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園長の日記

映画「みんなの学校」のインクルージョン

2022/12/17

◆この映画の最も大切なメッセージとは

映画「みんなの学校」の上映会をやりました。この映画のメッセージでもっとも大切なことは、地域の公立小学校が誰もが安心して過ごせる場所になることを目指した実践であることでしょう。この映画を企画した関西テレビ(当時)の迫川緑さん(真鍋俊永監督と夫婦)の文章(『自立へ音立てられる社会』インパクト社)によると、この映画が初めて上映された2015年当時「生身の子どもたちの姿を映し出したことで映画の反響も予想以上に大きかった」そうです。

文部科学省の職員向けにまで上映され下村博文文科大臣は「木村さんのような校長が全国2万の小学校に広がったら」と、述べたと書かれています。映画のサイトには、コメント欄に教育評論家の尾木直樹さんも「驚いた!ここには、ありのままの公立小学校の魅力が、大胆に惜し気もなく躍動している。人間が発達可能体であることを、限界なしに教えてくれる。それにしてもスゴイ記録映画が完成したものである。学校と教育の未来に、希望が湧く映画である。」と書いています。

http://minna-movie.jp/index.php

この映画の舞台となった大阪市立南住吉大空小学校。その初代校長で9年間勤めた木村泰子さん自身が、教育開発研究所『学校の未来はここから始まる』(2021年3月)の中で、「みんなの学校ができるまで」というコラムを書いています。こんな強い思いがあったから、このような学校ができたということがわかります。機会があれば、これもぜひお読みください。木村さんは、この本(工藤勇一さん、合田哲雄さんとの座談会)の中で、大空小の実践の意味を詳しく説明しています。それを読むと、素晴らしい考え方であり、強く共感していたのです。確かにこの考え方で、インクルージョンを進めてほしいと感じる内容でした。

◆私が感じた違和感とは・・

ところが、実際に映画を見ると、あれ!っと思うことがあって、私は別の感想を持ちました。ここからは全く個人の印象です。映像から伝わってくる子どもたちの姿は大人が期待していることに、子どもが必死で合わせられているように見えました。私はこの強い教育指導の力に対して、またそうした強引さに対して嫌悪して育ってきた人間だからかもしれません。特にケアリングと「環境を通した保育」を大切にしている私は、このような直接的な指導による営みに警戒心を抱いてしまうのです。

私たちは子どもたちに豊かな選択肢を用意します。そして当事者の相互の関わりも大事にします。子どもの可能性を信じて、訓話ではなく対話を丁寧に繰り返します。あたかも似ているように見えますが、とても大きな違いだと感じました。

それでも、この学校をよく知る校長先生から、こんなアドバイスもいただいています。

「・・・大空小学校のお話は、大阪の南部地域の方々の生活とともにあります。差別、貧困、偏見、虐待、トラウマを親子が抱えている上に発達に特性のある子が50人学校にいる。そうした状況は当たり前にある状況とはわけが違います。時代が変わっても、子どもの本質は変わりません。私は、みんなの学校の中に込められているメッセージを受け取り、ひたすらに子どもを分かろうと日々、子どもに向き合っています・・・」

頭が下がります。この映画を理解するには背景と歴史を知る必要がありそうです。ここでは、このやり方がふさわしいmのなのか、と私の見方が揺れ動きます。こんなふうに私には思えます。

◆映画だけでは伝えきれないものがあるかも

いくら主語を大人から子どもに取り替えたところで<育つ>ようにしむけている力の流れは一方向になってしまっているように感じます。もっと子ども主体の、モザイク状のリゾーム状の、複合的な空間にしないといけないのです。やぱりピラミッドになってしまっているように見えました。校長がトップマネジメントで表に出ているリーダーシップと組織でもいいのですが、それで出来上がっているこの学校空間そのものに、拒否反応を持つ大人と子どもはいないのでしょうか。もしいないなら、家族を含めた同じ志向や価値観を共にする共同体になってしまう危険性を感じます。

例えば、映画を見て気持ち悪くなってしまった友人がいます。こんな感想を寄せてくださいました。

<・・・この映画を「良きもの」として進めてしまうと、インクルージョンの考え方が逆戻りにしてしまう。 日本の教育を受けてきた一般の大人は、子どもの権利擁護について、ある意味鈍感で、真剣に向き合ってこなかったと感じています。幸か不幸か、今世の中に子どもに関するいろいろな事件が起きているから、今こそこのことについて考えてもらいたいと思っています。そのためには子どもは考える力や意思をしっかりともっているし、子どもの能力への信頼をベースにしたコミュニティーづくりが大事になってくると思います。 ・・・>

大人と子どもの信頼関係の構築の方法に違和感を感じるのか、子どもを育てるべき対象と見ているからなのか、私も数回見直したのですが、今でもその違和感は拭えないのです。そして、そこもぜひ観ていただいて、私の感じ方がおかしいのかどうか、意見を聞きたいと思いました。木村泰子さんの本も読み、共感するところも多く、学ぶことも多いものです。でも私は映画を見る限り、ちょっと違ったのでした。時代も地域性も考慮した上で、子ども観、教育観、教育方法のちょっとした違いなのでしょうか。ほとんど同じようなことを考えているのに、語られている言葉も同じようなのに、です。

◆まずはすべての子どもが同じ場所で学ぶ土俵を

どんな学校を目指すべきでしょうか。木村さんはこう主張します。

「今、工藤さんから、子ども自身がで学びを選んでいけるようにする必要があるとのお話がありました。その際に気をつけなければならないのは、すべての子どもたちが同じ場で学ぶ「土俵」をつくったうえで、選べるようにすることです。さまざまな特性を持った子が一緒にいるのが当たり前の「土俵」をつくり、その上で学ぶ場を選べるようにすることです。そうしなければ、子どもたちが分断されてしまいます」。

この本の中で語られていることはその通りだと思います。基本は地域での生活の延長として学校があり、そこに集いながら生活を共にできる場的な統合を図りながら、そこに教師以外にも必要な人々がいて、カウンセリングなり医療なり療育なりを受けられるような時間と場を作っていくようにすべき時代なのだと思います。学ぶ内容もその子どもに合ったものを用意します。子どもが学び合うこともできるように。

排除されたきた場所に比べてまだいいから集うというのではなく、その子どもと家族にとって分けられていない、という安心感の中で通えるような包摂空間です。そして、そこに馴染めない場合の学校はフリースクールではダメです。木村さんも強く主張するように、同等の一条校であるべきなのです。それが無理ならせめて、なぜフリースクールなら通えるのかという、その条件や空間を、どうやったら一条校が取り入れられるのかを学び、取り入れるべきなのでしょう。全国各地で新しい実践が始まっているようです。自治体はこの動きに今こそ敏感にならないと、世界の潮流から取り残されるかもしれません。

入園見学者に説明する保育目標について

2022/12/15

子どもの姿から、よい保育を展開するというのは、どういうことなのだろう。1223日に締め切られる千代田区の令和5年度入園申込(第一次)を前に、園見学が続きます。その親御さんたちに「当園は3つのことを大切にしています」と、保育目標を解説しながら、本当によい保育って、どうすることなんだろう?と考え続けている園長(私)がいます。保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。もっとも高い目的は「共生と貢献」社会の創造です。

園で話し合ったり、実習生の記録にコメントを書いたりする時に、いつも保育とは?の「そもそも」のところに立ち返って考えます。経験的にきっとそうだろうと確信していることに立ち返るのです。それは園生活と遊びの中で、ということなのですが、ただその時に「世の中から期待されていること、つまり社会的に肯定されていくことを踏まえないと、幼児教育ではなくなってしまう」という意識が働きます。いつものように保育の質は、子どもの経験の質が大事だと考えるのですが、その時にやはりその経験が「子どもの育ちや学びに向かっているか」ということが欠かせないと考えます。自由遊び、ということでいいのですが、それをホイジンガやカイヨワなどの大人の遊び論で済ますことはできないのです。

すると、まずは子どもから世界へ向かっているか、ということが第一です。基本的信頼感の獲得でもいいのですが、もっと一般的にいうと、乳幼児が周りの物や事柄へ肯定的に対峙しているか、というか積極的に関心を寄せているか、ということです。子どもが問えば応えてくれたり、なんだろう?とか面白そう!とか、やってみたい!といった自発性が引き出されてくるような環境が用意されているか、子どもにとって活動が見えているか、子どもの方へ届いているか、といったことです。楽しそうだったり、真剣だったり、黙々とだったり、溌剌とだったり、反対にぼーっと眺めていたりということも含めて。一人ひとりの人権を基礎とした個人の尊厳に基づく「自分らしく」という姿になっているかどうか。子どもの姿で表す保育目標の1番目です。育ちの物語がきちんと個別にある、それが一人ひとりだということです。

その時に常に園生活では集団なので、個々の子どもがそれに向かって選べるようになっていないと、それを肯定的に取り込むことができません。世界との接点の持ち方が子どもによって異なるからです。そこで選択性ということが出てきます。選ぶのは子どもで、乳児からそれはできます。選ぶという言葉遣いが意外性を持つのなら、かかわり方が子どもによって異なるように、と言い換えてもいいです。どこにいるか、何で遊ぶか、誰のそばにいたいか、どっちを先にするか、あることをやっておわるタイミングも違っていいようにします。何をどれくらい誰と食べるのかも選べるようにしています。つまり、その体験がしっかりと充実したものにようになっているかどうかです。それが個別に違うのを許容する保育方法になっているかどうか、ということです。保育目標では「意欲的に」という、心情体験の中でも態度への架け橋となる心情です。

そして、園生活が集団であるというのは、社会生活があるということです。子ども同士のかかわり、共同生活が営まれています。複数の子どもたちが作り上げる生活の中で生まれてくる育ち、自立心と協同性の育ちを意識することになります。これが赤ちゃんの頃から心を通わせながら育っていくので、自分との関わり、物との関わり、身近な人との関わりが、生活と遊びの中で、子どもの中に取り込まれていくのでしょう。集団のありようが、個々の内面を作っていくのです。競争的排他的な集団だったらそうした社会的心理を個人が獲得してしまうのです。泣いている子どもにティッシュを持っていく子どもたちが周りにいるから、困っていたら「どうしたの?」という態度を見せてくれる幼児が育つのです。その姿を「思いやりのある子ども」と表現したのでした。

ホームページのブログによく登場する子どもたちの姿は、これら3つの要素が含まれていることが多いように思います。先生たちが好んで取り上げるエピソードでもあります。

なぜ虐待が起きるのか

2022/12/14

やはり、このことに触れないわけにはいかないのでしょうか。保育所の職員による虐待問題です。先日9日(金)の午後、近隣の保育園の園長が集まる会合があって、その場に千代田区の子育て推進課長がいらして、この問題に関して各園に「こうしたことがないようにしてほしい」旨の話があり、各園からの現状報告や対策案などの情報交換をしました。内部告発で出てくる事例が、法令違反に相当するものから、研修などで質を高めるべき「不適切な保育」にまで、さらに保育業務の内容や待遇、採用から養成のあり方まで影響が広がっています。

私が最も問題だと思うのは、一人担任(一部、担当生を含む)の態勢です。そこからくる保育をめぐる職員へのプレッシャーです。期待されている子どもの姿にならないのは、自分の力不足だという誤った責任感を生んでしまう風土です。映画「みんなの学校」にも、その構造からくる新任教師の事例が描かれています。周りからの視線や評価が、大人の思う通りにならない子どもに対する強い働きかけや脅迫的な言葉遣いを生みやすいということです。

この話は、見学者と話をしていて、感じることです。こんなふうにゆったりと過ごしたいけど、「どうしてそこで入らないの」と主任や先輩など周りに指摘されるというのです。テキパキとさばく保育や、子どもの動きを流れるようにできる保育が評価されるそうです。いわば子どもを一斉に動かせる力が期待されていて(本人はそう思っていない場合が多いのですが)、子どもの多様性や主体性を尊重する形ではないことからくる、暗黙の圧力です。この話が園同士の間でも、あまり話題にはなりません。なぜなら「それでいい」と信じ込んでいるわけですから。

また外部からも質の高い「保育サービス」を望まれてしまうことから「圧力」となることもあります。集団に入ることを怖がってしまう子どもや、やりたい遊びに熱中していることが「甘え」や「自分勝手」に見え、発達が偏ると勘違いされてしまうことや、自由遊びだけでは物足りない、と感じて何かが上手にできるようになってわかりやすい成果を期待されるようなこともあります。それは親御さんも感じて悩んでおられる場合もあります。

子ども本人の特性や願いはそうではないのに、どうにかして大人の願いに上手に誘導することを賢明にやらなければならない、というプレッシャーです。見学に来られる方々の話を聞いていると、大人が活動を色々用意してさせることが多くて「子どもが自ら環境に関わっていく」ことから始まっていないようです。

このアカウンタビリティを果たすことは、とても難しい。各園だけの力では、この強力な流れに竿さすことは、とても大きなエネルギーが必要です。個人でやろうとすると、その流れに持っていっていかれます。孤立や退職に追い込まれます。組織を上げて取り組む必要があります。職員に精神的な安心感をもたらす保育のあり方を、ずっと考えてきた私たちの研究グループは、この問題を「チーム保育」の充実という方法で提案してきたのです。

理念は「いきている」

2022/12/13

最近のこの「園長の日記」は、その日のことを超えてその意味の背景や自分の思想を語っていることが増えてしまいました。もともと、この日記は、なぜこんな保育をしているのかという意図や背景となっている理念を説明したいと考えて、2019年春の開園の時からスタートしてものだからです。ですから、もともとそうした傾向が強かったのですが、このところ自分自身で、さらにそれを吟味しながら再構築している自分に気づきます。ちょっと気をひく言い方をするなら「理念は目に見えない「いきもの」である」ということを説明したくなります。いきものだから、元気な時や調子が悪い時もあります。大事に育てないといけません。理念にもケアリングが必要なのです。

今日は保育研究団体の保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が、毎年3回開いている保育環境セミナーの2日目で、私が司会者でした。全国から多くの保育者が集まって<保育環境>について、つまり保育について学びます。講演、実践発表、質疑応答(アンケートで提出してもらうものへの解説)からなります。今回で56回目になります。この積み重ねの意味は別の機会に述べます。

司会をしながら、つくづく思うのは参加者の熱心さです。とても意欲的に参加されています。月曜日と水曜日には、保育園の見学もあるのですが、当園にもそれぞれ2園3人の方が見学に来られました。そして保育を見ながら、よりよい保育を語り合い、深め合うのです。そして私自身も飽きることのない保育の魅力を感じます。どこまでも行っても完成することはない、常に発展途上なのが教育や保育だと思います。そして「この熱意はどこから来るのだろう」と考えると、それについての私の実感は「理念からくる」です。人間は「理念」があるから向上しよとするんじゃないでしょうか。理念と日本語に訳されているもので、私たちは「生かされている」と実感してしまうのです。(和語だったらなんだろう?やまとごころ? 違うなあ。そうじゃない。現代に必要なその言葉がまだ生まれていない気がする)

それが私たちの精神を常に活気づけ、再生させてくれるもの、それが理念だと思います。そして、これも意外な言葉かもしれませんが、子どもこそ「理念」を私たちに伝えてくれいるようにも感じます。子どもから、私たちは「理念」を汲み取っていると感じるのです。

子ども同士の関係の再構成と子どもの見通し

2022/12/12

「ねえ、お集まり始まるよ」「いやだ、まだやる〜」。

(写真はこの話の時のものではありません)

朝9時50分ごろ。にこにこ組(2歳児クラス)の子どももたちが、こんなやりとりをしていました。遊びを終えた4人はテーブルにつき、残り2人がレゴブロックで遊び続けています。子どもが生活の主人公になっていくように、どんな保育をしたらいいのでしょう。何をどう考えたらいいのでしょうか。その場にいた見学者2人と一緒に考えました。このとき保育のポイントは、やはり「子どもの姿」をどう理解するか、です。

それを考えないで、ただ『ほら、もう集まっているよ、お片付けして集まってください』なんて言ってやらせるだけなら、素人でもできます。それで子どもが納得するなら、簡単ですけど、そうはいかないものです。では、どう考えればいいのでしょうか? 見学者の園長先生は「本人が達成感を持って終わるまでやらせてあげる」といいました。

私はこう提案したのです。「子ども同士の関係がどう育ってほしいと、私たちがもつ「ねがい」が、本人たちの「見通し」(AARのA)となっていくように、環境の再構成を考えるといいんじゃないでしょうか」と。4人と2人の間の関係が、それぞれが願っている方向で合意されていくプロセスを考えるのです。しかもそれぞれが主人公になって。しかも起点は私たちの「子ども理解」から始まります。その上での何らかの働きかけが生まれていくことになります。しかも、それは担任にしか判断つかないような、微妙なものであることが多いのです。

この子たちと毎日接している担任が見えている子ども理解と、たまにしか見ない私などの子ども理解とは、子どもの見え方が違うはずです。前の保育園での事例ですが、園庭に「こぶし」の木があって、木登りができるのですが、その日も何人かが登っていました。その様子を実習生と見ていたのですが、「いいですね、木登りができる園庭なんて」と実習生がいいます。そのときです、そばにいた先生が「○○くん、登れたのね、やったねえ」と声をかけて喜んでいます。目の前には初めて木登りができた子がいたのです。私も実習生も分かりませんでした。これが、いつも子どもを見ている担任との違いです。

これと同じような見え方の違いは、テーブルの4人とレゴブロックの2人についてもいえます。私や見学者には見えない子どもの姿を、担任はピアノを弾きながら感じているはずなのです。以下は勝手な想像ですが例えば「あんな城みたいなレゴ城づくりが昨日から流行っているからなあ」だとか「あの二人が一緒に作っているときは、なかなか終わらないだろうなあ」だとか、一方のテーブルにいる子たちには「Fちゃんは今朝から張り切って散歩に行きたがっているし」とか、子どもの心の動きを想像しながら、どんな流れで彼らが「自分ごと」(つまり当事者意識のようなもの)になる関係が育っていくのかを考えているでしょう。

しばらくして、担任はお話をしながら「お名前を呼ぶから、そっちからでいいから返事してね」といって、一人ひとりの名前を呼びます。すると二人はブロックをしながら返事をします。そして水分補給のお茶を飲む頃には、ブロックはかなり完成し、二人とも飲みにきて、また急いでブロック作りに戻ります。

私は見学者に「そろそろ、これから散歩に行くか、お部屋で過ごすか、どこで何をするかなど、どう過ごすかを話し合うタイミングになるから、あの子たちも参加し出すんじゃないかな。どこに散歩に行くかなど、自分達のやりたいことを伝えないと、違う結果になると嫌でしょうから。参画のタイミングで戻ってくるんじゃないかと期待しているんですけどね」と話しました。でも実際は、そうなりませんでした。散歩に行く準備が始まってから、二人はブロック遊びをやめて散歩に行く準備を始めたのです。遊びながら先生の声を聞いていたので「それならやる」と思っていたのでしょうか。それはよく分かりません。でも、これが彼らなりの朝のお集まりへの参加の仕方でした。

このように、子どもたちは自分の好きな遊びを自分で始め、そして自分で「お終いにする」まで続けます。遊びの自立とは自分で遊び初めて、自分でお終いにできることです。そのタイミングは、自分でこうしようと、見通しを考えながら、あれこれ考えているのです。この時期の二人にとってはそこまで育っているので、それで十分なのです。とにかく自分で決めて初めて終われるというのは、大事な自立の姿なのです。そして、対話を重ねながら、徐々に自分の関心ごとと、他者の思いを重ね合わせて考えることができるようになっていくのです。

若者を覆う閉塞状況の正体

2022/12/11

私の友人から、Facebookでこんな書き込みをもらいました。

全く同感だったので、その内容をご紹介します。私が感じてきた「閉塞状況」を説明してくれています。ここからの解放が、ぜひ求められている気がしてなりません。変えるべき保育の本丸はここからです。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid02Lr2dHvaNm1uXLHw1DNpcF94qw1KigeAcfG4uLGUK2jWi9k9N9eZXuDs9wrDvMzNYl&id=100005943404376&comment_id=695796388721114&reply_comment_id=665596058395799&notif_id=1670764303202880&notif_t=feed_comment&ref=notif

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倉掛さん、返信対応してくれてありがとうございます。

日本の場合、謙虚さや控え目の裏側に、いつも周りに同調することを良きこととする慣習・文化が根強いのだと感じています。そもそも個性とは独自のものだから、他者や外部の環境と接すれば「違和感」がつきまとうはずです。

それなのにその違和感よりも、大人は先ほどの慣習の正しさを教えこもうとします。僕の場合、小さい頃から学校文化になじまなかったせいか、この違和感をどう伝えたらよいのかをいつも悩んでいました。この違和感を自分としては素直に外に表現したつもりでも、大人からはいつも問題児扱いされ、説教されることが多く、辟易としていました。幸い対人関係に悩んだとしても、それを乗り越える鈍感さと、自分なりに考えたり調べたりする力があったため「うつ」にはなりませんでしたが。
要は、この「異」や「違」を幼いころから素直に発信できないことが、倉掛さんの言う「閉塞状況」の正体だと思います。自分でも言語化できないうちに、よくわからないままに同調することに慣れすぎてしまっている気がします。
僕が学校の風景でよく覚えているのは、「福島くん、それは今考えることではありません」と先生によく言われたことです。例えば僕は国語の授業で「なぜ○○についてもっと考えないのか?」と思ったり、数学の解の公式について疑問をもったり、速度と時間と距離の関係について疑問をもったりと、今でも自分で勝手に調べた記憶がありありと思い出されます。
守破離の「破」に行こうとすると、いつも連れ戻されました。連れ戻された世界は当然退屈なので、集中して聞くことができず、ひどい時には早退(脱走?)や欠席をするわけです。
学校教育に必要なのは、独自性や個性を尊重し、最大限伸ばす方法を考えることです。そのためには倉掛さんが言うように「違う考えや価値に出会って」、自分を超えていく体験を積み重ねていくことです。具体的には一斉授業を極力やめて、教材は共通だとしても学び方を自由にしていくことです。ただこんなことをは、僕が言わなくても倉掛さんはわかっているので省力しますが…。
いずれにしても倉掛さんが言っている閉塞状況は、深刻だと僕も思います。
この状況を変えていくには、やはり現場からでしょうね。
もどかしいのは、園を変えていっても、それが小学校以降の教育には参考にされない点です。
それなので「新しい学校をつくる会」に参加してほしいと倉掛さんに言われた時は、嬉しかったです。できる・できないではなく、何を実現することで世界を変えていきたいのか、そこが何より大切です。
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ストレスフリーの「お楽しみ会」(乳児)

2022/12/10

<ある条件>を整えるなら「こんなに楽しくて、自分らしさを表すことができる」ということに、今日、私は感動しました。これまで「自分らしく」過ごすことを大切にしてきた積み重ねが、こういう姿となって現れるということを目の当たりにして、本当に嬉しくなりました。今日10日は、乳児(0歳から2歳児まで)のお楽しみ会でした。今年は保護者参加型でやってみたのです。

<ある条件>というのは、ストレスフリー、ということです。なんのプレッシャーもない、練習なども全くゼロで、いつものように生活して遊んでいればいいという行事です。子どもが親がそばにいて欲しければ、一緒にやります。無理に引き離すこともなく、安心した心理状態で、普段の様子を見てもらいました。

多くの方はお休みの土曜日。9時に登園してもらって、子どもたちだけでひと遊び。その間、保護者の方は2階に集まってもらって、今回のお楽しみ会の流れや趣旨を説明しました。今日、一緒に見ていただいた内容は、ひと遊びした後からの様子です。お名前を呼んで出席を取ったり、歌を歌ったり、絵本をよんでもらったり、朝のおやつも食べて、使ったエプロンやお手拭きタオルも自分で手提げバックにしまって。靴下履いて、靴を履いて、お外へ出て、親子で和泉公園までお散歩。そこで遊んで解散。ここまでを「お楽しみ会」として実施しました。

担任が◯◯ちゃーん、と名前を呼ぶと、は〜い(と声にならないばあいもありますが)と手があがり、その度に周りからおほえましい称賛の拍手。本人も嬉しそうに自分でパチパチパチ、と拍手しています。大好きな絵本を読んでもらいながら、それを自分の親にも指差して「みて」と促す子がいたりして、保護者と一緒に楽しんでいます。

実はこれまでの経験から、朝親子が別れるとぐずってしまうことがあり、再会すると泣いてしまう子が多いんじゃないと予想していたのですが、そんなことはありませんでした。0歳児と1歳児のクラスの子どもたち(満1歳〜満2歳)の子どもたちは、いたって平気で、いつの姿を見せてくれたのです。正直、驚きました。ちゃんと先に「これからお父さんやお母さんがまた来るからね」と伝えてあげると、それをちゃんと受け入れてくれています。

2歳児クラスは、1時間遅れて、2階で同じようにやりました。ここではさらに保護者の参加型を促し、絵本を読んでくださったのはお父さんやお母さん。3冊の絵本を楽しみました。3冊目の絵本「3びきのやぎとがらがらどん」を見終わったら、それをやりたい、というのでテーブルを橋に見立ててごっこあそび。お父さんやお母さんと手を繋いで橋を渡った子は、「もう一回!」といって、またやぎになります。安心できる状態にしてあげれば、意欲的になるとう、当たり前の状態を確認できて、誰もがハッピーでした。

とかく日本の行事は、見せて立派にやり遂げた、よくがんばったね、と大人が喜んでいますが、本当に子どもはみんな嬉しいんでしょうか?本当に「誰一人取り残すことのない」(文科省の「令和の日本型学校教育」で使われたフレーズ)保育なのでしょうか。私はそうは思えません。同じ内容を同じ時間に同じ場所で多くの子どもがやらされること。これは今の世界の時代感覚からすると人権侵害をうむ土壌そのものです。子どもは一人ひとり違って当たり前なのですから。

それでも、まだまだ課題はありますが、せめて出来栄えを見せる、競う行事はやめたい。やるなら選択制にする。それぞれの子どもが安心して過ごせる毎日、発揮したい自分のやり方が選べる方法、それをお互いに認め合い、助け合う関係が育つ場にしたいと思っています。次回幼児(3歳以上)のお楽しみ会は1月になります。これくらいからは、自覚的な「自己表現」といえる姿がミラるようになっていくでしょう。どうぞ、お楽しみに。

第三者評価の限界と保育の質

2022/12/09

園長向けの研修会で、監査と第三者評価について講義する機会が12月5日の夜、東京・高田馬場の「日本児童教育専門学校」でありました。このシリーズ講座は同専門学校と私の法人の理事長である藤森平司氏が、共同で企画開発し始めたものです。

今行われている保育士向けのキャリアアップ研修では、各分野の最新の制度改正後の概論の確認が中心になっており、国のガイドラインに突き合わせながら、代表的なテキストを調べてみると、受講スタイルは説明&参加者のディスカッションとなっている場合が多いようです。当園の受講者の報告によると、要領や指針が本来目指していることを掘り下げた説明は講師によって差があり、例えば中教審答申に至る過程で影響を与え続けている世界の動向(例えばラーニングコンパスのAARサイクルの意味とコエイジェンシーの関係、社会情動的スキルの育み方など)をはじめ、脳科学などの学際的知見、文科省や内閣府が目指している<学びのパラダイムシフト>などを学ぶことができない、という認識から試行しているものです。

それに合わせて、施設長がアップデートする機会も作ろうと、園長向けの研修も始めたのです。その日は、私の持ち時間90分のうち、監査について20分、残りの多くを第三者評価について説明しました。

監査、学校評価、第三者評価そして自己評価の関係は、それぞれ所管やねらいが異なることからくる違いを確認した上で、共通の問題点として整理したのは、次のとおりです。

一つは理念や目標の再構築過程の評価が弱いことがあります。福祉施設の第三者評価は東京都の場合、めざす理念の内容が問われることがありません。極端なことを言えば、赤ちゃんは白紙で無能という認識のままでも(実際にそう思って保育をしている保育園長がいましたから)、その発達感に基づく保育を実現させるために組織が一丸となって、大人が主体の、子どもを上手に動かす一斉保育が見事に展開されていても、いいのです。

確かに第三者評価の組織マネジメントでは、6つのカテゴリー全体を一年単位のPDCAで回すことになっている(その自己評価がカテゴリー7)のですが、理念(は目標概念ですが)の再構築は、カテゴリー1の名前が「リーダーシップと意思決定」となっているように、その見直し過程のプロセスの評価はあっても、その理念そのものも価値判断は、各法人や施設に任されているので、そこをどうするのか、という問題は第三者評価の圏外になってしまします。

もう一つ、大きな問題だと思うのは、第三者がまるで神の目のように、課題を指摘してもらえるかのように勘違いされている節があるのです。そんなものはありません。最初に評価の基準というものが示されて、その枠の中でやっているものなので、その評価の基準そのものを問い返してもいいのです。

でも、そんな発想は現場からはなかなか出てきません。唯々諾々と、あります、やってます、にしておいて、その裏付けを探しているというのが実態です。監査は法令遵守ですから、ありません、やってません、は指摘されますから、全て「◯」にしないといけませんが、第三者評価は、本来、それの上乗せ部分を評価するのが建前ですから、濃淡があってもいいのです。それがその園の強みや特徴となって、利用者の選択に資する、という考え方です。

ただ、これが最も深刻な構造問題なのですが、東京都の場合は、日本経営品質協会の顧客価値創造経営のモデルを社会福祉に持ち込んだものなので、どうしても、利用者の満足度が幅を利かせる評価構造になっているのです。端的に言って子どもの経験の質が中心にはないのです。延長保育の要望があったら速やかに対応できているか、長時間保育に対応した指導計画をもとに、その工夫をどうしているか全体の計画に位置付けいてるか・・・などが目立ちます。

このことを考えてもらうために、講義では学校教育との比較をしてもらうました。保育所は、直接契約の元で、福祉サービスとい言葉(学校教育にはサービスという言葉は出てこないと思いますが)が表しているように、そこに向けてサービス競争を促す構造はあっても、幼稚園のように教育課程、カリキュラムのマネジメントの質に向かわせる組織の動機が発動しにくいのかもしれません。

そして達成した途端に、新しい地平が見えてきます。新しい頂が覗きます。そこと現時点の差が課題です。課題は第三者から示唆を得ることもありますが、組織の「仕組み」になっていく過程で、必ず新しい目標が見えてくるものなので、その差が新しい目標になっていきます。ここでいう課題は、最近流行の議論で言うなら、最上位目標の再定義と言い換えてもいいでしょう。

私は、第三者評価にしても、保育の質の向上は、子どもの経験の質をプロセスとして捉えることから始まると思ってきました。物や空間のアフォーダンスにまで立ち返り、同時に精神や自我が社会とどういう関係になっているのかを考える時間をできるだけ確保しつつ、資質・能力が創発する環境としての保育園、学校の在り方を考えています。

そのためには、子どもがどんな体験をするのが望ましいと考えているのか。掲げている理念にそれが現れているはずです。その一つをとっても、私には理念の再構築はずっと続いてきた物でした。組織は学び続ける必要があります。第三者評価を受けることでその中身が出てくるわけではありません。それは理念実現に向けた自己評価のための参考指標なのです。望ましいと思える理念は、<私たち>で織り成していくものであって欲しいと願いながら。

 

保育園に台所がある意味

2022/12/08

今日は夕方から「保育園の食事の提供の実際と栄養士の業務」について、大妻女子大学短大で話をしてきました。話したのは私の他に「さくらしんまち保育園」の小嶋泰輔園長先生と、フランスレストランのシェフ江口颯良さんの3人。90分を3人で分担、構成しました。受講したのは、みんな栄養士を目指している同短大の1年生です。多くが保育園で働きたいと思っているそうです。そこで、保育園の中にちゃんと調理室があって、栄養士も保育士と話し合いながら、子どもの生活に即して献立を考えたり、食べる環境を工夫したり、子育て支援がよりきめ細かくできたりする「自園方式」のよさを説明してきました。

というのも、保育は、この15年ぐらいでしょうか、調理業務の外注化、委託化がかなり進んだように感じます。そろそろ、その総括をするべき時期だと思います。そして私はやはり、調理室がなくなったり、あるいは調理員の委託化が進むと「その園の子どもの生活に応じた」献立、調理、喫食、振り返りなどができにくい、と感じてきました。また安心・安全な食材に切り替えて提供するといったことも含めて、食事の質を高めることも難しいという課題がはっきりしてきたのではないかと思います。

「その園の子どもの生活に応じた」というのは、保育士や栄養士が直接、子どもの姿を観察できるので、対応しやすいという意味です。例えば離乳食の咀嚼の様子や食具の使い具合を観察して、その実際を理解してあげれば、その子に合った離乳食を作ることができます。単純に月齢で分けたりせず、発達の実際に合わせるのです。微妙な柔らかさの加減などは、保育士からの指示だけで調理担当者が作ることは難しいものです。それは保育士が箸の持ち方を教えてあげたいな、と思う子どもがいたときに、遊びの中で「箸遊び」の遊具を工夫することと似ています。

あるいは味覚に敏感な子どもの食事の進み具合を確かめながら、どんな食感に変えるとたべやすいのか、といった検討もしやすくなります。行事のリクエストメニューに応じたり、屋上で採れた野菜を、その日の料理にうまく入れ込んだりもできます。先日も近所付き合いでいただいた「かぼす」を活用できないか、相談したばかりです。

さらに食事を作ってくれている人が、すぐそばにいて、「先生、美味しかった。またハンバーグ作ってね」を伝えられる関係があることの意味は非常に大きいのです。このようなことが業務委託では、絶対にできない、とは思いません。でも作ってくれる人は、確かにそばにはいますが、子どもと一緒に遊んだり、園児と一緒に食事を取ったりしている間柄ではありません。子どもたちに愛情を注ぎながら食事を作る人がそばにいる、ということが、とても大事な意味をもつように思えて仕方ありません。

当園には子どもキッチンもあるので、遊びで描いた絵でクッキーの型抜きをしたり(誕生日会の午後のおやつ作り)、ぐりとぐらの絵本を楽しんだ後でホットケーキをつくって食べたり、その時季の旬のくだものでジャムを作ったり、桃太郎の劇遊びに連動して「きびだんご」を調理さんに作ってもらったり、ベランダで育てているミミズハウスの餌を調理さんからもらったり、「アリさん」や「ダンゴムシ」や「しゅんちゃん(セキセイインコ)」は、何を食べるのか栄養士さんも一緒に調べてみたり・・そうしたことは数限りなく生じています。子どもの生活や遊びと「台所」が結びついているのです。決して給食の提供に限らないのです。専門家が連携するチーム保育というのは、保育士や看護師、栄養士、事務員、子育て支援担当者らが、その園の子どもの姿を共有しながら、つながりあうということです。

どこかで管理栄養士が統一献立を作って、各園はそれに従って調理員が料理を作ればいい、ツリー状の態勢では、子どももや大人にとっての個別最適な学びのための環境を、より豊かに展開することは難しいような気がします。保育実践の中で実感する望ましい態勢というものは、大人も子どもも、これからの時代に育んでいきたい資質・能力(全て個人は還元できない)を想定していくと、その中の環境を柔軟に組み合わせていく、臨機応変な対応力が必要だろう、からです。保育学会もブリコラージュをテーマに取り上げたりしていました。

「お花の植え替え体験&野菜収穫」のレポートが掲載されました

2022/12/07

9月30日に行った「お花の植え替え体験&野菜収穫」のレポートが今日、ホームページで公開されました。

https://www.ecozzeria.jp/events/env/report-repotting-220930.html

この体験を用意してくださったのは、エコッツェリア協会です。

レポートから、少し紹介しましょう。

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目で見て、触って、匂いを感じる

子どもたちは、花や土に触れながら「いい匂いがする」「なんか変な匂いするよ」と口々に感想を言い合い、それぞれ自然との触れ合いを楽しむ様子が見られました。花を植えた後は、水やりをして作業完了。
たくさん用意されたエディブルフラワーが綺麗に植えられ、衣替えしたように花壇がぱっと華やぎました。きっと、オフィス街で働く人々や大丸有エリアを訪れる人々の癒しの空間になってくれることでしょう。

「今日は、みんなにレタスとラディッシュを収穫してもらいます。お家に持って帰って食べてみてね。ここの野菜はお水で育てているから、とても葉っぱがやわらかいの。ラディッシュの葉っぱもお味噌汁に入れたりして食べられるので、お父さんお母さんにぜひお話ししてみてください」

水耕栽培された野菜の収穫方法を教えるのは、アーバンエコファームを管理するエスペックミック株式会社の仲間亜友未さんです。 茎の根っこの方を持ち、引っ張ると簡単に取れる仕組みになっているため、子どもたちは難なく野菜を収穫していきます。長い根っこを興味深く観察する子や、収穫される前の野菜が放つ匂いに関心を示す子もいました。
どんどん収穫は進み、あっという間に栽培室の野菜はすべて収穫完了。袋いっぱいになった野菜を持って、みんな満足そうな表情。「もう一回やりたい!」と、まだまだ収穫し足りない子もいたようでした。

生き物や植物との触れ合いが、命の大切さを教えてくれる

「園には園庭がないので、普段の屋外活動は近くの公園や神社へお出かけしています。特に、普段から自然との触れ合いは大切にしていますね。公園でトンボやダンゴムシを捕まえたり、タンポポなどの草花を見つけたり……。最近のおもしろい取り組みとしては、去年飼っていたスズムシの卵を育てて、孵化させるまでをやってみました。9月の中旬ごろまで鳴き声を聞かせてくれました」(倉掛先生)

そう話すのは、千代田せいが保育園園長の倉掛先生。今年の3月に大手町エコミュージアムで開催した、ホタルの放流プログラムにもご一緒していただきました。今回のお花の植え替えでは、土に触ったり水やりをしたり、また違った面白い経験ができたのではと倉掛先生は話します。保育施設でも、屋上スペースで野菜を種や苗から育て、成長していくプロセスを観察しているそうです。

「自分で野菜を収穫するのはとても良い経験だと思います。どんな味がするだろうかと興味を持つきっかけになりますし、持ち帰って親御さんとの会話も生まれるでしょう。野菜を育てて、収穫して、食べるまでの過程の周辺には、子どもたちにとって成長の糧となるたくさんの発見があります」(倉掛先生)

千代田せいが保育園では、今回収穫した野菜だけでなく、ごみとして処分する予定だった根っこも持ち帰られました。園で、野菜のヘタや根っこを水に浸けて再生させる”リボーンベジタブル”に挑戦するそうです。

「野菜クズだと思っていたものにも、まだ命がある。子どもたちには、野菜という括りだけではなく、生き物の持っている生命力を感じてほしいなと思っているんです。こうした経験が、ゆくゆくは持続可能な自然・社会への関心に繋がっていくと私たちは考えています。大人たちがどんな文化をつくっていきたいかで、子どもたちに伝わるメッセージも変わってくる。そういった意味でも、今回は一緒に勉強させてもらう良い機会になりました」(倉掛先生)

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(注)「エコッツェリア協会」は、「一般社団法人大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会」や「NPO法人大丸有エリアマネジメント協会」の活動を通じて培われたエリア内の企業との協力関係をもとに、2007年5月に設立された一般社団法人です。大手門タワー・ENEOSビル1階「3×3Lab Future」を運営するなかで、産官学民とのパートナーシップを図り、大丸有(大手町・丸の内・有楽町)エリアのまちづくり推進や、エコに関する調査研究と情報発信、各種イベントの開催など、さまざまな活動を行っています。

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