MENU CLOSE
TEL

園長の日記

喜びもひとしおに感じる瞬間について

2022/11/14

子どもや親御さんと話をしているときに「楽しい」と思うのは、気持ちが通じ合った時です。通い合う、理解し合うというのは、こんなに楽しいものかと思う時があります。そして、さらに理解しあった内容が、お互いに望んでいることだったら尚更です。それは生活の中で、食べたいものが一緒だったとか、行きたい場所が同じとか、会いたい人に一緒に会えるとか、いろんなことで起きるでしょう。それはビジネスシーンでも同じで、目指している目標が一緒に達成できたりすると、それは喜びもひとしおでしょう。

そんなふうに考えると、それは大人に限らず、人は赤ちゃんの頃から、好きな人がそばにいて、自分の気持ちを受け止めてくれたり、共感してくれたりすることをとても求めています。大抵はそれは親ですが、そうでなくてもよく、そういう人がそばにいるから、その人に近づき、くっつき、触り、よく聞こうとします。そういう人に自分の気持ちを伝えたくて、話そうともします。指をさしたり、教えたり、助けたりさえします。そうして言葉も獲得していき、人と支え合うために自立心が育まれていくように、支え合って分かち合うことから共同性も育まれていくことになるのでしょう。

今日は20日に上映する映画「夢みる小学校」の通し上映(テスト上映)をしたのですが、その準備や打ち合わせなどの打ち合わせを積み重ねていくうちに、いろんなところで嬉しい気持ちになります。さらに分かち合う内容が、夢の実現に向かい営みだとしたら、それを抱くことができることは、冷静に考えれば稀なことでもあり、幸福なことなのだと思う瞬間もあるのでした。

第三者評価とカリキュラム・マネジメント

2022/11/13

この時期になると、評価機関から「第三者評価をしてほしい」という依頼が来るようになります。東京都の保育所は最低3年に一度、第三者評価を受けなければなりません。保育の内容に関するものが2分野、組織に関するものが1分野あります。最近は組織マネジメントの第三者評価を担当することが増えました。これまで50を超える保育園を評価してきました。でも受けるのを躊躇するようになりました。というのも、第三者のあり方にいろいろな疑問を抱くようになってきたからです。その理由はいろいろありますが、一つは保育の質の定義、特にカリキュラムという考え方との関係が曖昧なことと関係しそうです。

藤森統括園長は私が保育の仕事に就いた1997年ごろ、すでに「経営の強化は保育の質の向上から」と強調していました。当時、全国私立保育園連盟の経営強化委員会の委員長として「保育の質」を常に取り上げていました。その頃すでに待機児童の問題や、選ばれる保育園のための保育サービスということは言われていて、子どもの経験に直接関係する質に関しては、なかなか議論されててこなかった気がします。

例えば「カリキュラム・マネジメント」という言葉は、その頃、つまり平成10年(1998年)の幼稚園教育要領などの改訂の頃、海外の事例が紹介される形で語られるようになったと記憶しています。就学前の保育は、経験カリキュラムで、教科に分かれている小学校以降の学校は教科カリキュラムと言われています。そのカリキュラムのマネジメントを考えようと言うわけです。その後、カリキュラムの改善としてPDCAサイクルの対象になっていきます。

ところが幼稚園やこども園ではこの言葉はよく使われているのに、保育園では馴染みが薄い気がします。それ以前に、保育園ではカリキュラムという考え方そのものが馴染まない風土のようなものがあります。平成20年告示の保育所保育指針で解説書を作っているときに「保育課程」という概念を提示したのですが、今回の指針改訂ではその概念は無くなりました。そんなところにも、まだ保育をカリキュラムとしてどう考えるのか、定まっていないことと関係しているのでしょうか。

ところで保育所は児童福祉施設なので第三者評価を受ける必要があります。一年単位のPDCAサイクルが回っているかが問われていくようになるのですが、それは組織の運営に関する全般的なマネジメントなので、必ずしもカリキュラムの改善に焦点が当たっていません。保育の質の向上とは関係がない事例も、サービスの向上として評価されます。例えば保護者支援として、おむつをサブスクにして便利にしたとすると、そんなことでも経営強化になれば、立派なマネジメント向上として評価されます。

本来は自己評価があって、その上で第三者の評価を自己評価に生かす、そういう関係が好ましいと考えるのですが、その自己評価そのものが不安定なままかもしれません。子どもの体験の質をどんな形で自己評価するといいのでしょうか。その基本はおそらく、子どもの資質・能力の変容過程に影響している要素を取り出して、その要素が働く機能の「しくみ」を想定すること、そしてその「しくみ」を自己評価したいところです。

しかし、そこが難しい。経験カリキュラムの自己評価、それは個人の学びの軌跡をどう可視化するか、という課題に戻っていくからかもしれません。11月23日、東京大学大学院教育学研究科附属発達保育実践政策学センター(Cedep)は、国際シンポジウム「子どもと大人の学びを編む:プロジェクトのなかのドキュメンテーション」を開きます。この課題の糸口を探してみます。

 

架け橋のむこう

2022/11/12

先日の「クラスブログ」に、最近の年長すいすい組の姿が断片的に紹介され、こんなことが書かれています。「小学校がイメージしてくるすいすい組。 幼児期までに育ってほしい10の姿。 これが育まれていることを感じる姿がよくよくみえてくる最近のすいすい組です。」と。

小学校がイメージしてくる、というのは、小学校へ就学すること想定すると、こんな姿を捉えてみたくなる、意識してみたくなる、そうした窓でそんな姿を切り取ってみると・・・といったことでしょうか。そうしたら、そこに「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」でいう姿が見えている、というわけでしょう。例えば、こんな姿です。

◆泣いているお友達がいて、「どうしたの?」と駆け寄り、(お当番一人でやるの嫌)理由がわかると「そしたら一緒にやってあげようか。」と提案する姿。

◆自分のお当番の日ではないけども、「先生。今日は○○がお休みでいるからお当番変わりにやるよ」といって、エプロンを取りに行く姿。

◆「今日は○○が掃除当番やらないって、だから代わりにやってあげるよ」とお掃除当番に来る姿。

◆「昨日、また遊ぼうと約束していたから1階にお手伝いに行かないといけないから、いい? (その子が)待っているんだよ」と乳児の言葉に耳を傾ける姿。

◆「もう少し、こうやるといいんだよ」とエサのあげ方、関わり方のアドバイス、やらせてあげようとする姿。

◆「あ。私書けるよ。書いてあげようか。」(自分でやる)「そうわかった。あ、すごい上手!!!」と手伝っているようで寄り添っている優しさ。

◆「みんな。今はさ、○○をするときだから、もうはじまるよ」とリーダーシップ。

こんな姿が「子ども同士のかかわり」の中だからこそ出てくるものなのでしょう。さて、そうした関係の継続も小学校以降の生活と学びにどのようにつながっていくか、担任は気になっているようです。「架け橋」の向こう側でも、そうした人的環境を構築していってもらいたいと、担任は考えています。

子ども同士のかかわりーその意味と役割をもっともっと

2022/11/11

姉妹園の新宿せいが子ども園(藤森平司園長、東京・高田馬場)のところには、いろいろな人がきます。最近は小池都知事がやってきて、これからの子育て支援で必要なことを視察しました。映画「こどもかいぎ」の豪田トモ監督もきて、子どもが育つ環境の質について語り合いました。多くの人が子ども未来や子育てのあり方を考えています。藤森統括園長や私が常々思うことの一つは、子どもの「子ども集団」の中での経験です。進化心理学者のスティーブン・ピンカーは、1998年5月に、「子ども同士のかかわり」「仲間集団の重要性」を指摘したジュディリス・リッチ・ハリスの書『The Nurture Assumption』(邦訳は『子育ての大誤算』)(早川書房)に次のような序文を寄せています。

「この驚くべき一冊をはじめに読めたことは、心理学者たる私のキャリアの中でも至上の体験の一つとなった。学術的であり、革新的でもあり、洞察に満ちた、また驚くほど明確で既知に富むこのような本には、なかなか出会えるものではない。ただ、あまりのおもしろさに誤解しないでもらいたい。本書は真面目でかつ伝統にとらわれない科学の本である。おそらく心理学史に転機をもたらした一冊として名を残すことになるだろう。」

このハリスの議論は「藤森保育道」(学、ではなく道、と私たち仲間は呼んでいるのですが)に大きな示唆を与え続けてきました。というよりも、藤森先生が独自につくりあげてきた保育が、偶然あとでハリスの議論と出会うのです。ハリスの議論は発表された当時、異端扱いされたエピソードが伝わっていますが、私たちの印象では、学術的な世界の中のことはわかりませんが、保育園の生活の中で起きていることととても親和性が高いのです。子どもが独自に作り出す集団のダイナミズムは、大人が枠をはめた子ども同士ではありません。

このハリスが提示したことは、親子関係や子どもと保育者の関係、子どもと研究者の関係など、主に二者関係で見えてくる子どもの姿は、集団の中での子どもの姿は異なる、という事実から根本的に考え直してみることを、促します。書きぶりが刺激的なので、ピンカーも「その論点ははじめこそ直感に反するような印象を与えるが、読み進むうちに実生活では出会うこともないような従順なヒトもどき(ニューマノイド)ではない子どもと親の実像が明確になっていく。その他にも、児童発達研究で頻繁に登場する方法論を痛烈に批判し、なぜ学校が機能しないのかという問題も斬新な観点から分析する・・・」と書いています。きっとそうだろうな、と思えることが多いのです。機会があれば、ぜひお読みください。

この意外性は、核家族化や虐待、育児休業の延長の影響、3歳児神話を支えている発達観などを考えるときに、私たちが意識せずに信じている考え方が「違うかも?」と気づく意外性と重なってきます。子どもと家族を取り巻く環境の影響を再考するとき、どうしても「子ども同士」「子ども集団」の中で起きていることを捉え直すことが必要だと思えるのです。

 

自己表現にさしかかる頃の「みないで!」

2022/11/10

安易に口を挟まない方がいいと思うことがあります。その子がどんなふうにしたいか工夫したりしているときはなおさらです。例えば、絵を描いているときに、近寄っていくと「みないで!」と言われる時があります。私なんかは、特に評価のまなざしを向けないように意識しているつもりなのですが、それでも、そんなリアクションをもらうときがあります。そういうとき、子どもは、いま自分のやっていること、表わそうとしているものは、まだ満足いくものではなくて、「どうしたらいいのか試行錯誤中だから、私のことそっとしておいて」と言われているように感じます。途中経過への寸評はまっピラごめんよ!というわけです。

この心の動きは、自分が働きかけて変化したその外界と、その結果を自分がそれを受け止めているときに感じている違和感の表明でもありそうです。こうやって子どもは自分との対話を繰り返しながら、自分がやりたいことがどんなことなのか、本当になってほしい変化は何なのかを見つけていくのでしょう。表現には、そんな反応が出てくる発達の段階があって、意図的にこうありたいという願いを伴った探究を伴っているのでしょう。表現の修飾語として「自己」を頭につけた「表現」、つまり「自己表現」と呼べる段階に差し掛かっているとも言えそうです。

そう考えてみれば、自分の内面にずかずかと入り込んでいくような関わりになってしまっていないか、子どもが特に意識的に何かを考えたり、作り出そうとしているときに、私たちはある意味で「真剣に」見ないであげること、も必要なんだろうと思います。いえ、そういうことをやっているんだろうと把握しておくことは必要かもしれません。どんな年齢であろうと「自分づくり」に関わることは「そっとしておく」ことも大事なのでしょう。青年期で、もし表現に関わる仕事を目指している場合なども、自己表現の質が「問われていく仕事」を目指す場合は、丹念で注意深い関わり方が必要になるのかもしれません。

個人と集団をつなぐ3つの活動

2022/11/09

昨日と今日と、午後の時間に午睡をしない子どもたちと「エルマーのぼうけん」三部作目「エルマーと16ぴきのりゅう」を読んでいました。この活動一つの中に、いかに豊かなものが含まれているか、それこそ説明し出すと、キリがないくらいです。

私の園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。学校をつくりたいと思って教育学の本を整理していると、大抵は3つの要素を大切にしてきたことがわかります。保育界でも昔から「個と集団」の関係は議論されてきたものです。

自分らしさ、と他者のその子らしさをお互いに承認し合う生活とは、どうしたら両立するのかを考えてきたのですが、当園の実践から抽出すると、それは「選択」することと「参画」することがつながっています。そしてその間に大切な「対話」があります。そういう並びが循環しているように見えます。選択、対話、参画です。参画するために、異なる意見や考えが生じたときに、子ども同士の対話が生かされていくのです。

これを含む活動は、プロジェクト的なものになります。目標志向型の生活には、そうした対話が生じやすい。協働的になります。ただ、それぞれに、何かはみ出てくるものがあって、そこに大切なものが含まれていく「スッキリ整理できないもの」も大事です。

私の園では、みんなで作り上げる遊びを通じた生活がベースにあって、だんだん、年中さんや年長さんぐらいになってくると、生活と遊びに中に課題発見や課題解決、知的な探究も含めて、何かを作り上げていく活動などが増えていきます。つくるものは、物でもコトでもあります。

エルマーのぼうけんが年長組の劇になって行ったとき、それも同じような要素が巻き込まれていく渦のように、いろんな学びが発生していきました。年長組は「お泊まり会をもう一度」と願っています。こういうテーマなども、課題解決型でもありながら、何かを作り上げる活動になっていきます。その学びをとめないことが、小学校以降の生活と学びの「かけ橋」なのでしょう。

月食で見るものと見えない科学知識

2022/11/08

皆既月食をみながら子どもが「生活の知識」を積みなさねても「科学の知識」には辿り着けそうもないな、と直感的にわかます。毎日、お月様を見ていても、満ち欠けが起きる理由さえ、自分の生活経験から導き出すことなんて、できないでしょう。それは教えてもらったから、あるいは自分で学んだから、知っている知識です。毎日の生活の経験から、太陽と地球と月の位置関係を、太陽の公転面を上から(下からでもよいが)眺める視点を持ち得て初めて、満ち欠けが発生する理由や意味を納得できるからです。日常の生活から公転面を外から眺めるようは視点を自分で見つけることなんて、できそうもありません。

皆既に限らず月食は、地球のかげが月に映っているのですが、欠け始めはその部分が影らしく暗いのに、欠ける部分が増えるほど、全体がぼんやりと明るく見えるのはどうしてでしょう。光の性質は不思議で、直進している光はものに当たると散乱し、光がそこにあるとわかるようになります。光自身は光っていないのです。映画館やプロジェクターから出ている光は、空気が透明で漂っているゴミや粒子がなければ、そこに光線があることは見えません。したがって太陽からの光線はものに当たって初めて見えてくるものなのです。

光はともかく、そもそも、太陽や地球や月や天王星が引力で引き合っているなんて、よく発見したものです。物体と物体の間には引力が引き合っていて、だから私たちも地球に引き寄せらているから立つことができています。空気も引き付けられているから気圧ができ、私たちの表面は1気圧で押されているから、内側からの圧とバランスを保っています。無重力、つまり空気も発散してしまっている真空に放り出されたら、私たちの肉体も内臓も血液も一瞬で蒸発してしまうのです。

何より、宇宙空間で物質は丸くまとまってしまうのも、引力のせいが大きくて、だから太陽も地球も月も丸いわけです。でも、その引力が発生する仕組みは今でも解明されていません。面白いことに、その引力には伝わるのに時間がかかります。時間がかからずに、パッと向こうまで伝わるのではありません。太陽と地球の距離があれば約8分もかかるらしい。つまり思考実験で、太陽を消し去ったとしても、地球は8分間は回り続けます。その後は紐が切れたけん玉のように、太陽の周りを回らずに真っ直ぐ離れて飛んでいってしまいます。

もっと不思議なことに、その重力の伝わるスピードと光の速さは、なぜか同じです。だから、地球から見えている太陽は、8分も昔の姿なのです。夕日の赤い太陽が、「あ、いま日没した」と思っても、実は8分前にすでに日没している(方向に太陽が去っている)。日の出も南中時刻も、そう。これが太陽なら8分前の姿だが、30億キロも離れている天王星ともなると、2時間40分もかかります。つまり今回の皆既月食と同時に起きた天王星食は、8時ごろに起きたが、実際には数時間前の姿なのです。

このように自然科学の知識というものは、自分で見て触って確かめることができないようなものが多い。「そう言われている」、「そう計算されている」、という形での知識です。科学の知識は正確で合理的に判断できるようなものであり、再現性があり、予想できて確かめることができる知識だと言っていいでしょう。では子どもにとって、どんな体験をしておくといいのでしょうか。

私はこれまでの経験から、生活の中に、その子なりに何かを「感じ、気づき、面白いと感じ、自分なりの理屈ができること」まででいいと思います。だから、科学的に正解と言われていることを「知っている」ことを優先するよりも、そこにたどり着けるための考える力、思考力、やりぬく力を育むものを大事にしたい。それは何かというと、感受する感性、着眼点として機能する見方や考え方、その心の動きを別の角度から見れば躍動する好奇心や探究心、ふしぎがる感覚、センス・オブ・ワンダーのようなことが、そもそもの源のようなものがあるのかもしれません。

受け止めてもらいながら自分らしく共に学ぶ

2022/11/07

 

(きのうの続き)。一歩踏み出す先には新しい気分と景色が広がっている。

先週のことです、11月1日(火)。年長のすいすい組と、旧今川中の校庭へ運動をしにいきました。普段やらないようなものばかり。25メートルを全力で走ったり、ソフトボールを投げたり、両足を揃えてピョンピョン跳び越えたり、して遊びました。計測して、それを「体力」として測定するのですが、まあ、それはそれ。何をするんだろうと興味津々の子どもたちも、体験的に理解すると、つまり一回やってみて要領を掴むと、もっとやりたい、もう一回!と意欲が高まっていきます。

そこには自分の気持ちの思うままに伸びていくものと、その感触からさらに自覚的に何かしようと思う躍動する心を感じています。自分に何か足りないと思えることは、それをつかみたい、知りたいという衝動になっていく。「今の何センチだった?」と、さっきよりも、もっと!という自覚的な認識のもとでの「もっと」です。思わず動き出す学びから、ちょっと自覚的な学びへ、年長さんにもなると、そんな姿を見ることができます。

またこんなこともあります。ふだんは3階にいる4歳児クラス(らんらん組)のIHさんは、ちょうど今日満1歳になるY Yくんのことが大好きで、「お手紙を書いたから(ドアを)開けて」と頼みにきます。1階の0歳児クラス(ちっち組)のドアを開けてあげると「お手紙持ってきた」。そこにいた先生たちも慣れたもので、優しく対応します。そんなことを繰り返しているうちに、Hさんは、自分のやりたい気持ちを受け止めてもらいながら、それを実現させ、次のやりたいことを見つけていきます。目に見えて「落ち着いて、しっかりしてきたねえ、Hさん」という声が聞こえてきます。「Yくんが可愛くて、大好きだからね」と。育ちを喜び合うという小さな瞬間です。

その緩やかな変化は、振り返ればある時期にはこう、と学問的に言える質的なまとまりを持っていると、その属性を説明できるでしょう。赤ちゃんが世界を追視するようなことも、聞いたり、話すようになったり、はいはいしたり、のっそりと立ち上がることも、目の前のものをとってさわることも、歩み出して、走り出し、語り続け、つくり上げることも、肘を伸ばして自分の体重を何秒支えることができるかも、そこには付随してくる多くの学びがつながってあるからでしょう。長い目で見れば発達や育ち。その都度の学びは何かに向かって伸びていく。その何かとはどこへ向かっているのでしょう?(明日へつづく)

 

子どもは辛抱づよい

2022/11/06

子どもは大人より辛抱づよい。

子どもといると「あ、そういうことね!」と気づくことが「たくさん」あります。「(ごめんね)そういうことだったのね」と。

たくさんある、ということは、子どもにとっては「気づいてもらえないことだらけ」なんだろうな、とさえ、思います。その「多さ・少なさ」加減は、大人は自分の経験から「たくさんある」と思えますが、経験の少ない子ども本人にしてみれば、なにが多くて何が少ないのかさえも、その基準さえ持ち合わせていない気もします。

だから、子どもはなんて辛抱づよいんだろう、って思う。

それに比べて私はすぐにイラッとしてしまう。

気づいてもらう、ということは「わかりあう」ということ。

いっとくさんは「相互承認」って言ってたな。ヘーゲルもそうだった。

わかってもらえた、と感じると、自分の気持ちが動く。一歩前へ。

だけど、気づいてもらえないと、気持ちはとどまる。

だから、人の気持ちも創発的にできているというのか。

もしも、気づいてもらえていないと、人はその次の気持ちになれない。

だから気づいてもらえてないと、思いはそこに留まってしまうんだろうな。それを気持ちが蟠(わだかま)っていくというのかな。こだわっているように見えるのかな。

そう見えるのは、こっちにおいで、と相手を変えたがっている見方だから。

そうじゃない。相手のことを「気づき合うこと」。気づくことは気を配ることだから、気配り。それをケアといもいう。

共感してもらえること、承認してもらえること、それがお互いに起きること。相互承認のこと。

子どもは辛抱強い。

大人はもっと辛抱強くありたい。子どもたちのために。

6つの「C」を読み返す。

コミュニケーション。

「対話して他者の思い・考えを理解する」

ああ、できてない。

「根拠くなき自信をいだく」

ああ、これかも。

「失敗に怯まず挑戦しつづける」

これなら、できそう。

でも「熟慮した上で」つきか。

よく考えよう。

6つの「C」

2022/11/05

今週を振り返って。ある研修会で。こんな表を玄関に貼ってある園があります。この6つの「C」で始まる言葉を体になじませてみたい。実際にやってみて、それがこれかな?と当てはめてみていく。レベルがあるから、方向性に見当がつきやすい。こんなことが生きていく上で大事、みたいなことを自分で引き寄せていくようになる環境をどう用意しようか。そういう環境とは、状況なので、活動、と考えてみれば、ある目的のある活動に参画していくこと。その過程で「学び」は生まれていくだろう。個人の能力に帰せないプロセスとしての変容。まさに資質・能力としても捉えられる。昨日までの学びを活かした「見方・考え方」を働かせるとすると、こういう理解になるのかな?どうでしょうか?

top