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園長の日記

わあ、冷たい!という「感情」の体験

2023/01/25

私たち保育者は子どもが関わっている対象に注目するとき、子どもの感情に誘われることが多いことに気づきます。子どもが笑ったり、驚いたり、騒いでいたり、面白そうなところに群がっていたりすると、すぐに私たちも「なんだろう」と思って近づきます。今朝は冷え込んだので、ベランダに水を入れて置いておいた容器に氷ができていました。大小さまざまな形の容器に1センチぐらいの厚さになっていた氷を取り出して手に持って、動かしています。

・・・ツルツル滑るし、重いし、透明で向こうが透けて見える、落とすと割れるし、しばらくすると溶けて、雫がおち、床が濡れます。先生も「いや〜、床がべちょべちょで水浸しになっちゃって」と楽しそうです。神田川に面しているベランダは、朝はやくから、子どもたちの「やってみなけりゃ、わからない、実験室」になっていました。

でも、大人は触ろうとしません。もうそれは知っている、と思っているからなのか、冷たいから嫌なのか、触ってみるほど興味を持つわけでないのでしょうね。

朝の登園時間の、この大人と子どもの「くっきりとした差」が表れている光景を眺めながら、子どもは面白いものに近づてゆき、触って確かめたり楽しんだりするものだということを、改めて感じます。

やり尽くした子どもたちは、満足気な上気した顔と手を、見ていた私に差し出します。少し赤くなった子どもたちの手を包んであげて「わあ、冷たいねえ」と、温めてあげました。氷の冷たさと私の温かい大人の手の違いを、子どもたちはどんな感情を持って受け取っているのでしょう。赤いほっぺと冷たい手は、私にとっては子どもらしい「面白がって世界と触れ合った証」でした。

食べちゃダメだよ、ホットケーキ

2023/01/24

 

ホットケーキを作ったから「どうぞ」と幼児クラスの子どもたち6人が事務室へ持ってきました。お楽しみ会のグループ活動としてのクッキングです。それが食べて欲しいんだか、食べて欲しくないんだか、よくわからない話をするから面白くて笑ってしまう。お皿いっぱいに、大きいのやら、小さいのやら、歪な形のホットケーキが何枚も乗っている。

「わあ、すごいね。みんなでつくったの? 美味しそうな匂いだねえ。ありがとう」

そうお礼を言ってお皿を受け取る。でもHちゃんは帰らない。

「これはFちゃんの。これはHちゃん(言っている本人)が作ったの。食べちゃダメだよ」

「え? ダメなの、食べちゃ」

「うん、だめ、食べちゃ」〜。

じゃあ、なんでも持ってきたんかい?!

「そうか、食べちゃダメなんだね、わかった。とっておくからね」。

あげたい、でもあげたくない。

作ったら見て欲しい、でも食べない欲しい。

・・・・そういうことか。

そうだよね、それが正直な気持ちなんだね。

感情はそう簡単に整理できるものじゃないもんね。

そんなアンビバレントな感情を込められたホットケーキは、

とっても食べにくいものとなって、サランラップがかけられたのでした。(笑)

♪鬼はそと、福はうち〜

2023/01/23

♪鬼はそと、福はうち〜、パラパラ、パラパラ、豆の音〜という歌の声が聞こえてくるようになりました。保育園での生活の特徴に季節感を子どもに感じてもらうということがあります。日常生活から感じる季節の移り変わりは自然が伝えてくれるものが多いのですが、日本独自の習慣や行事からも子どもが気づくことが結構あります。2歳児クラスの日誌に次のような記述がありました。

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節分についての話をするとFちゃん、Rちゃんの方から「オニのお面を作りたい」という声があった。顔や目のパーツをハサミで切れるように作っていると、Fちゃんが近くにあった鬼の絵を見ながら、自分なりにクレヨンで髭や髪の毛を描いて作り始めていた。

井形ブロックを組み立ててあそんでいたYくん、Sくんもお面を作っている2人の様子を見て、興味を持っていた。

Sくんもハサミの使い方に慣れてきて、自信がついてきたようで自分から〇の形を切りたいと言って、作っていく姿があった。

お面を作る中で、「次はどうやるの?」と大人に手順を聞いてくることがなく、自分なりにこんな風に作りたいというイメージを持っていることに感心させられました。日々の遊びの中で、わらすくみ(3歳以上の幼児)の制作の様子を見たり、子どもたち自身が道具や素材を使い込んでいくうちにどんなことが出来るのか、何が必要なのかと見通しを持てるようになってきたのかなと感じました。

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子どもの作るものを定番化させず、普段からいろんなものを材料に使って、何かの形にしていくという遊びを十分にさせてあげたい。作っていく途中にその子なりの工夫や考える力、創造性が見られるでしょう。そして作った後でどうなるか、そこからまた何かに気づき、新しい展開が始まるかもしれません。お友達同士での刺激の中で、「やりたい」が重なっていくことで徐々に協同性に向けた展開も期待されるところです。

そういえば、節分で鬼が子どもを怖がらせることには、何の意味ないと思います。大人が本心から鬼や悪魔が心の中にあること、子どもの人権を遠ざけている心が鬼であることとつながっていることに無自覚なうちは、形骸化したイベントが続くのでしょう。

保育における「解像度」とは?

2023/01/21

(青木尚哉さんのfacebookより)

公園に行ってきてどうだった?と聞くと、いろんな子どもの姿が報告されます。◯◯さんがどうだったとか、こんな時にこんなことがあったとか。出来事としての事実と、その事実から感じ取れる「よかったこと」が、よく語られます。子どもが楽しそうだったこと、面白がったこと、興味を持ってやったこと。見たり、聞いたり、触ったり、気付いたり、操作したり、そうした姿が日誌にも描かれています。そして、時々主任と話すのは、どこまでその意味を掘り下げて説明するといいんでしょうね、ということです。

ダンサーの青木尚哉さんと語ると面白い。一般的にアーティストの視点は学ぶことが多くて面白いということもあるのですが、青木さんの場合は自分がやっているダンスを習う人に教えるために、自分の表現ができるまでの過程を細かく分析して、そのダンスが出来上がるまでのプロセスで何が起きているのかを可視化しようとしているからです。その取り組みはまさしく保育の可視化に似ていると思い、語り合っているときに、これは、と思ったのは「解像度」という言葉でした。

青木尚哉さんのコンテンポラリーダンスは、常に即興的なので、変化する周りの環境との相互作用そのものが身体の動きになっていくので、そこには意識と自己の身体と空間の間にある無限の変化をモニターしながら、自身を動かすということをしています。頭から爪先まで、あるいは腕の指先から身体の中心まで、全身に数十箇所ものポイントを意識して、踊ります。

意識するというのは、そのポイントとポイントの線、面、図形、立体などの点や線(曲線や延長線も含めて)、図形の動き(とその軌跡を含めて)をその瞬間、意識して動かすようなことをイメージしていくのだそうです。ちょっと素人には想像できない身体感覚なのですが、その意識している内容の解像度を上げすぎると、ダンスとして意味のないものになり、解像度が粗雑すぎると、使い物にならないという、可視化のちょうどいいレンジがあるというのです。

保育の質は子どもの経験のプロセスを吟味して、何かの表象(ほとんどが言葉)で捉えることになるので、その時に「解像度」という概念が使えるかもしれないと思ったのです。テレビの液晶画面は、2メートル離れたところから見るなら、そこからの解像度で構わず、20センチほどから見るグラビア雑誌のインクのドットほど微細である必要はありません。

印象派の画家が描くときに、どの距離から眺めるのかということを想定して描くように、人の視力と脳の自動処理の関係から適当な解像度で描くことになります。子どもが身につけていくもの、世界を取り込んでいく内容は、生活という解像度にあった認識で構わないのでしょう。誰もがそこで了解しあえる言葉で、子どもの姿をとらえていく。

そうだとするなら、保育者が子どもの姿を捉える関係の網の目について、程よい解像度というものがあって、ある意味で写真のピクセル単位に相当するような、点や線や面や立体を想定してみたくなったのでした。すでにやっていることかもしれませんが、それなら、粗雑なもの、細くすぎるものとは、どんなものなのなのだろう? そんなことをふと、思ったのでした。

年長さんの大目に見てあげる

2023/01/21

保育園では協力ゲームを多く取り入れるようにしています。戦争の教訓からできたEUは移民受け入れを巡って対立が起きていますが、それでも「コーヒージョン」(粘着、団結、結束などの意味)を大事していることから、見習いたいことが多いのです。幼児教育でもそれがボードゲームのルールに反映さえていることがわかります。最後に誰が勝って終わりというゲームではなくて、勝者や敗者はおらず、いかに協力して何かが達成できたか、という競争よりも協同を育もうとしているボードゲームが多いのです。

そんな遊びに親しんできた園児たちは、競争の面白さに加えて、年下の子のやろうとしていることを大目に見てあげたり、協力し合うことを好む傾向も育ってきたと感じる場面が今週ありました。それは本来、早く揃った人が勝ちである「レシピ」というカードゲームを、年少、年中、年長が混ざって遊んでいたときです。作りたい料理のカードには、カレーだったらそのカードの下の方に、肉やじゃがいも、にんじんなどの材料の絵と名前がかいてあって、それをみながらテーブルに他の子が捨てた食材カードと交換していきます。その競争ゲームを始める前に、どんな料理を揃えて「ごはん」にするかをカードで確かめ合っていたそうです。その様子を、担任がクラスブログに書いているので紹介しましょう。

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カードゲーム「レシピ」 を楽しんでいる子どもたちです。

正式ルールの前段階の、ご飯作りをしています。

このゲームは、自分が作る料理のレシピカードを見ながら、作るために必要な材料を集め、そろえるゲームです。 いらない材料を場に捨てて、新しいカードを手に入れるのですが、場に捨てられたカードはもらう事が出来るのです。「ください」「いいよ」とやり取りしている間に、次はだれの番だったかなど動きが目まぐるしく、あそびながら順番を守るというよりも、ゲーム全体がどう動いているのかを広く見ていく力が必要であることがこのゲームの面白い所です。 相手や自分を意識し続けるということは、社会の関係性に広い目で見ていく力ともいえて、とても面白く力が必要な事が分かります。 今日は、交代交代で午前中止まることなく遊び続けていた子どもたちでした。

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全部の食べ物の材料カードの中には一枚しかないものがあり、それだけで料理との1対1の対応になっているものがあります。例えば、その絵の「豚肉」は酢豚の材料だとすぐわかるので、「ください」といっている子は酢豚を作ろうとしているとわかってしまうのです。そこで、何を作っているかがわかると、交換したいけどどうしようかな、他の子は何を作ろうとしているのかな、と「考える」ようになります。駆け引きのようなことがおきます。そして「ください」「いいよ」はランダムに起きるので、本来の順番とは別です。

その本来の順番が「次、誰だっけ」とわからなくなったとき、ちゃんとわかっているのが年長の「KくんとKさん」だそうです。その子たちは、年少の子たちが作ろうとしている料理も作らせてあげるために、持ち札を捨ててあげたりしているあたりに、本来の競争ゲームではない段階での配慮というか、優しさのようなものが見られたらしいのです。発達の異なる子どもたちが一緒に遊ぶ時に昔よくやった気がします。異年齢保育のよさかもしれません。

随分前ですが、協力遊びの重要性を学ぶために、オランダから講師の方を招いて複数の保育園が集まって研修を受けたことがあります。いくつもの活動や遊びを学んだのですが、象徴的だったのが全員が勝つ「椅子取りゲーム」です。普通の椅子取りゲームは、最後まで残った人が勝ちですが、講師のアナマイケさんでやっているものは、だんだん椅子が少なくなっていくと、どうやったら狭いスペースにみんなが譲り合って座れるかを協力し、一番少ない椅子はどれがを競うのです。今で言えば持続可能な共生社会のためにいかに協力できるかを、子どもの頃から学ぶのだというのです。協力型のボードゲームが日本製にはあまりありません。そこで海外ブラントのものを取り寄せて購入しています。

 

 

 

白身魚のほぐし方

2023/01/19

 

「みてて、ねえ、こうやって食べたら美味しいんだよ。お箸で食べるから、みてて」と、年長の女の子Sさんが私を呼び止めて見せたがります。そこまで言うならと、私は彼女の隣にしゃがんで「どれどれ、何よ、何が始まるのさ」と、みていると、お昼ご飯の白身魚のフライを白ごはんの上に乗せて、フォークとスプーンを突き刺してフライをほぐして、ご飯と混ぜ、どんぶりのようにして、お箸で食べられるところを見せてくれました。「ね!っ」と。

そうしたい経緯がよくわかるので、私は見ていて楽しいし、Sさんも満足そうです。この「瞬間芸」のようなことについて、彼女から伝わってくる印象は次のようなものです。お箸を巧みに使いこなせるようになったらしく、そのことを見てほしいという気持ちがあるのは間違いない。当園の昼食とおやつは、1ヶ月ごとに変わるのですが、同じメニューが2回でます。今日のは2回目なので、白身魚のフライの美味しい食べ方を、1回目の時に発見しているようなのです。

それをまたこれからやるから、それを知らない私に(周りのお友達は知っているだろうから)、伝えたくなったのでしょう。どうなるか、食べる前からわかっているので、「ほら、これからこうするから、見ててね」という、素晴らしい結果になることを予期しているからこそ、やる前から誇らしげに伝えてくる、ニヤニヤした感じの表情。その優越感さえ漂わせた、大袈裟にいうと勝ち誇ったかのような仕草で、自分が見出した発見の喜びを、ワクワクしながら見せびらかすことができる喜び。だから「今からやるんだから、ちゃんと見ててよ」なのです。

彼女と私の関係、よく知り合っている仲良しの関係でありながら、ルーティーンまでは知らない関係。知らないだろうことを教えたい、伝えたいから、私を選んだあたりはとっくに心の理論は通過しており、伝えて驚いてくれそうな他者がいるという、程よい関係の他者がいるという役割が私にあるんだな、と気付いたのでした。これは親子関係でも、起きてそうだけど、きっと「まあ、せっかくのフライが!」となりかねないかもしれません。

ノロウイルス

2023/01/18

先週末からノロウイルスと思われる感染性胃腸炎が私たちを脅かしています。集団生活の場である保育園のような場所は、病気をもらうリスクがあります。ポイントは、そのリスクをどれだけ低くするか、ということなのですが、「敵」の特性を知らないと、効果的な対策が取れません。そこで、共有しておきたい「基礎知識」を整理しました。

(写真はウイルスの模式図 『ウイルスと感染の仕組み』(サイエンス・アイ新書)より)

ノロウイルスはもともと牡蠣などの二枚貝をナマで食べるとおこりやすいと言われていますが、いまは感染経路は食中毒というよりも、経口感染によるものです。この寒い時期ににおきやすいです。小腸粘膜の細胞だけで増殖し、嘔吐物や糞便によって感染が広がります。水洗トイレも、いっぺんに汚染されます。感染者がウォシュレットなどを使ったら、その飛沫が飛んだところは十分あやしい、と思ったほうがいい。80度以上2分間をこえて加熱しないと死滅しません。

潜伏期間は12時間から72時間。発症までが早いとみるか、遅いとみるか。流行の波が一旦収まったように見えて、また症状が出るという波状型になるのは3日間、という潜伏期間の影響もあるでしょう。ノロウイルスに限らず、保菌する量は大人のほうが多いので、家族単位で防ぐ行動を取らないと移し合うということになりやすいのです。

ちなみに2002年にノロウイルス(Norovirus)と名付けられたそうで、知人が冗談で「ノロわれたウイルス」と言っていましたが、いろいろと調べてみると、最初はノーウォーク・ウイルス(Norwalk virus)と呼ばれていた病原体で、1968年にオハイオ州ノーウォークで集団発生したときの糞便から該当ウイルスが検出された、となっています。検出されたのはSRSV(小型球形ウイルス)で、その後1990年に全塩基配列がほぼあきらかになっているそうです。

それから持っておきたいイメージとして、もう一つ。専門書によると、世の中にいるウイルスは約5400種。細菌(バクテリア)は約6800種が発見されているそうです。コロンビア大学のスティーブン・モースによると、まだ見つかっていないウイルスは360万種になるのではないかという予想値もあります。コロナも変異を続けていますが、ウイルスは自分だけでは子孫を増やせない「変な生き物」です。

私は大学は生物化学(タンパク質合成)が専門だったのですが、生物学で言う「生物」の条件は、①遺伝子があって自己複製できる②細胞がある③代謝エネルギーで生きる、という3条件が備わっていないといけません。そうでないと「生物」に含めないことが多い。でもウイルスは遺伝子は持っていますが細胞はありません。しかも自律的には自己複製でき気ないので、他の生物(ホスト)に移って「生きる」と言う、非常に「かかわり」的な、共生主体的な、相互依存的な存在なのです。ヒトの身体もそうなのですが。

私が最も「面白い」と(言いうと語弊がありますが)思うのは、つまり生物学的にみて興味深いのは、代謝エネルギーももっていないのに、それでも「生きている」ということ。さらに今の私たちの進化の過程で、私たち自身の体がウイルスの一部を取り込んで、大事な役割を果たしてくれている部分もあり、身体機能的には共生してきてしまっているという事実です。

コロナの動向も、さらにワクチンの功罪も気になりますが、ここは感染症対策、手洗い清掃消毒、換気、滞りなくやっていきましょう。

保育園の役割

2023/01/17

朝の玄関周辺は、その日の調子がよく伝わってくる面白い空間です。一目散に駆け込んでくる子、お父さんに段ボールを持って来させている子、サッカーボールを抱いたままの格好でお父さんに抱っこされてきた子。いろんな表情を見せてくれるのが保育園の朝です。

朝は7時半から9時半までの、2時間の幅があるのが保育園らしさでしょうか。出勤する時間に合わせて、生活のリズムにあった登園、そしてお迎えの時刻になっています。東京都の場合は、たいてい最低11時間開いているのは、勤務時間、通勤時間の多様化に合わせるように、という強い決まりがあるからです。その11時間を超えるところからが延長保育になります。まあ、こんな長時間保育を平気で続けているのは、先進諸国でも減っているはずですが。

それはともかく、忙しいのが働く保護者の皆さんの朝の時間。「お願いだから、早くして。もう行かないと」「お約束したでしょ、今日はやるって」こんな会話が聞こえてきます。ある種の微笑ましい保育園の朝の光景です。9時半ぐらいから、登園が一通り終わると、私は園内をぐるぐると回って、子どもたちの顔色を見て回ります。遊びに夢中で、こちらを見向きもしない子たちがほとんどです。なかには私とひとしきりおしゃべりをする子もいます。あるいは不安げな子がいたら、近寄っていくと、私の膝の上で抱かれてしばらくくつろぎ、自然と離れてくこともあります。

さて昨日16日の月曜日。コロナで延期になり2月下旬からくる実習生の2人に、オリエンテーションでこんな話をしました。実習はできるだけ同じクラスに連続して入って、子どもの生活や学びのつながりをよく見てほしい。興味や関心から何がどうつながって発展していそうか。そのつながりの中で、こんなことが体験できたら、もっとこうなるんじゃないか、そんなひらめきが指導案の種になるんだよ、と。

また子どもにとってのお友達が安心できる拠り所になっていることが多いことも気づけるといいね、と。ほら、あそこにいる子たち。遊びに夢中で、こちらを見向きもしない子たちがほとんどでしょ。そこで何が起きているのか、よく見てみてください。その子ども同士の関係の中で育っているもの、学び合っているものを、遊びの中から見出せるといいよね。

そして子どもの保育だけではなく、保護者支援もあるから、朝夕の受け入れや連絡のやり取りをどうやっているか、保護者の子育てをどう支えるかも大事だよね、と。・・・・といった話です。

いろんな家族が寄り集まって一つの社会を作っている保育園。子どもだけが家族と保育園という両方の場を行き来して体験して育ちます。大人は片方しか知らないのですが、実は保育者の方が、保育園だけしか知らないのに、そこの体験だけで育ちや学びを捉えようとすることは限界があります。だからこその生活の連続性の把握が大切になります。お互いに、家と園の様子を伝え合う、理解し合うということです。

そう考えれば、就学前施設でも、あるいは就学先の学校でも、就学の前後の縦のつながりだけではなく、家族単位の横のつながりや家庭と園・学校の横のつながりが、架け橋の縦のつながりと併せて大事で、そのつながりが相互に重なり合っていくように、保育園時代の親御さん同士の関係を紡いでいくことも、保育士の仕事だなぁ、と思うのでした。

 

新しい学校と架け橋

2023/01/16

私たちが保育や教育のあり方を考えるとき、どこに焦点を当てれば冷静で建設的な議論になるのだろうかと、思うことがしょっちゅうありました。そうでない議論に出会うと、私は急速に興味を失ってしまいます。それはそれで大切なことなのですが、学ぶ本人にとっては、脇道の話であり、本人が本当に求めている学びとはずれてしまうように思えるからです。では、どこに焦点を当てるべきなのでしょうか?

私たち人間の学びは、文脈に依存しています。すでに知っている知識は、体験する中で再編集されながら、新しい知識に作り替えるようなことを、私たちは繰り返しています。それは子どもも同じです。すでに知っていることを使わずに、あるいは関連しない形で、何かの知識を学んだとしても、それは自分の関心や問いとは関係のないものとなってしまいがちで、あまり身につかないでしょう。それを覚えておく必要があるまでは暗記できたとしても、大抵は試験があるからとか、入試に出るからとかで覚えていても、その知識を再現させて使う機会(試験や試験のための塾や家庭教師など)がなくなったら、使い物にならないのが普通でしょう。

それは知識そのものがおかしいのではなくて(おかしいのもあるのかもしれませんが)、その人の学びの道筋の中に、必要に迫られて使う知識の獲得の仕方ではないからでしょう。この文脈に依存している知識の身につけ方、世界の取り込み方は、その人がそれまで経験してきたありようと知識などの依存するのでしょうから、その個別の多様な学びの道筋を用意しましょうというのが、本当の個別最適な学びなのでしょう。そうすると、就学前の保育が、そうなっている場合となっていない場合、その中間のどこかにあるとして、できればそうなっている場合を増やしたいのと同じように、小学校以降の学びもそうなっている場合に近づけていく必要があるのでしょう。それを近づけあって、その重なりを多くするようなことが、架け橋なのでしょう。

それをつくることと、私がいま「新しい学校」をつくろうとしていることは重なっています。それができたら、どんな学びになるのかというと、一人ひとりの学びのリズムを保障した冒頭のような、継続的な学びができることになります。そんな学び、つまり学習と教授が展開される学校をつくりたいのです。さて、やることがたくさんあります。用意しなければならないことがたくさんあります。でも、ここから始めるしかないのでしょう。だからやるのです。

「みんなで考える“新しい学校” Vol.1」に350人

2023/01/15

15日の日曜日、「東京に新しい学校をつくる会」の初となるイベント「みんなで考える“新しい学校” Vol.1」は盛況のうちに終えることができました。以下、つくる会のメンバー、宮野祥子さんが書いた報告を紹介させてもらいます。

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会場に足を運んでくださった方々、YouTube配信をご視聴くださったみなさま、関心を寄せてくださった方々、本当にありがとうございました。

当日は、約350名の方々にご来場いただきました。

ご来場者は真剣なまなざしで熱心に耳を傾けていました。イベント終了後はほとんどの方々がそのまま会場に残って熱心にアンケートに記入され、また登壇者の前には長蛇の列ができました。

今までの常識や固定概念を一度全部粉々に壊して、「学校とは」「教育とは」というようなことを考えるきっかけがつくれたらという思いからはじめたこのプロジェクト。

当たり前だと諦めるのはまだ早いんじゃないか、こんなカタチもありえるんじゃないかと、かすかでも希望をもって帰っていただけなのではないかと思っています。

アンケートのご感想や意見や参加者の方々の声、イベント終了後の西郷孝彦さん、山西優二さんからの声なども近日中にお伝えする予定です。

改めまして、無事に開催できたのは、ひとえにご参加くださった方々、応援してくださった方々のおかげです。心より感謝いたします!

今回の企画でいただいたご意見やパワーを次につなげていくことが使命だと感じています。今後ともよろしくお願いいたします。

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主催してみて、私も学びの多いものになりました。新しい学校をつくるという「答えのない問い」を世の中に問うているのですが、その「問い」にこれだけの多くの方が関心をよせ、真剣にその答えを探そうとしている方々と出会えたことは、その問いが正統な問いであるからでしょう。

私たちにとって、いったい、義務教育とはなんだったのか。その歴史と現在とを直視したときに、このままでいいと思う人はほとんどいないはずです。では、どうしたらいいのでしょうか。

その答えを求めて、すでに実践している多くの挑戦に、私たちが学ぼうとしないとしたら、それは学び方が足りないのでしょうか。あるいは、すでに挑戦している方々から生まれている、新しい問いを聞かないことは、私たちの怠慢ではないでしょうか。そしてこの「問い」を持つことをタブー視するものは、未来への問いもないことにすることに等しいでしょう。私たちは幸せを追求する自由があります。

幸福とは何か? 問いとは何か? そして学校とは何か?

今回の講演と鼎談の中から印象深い言葉をご紹介します。

西郷孝彦さん「一度でもナマで幸せを体験していれば 言葉の幸せの嘘に 騙されることはない(谷川俊太郎)」

山西優二さん「暮らしの中の問いを封じ込めてはならない。学校での学びはその問いの答えを探す場所であってほしい」

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