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園長の日記

たにじゅん展 明日25日から 海老原商店で

2022/11/24

「見たもの・出会ったものを残すこと。愛でること」

明日25日から「谷川潤」さんの個展が海老原商店で開かれます。とにかく彼の「描く」という意味が大好き。個展のコンセプトをパネルにこう表していました。

https://www.instagram.com/p/Ck0rn3bJwgs/

 

<描くこと=

大学3年生になった頃にはじめた、「自分と素敵な人・もの・場所との出会いを形にして、贈り物としてその人たちにお渡しすることで、また素敵な出会いのきっかけになっていく、」(たにじゅん日記)

美味しかったパン、一緒に暮らすワンコたち、大好きな人

よく見ること、そして気づいたことを形に残すこと、その行為を通すことで、対象により愛着をもつようになること。

描くことは、僕にとって、目に見えている世界に愛おしさを、より自分の中に深く刻み込む行為であり、また、そうして得られた幸せを、他に人にお裾分けする手段の一つでもあるのです。>

・・・・・・・・・・

こんな関わり方ができる時間。

教育の五領域「表現」のこんなふうになっていくと、いいな。

 

 

子どもが子どもを理解していることへのまなざしを

2022/11/23

(今日はですます調ではなく、である調で始まります)

22日火曜日のこと。子どもの泣き声がする。まさに倉橋が書いている廊下の描写のように。

彼女は泣いて訴えている。春に満4歳になった女の子が「 ◯◯コちゃんのママがいい」と訴えている。「いい」というの中には、「まだいて欲しかったのに、どうして帰っちゃったの」という気持ちが含まれている。保育園の玄関で、お友だちもそばで泣き止むのをじっと待ってくれている。子どもたちは何をいうでもなく、頭を撫でてあげたり、どうして泣いているのかを大人に説明してあげているだけ。子どもの方が<気が済むまで、そうしていていいよ、だって寂しいんだから、しょうがないじゃん>といった風に納得している。私にはそういう風に見えた。もし困っていたら「先生」と言いにくるからだ。

その「子どもの子ども理解」。つまり子どもが他の子どもをどう理解しているか、ということをもっと知ってほしいと、子どもと一緒にいる私などはよく思う。心の安全基地は大人だけじゃないよ、って言いたくなることも多い。子どもの世界で起きていることをちゃんと事実としてみてほしいと。でも、それがそう簡単でないことも分かる。なぜなら、子どもが泣いていると、どうして泣いているのかを聞こうともせずに「はい、抱っこ」といって、連れていってしまう大人が多いから。それをそばで見ている子どもが「あ、待って、連れていいかないで!」と言ってくれるならまだしも、そんなことをする勇気は子どもにはまだない。

でもそれが5歳になってくると「先生はまだいいから」と言ってくるようになる。子ども同士がピーステーブルで話し合っていて、なかなか終わらないような時に、どう?って聞くと「もう少し」とか、教えてくれる。子どもたち自身が先生は、僕達のことをちゃんとみて、待ってくれて、困った時は助けてくれる、そういう距離感を知っている。

ところが大人は、子どもが子どもを見守っているというようには見ない。泣いていたら直接関わりにきて泣き止まそうとするし、またそれが世間一般ではそうだから、それが間違いとも言えず、泣いているそばにいる子どもが、まさかじっと待ってあげているなどと想像できないのだ。それも分かる。だから気のいいパートさんに、その関わり方を伝えるのに苦労する。

今回は、その子も周りの子も私の関わり方を知っているから、私ももそばに寄っていって「どうしたいの。助けてあげるよ」と言ってみるが「ううん」と首を横に振って助けはいらないと拒まれる。まあ、そうだろうな、それでいいよ、とうなずいてあげる「わかった」と。さっきまで木場公園で一緒に遊んでもらっていた「◯◯ちゃんのママがいいんだよね、戻ってきてほしいよね」と言ってみる。なんとも言わない。大人が気持ちがわかったからって、そう簡単に泣き止むもんじゃないよ、共感してあげたら泣き止むとでも思っているの!と感じただろう、きっと。すごく賢くて繊細なんだから。

ただ、彼女は私の言葉に否定も肯定もしないので、少し彼女の気持ちに近いところまで近寄れたのかもしれないと思う。私は「じゃ、一緒に◯◯ちゃんママのところに行こうか」と言ってみる。チラリと私を見るが、もういい、という風に「いや!」という。そう、それも嫌だよね、そんなお節介も嫌だよね。

私は心配してそばにいた子どもたちと一緒に、期限が過ぎた掲示物を外して、その紙をビリビリ破って、小さくしては花吹雪を作り始めた。飽きていた子どもたち二人が、その遊びを嬉々として始めた。

内心、もちろん彼女の気が紛れて機嫌が直らないかなあ、と願って、そんなことを始めてみたのだが、それまでの彼女との会話も手伝ってくれたのか、あるいは私もそのビリビリに熱中していたからか、ふと気づくその子も、じっとそれをみていた。もう泣いていなかった。どうして泣き止むことができたのかはわからない。

彼女の「訴え」は、誰かに向けられているものではあるが、研究者たちは私が二人称的に関わったからだと解釈するだろうか。そうだとしたら、子どもも一緒に、その二人称的関わりの一部に入れてくれないかしらん。それも解釈としてはありの理論にしておいてもらいたい。望むものが「訴え」を経て共有されて、望ましいへ変化するのだとしたら、日本的曖昧さの中庸的共有みたいなものがあるのかもしれませんが。

わいわい組は初めての冒険ひろば

2022/11/22

園庭のない保育園。だから木場公園は我らが園庭。3歳児クラスわいわい組が初めて木場公園の「冒険ひろば」で遊びました。

ここは、くぬぎやこなら、桜やいちょうが立ち並ぶ雑木林の中に、色々な大型遊具が配置された都立公園の一部。2歳児クラスから年長さんまで、思う存分からだを動かして遊びました。

真っ青な空を背景に紅葉が美しく、それだけでこういう場所にきた甲斐があるというもの。子どもたちはひとしきりすべての遊具で遊んでみると、お気に入りの遊びを続けたり、自分たちで鬼ごっこをはじめたり、落ち葉を拾い集めて大きな山を作り始めたり、思い思いの世界を深めていきます。

今日は年長組の保護者も3人参加してくださり、一緒に遊んだりしていただきました。こんな感想をいただきました。「子どもたちはかわいく、先生方は子どもたちのお手本となる素敵な方々で、とても楽しく、癒やしの時間でした。(まだ参加されてない方優先ですが)また参加したいと思っています。」(年長)

一方、2歳児クラスの子どもたちは、冒険ひろばとは別の芝生ひろば方面で遊びました。花壇や噴水の周りを歩き、途中に色々なものを見つけては、見入ったり、手にしたり。こちらも保護者からこんな報告をいただきました。「ドックランがあることを見つけて、柵の外から子犬が遊ぶ様子をみたり、綺麗に紅葉していた銀杏の木の周りを探索して遊びました。黄色いモンキチョウを見つけて、Fちゃん達と追いかけてたくさん走ったり・・池に枝の長い葉っぱを垂らして釣りをしたり・・「もっとあそびた〜い」というくらい満喫していました。」

同じ体験でも、誰と一緒かで随分と内容がかわるだろうことは想像できます。休日に親子で遊んだ場所も、保育園でお友達と一緒と過ごせば、かかわり方が違ってきます。保育園でいつも行っている公園もお母さんやお父さんが一緒となれば、遊び方も変わりそうです。

考えてみれば、それはそうです、人的環境が変わるわけですから。冒険ひろばで、氷鬼の鬼役をやって楽しかったと語ってくださったお母さんはお迎えの時「今日はぐっすり眠りそう」と心地よい疲れのご様子。親子ともども、いい思い出にもなったことでしょう。

生きる力の使い方が間違っていると思う理由

2022/11/21

私は12歳から13歳の頃、自律神経失調症にかかりました。全身の感覚がいや〜な感じになって、恐怖に襲われるのですが、それが定期的にやってきます。言葉では伝えられず、親に言っても心配されるだけで困らせることにしかならないだろうと分かるので、その苦しみは結局言えませんでした。雑誌に載っていた広告を見て、あるカセットテープと鈴がセットになった何かのセットを買って、寝る前に「右手が温かい、重くなる、左手が温かい、重くなる・・」のような自己暗示をかけて、リラックスするというのを毎日やってました。その不安感がくるときは予兆があって、「あ、来そう」というのが分かるのですが、それがくると自分の部屋で紐のついて鈴を目の前に垂らして、じっと見つめて「右に回れ、右に回れ」のように念じると、鈴が回るということをやってました。

いつしか症状は無くなったのですが、一度だけ母親が心療内科に連れて行ってくれたことがあります。それで何がどうなったのかは覚えていませんが、自分が何かの病気かもしれないということに、直面したことをよく覚えています。子どもは状況で物事に直面するのです。その状況というのはとても雄弁で、直接私に「体験」させてしまうものであり、その後で、その意味や解説や何かがついて来るだけです。その意味は、後になってよく分かるようになっていく、ということが物事の大抵の理解です。私の父親が戦争でラバウルにいき、朝「さらばラバウルよ〜」の歌を歌っていた心情も、後になって理解できるようになっていきます。

そのことを大人になると、錯覚してしまうのです。体験は言葉で説明できると思う人が出てきます。体験に含まれているであろう意味を先に取り出して、体系化して教えることができると、錯覚してしまうのです。それはできません。こっち方面です、とガイドはできても、体験はできないのです。言葉で説明された事柄だけでは、その意味は体験できません。こう書くと当たり前すぎる話に聞こえてしまいますが、教科書で体験に代わるものにはなり得ません。

身体は体験するようにできているのに、頭がその体験を分析的に理解しようとするので、頭は一部分しか体験できません。一旦分解しても全体ではないので、統合しようとしたがるのですが、それはいつまで行ってもできません。そのことを承知の上で、学問なり研究なりをされている方と、そうでない方は、自身の営みに謙虚かどうかですぐにわかります。わかっている方は慎重で繊細なのです。

そういう人間の限界という事情もあって、メタ認知が大事だとか、何々がこうだとかの知見が、なぜそうなのかを納得できるように説明していくことが大事だと思っていて、それはとても難しいので、引用したり、〜だそうだ、と伝聞で伝えるしかないことも多くなります。しかし、そういう意味では分かることとわからないことの境目にとても注意を払って生きてきたように思います。

そして、その説明のない教育のあり方が、多くの子どもを苦しめているように思えて仕方がなく、随分前から子どもそのものの在り方から、そのように学び続けることができる教育に変えたい、変えたいと願って、この仕事にたどり着いたという経緯があります。「おばあちゃんの作ってくれたカレー、美味しかった」と書いて命を絶った中学生のことが忘れられず、そうなってしまう生き方に追い込まれていまう若い人たちが、一人でもいなくなるようにしたい。ですから若い保育者や学生に「保育はこういうものです」と説いている先生に、どうしてそう言えるのですか?と聞いて、実はそこがまだよくわからないところなんです、一緒に調べましょう、と言ってくれる先生に出会うとホッとします。

今夜はそういう方々と火を囲んで心を温めることができました。このような方々は本当にありがたいです。

映画「夢みる小学校」が投げかける問い

2022/11/20

日曜日の今日20日、午前10時からと午後1時30分から2回、オオタヴィン監督の映画「夢みる小学校」を保育園の2階で上映しました。保護者の方々と協力して、一緒に開催しました。子どもも一緒にみたり保育室で遊んだりしながらの、親子でゆったり、のんびりの映画鑑賞会となりました。

この映画は、二つの公立学校(伊那市立伊那小学校と世田谷区立桜丘中学校)も紹介されていますが、ほとんどは教育研究者の堀真一郎さんが自ら創設した学校の一つ「南アルプスこどもの村小中学校」の実践が克明に描かれています。その実践をトピックス的に特徴を拾い出すと、体験学習、自己決定、プロジェクト、「先生」がいない、対話を通じた合意形成、子どもが自ら作り上げる行事などでしょうか。

よくある学校の学びと異なるのは、教科カリキュラムではなく体験カリキュラム的です。子どもたちが「めっちゃ楽しい」と生き生きと生活しています。ここにずっと居たいからと、そのまま先生になった「大人」もいます。この学校と既存の多くの学校との違いはなんだろうか? その一つは要領や指針の資質・能力の言葉を使えば、こうなりそうです。

子どもの好奇心や探究心からの「感じたり、気付いたり、分かったり、できたり」の知識や技能を使って、思考力や判断力や表現力に活かされていくという構造は既存の学校での学びと同じなのかもしれませんが、その営みを活性化させる心情や意欲がとても躍動しています。学びに向かう力が圧倒的です。やはり体験そのものを選択して自己決定していること、つまり幼児期でいう「自発的な活動としての遊び」と同じ心理的原理が、そこには働いているように見えます。この差は大きい。

そして、どの子ども「自分のままでいい」ということの具体的な事例がたくさん紹介されています。不登校だった子や発達障害と診断されて薬を処方されていた子が、ここでの生活で回復していきます。その本人の告白もあって、私などは、そういうことに心打たれてしまいます。ここに養護の本質的な働きがあって、自分が認められているということ、つまり本当の心の安全基地があり、生活の営みの中に自己回復できる居場所になっていると言えます。

このケアリングの機能が豊かに働いているので、大いなる自然の一部でもある人間もまた、自然と調和していきているという実感が、子ども自身を励まし、幸せにしているのです。観た方のアンケートを読むと、それに共感されている方々が多く、その声が切実なものとして伝わってきます。それだけ、この映画が問いかけているテーマは緊急を要するものです。

珍しいユニークな学校の一つ、という括りでは済まされないものを、この映画は問いかけています。特色ある学校づくりの一つ、という地平で並べて済ませてはいけません。決定的に違う、のです。それを確かめ合っていく作業が間違いなく必要になっていくでしょう。その営みに希望が持てるのは、この問題に多くの国民が気づき始め、さまざまな改善や改革が全国各地で始まっています。今回の自主上映会は「東京に新しい学校をつくる会」も後援しました。

 

アダプト活動で地域への愛着を育てる

2022/11/19

街の花壇に親子で花を植えてみました。そこは保育園から神田川を挟んで見える最も近い公園の花壇です。よく出掛けている場所なので、そこに花で飾るというのは、子どもにとってどんな体験になったのでしょうか。

19日土曜日の午前中に行いました。千代田区のアダプト活動です。5月と11月の年2回、ちよだの水辺を魅力ある都市空間に再生する会(岡田邦男理事長)の音頭で、お茶の水ロータリークラブや佐久間橋一丁目町会など地域団体が合同で行うもので、当園も毎回参加させてもらっています。

2歳児から年長さんまでいましたから、年齢によっても違うでしょうが、普段遊んでいる場所が花できれいになっていくことを「わあ、見違えあるようになったね」「きれいだね」などと親子で語り合っています。

 

私はじょうろで水をかけるときに、支えてあげながら子どもに取っ手を持たせ「ほら、どうぞ〜って。お水だよ、お花さん、喉が乾いてたんだって、おいしいって飲んでるね。こっちのもかけてあげようね」と言いながら、お花に水をかけてあげます。

何かを大事にするとか、きれいにするとか、いろんなことを言葉で伝えるだけではなくて、実際に物にさわり、感じ、感覚を働かせることで「環境(ここでは花や土や水や花壇など)との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして、試行錯誤したり考えたりするようになる」ということなのでしょう。

このように、区民のみんなが集まって、清掃をしたり花を植えたり、花に水かけたりする姿に接することを通して、また自分でもやってみることを通して、自分達の住んでいる街に愛着をもち、公共心の芽生えにつながっていくのかもしれません。

<アダプト活動とは>
市民と行政が協働で進める街の美化プログラムのことで、アダプト(Adopt)は「養子にする」を意味する英語です。公共の場所を養子にみたて、市民がわが子のように愛情をもって世話(清掃美化)をし、行政がこれを支援する制度のことです。

対立から合意を得るプロセスの対話

2022/11/18

今日はいまベストセラーになっている本の著者とzoomで話し合う機会がありました。いろんな話をしたのですが、学校教育と保育が重なってくるテーマのうち、この二つが印象に残りました。それは自律と対話です。

その方は生徒の自律を大事に実践してこられた方です。手をかけすぎたり、指示してできるようにさせることが子どもの自律を妨げているというのは、繰り返し主張されています。この話は当園の理念に置き換えると「やってあげる保育から見守る保育へ」の趣旨と同じです。また対話の方は、合意形成の過程としての対話が中心でした。したがって民主主義の要でもある対話と同じ趣旨です。これは藤森保育道ではずいぶん前から「共同体から共異体へ」と説明してきたのですが、それとほぼ同じものです。

二つ気づきがありました。一つは同じ言葉でも想定することが異なると、プラスと思っていたことがマイナスにもなるということです。例えば保育では「寄り添う」というのは、大人が子どもの傍にいても、支えると同時に未知の世界への誘いにもなっている「自律の援助」と了解されているはずですが、その方の理解では、多くはやってあげたり過干渉だったりすることと誤解されてしまうのではないか、というのです。人によって言葉の受け止め方はかなり違うものですね。

また、この方の話を聞いていると、あたかも学校教育の中にいると、その世界で見聞きしていることが世間の大多数だと錯覚しがちになるのかな、と思いました。その方の見えている世界がそうだとすると、逆に学校の世界は、そんなに旧態依然としているのだろうかとさえ、不安になりました。本当にそれが大多数なら、それは相当に「ヤバイ」状況です。ある意見と意見が異なっているなら、それが両立できる「解」をぞれぞれが話し合って合意点を見出そうとすることが大事なのですが、そんなに簡単に多数決で決まっているのでしょうか。

いま民主主義の話が盛んです。宇野重規さんの「民主主義とは何か」は入門書として最適でしょう。私はジャーナリズムの勉強をしていた20代の頃に「異なる意見があるからこそ対話を通して社会が成熟する」と教わってきました。この感覚がなくなったら、異なる意見を取り上げる報道の意義も喪失します。これと同じことは、異なる意見を聞いて考えるという体験が、学校にもあるはずですが、現実はそんなに少ないのでしょうか。

そういえば、映画で比較するのもおかしいですが「夢みる小学校」に出てくる多数決よりも「こどもかいぎ」の方が、本来の民主主義的な姿勢を育んでいると、私は思っています。これは一度皆さんも考えてもらいたいテーマの一つですね。

 

モルモットをなでてみたら・・・

2022/11/17

子どもが生きた動物を膝に乗せて撫でてみる。こんな単純なことも、そう簡単にできる体験ではないことが、やってみるとわかります。今日17日は年長と年中組の18人が、地下鉄に乗って上野公園へ出かけ、モルモットをそっと触ったり、なでたり、膝の上に乗せてあげたりしました。

上野動物園はコロナ禍で長い間、団体見学ができなかったのですが、この11月から解禁になりました。ただ今日のは「学校団体プログラム」といって、動物園がおこなっている教育活動の一環です。

説明によると「モルモットを間近で観察しながら、食べ物やうんちについて学びます。動物をよく見て観察する楽しさを感じてもらいます」とあります。

ちょっと、音に敏感で、おとなしいモルモットたちは、子どもたちに優しく撫でられると、気持ちよさそうにしています。人に懐いている理由をスタッフに聞くと、小さい時からよく撫でてあげることで、撫でられると心地よいと、感じるようになるそうです。

子どもにとって、相手が気持ちよさそうにしていることを感じ取ることができたら、それはいい経験になったことでしょう。ふわふわしたものを撫でて気持ちがいいなら、ぬいぐるみと変わらないでしょう。

そうではなく、実際に動物が心地いいと感じることをやってあげることの小さな喜びは、やはり相手が喜んでくれることを感じた時ではないでしょうか。1日に200個もうんちをするそうで、パネルに整然と並んでいる柿ピーのようなうんちの列を見ながら、スタッフの愛情と情熱も感じたのでした。

外で食べるおにぎり弁当も、久ししぶり。小春日和ののどかな一時を満喫です。

 

千代田区主催の合同こども会 劇団かかし座の「不思議の国のアリス」

2022/11/16

千代田区内のすべての幼稚園、こども園、保育園の年長児が集まって観劇するという「合同こども会」が今日16日、東京オリンピック記念青少年センター(オリセン)で開かれました。主催は千代田区教育委員会で、大型バスを使って全ての園を回って園児を運んでくれます。今回の劇は、影絵演出が特徴的な劇団かかし座の「不思議の国のアリス」。約1時間の大作でした。長い時間にもかかわらず、園児を長時間惹きつけることができるのは、さすがプロだと感心しました。

その工夫に目を向けると、面白い物語の内容もさることながら、役者たちの迫力のある生の声、抑揚のあるはっきりとわかりやすいセリフ、ユーモアのある楽しい会話、舞台とスクリーンを使った影絵の融合的な表現、歌や踊りのあるミュージカル的な進行、時々、客席にいる子どもたちとの交流を交えた鑑賞・参加を取り混ぜた演出と、児童文化財を子どもたちに観せたりする時のポイントの完成度の高さを学ぶことができます。

開会の教育長の挨拶の中に「二倍楽しむ方法」という話があったのですが、それは今日みたことをお家の人に話してみること。そうすると楽しさは二倍になりますよ、と。さて、どうだったでしょうか。

子どもの経験の総体がカリキュラムである

2022/11/15

教科に分かれたカリキュラムではなく、経験カリキュラムで小学校以降の教育課程を描くことはできないのか。それを実現させている学校に近年、注目が集まっています。例えば「軽井沢風越学園」のホームページを見てみましょう。そこにはこう書かれています。カリキュラムとは「子どもの経験の総体」ですと。そこを引用してみましょう。

<軽井沢風越学園では、3歳から15歳までの12年間の連続性を大切にしたカリキュラムを目指しています。 実体験と抽象、探索と探究、あそびと学び…。それらを行き来しながら、一人ひとりの「自分をつくる」と「自分でつくる」時間を積み重ねます。

わたしたちは、カリキュラムとは「子どもの経験の総体」と捉えています。子どもは授業等の意図された時間の中だけで学んでいるわけではありません。森やライブラリー、ラボなどの環境、活動によって変化する集団、異年齢の子ども同士の関係や日々のスタッフの関わり、たっぷりある昼休み時間でのあそびもカリキュラムです。時には地域の人や専門家に出会いながら、風越学園に集まる人たちと街のようなコミュニティで経験することも、その一つです。>

つまり、学校だけの経験ではなく、地域で過ごす時間も家庭で過ごす時間も、カリキュラムだという考え方なのです。この捉え方は、就学前の保育園の考え方と似ています。「生活の連続性」という言葉で、園生活と家庭生活を連続しているものとして把握し、子どもの経験の総体を捉えようとしてきました。学校の学びは、家庭や地域での学びとつながっているからです。

ところが日本の多くの学校は、そのように考えていません。学校、家庭、地域の三角形はそれぞれの役割があるのだから、学校はその目標達成に専念すればいい、という意識が残っていて、家庭や地域とつながったカリキュラムの構想を企てているところはあまりありません。もし保育園がその延長に学校を作るとしたら、当然ながら経験カリキュラムを採用し、風越学園が行っているような理念を掲げることとなるかもしれません。

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