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園長の日記

信頼と対話の起点を探しながら

2022/08/16

対話を重ねていくと信頼が生まれるというのは、本当でしょうか? 信頼できる関係があったから対話ができたんじゃないでしょうか? お互いに歩み寄りたいという関係があったから対話が成立していき、信頼も生まれていったんじゃないでしょうか? 誰とでも対話を重ねていくことで関係が良くなるというのは楽観的すぎるし、事実、そうじゃないことが現実には多いんじゃないですか? 対話と信頼の関係は双方向の要因が絡み合っている気がします。

ーーーという反論が聞こえてきそうなのです。その通りです。信頼と対話は、対話と信頼ではなく、最初が信頼なんですね、きっと。そう思います。昨日15日の終戦記念日に、靖国神社の近くを歩いていたら、右翼と左翼の怒鳴り合いが大きな拡声器ごしに聞こえてきました。大の大人が罵り合っていました。この溝は深くて大きい。誰かが仲介して向かい合う関係になりそうな気配は、1ミリも感じることはできません。信じるものが違うと、これほどの敵意と罵倒が剥き出しにされてしまうものなのですね。

しかし、それでも対話から始めるしかないのです、そう思います。世の中は呼べば答えてくれる、応答してくれるという自己の生命(いのち)=生に対する拠り所は、本人が忘れてしまっているわけですが、乳児期の在り方にあります。それがのちの人格や資質に大きく影響しているからです。大人になった本人は社会やイデオロギーや価値観の問題だと思っているかもしれませんが、人を信頼したり共感したりできるかどうかが、対話を成り立たせるためにも不可欠なものだと思います。論理や行動で優越を競うようになる前に、お互いに人間であることへの共感をリスペクトし合うことができるための営みが必要です。

対話のありよう、そこで語られる言葉のありようについて、もっともっと想像力を豊かにしていくことが政治を語る時にも不可欠な気がしてなりません。対話が成立するためには、他者に尊厳性を感じることができる人間性、その精神性の開発が急務だと思います。8月15日に考える、未来の平和のためには、そこを起点に思考を巡らせたいものです。

人ときちんと向かい合うこと

2022/08/15

「じゃあ、あなたは、私のこと、ちゃんと向かい合ってくれたの?」。もし大事な人から、こんな言葉を言われたら、どうしますか? 重い言葉だし、真剣さを求められる言葉ですが、人と関わる上で大切ことであることは間違いないでしょう。

特に好きな人との関係において「向かい合う」という意味は、広くて深いものです。小説や映画には、恋愛関係をめぐって、このような対話が登場する場面がよくあります。相手に正面から向かい合うということは、誠実さや親切さ、真心を持って接するといったこととも響き合うものだと思います。特に愛の証として、心の態度を示す言葉がちゃんと向かい合うと言う表現になることがよくあります。

会話と対話の違いについて考えることが最近増えました。誰かと会えば、挨拶にしても雑談にしても、すぐに会話が始まります。言葉は人との人の間の潤滑油のように使われることも多いのですが、そういうものではなくて、大事している思いや切実なことなどを伝えたい、分かち合いたいというときに紡ぎ出される言葉のやりとりは「対話」と言った方がいいものになるでしょう。

親子で交わす話は会話でしょうか、それとも対話でしょうか。親子の会話?、それとも親子の対話? たぶん、想像ですが、親子の会話といった方がいいことが多いのではないでしょうか。では子どもたちにもそんな違いがあるだろうかと、遊んでいる様子を見ていると、その違いが見えてきました。

たとえば、何かの話し合いが始まる時です。今日15日はこんな場面がありました。運動ゾーンは人数が多いと遊びにくいので、その時間はすいすいタイム(年長さんだけの時間)として人数が制限されていました。

ところが、らんらん(4歳児クラス)のIHさんが「入れて」と頼んでいます。最初は「だめだよ、今はすいすいタイムだから」と拒んでいた年長さんでしたが、どうしてもやりたいと交渉して、ネットではなく下の空間なら遊んでいい、ということになりました。そのやりとりを見ていると、子どもたちは何かを決める時、とても真剣です。だからこそ、時にはケンカにもなるのですが、その「対話」の積み重ねは、集団で生活していると、いろんな場面で発生します。

それをさらに「対話」がじっくりと、できるように場所を設定したものがピーステーブルという空間です。そこでは、その都度、起きる会話にしても対話にしても、その場では深まらない時、相手の意見や考えをきちんと聞き、また自分の意見や思いをしっかり述べていいという体験を保障するための空間です。

「対話」専門ゾーンといってもいいでしょう。このようなちょっと改まった空間を設けることは、大事なことです。そして対話が複数で行われるとき、輪になって行えば「サークル対話で」すし、大人なら座談会やシンポジウムということでしょうか。その時の空間のデザイン次第で、引き出される対話の内容も質も方向性も変わってくるように思えます。

生活の中に対話のある生活を意識すると、それはちゃんと向かい合う関係を作り出し、大切にする心も引き出されてくるのかもしれません。向かい合う対話を積み重ねて初めて、信頼というものが芽生えると私は思っています。そうなので、私は園長になった年から、先生たちには必ず「信頼と対話」ということをモットーに掲げ、大切にしています。会話ではなくて対話のある生活が、生きていく情熱も生み出していくような気がしますが、いかがでしょうか?

延期した納涼会は9月10日で調整

2022/08/15

延期となった7月の納涼会は9月10日(土)に開きたいーー今日15日(月)に、そのお知らせをアプリで発信させてもらいました。時間帯は同じで、同日に予定していた「一日保育士デイ」は順延します。この日に都合が合わない方もいらっしゃると思いますので、その日の参加ができなくても、平日の夕方などのお迎え時に同じ体験ができるように工夫したいと考えています。何度も勤務調整をお願いすることになり、申し訳ありません。

第1グループ(9:30~10:00)

第2グループ(10:10~10:40)

第3グループ(10:50~11:20)

第4グループ(11:30~12:00)

第5グループ(12:10~12:40)

 

安全でおいしい食を求めて

2022/08/13

子どもたちにより「安全」で「美味しい」食べものを提供しようと、藤森平司省我会理事長は、園長を努めている新宿せいが子ども園(新宿区・高田馬場)で、秋から保護者向けの弁当や冷凍食品の販売を始めます。今日13日は午前中にそのお披露目会が開かれたので、海老原商店の海老原さんと記念イベントに参加してきました。弁当や冷凍食品は、無農薬で徹底した有機にこだわった野菜や肉などを使ったもの。調理はイタリアレストラン「エン」(新宿・高田馬場)で作られたものになります。ネットで注文しておけば、保育園のお迎えの時にピックアックして持ち帰ることができます。

日本の食材の安全性については、農薬や保存料などの添加物、遺伝子組み換えや、牛や鶏が食べている飼料、さらに動物福祉といった観点から見たときに、日本の基準は国際的にみて「ゆるく」て、不安視されているといっていいでしょう。また有機と書いてあっても、そのレベルはまちまちです。農薬を使っていても、有機肥料を使えば「有機」と名乗ることができるので、そこに線引きの難しさがつきまとうといった問題もあるそうです。

そこで、その分野の専門家たちから評価を得ている食材を給食で使いたい。私はずっとそう思っていたのですが、一定の量を献立スケジュールに合わせて納品してくれる卸ルートはなかなかありません。これからの食の質を考えると、学校給食で実現できるような、農家や畜産家と協働できる仕組みがどうしても必要です。新宿せいがでも、そこはまだできませんが、そこまで辿り着きたいと考えています。

そこで、一時保育室のある新宿せいがでは、その場所に飲食のできるカウンタースペースを設け、送り迎えの際に注文しておいた惣菜サラダや肉料理、あるいは調理済み冷凍食品などを受け取ることができるようにしました。決済はネットで済ませます。いま冷凍技術の進歩はめざましく、食材の良さを損なわずに保存できるようになってきました。地下鉄などの出入り口にも、よく見かけるようになりました。イタリアレストラン「エン」では、最新の冷凍機材を導入してすでに販売を始めています。それをこの場所に運んできます。園にも近々冷凍庫を導入します。

この試みはぜひ成功させ、千代田でも給食での実施、家庭での入手、レシピ提供、夜ご飯の時短、安全な食、フードロスの軽減などに協力していきたいと思います。海老原商店とのコラボで何かができないか、その第一歩の準備を始めます。関心のある方はぜひ、お声かけください。新宿せいが見学会も計画したいと思います。

 

子ども同士は「つっかえ棒」同士

2022/08/12

明日やってくる台風に備えるために、屋上のネットをたたみました。その時、ついでに雑草を抜いていたら、朝顔のツルがクルクルと巻き付いていたので、抜かずにそのままにしてあげたのですが、この朝顔の「つっかえ棒」に相当するものが、保育環境と同じだな、と思います。朝顔のつるは、くるくると回りながら、周囲に捕まるものがないかと探し、それを見つけるとしがみつきます。人間が育つときにも、周囲に人を探し、身近な大人を相手にしながら育っていきます。でも保育園での子どものありようをずっと見てきた立場からすると、どうもその「つっかえ棒」に相当する周囲の人は、大人だけはなくて、「子ども」もそうじゃないかと思えます。

今日12日も、保育では「人との関わり」を大切にする、という話の続きです。7月中旬から8月初旬にかけて、保育室の環境を変えたことから、いろんなことに気づくのですが、今日感じたのは「しつけ」も子どもがやっている、ということです。しつけというのは、大人がやるものだと多くの大人は思っているのですが、そうじゃないかもしれません。子ども自身が「人と関わる」ための資質をもって生まれてくるわけですから、子どもたちはすでに育ちの方向性を持っています。

私たち保育士は「しつけ」という言葉を聞くと、漢字で書く「躾」というイメージと、裁縫でいう仕付け糸の「仕付け」という意味の二つを学ぶ機会があります。前者が方向ずけに「美」というゴールイメージを持たせていること、後者が仕付け糸は緩やかに「あそび」を持たせて縫うガイドラインのような働きをしながら、その方に向かって本縫いがしやすいようにするためのもの、という意味が含まれます。どちらがどうかという話はここではしませんが、いずれにしても社会が期待する姿になってもらうための方向づけが意味されています。

ところが、保育園で子どもが過ごしている時間のうち、その多くは子ども同士で遊んでいるのですが、そこでは大人が指し示す「しつけ」の方向性は、それほど目立ちません。まるで朝顔の「つっかえ棒」のように、環境そのものが「しつけ」の役割になっていたり、子どもが子どもの「つっかえ棒」だったり、しています。そこではもやは「遊び」だけではなくて「生きている時間そのもの」という状態です。

写真は3歳児わいわい組、4歳児らんらん組の子どもたち4人が、神経衰弱のカードゲーム「メモリー」で遊んでいるところです。「(次は)Uちゃんだよ」と順番を教えたり、これだよと人に教えようとする子に「言っちゃダメ」と言ったり、ルールのある遊びをしていると、そのルールの伝え合いが「つっかえ棒」であったり「しつけ」のガイドラインであったりしています。そこには人と関わるための言葉のやりとり、相手の意図の理解や自分の意見の主張、公正さや公平な感覚なども学んでいます。

そのような時間の中に分け入ってみれば、子どもが経験していることは、とても複雑な要素が絡み合ってできていることがわかります。ただ、その絡まり具合は、もつれてしまってはいません。大抵は大人が間に入って解くこともあるのですが、子ども同士の方が解き方も上手になっていきます。裁縫の糸が絡まるのは、誰から強く引っ張ったりしてしまうからです。もつれた糸の塊を解くのは大変です。セイタカアワダチソウをつっかえ棒にして伸びていく朝顔のツルを外すのは無理です。すでに成長の一部になっています。

そう考えると、子どもたちの成長過程から、子ども同士の関係を取り除くことは、子どもたちの存在の在り方そのものを壊すことに近いのかもしれません。仕付け糸は本縫いの後で抜かれるので、消えてしまいます。確かに成長してしまうと無くなるのです。それはまるで蝉の抜け殻のようです。でも、つっかえ棒は花が咲き実が地面に落ちて枯れるまで、つっかえ棒のままです。子どもがお互いを必要としながら、自らを支え合っていく関係、その関係が育っていく姿に成長が見られるから面白いと思います。

赤の他人が必要な他者となるように

2022/08/11

私たちは子どもを「人との関わり」という視点で捉えることを大切にしています。人との関わりの関係の質が、その子の持って生まれた特性がうまく発揮できるようになったり、あるいは体験によって身につけていくさまざまな知識やスキルの獲得などにも影響します。今週は火曜日、水曜日と二日続けて入園前の見学案内を合わせて4家庭の方にしたのですが、子どもたちは見学にきた「お客さん」との出会いも楽しそうなのです。

しかも乳児と幼児では「人との関わり」にはっきりと違いが見られます。乳児は見学者が帰るときに「バイバイ」と手を振ってくれます。出会いの場面では、私と見学者の顔を交互に見比べて、「この人、誰だろう?」という顔をしています。近すぎるとドキドキさせてしまうので、こどもたちをあまり見つめないようにしながら。(最近はそれもあまり気にする必要がなくなってきた気がします、知らない人が来てもあまり不安な表情は見せなくなってきました。これも関係の育ち、の一つですね)

この乳児の人との距離感に比べて、幼児になってくると、「わあ、赤ちゃん可愛いい!」と頭を撫でてあげようとする子どもたちがいます。人懐っこい子どもの特性が見られます。(コロナ感染症の対策をしているので、見学者の赤ちゃんには触れないようにするのですが、)子どもたちの赤ちゃんへの関心の高さ、優しい気持ちを表す姿をみると、こんな体験も日常生活の中に、もっと自然に、たくさん必要だと感じます。そんな関わりが見学者の方も嬉しいようです。皆さんは、どうだったでしょう? 園生活が始まってしまうと、それも当たり前のようになっているかもしれませんが。

今日は模様替えをして、観葉植物が欲しくなったので、いくつか購入しました。室内に緑があると人間は気持ちがなぜか落ち着きます。今日主任が言っていました。「昔からやっていた自然なことや、人が美しいと思えることには、きっと意味があって、それを説明できなくてもいいから、やっていきたい」と。詳しい解説は学者や研究者に任せましょう。私たちは生活者。直感を大切にして、自分を信じて、子どもを信じて、赤の他人が必要な他者に変わっていく生活を作り出していきましょう。

 

 

 

赤ちゃんの驚くべき能力とは

2022/08/10

新しい環境になって、「どんな風に過ごしているのかなあ」と1階の乳児たち(0歳児と1歳児のクラス)の様子を見ていたら、運動スペースや絵本、ままごとなどで遊んでいた子どもたちが集まってきます。部屋の模様替えによって、調乳室の前のエリアからベランダ側へ移動した「食事スペース」で、朝のお集まりが始まろうとしていました。

先生が「何歌おうかなあ」とポロロロ〜ンとウクレレの音が響き、子どもたちの気持ちも、集まってきました。その時の一場面がこの写真です。先生の仕草を真似しています。手も体も体も、そして見えないけれども心も、子どもたちの姿がここに映し出されています。ここでちょっと一緒に考えてみてください。この子どもたちの姿から、何を思いつきますか? そして「なぜ」そのような姿になるのか、何か理由を説明できますか?

 

さて、そこでちょっとこの穴埋め問題の文章を考えてみてください。これはある大学で私が作った試験問題の文章です。みなさんだったら、この空欄にどんな言葉を入れますか?授業は保育内容演習「言葉」です。

「なにもできないように見える赤ちゃんは(  1  )のために準備されたと考えられる驚くほどの能力をもって生まれてきます。その中でもとりわけ重視したいのは(  2  )です。これらの能力は、親への愛情の形成やことばの獲得の基盤になります」

用意された選択肢から、ふさわしい語彙を選んでもらうのですが、1の正解は「人との関わり」で、2の正解は「人に対する関心」です。学生たちは全員合格でした。試験問題の文章は教科書の文章の要約なのですが、このことは、保育を始めるにあたって、あるいは教育を考えるにあたって、とても重要な人間の特性を語っているのです。でも、どうでしょうか、なんだか当たり前すぎて、気づきにくいことかもしれません。

でも、よくよく考えてみると、このことは当たり前でもなんでもなくて、不思議なことで、実に「驚くべきこと」だと思いませんか?人間は「人との関わり」なしに生きていくことはできず、その前提となっているのは「人に対する関心」が強いということなんだということ。あくまでも人と関わることが、その子らしさの基本の「ど真ん中」に「ど〜ん」と根付いているものであって、そこを大事にしていかないと、もったいない、ということです。

このことは、この写真の場面に限らず、いろんなところで感じられることです。お友達のやっていること、先生のやっていること、大好きなお家の人がやっていること、そういうことが気になって、僕も私も・・・おんなじようにしたい、なりたい・・・。そんな様子が、クラスブログには微笑ましく、幾つも点描されていますね。それが、とってしまったり押してしまったりにもなってしまうのかもしれません。

この写真の朝のお集まりの場面にしても、集まれている、先生の方を向いている、まとまっている・・・という評価がされがちなのですが、それは二の次、三の次。もっと大事なものが、ちゃんと前提として大切にされているかどうか、そこに保育のプロセスの質が脈打っているのです。

遊びの姿から聞こえてくる内臓の声

2022/08/09

「なんだか体の調子が悪いな」と感じるとき、私たちは休養します。からだを休めて、養います。それはまるで、自分で良くなっていくことを見守っているようなものです。「あれ?おかしいな」という、そのサインはどこから来ていることが多いかというと、ほとんどが<臓器>からです。その「あれ?」という、そのサインが全て判読できれはいいのですが、それがなかなか難しい。サインの判読は、脳でやるわけですが、そのサインが脳にまで届かないことがあります。

からだの変調は、いろんな形であらわれるとわかってはいても、そのメッセージが自分では、なかなか意識化されない。無意識の方までは届いていても、ぼんやりとしか意識できない。とくに新しい脳、意識を司どる大脳皮質にまで、そのサインが届くかというと、そうでもないことが多いから、ことは厄介なんでしょう。三木成夫(みき・しげお)さんの名著『内蔵とこころ』を読んで、こんな考えをもつようになりました。

熱が出たり、発疹が現れたり、いつもと違って元気がなかったり、便の状態が良くなかったり、からだのことを身体が表してくれると、まだサインは読みやすいのです。医学の知見を生かすことができます。何かの病気ではないかという診断と治療へとつなぐことができるからです。しかし、ソワソワしている、寝つきが悪い、なんとなくだらりとしている、イライラしがち、ベタベタとくっついてくる・・・など、いつもとは違うけど、まあ時々あるかな?ぐらいでは、病気かもとは思えません。でも何かちょっと心配・・こんなことって、よくあることですね。

そこで大事なのは、そのメッセージに耳を傾けること、あるいは経験から「きっとこうじゃないか」と推測して、効果があると言われていることをやってみること。そんな試みが保育の中には含まれます。子どもたちが求めていることを言葉で言ってもらっても、そこは言葉になりません。でも、新しいレイアウトになった室内環境で、遊んでいる子どもの様子を見ていると、あることに気づきました。

遊びに熱中していることは、何かをそこで使い込んでいます。ある力を発揮しています。その力が引き出されるのは、ものや人との関係の中で引き出されてくることが多くて、それが「臓器」の声になっているかもしれないということです。今日もあったのですが、例えば全身運動をしたいという「上腕筋」の声は、見学者に「やってあげようか」とネット上りを見せたがる子どもの姿となって現れたり、お友達が作ったのを見て甘い美味しいものを欲した女の子の「胃」は、折り紙でいちごミクルシェーキを作りたいと言って、折り紙をカップのふちの丸に合わせることを求めてきたのかもしれません。ちょっと、アクロバティックなつながりの見立てかもしれませんが、案外、私たちの行動を裏で密かに動かしているものは内蔵なんじゃないか、という発想が私の妄想を活性化させているのです。

このことが、もっとよくわかるのは、今日のわらすのブログ「心と身体」で紹介されている、身体感覚が求める色遊びや感触遊びでしょう。その遊びへの新鮮さや熱中の中に、担任は子どもの接触感覚の強い欲求を読み取っているようです。感覚が求めているものは、内臓の声を代弁している気がしてきます。子どもは、大人よりも、自分の臓器が発しているサインをダイレクトに体全体で表しているんじゃないか、そんなことを感じた1日でした。

乳児の部屋の模様替え

2022/08/08

「わあ、迷路みたいだ、ほら、楽しそうだよ」。

こんな親子の会話が聞こえてきた今日8日の月曜日の朝。1階のちっち(0歳児クラス)ぐんぐん(1歳児クラス)の部屋のレイアウトが大きく変わり、今日久しぶりに登園した子たちは、ちょっとびっくりした様子でした。先生たちも「どうかなあ、楽しく過ごせるかなあ」と、子どもたちの様子をよく見て過ごしました。3階のわいらんすい(3〜5歳児クラス)の部屋は、7月中旬に一足早く、ゾーンを大きく変更しました。今回、乳児の方も開園以来のゾーン配置から大幅にエリアの配置換えをしたのには、いろんな理由がありました。

最大の理由は、運動活動エリアの拡充です。室内で体を動かす場所を最初からもう少し増やしたい、という目的が一つ。それから絵本やままごと、くつろぎなど遊びや活動のゾーンの種類を増やしたいということもあります。さらに入り口から子どもの受け渡しの動線をシンプルにしたいという理由もありました。やってみて、かなりいい線いっている、というのが、この1週間の手応えです。

一般に環境を整えるときの視点は、子どもにあった過ごし方ができるようにすることです。これは発達にあった環境への再構成、と言ってもいいでしょう。子どもは刻々と成長し、変化します。それによって環境も変えないと発達に合わなくなります。それはまるで体は大きくなったのに、小さな服を着続けるようなことになってしまいます。これまでのレイアウトが発達に合っていなかったということではなく、コロナ禍に代表されるように気候や自然環境が変化し、これまで以上に戸外に出にくい日が増えるかもしれず、また少しでも室内で体を動かすことがしやすいように、ということが求められるようになってきたからです。

 

私たち大人は行動していると言えるのか?

2022/08/07

小学6年生の二人が、一生懸命、長い時間をかけて考えて紡ぎ出した言葉に、私たちは学ぶことができます。

「自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと。それは強さとは言えません。本当の強さとは違いを認め、相手を受け入れること。思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすることです。本当の強さを持てば、戦争は起こらないはずです。・・・今度は私たちの番です。被爆者の声を聞き、思いを想像すること。その思いをたくさんの人に伝えること。そして自分も周りの人も大切にし、お互いに助け合うこと。世界中の人の目に、平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは行動していくことを誓います」

昨日6日の広島平和記念式典から。

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