MENU CLOSE
TEL

園長の日記

保育における「解像度」とは?

2023/01/21

(青木尚哉さんのfacebookより)

公園に行ってきてどうだった?と聞くと、いろんな子どもの姿が報告されます。◯◯さんがどうだったとか、こんな時にこんなことがあったとか。出来事としての事実と、その事実から感じ取れる「よかったこと」が、よく語られます。子どもが楽しそうだったこと、面白がったこと、興味を持ってやったこと。見たり、聞いたり、触ったり、気付いたり、操作したり、そうした姿が日誌にも描かれています。そして、時々主任と話すのは、どこまでその意味を掘り下げて説明するといいんでしょうね、ということです。

ダンサーの青木尚哉さんと語ると面白い。一般的にアーティストの視点は学ぶことが多くて面白いということもあるのですが、青木さんの場合は自分がやっているダンスを習う人に教えるために、自分の表現ができるまでの過程を細かく分析して、そのダンスが出来上がるまでのプロセスで何が起きているのかを可視化しようとしているからです。その取り組みはまさしく保育の可視化に似ていると思い、語り合っているときに、これは、と思ったのは「解像度」という言葉でした。

青木尚哉さんのコンテンポラリーダンスは、常に即興的なので、変化する周りの環境との相互作用そのものが身体の動きになっていくので、そこには意識と自己の身体と空間の間にある無限の変化をモニターしながら、自身を動かすということをしています。頭から爪先まで、あるいは腕の指先から身体の中心まで、全身に数十箇所ものポイントを意識して、踊ります。

意識するというのは、そのポイントとポイントの線、面、図形、立体などの点や線(曲線や延長線も含めて)、図形の動き(とその軌跡を含めて)をその瞬間、意識して動かすようなことをイメージしていくのだそうです。ちょっと素人には想像できない身体感覚なのですが、その意識している内容の解像度を上げすぎると、ダンスとして意味のないものになり、解像度が粗雑すぎると、使い物にならないという、可視化のちょうどいいレンジがあるというのです。

保育の質は子どもの経験のプロセスを吟味して、何かの表象(ほとんどが言葉)で捉えることになるので、その時に「解像度」という概念が使えるかもしれないと思ったのです。テレビの液晶画面は、2メートル離れたところから見るなら、そこからの解像度で構わず、20センチほどから見るグラビア雑誌のインクのドットほど微細である必要はありません。

印象派の画家が描くときに、どの距離から眺めるのかということを想定して描くように、人の視力と脳の自動処理の関係から適当な解像度で描くことになります。子どもが身につけていくもの、世界を取り込んでいく内容は、生活という解像度にあった認識で構わないのでしょう。誰もがそこで了解しあえる言葉で、子どもの姿をとらえていく。

そうだとするなら、保育者が子どもの姿を捉える関係の網の目について、程よい解像度というものがあって、ある意味で写真のピクセル単位に相当するような、点や線や面や立体を想定してみたくなったのでした。すでにやっていることかもしれませんが、それなら、粗雑なもの、細くすぎるものとは、どんなものなのなのだろう? そんなことをふと、思ったのでした。

top