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園長の日記

子ども主体の保育の語りへと変化

2022/08/27

何かに気づいたり、分かったりしたあと、「じゃあ、・・・」の部分が自ら動き出すかどうか。自ら動き出したものをどう大切にしてあげたらいいのか。そのことが保育のスタートと言っていいでしょう。その部分の「つながり具合」に気を配る保育へ、だんだん変わってきたのが、この数10年の保育の変化だった気がします。子どもの「心の動き」に着目することを第一に考えて、保育のねらいや内容を変化させていくこと。それがますます強まっていると感じます。それは、とてもいいことです。

とくに最近の保育界で目立つのは、子どもの主体性を軸にした保育の語りにシフトしてきている、ということでしょう。保育を語るとき、どうしても主語が保育者、だったのですが、このところ、子どもを主語にした語り口に変わってきたな、という印象を持ちます。たとえば主体性をエイジェンシー(社会形成の主体者)という概念で捉え直すことも、また映画「こどもかいぎ」でも注目されたように、保育者がファシリテーター(司会者のように議論を促進する役割)としての専門性に移ってきているように、保育者目線の理論から子ども目線の保育理論が再構築されてきているのです。

その最も大きな変化は、「保育のプロセス」を「学びのプロセス」に置き換えようという動きです。保育のプロセスというのは、保育をするのが保育者ですから、主語が保育者でした。保育者は子どもを理解する、保育者は子どもがどう変化するか予想する、保育者はその予想を踏まえて環境を再構成する、保育者はその結果を省察する・・・PDCAサイクルを回すのは大人側、保育者側の語りです。

ところが、子どもの参画を促し、子どもの意思決定を尊重し、大人と同じように生活を作り上げる主体者であると子どもとの関係を位置づけ直していくなら、保育の語りは、ある意味で180度変わってくるかもしれません。子どもが何に興味を持ち、何に心動かされているのか、語ってもらい、教えてもらい、赤ちゃんなら私たちが想像し、そこから何をすることがサポートになるのか(よく聞いてあげることや、受け止めてあげること)を、よくよく考えなければなりません。その上で、子ども一人ひとりの歩みを支えていく、したがっていること望んでいることに「つないでいく」ことの方法を一緒に考えていく。そんな保育の営みに変化させていく必要があるのです。

そこで、子どもの興味や関心を捉えて書き記し、そこから「じゃあ、こんなことにつながっていくんじゃない?」ということを予想して、記録を取っていくような「保育ウェヴ」という手法が、近年、急速に広がってきたのです。この手法の大きな特徴は、保育者が子ども理解に基づいて、予想される子どもの姿や環境構成の案を「文章で書き記す」というフォーマットではなく、その趣旨は同じなのですが、蜘蛛の巣状にたくさんの枝分かれを書き込めるようなフォーマットに変わります。子ども主体の「学びの展開」のプロセスは、「個別最適性」を追求することになるので、幼児でも個別指導計画が期待されていく時に、一人ずつに従来のような書式の書類を用意することは無理なのです。

子どもの持っている可能性を、私たちがどのように気づき、耳を傾けていく保育、子どもが何を従っているのかの「子ども理解」が、子どもの学びのプロセスを阻害してしまわないようにする保育への転換、と言ってもいいでしょう。子どもがどうしてそんなことをするのかわからない、何をしようとしているのか見えないという問題は「大人側」の課題であって、大人側がわからない、見えないから、と言って「子どもの学び」のプロセスを止めてはならないのです。

一昔前は(今でもそうかもしれませんが)大人が子どもに良かれと思ってさせる活動の羅列が保育の内容だった時代があります。厳密にいうと1965年(昭和40年)に初めてできた「保育所保育指針」から、1990年(平成2年)までの、なんと25年間もの間、大人が子どもにさせる活動主義保育の時代があったのです。第1回の大改定以降、子ども主体の保育に変わったはずなのですが、果たしてどうでしょうか。そこからまた既に30年以上経っているというのに。

あれ!?と思う瞬間から次の一歩へ

2022/08/26

「あれ、固まった!」。

3階のパズルゾーンにある遊具を、じっと見つめている年長のTY君が、突然そういいました。遊具とは円柱状の透明な容器の中に、粘性の高いドロリとした液体が入っているもので、筒は3層からなり、穴を通って下へゆっくりと落ちてくる仕掛けになっています。例えると、砂時計の砂の代わりに、スライムのような硬めの液体が入っていると思っていただくといいでしょうか。筒をひっくり返すと、数分かかかって、下にゆっくりと流れ落ちてきます。

その動きが面白いので、子どもたちは集中してその動きを見つめています。私もそれが好きで、時々、頭の中を空っぽにしたくて、じっと眺めてリフレッシュツールとして使うことがあります。すると、いろいろなことに気づきます。中のドロリとした液体は、落ちてくる時に、最初は太い線になって穴から落ちてきます。その先端が底につくと、螺旋を描くように、細いロープ状になってクネクネと回りながら、ちょうどソフトクリームの輪ができるように、積み重なっていきます。

その回りかたは、やる度に右回りだったり左回りだったりします。そしてロープ状になった液体は、だんだん細くなります。なぜ細くなるのというと、下の部屋の空気が上の部屋へ押し出されるので、そのため液体が抜ける穴が小さくなるのです。その時、まるで細い液体が落ちるが止まったように見える瞬間があり、その時、子どもによっては「固まった!」「止まった!」ように見えるのです。

その気づきは、まだ不思議だな、という思いにはなっていなくて、「あ、止まった!」という事実としての気づきです。でも、どうして止まるんだろう?と思うのでしょう、見ていると、大抵の子どもは、瓶を手にして、斜めに揺らしたりするのです。すると落ちている細い液体は、向きを変えて落ちていることを教えてくれます。「あ、動いた」と言って、また元のように置いたり、ひっくり返してみたりしています。

実は、この呟きや操作をしている時、STEM体験が起きているのです。つまり、あれ!?という気づきがあって、なんでだろう?という興味から、対象をよく見ようとして持ってジッと見つてみたり、揺らしてみたりすることが、子どもがおこなっている、いわば「仮説検証実験」とでも言えることになっているのです。どうしてだろう? そう思って手にしてみる。あれ、なんだろうと思って近寄ってみる。これは、科学的思考の芽生えなのです。

「そんなことなら、子どもはしょっちゅうやっているよ」と思われるかもしれません。大人が持っている物に興味をもって「それなあに?」と、いろいろ手にして触ってみたり、真似していじってみたり、分解してみたり。時々、大人にとっては困ったことになることもあるでしょう。このような興味から引き起こされる行動に対して、昔から私たちは「こどもは小さな科学者である」という表現で、大切にしてきました。

中でも、「こうかな? ああかな?」と、ある現象に対して試してみたり、一歩進んで「どうして」そうなるのか仮説を立てて試してみたりするようになると、それはもう立派な科学的思考と言っていいものです。赤と青を混ぜたらこんな色になったから「じゃあ、これに緑を混ぜたらどうなるかな」と考えたりすること。ここに科学的な営みと同じ思考が動き出していると言えるでしょう。

この遊具が面白いのは、大人にとっても「あれ?」と思うような動きをすることです。液体が下に落ちてくると、その体積分の空気が、風船のような形をして1つ上の部屋に移動しようとするのですが、どうしてその大きさになるのかは、気圧と粘性度の関係で変わります。子どもたちはまだ、そこに不思議さを感じることができません。流体力学の知識が加わると、同じ現象を見ても、見えてくる物の奥深さが変わってくるのです。

積み木でできた「ブルジュ・ハリファ」の塔

2022/08/25

子どもにとっての「科学的思考」とはどんなものなのか? 

いま、それがわかる場面を、子どもたちの遊びの中から拾い出しています。先日は、年長の子どもが積み木で高い塔を作っていました。その塔の先端が天井についているので、いつ倒れてくるか心配なほど高いものだったので、それが出来上がるまでに、子どもの中で何が起きていたのかを知りたくて、作った本人たちに説明を求めました。すると、やっぱり、聞いてみるものですね、見ただけでは分からない、そこ子が「どう思ってそうしたか」、内面の心の動きが見えてきます。

「ここが八角形、ここが七角形、ここが六角形、ここが五角形、ここが四角形、ここが三角形、ここが二角形、ここが一角形・・」

塔の積み木は同じ大きさの直方体が横に並んで輪になっていて、そこに少しずれて輪が重なっています。下から上にいくに従って、数が減っていくように作られているのです。彼は、それをこのように、説明してくれたのです。一段、一段、「ここは◯角形」だと両手で輪の形を作って教えてくれました。

これまでの積み木遊びの中で、高く積むにはどうしたらいいのかを発見し、下の方を大きい輪にして上にいくに従って輪を徐々に小さくしていくと安定することに気づいているのでしょう。積み木の輪は、羊羹のような直方体を並べて輪にしているので、隣り合う積み木と積み木の間には少し隙間ができます。その隙間のところに、次の段の積み木は、ちょうど跨ぐように載せてあります。そうすることで、輪の積み重なりは安定します。その輪が上にいくとだんだん小さい輪になっていくのです。

この塔はモデルがあるそうで、「こっちはドバイのブルジュ・ハリファ」だと言います。そのドバイの塔は、現在、世界一高い塔なのです。ここに、高く積むということを目指している彼の動機が読み取れます。そういえば、この塔を感心して私が眺めていた時に、最初に彼が言ったことは「園長先生と(背が)どっちが高いかな」だったのです。高さの追究が倒れにくい積み木の積み方の習熟を促した、と言えるのかもしれません。探究心です。

科学的な思考とは、これまでの数々の積み木遊びの中で、「こうしたらこうなる」という規則を抽出してきたのでしょう。これは帰納的な論理性を表します。積み木が組み合わさっていった時の構造の特性を、体験の中から導き出しているのです。直方体や角度などの概念を言葉で表すことで確かな知識を獲得することになっていくのですが、いまは具体的な「もの」の操作を通じて、暗黙の知識を使いこなしながら、物体の法則性を発見していることになります。

この気づきは確かに獲得されており、自然科学の領域の中では、自然科学、特に物理的な法則を学んでいることになります。学問の領域では、数学の幾何学、職業の分類では建築家の基礎、良さの要素では無矛盾性や関係性、効率性、美のセンスが働いていることになります。積み木遊び、侮るべからず、です。

 

 

 

GTサミットでの「協働的学び」

2022/08/24

話は昨日の続きです。GTサミットで取り上げたれたテーマ、これからの教育や保育のビジョンについてです。

政府が目指そうとしている「学び」の特徴を一言で表すと、もっともわかりやすいのは「個別最適な学び」と「協働的学び」の実現、ということなのですが、実際にやろうとするととても難しい。その障害となるものは、先生の数だったり、教科カリキュラムの枠だったりします。学校の現実をちょっとでもご存知の方なら、児童生徒の興味や関心に合わせて、あるいは子どもの発達に合わせて、個別に対応することなんて、いろいろなことをクリアしないと難しい、ということはすぐにわかります。

それでも政府がやろうと旗を振るのなら、それに見合った環境を用意していくことが当然、必要になります。この環境を準備することは、意識の問題と条件整備の問題が両方ありますが、条件整備が整わないことを言い訳にして「できない」ことだけを主張しても、子どもたちの現状は少しも変わらないことになってしまうので、できる範囲で少しでも実践に移したいものです。

その実践の積み重ねの中で、工夫すればできそうだというものを、空間、物、人の環境に整理して、順番に実践のアプローチを作り上げたものが、保育関係者の間から「藤森メソッド」「見守るアプローチ」と呼ばれるようになってきた方法になります。当園が実際に行っていることがこれです。この実践を集めて報告し合う全国大会が、来年1月下旬ごろに鹿児島で開くことが決まりました。

GTサミットの二日目今週の23日(火)でも、その実践の具体的な事例が、全国の仲間から「リレー討論」という形で報告されました。全国大会の会場となる鹿児島からの報告、藤森メソッドの海外での広がりの報告を始め、京都や熊本、茨城や東京から、各地の状況や保育実践の一端が紹介されました。コロナ禍での保育、安全な食育の試み、保育理念の再構築、STEM保育なども報告されました。私たち保育者にとっての「協働的学び」の時間です。

このような実践を確認しあっていくと、私たちギビングツリーの仲間が大切にしていることが浮かび上がってきます。それは、園運営の率先性です。子どもたち、保護者の皆さん、地域のために、やれることは実践してみよう!という果敢なチャレンジ精神に溢れていることです。この体験はリアルな出会いが持つパワーであることを確認できました。ズームやオンラインだけでは、どうしても限界があります。直接会って話し合うこと。対話の中で信頼と意欲を確認し合うこと。大事なことだな、と思いました。

「個別最適な学び」としての生活と遊び

2022/08/23

GTサミットで話題になったテーマを少し紹介します。当園が実践してきている内容と関連するものを取り上げます。

最近の政府のいろいろな審議会答申は、不確かな将来に備えるための「学び」がどう変わるべきかを、かなり大胆に描いています。今年6月に出された内閣府の「審議のまとめ」は、かなりドラスティックです。それらのキーワードの一つは、中教審が昨年答申した「個別最適な学びと協働的学び」があります。小学校以上の学校での勉強や家庭学習、あるいは地域活動でも、これからこの言葉で表される「学び」が実現できるようにしましょう!というわけです。

とりわけ、学校に限らず、全方位をカバーする内閣府は学校に限らず、学校でも家庭でも地域でも、どこにいても、その子どもにふさわしい学びが成立するようにしましょう、という方針を、明確に打ち出してきました。

このことは、当園が開園したときに、敷地が狭くて園庭はない保育園だけれども、生活を遊びの場を地域にも広げてしまおう、と考えてきたことと、かなり重なってきたなあ、と感じます。

 

そのことは、<学びや勉強>というところを<子育てや保育>に置き換えてみると、ますますそう思えてきます。子育ては家庭だけで行うものではなく、保育園も子どもにとってのホームになるようにしましょう、と考えてきたこととも一致します。

さらに、子育ては親だけでできるものではなく、いろんな人が子どもに関わることで子どもたちが良く育つというアロ・ペアレンティングという考え方とも調和します。いま取り組んでいることを、政府が「その方向でいいんだよ、もっとやってください」と、後押ししてくれるといいのになあ、と期待してしまいます。

このように、子どもの学力も、学校だけではなく家庭も地域もつながり合って、身につけていけるようにしましょうという時代になりました。それは「塾やお稽古」にとっても、追い風になるのかもしれません。

学校の学びは主に「教科カリキュラム」によって、構造化されているので、おおむね何年生の何学期で何を学ぶかという順序が決まっています。しかし就学前の保育園や幼稚園は、子どもの生活や遊びの中で学んでいく「経験カリキュラム」なので、その子の発達や興味関心、学び方の適性などに合わせて「個別最適な学び」を追求することができます。

さらに、当園のような自発的な生活と遊びは、複数の子どもたちによる話し合いと意思決定につながります。自分の考えや思いを言葉で表現していくためにも、いろんな機会に会話や対話が生まれるような生活を意識しています。

その一つが朝の子どもたちによる「ゾーン決め」「お散歩先の話し合い」「セミバイキングでのいっぱい・ちょっと」「ピーステーブル」「お手伝い保育」・・・などいろいろな場面での「選択と参画」となって現れます。映画「こどもかいぎ」でも、そのようなシーンがいくつも紹介されています。

GTサミット開催(東京・高田馬場)

2022/08/22

当法人(社会福祉法人省我会)の保育は、理事長で新宿せいが子ども園の藤森平司園長がつくり上げたものです。八王子市の旧市街地・大和田町に1977年に「省我保育園」を開園した時から現在に至るまで、振り返ってみると、一貫して変わらない保育観があります。それは「子ども同士の共同性の重視」です。

私が当法人に就職したのは1997年ですが、保育をしながら感じてきたのは、大人と子どもが向かい合う関係よりも、子どもが子どもと関わる関係、子ども集団が刺激しあい育ち合う関係を大切にしてきたことです。それは少子社会が深刻化していくにつれて、ますます大切になっていく、当法人の保育の特徴でもありました。子ども同士がいかに触れ合い、学びあい、育ち合うか? このテーマは大人が個別に育てることよりも、はるかに人間性の発露に不可欠な視点だといえるでしょう。

このことは、中教審の最新の答申や、内閣府が打ち出しているキャッチフレーズに置き換えると、「協働的学び」という視点に近いのですが、ただ、大きな違いがあります。まず第一に、この「協働的学び」は文部科学省の中央教育審議会で作られた言葉であることからわかるように、小学校以降の学習の中で期待されているものです。まさか赤ちゃんの頃から必要なこととは、思われていないでしょう。しかし、私たちの法人の保育観では、それとは異なり、人は赤ちゃんの頃から子ども同士の関わりの中でこそ、人間の持っている可能性が引き出される、と考えています。

この考え方は、やっと世界が提唱するようになってきたものです。例えば経済協力開発機構(OECD)が提唱している研究報告書は「スターティング・ストロング」、つまり人生の始まりである乳幼児期にこそ、力強い政策や財源の投資をするべきだ、という趣旨です。しかし、日本ではなかなか進んでいません。先進的な世界の取り組みと比較すると、まだまだ心許ない印象を免れません。

その点、子ども同士の関わりを重視した実践を推し進めている保育団体が、藤森理事長が代表を務めている「保育環境研究所ギビングツリー」です。その会員が全国から集う会合「GTサミット」が今日22日(月)から二日間、東京・高田馬場で開催されます。今とこれからの時代に必要な保育とはどんなものなのか、学びます。今日は藤森代表の基調講演がありましたが、子ども同士の関係を基盤とした保育のかたちを、いかにしてこれからの時代にあったものに作り変えていくか、その方法を確認しあう時間になりました。

あたらしい保育イニシアチブ2022「対話をはじめよう」

2022/08/21

これからの保育を語り合うシンポジウムが21日(日)東大で開かれ、1時間のメイン会議に参加してきました。テーマは「子どもたちと未来をつくる〜映画「こどもかいぎ」公開の寄せて〜」で、登壇者は映画監督の豪田トモさん、玉川大学の大豆生田啓友さん、みんなのみらいをつくる保育園東雲の成川宏子園長先生、モデレーターは認定NPO法人フローレスの駒崎弘樹さん。私の話は「こどもかいぎ」を実践したきっかけ、印象に残っているエピソード、子どもや先生が感じたメリット、そして大人も子どものように本音で自由に対話するにはどうしたらいいか、についてです。

今日までに豪田監督は映画をみた保育関係者や研究者、クリエーター、起業家、アーチストなどと対話を重ねてきており、たくさんの動画が配信されてきました。内閣府や厚労省も「こどもかいぎ」を重視してきており、これからの教育や保育の仕組みに入っていくことを、今回のイベントの実行委員会は期待しています。その趣旨に賛同した方々のボランティアで成立した今回のイベントですが、多くの保育関係者、園長以上の経営者が東大に集まり、3会場で10のセッションが展開されました。

私は5分間が2回、合わせて10分ほどの時間で、次のようなことを述べました。「こどもかいぎ」などでの対話は会話と異なり「人と向かい合う関係」になっていること。ちゃんと人と向かい合うことが対話であること。それが成立するために赤ちゃんの頃からの「声」を大人がちゃんと「聞く」こと、つまりそれに応答することが、子どもが人への信頼を獲得するベースになること。それはアタッチメントでもあること。それは大人も同じで、自由に語り合えるためには安心して話を聞いてもらえる信頼の場を作ること、日本人はたぶんリスク込みの他者への信頼力が弱いので、子どもの頃から話を聞いてもらうことの積み重ねが重要な鍵になること、などを伝えました。

このようなことが「こども」を真ん中にした世界を作るための条件のようなものであり、かいぎだけを開けばいいものでもないことはもちろんそうなので、どのようなことが大事なのかを考えていきたいと思います。

3年後の「こどもかいぎ」

2022/08/20

映画「こどもかいぎ」に出演していたこどもたちが、いまは小学校4年生になっているのですが、その子たちが再開して、ふたたび「こどもかいぎ」を開いています。その子たちはほぼ同じ小学校に通っているので、普段から会っている間柄とはいえ、改めて「対話」してみると新鮮だったようです。私も彼らのこの3年間の間の成長ぶりに驚かされました。

この「コロナ禍の子どもたちにホンネを聞いてみた」の収録は、第7波の頃なのですが、また子どもから見えている「大人」の姿とはこうなんだな、ということにも気付かされます。また、子どもの伝え合う力の成長を感じます。毎年でも半年に1回でもいいので、このような話し合い、対話を小学校、中学校、高校と継続してやっていける場は、今の日本の教育の中に、どうしても必要です。おとなもこのような場に率先して参加していくようになるといいですね。

制作遊びの中の道具

2022/08/19

幼児たちの「制作遊び」をみていると、何かを作るためのスキルが身につくと、それをいろんなところに応用して使いこなすことができるようになっていくことがわかります。ハサミの使い方、セロテープの切り方、糊の付け方、折り紙や画用紙の扱い方、色鉛筆の使い方やけづり方など、習熟していくのがみて取れます。

このようはスキルはどのような種類のものをどの程度扱うといいのでしょう。色々なものがたくさんあるので、広げていくとキリがないでしょうが、判断の基準は2種類ほどあるような気がします。一つは大抵の家にあって、日常生活の中で使われているもの。これは時代と共に消え去ったり、新しく登場したりしますが、それは仕方がないでしょう。これからは、このツール(道具)の中に、タブレットを入れていくことになります。

もう一つの判断の基準は、その道具の成り立ち、仕組みが子どもに理解できるもの、です。複雑すぎたり、操作や仕組みの過程がわからないものは、幼児の操作活動の中に取り入れても、意味ある体験になりにくいでしょう。仕組みがわからないブラックボックスだと、「どんな風にしてそうなるのか」に関心の向きようがないでしょう。そう考えると、調理道具や、工具などは子どもと一緒に体験した方がいいものです。ボールの中で何かを混ぜる、包丁で野菜を切る、うどん粉をこねる、シェイクしてチーズを作る・・・など。また工具ではシンプルに釘と金づち、万力、ノコギリ、ドライバーなどもいいでしょう。

ものとものが、どんな形や力を加えると、こうなっていく、というプロセスを体験していくことは、暗黙のうちに幾何学や物理学を学んでいることになります。概念としての用語を後で学ぶことで、「明確で確かな理解」につながっていくでしょう。

「他者と出会う」ための信頼とは?

2022/08/18

わらす(3〜5歳)の制作遊びが活発です。昨日のクラスブログにもありましたが、やりたいごっこ遊びで使うものを制作しています。その集中ぶりに接すると、私は嬉しくなりました。制作ゾーンのテーブルでは足りず、ゲームゾーンでも制作しています。今日はそこで、ホールケーキを作ってました。かなり本格的です。昨日はカップケーキでしたから、スイーツが続きますね。ジュースもあります。このケーキ店は人気になりそうです。楽しみ。

さて、例によって「信頼と対話」の視点で今日の遊びを見つめてみましょう。この制作過程には、あまり「対話」はなさそうに見えますが、自分がやりたいことを実現させるために、折り紙、のり、セロテープなどの物との「対話」が盛んになされています。声の出る「言葉」ではない、モノとのやりとりは、ふつうは「対話」とは言わないのでしょうが、「こうしてみたら、こうなった」、とか「じゃあ、こうしてみたらどうなるだろう」とやってみるのは、モノからの応答もあるので、意図したことの働きかけによって、モノは変化し反応するので、これは広い意味でのコミュニケーションになっています。

モノが応答する、と言っても、モノからの応答は人のような手加減はなく、正確な働きかけをしなければ、期待したようには応答してくれません。でも正しく働き続ける限り、必ず同じように生真面目に反応してくれるのがモノです。人のような、気まぐれでムラのあるバラバラの対応にはなりません。なんと頼り甲斐のある、確実な相手なんでしょう。ここには、こうすればこうなるという、確かな信頼が成立していきます。こうやって作れば、カップケーキやホールケーキがゲットできるという確かな結果の見通し、約束を違わない、正直な他者がいてくれるのです。

それに比べて、私なんて当てになりません(笑)。そう言えばさっき、年長のOSさんにおこられました。「今日(こそ)は、ちゃんと園長ライオンやってよぉ〜」と。「わかった、やろう、やろう」と言いながら「ごめんね、今日も時間がないんだよ」と謝ってばかりで。やっぱり、なんど言っても当てにならない私のようはヒト相手の「対話」より、おもちゃやゲームや絵本などのモノ相手のほうが信頼できるというものかもしれません。それならヒトは子どもに愛想つかれる前に、ちゃんと約束は守れるようにしないといけないですね。そうしないと、ヒトがモノであるロボットやAIやアバターに乗っ取られてしまうかもしれません。

期待した通りに他者から何か反応が戻ってくることが、他者への信頼を得ていくのだとしたら、それはヒトに対してもモノに対しても同じように言えるでしょうか? そこは違いますよね。ヒトとしての「他者」には、決して分かり合えない他者性というものが厳然としてあります。しかしモノには、そういう意味の他者性はありません。モノを信頼することとヒトを信頼することは、その信頼の意味が180度違うのです。どう違うか?それは最終的には決して分かり合えない他者性というものを前提に人間関係は成立していくようにしていくのですが、モノにはそのような、分かり合えない他者性などはもともとないからです。

分かり合えない他者だからこそ、分かり合えることへの希望を持ち続けることが生きることだと考えるなら、こどもかいぎやサークル対話は、わかりあえない他者との出会いを学ぶ機会になっていくのでしょう。

 

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