・・・保育における物語性とか、人生のPDCAはこれだとか、マイノリティの声をどう聞くかとか。

そして神話を読むことになった発端となった「現代の通過儀礼は何か」ということについては、こんな見方も一つかも、と思ったりもしています。熱狂するスポーツ観戦(駅伝も)や野外ライブ、コミケやEスポーツなど各種イベントとメディア(SNSを含む)が相乗効果をもたらしながら、しかも各方面へ分散されて機能しているように、見えなくもありません。アキバに保育園があるので、アイドルの衣装が本当に偶像のようであり、若者のそれぞれのプチ英雄がメディアの中でそれぞれの仮面をつけて踊っているとでも言っていいのしょうか? 紅白も格闘技も。

ただ運命のような大きな物語にはあまり気づかれることなく? あるいは「天球の音楽」は聞きそびれたまま? いいえ、ちゃんと聴いている人には届いているのでしょう。ただ、それを分かち合うことが難しくなっているところに、広い意味での教育の役割があるのかもしれません。この本の二人の対話が見事にそのモデルを示して誘っているように、です。

新しい1年を迎える祈り

2023/01/01

新しい年を迎えて、それを寿ぐのは、次のような意味があるように感じます。今日は、そのことをお互いに確認し合う日。2023年の始まりの日。私にとっての年の初めは、こんな気分でありたいと感じます。キャンベルの「神話の力」を読みながら・・・

・・よくぞ捨て去って、またこの地点に戻ってこられましたね、そしてまた飛び立つのですね、この地点から。それはそれは、ありがたき事ですね、謹んであなたの帰還と旅たちを祝しましょう、おめでとう。

別に、こんな大袈裟なことをやっているつもりはないのですが、このようなことが人間の精神が持っている原型(アーキタイプ)らしいのです。捨て去ったものとは、生まれ変わった結果、そこに残されたもので、へびが脱皮した皮のようなものです。その隠喩が表すものは、肉体における新陳代謝の遺物のように、精神にもその抜け殻があったり、あるいは魂が彷徨った小道などがあることでしょう。

誰でもそのようなものを抱え込んだり、残したりしているので、それを感謝を持って返納しにそこへ参じて、また頭をもたげて歩み出そうと決意するような一日。それが人生の節目節目にやってくる祭礼なのでしょう。今日は最も多くの人々が朝早くから、あるいはたった今でも、その最中の方もいらっしゃることでしょう。場所は、どこでもいいのでしょう、神社ではなくても、朝日の風景でも、ビル影から昇る上弦の月を眺めた瞬間であっても。そのような象徴に溢れた場所であれば。

この人生におけるサイクルは、あるいは歳がめぐる循環は、人間が宇宙や自然の円環の中で生きていることを表しているように感じます。子どもが大人になっていく過程に、そのような物語を伝えてくれる愛に満ちた人と出会えることを祈りたいと思います。

 

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