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園長の日記

デンマークのフォルケホイスコーレ

2022/12/28

デンマークの国民は幸せ。OECDの調査で有名になったこのイメージ。どうしてそうなんだろう? そうずっと思っていたら今日28日、早稲田大学文学学術院教授の山西優二先生から、デンマークの国民学校「フォルケホイスコーレ」の話を伺い、もしかすると、こういうことも関係あるかもしれないと、思いました。とても面白いです。学校教育を終えた国民の9割以上が体験するのだそうです。詳しくは、以下のホームページからどうぞ。

フォルケホイスコーレとは

学校や学びを考えるときに、日本だけでなく、世界にも目を向けたり、また過去の歴史や将来の学校のあり方を想像することも、とても大事なことだと思います。私たちは目の前のこと、また自分が受けた教育の体験に強く縛られているので、それをどこかで一旦、柔らかくして、自分と世界を見つめる機会を作ることは有意義だと思えます。そんなことを、来たる1月15日のに私たち「東京に新しい学校をつく会」が主催するイベント「みんなで考える“新しい学校”vol 1」で、語ってもらうことになりました。

20230115 新しい学校VOL1

山西さんは、自分と世界を見つめる機会として、「15歳のギャップ・イヤー」をすすめます。高校から大学へ進学するときのそれでは、ちょっと遅い。中高がつながることで、高校3年間がもったいない。あの時期は大学の方に近づけてあげて、中学が終わったら、一旦、人生の探究の機会を作るために、国内でも世界で旅に出たり、知らない世界に触れて、出会って体験してみる方がいいんですよ、とおっしゃいます。ご自身がそうされた体験もとても面白くて、聞き入ってしまいました。

「人生のどんな場面においても、自分を見つけ出すために人々が向かう場所がフォルケホイスコーレなのです。」

この考え方は、これからの学校の在り方の参考にしたいと思っています。

「保育士礼賛」藤原辰史さん

2022/12/27

日経新聞に「保育士礼賛」というタイトルで、歴史学者の藤原辰史さんが、次のような文章を寄せていました。まったく同感です。嬉しくて涙が出そうです。ですから、多くの方に読んでもらいたいので、内容を紹介させてもらいます。このような眼差しを、たまには、でもいいので保育園に向けていただきたい。

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ここ5年くらい、保育士との交流が増えた。講演会に招かれたり、保育園に伺って悩みに耳を傾けたり、驚くほど美味(おい)しい給食やおやつをいただいたり、子どもたちと遊んだりしている。

「給食の歴史」を執筆中に保育園の栄養士にインタビューしたり、「分解の哲学」という哲学書で、未就学児の教育施設を創設し積み木を開発したフレーベルを論じたりしたこともあり、「保育」は私の研究の中でも欠かせないテーマである。カントやドゥルーズを読むのと同じように、私は保育士の言葉と表情を読み、自分の思考を鍛えてきた。

先日、京都山科にある西野山保育園を訪れた。私の研究のためだ。やはり保育士の仕事は難しい。「保育なんて誰でもできる」という人もいるらしいが、片腹痛い。そんな人にはぜひ保育園を訪れ、エプロンを着て保育の仕事を体験してほしい。

園庭の子どもたちは思い思いに遊んでいる。不確実な動きに目が回りそうだ。数十人の子どもをわずか2人の先生がカバーする。サッカーで言うならば「ゾーンディフェンス」か。いや、そんな甘っちょろいものではない。味方ディフェンスの数は相手チームのフォワードの数に比べて圧倒的に少ないのだ。

ふと気づくと、隣の保育士はすっくと立ってある方向へと歩いていく。私は全く気づかなかったが、今にも泣きそうな子どもがその場に駆けてきた。保育士は寄り添って話を聞き、解決の糸口を探った。ミッドフィルダーの鋭いパスの先にフォワードが走りこんでくるようだ。その子をケアし終わるや否や、園庭のかたち、子どもの大きさや性格などを私に解説する。起こりそうな事故を未然に防いでいるのだが、その様子を微塵(みじん)も園児に見せない。園児が自由に失敗できるように、過剰な介入も回避する。

乳児の部屋の仕事もプロフェッショナルとしか言いようがない。手、足、目、耳は、それぞれ別の子どもたちに向けられている。ぐずる子どもをあやしながら、隣の子どものご飯をチェックし、訪れた私に笑顔で挨拶をする。保育士たちの身体はどうなっているのか。手に目があり、足に耳があるのか。全身の感覚が研ぎ澄まされている。

保育士たちのハスキーボイスは美しく、遠くまで響き聞きやすいが、威圧感がまるでない。調理室も忙しさを感じさせず、テキパキとなれた手つきで料理をし、様子を見にきた園児たちの鼻腔(びくう)をくすぐっている。絵や写真の添付された手書きの日誌は芸術品だ。給食室や部屋に貼られていて、保護者たちがその日の子どもたちの様子を温かい気持ちで知ることができる。

子どもの教育やケアに予算を出し渋るこの国では、園児の数に対し保育士の数はかなり少ないし、評価が著しく低い。西野山保育園の保育士の口から、ロボットで保育仕事が代替できると勘違いしている開発者たちのことを聞いた。いったい保育士の仕事をなんだと思っているのだろう。保育士たちは能力を向上するために夜も勉強会を重ねる。休日の一部を使って集会を開き、歌って踊って演奏して自分たちを高め合う。保育士のハスキーな歌声を聞いていると胸が熱くなる。あれほどの高度な仕事を支えているのは、保育士たちのあくなき探究心と誇りにほかならない。それに私たちが甘える時代はいい加減に終わりにしたい。

 

保育園の「構造的な質」について

2022/12/26

年内最後の週、と言ってもあと3日。今月は保育園のことが毎日のように報道されて、なんだか肩みの狭い思いを感じる年末になってしまいました。このテーマは法律違反の犯罪レベルから保育の不適切な対応まで、問題をちゃんと整理して対策が講じられるべきでしょう。行政からは「通報制度」が確立されているか、また職員のメンタルヘルスへのケア体制がとられているかという調査が来たので、確立していると答えました。また職員の休憩やノンコンタクトタイムの実施状況などの視察も受けました。さて、これからどんな保育園へ支援制度ができてくるのか、期待しています。

これらの問題をもう少し大局的に眺めてみると、長い間放置されてきた制度の歪みが吹き出しているようにも感じます。乳幼児の保育が長時間になっても、それに見合った保育士の配置基準は何も変わっていません。すぐにでも改善してほしいのは、最低基準では保育ができないので、実際に多く配置している職員分の補助金を正規職員換算で出してほしいことです。それを上回っている保育士を配置する園に対しては、それに見合った運営費を出してもらいたいものです。細かい話かもしれませんが、運営費(補助金)の計算は、小数点以下が四捨五入です。小学校の30人学級の基準は切り上げです。この差はとても大きいのです。

保育園では4歳5歳は合わせて30対1です。幼児30人を一人の保育者(教諭・保育士・保育教諭)でみます。ですから、もし4歳児クラス15人、5歳児クラスが15人いても、それぞれ一人をつけますよね。でも補助金は、2クラス合わせて30対1で計算、しかも、小数点以下を四捨五入ですから、ピッタリ一人分しか来ません。二人いる先生に対して運営費は一人分しか来ないのです。

(当園の場合は、4歳10人、5歳10人に一人ずつ担任がいますよね。でも合わせて20人なのに、最低基準は合わせて30対1ですから、運営費は07人分しか来ないのです。)

さらに、もう一人増えた場合を小学校と比較してみましょうか。すると、その格差がもっとはっきりします。

4歳と5歳を合わせて31人ですから 、これを30で割ると「1.0333・・」となりますね。保育園の場合、補助金はほぼ1人分しか来ません。私たち保育園は、4〜5歳が30対1です、と言うと「ああ、小学校1年生の30人学級と同じですね」と言われることがあります。とんでもありません。学校の場合はいわば「切り上げ」ですから、31人になったら15人のクラスと16人のクラスの2クラス、つまり教諭は2人になります。そして、公立ならその職員2人は公務員ですから、そのような運営費の計算などしなくても済むのです。そもそも経費(人件費)の出どころが違うからです。

こういうのが些細なこと、トリビアなことと言えるでしょうか? 保育園では人件費が経常支出の8割近くになります。公立はそのような計算そのものがありません。もし計算したら、ほとんどが人件費でしょう。公設民営にした流れを作った要因は、自治体の経費削減でしたから、民間に任せた方が、保育運営費が安く済むからです。根本的な国と自治体の姿勢が生み出している構造の質にもっと目を向けてもらいたいものです。

「これ、あげる」・・どうして?

2022/12/25

「先生、これあげる」と言って、自分で折った折り紙などを、私に上げようとする時があります。私はその意図がわからないときに「どうして?」って聞くことがあるのですが、はっきりしないことがあります。人に何かをあげる、ということを子どもは気軽にやる時があります。どうして、子どもは「これ、あげる」ということをし出すのでしょう? 何かをあげると「ありがとう」って言われることが多いので、嬉しい、という体験をしているからなのでしょうか。

1歳前後の三項関係が成立していく頃から、自分と人との間に物が入って「はい(どうぞ)」「ありがとう」といったやりとりを楽しむことが増えていきますが、その後、かなり経った3歳4歳ぐらいの子どものことなので、それとは別にどんな意味があるのだろうと考えてみるときがあります。別に気に留めるほどのこともないのかもしれませんが。

保育でよく語れるのは「やってもらった嬉しい経験から他人にもやってあげるようになる」といった言い方をよく耳にします。本当にそうなのでしょうか? そうはなっていない現実もある時に、何がその差を産んでいるのでしょうか。大人になると、他人に何かをあげる、プレゼントをするということは、そう簡単にはできなくなります。必ず、どうしてか、という意味を伴わないと、気軽にものをあげたり、もらったりすることはできません。誕生会やクリスマスイベント、お年玉のように、こういう時ならそれを気しないでやっていいという状況を作り上げてきたというように解釈できます。

その民俗学的な考察はとても面白いのですが、それはともかく、子どもの「これ、あげる」の行動にあるものは、ものを介した人との関わりの一つに違いありません。それが「交換」になっていく様相のなかに、協同性の方から自立心に影響を与えている要素を見出すこともできそうだと思えます。

考えてみれば、伝統的社会の獲物や採集物の分け方(採ってきたきた者の手柄にしない知恵など)、貨幣的なものの成立の条件、経済での商品と市場の関係、マーケットの公平性や政治の贈収賄事件など、至る所に人や権力とのかかわりの中に、「物」の介在したバリエーションが見出されます。

国家の成立と現代社会のグローバリゼーションまで、文化文明を「贈与や交換」で語ることができるからです。その中には必ず道徳やモラル、タブー、汚れたものを生贄にして純化を果たす動向などがあって、その起源としての人間性の中に、その生得的な性質も探られています。

その中から、主に保育にとどいてくる知見は、なぜ人は協力するのか、とか、なぜ教えあったり、分かち合ったりするのか、ということを調べているものがいろいろあります。交換することで私たちの経済が成り立っているように、人類史にも黒曜石だったり、塩だったり、貝殻だったり、ゴールドだったりが今の「お金」と同じ役割を果たした人類の歴史があるそうで、私の関心は子どもの利他性の発達との関係になったりします。

話はまたサンタクロースからもらうプレゼントのことにもどってしまうのですが、こんなに物質的に豊かになった現代社会の中では、聖ニコラウスの時代とは違う意味を見出しておく必要があるでしょう。まず、子どもが喜んでいるのは、それが欲しかったものだからです。日頃から叶えたかった願いをサンタが叶えてくれた、という喜びを子どもは嬉しがっているのでしょう。だとしたら、「はい、これあげる」と意味もなく差し出される折り紙をもらうときに、どうしてくれるの?という反応をすることで、なんでもあげれば喜んでもらえるとは限らない、ということを体験していくことにもなるのでしょう。そういう心情の機微はもっといろいろあるでしょう。

もう一つは、祝祭と園行事の関係です。社会自体が伝統的な文化を失っていっているように見える中で、子どもに体験させたいことはどういうことなのか、その再吟味です。そこに作用していることを、丁寧に取り出してみて初めて気づくことがあるので、その取り出し方も研究してみる必要がありそうです。人が「気づく」ことからしか、物事が見出せないとしたら、その気づきを生むような作業とはどんな営みなのか、ということです。質的研究の手法にヒントがありそうです。

 

サンタクロースをめぐる考察

2022/12/24

信頼している方の感想や意見というものは、本当にハッとさせれます。実に恥ずかしい思いを感じながら、自らの考えの浅さというものを感じてしまいます。さて、どうするか? 以下は昨晩からの、私なりの考察です。

信頼している専門家の方の意見とは、次のものです。大事なことなので、この感想はたくさんの人が共有した方がいいでしょう。

「大人がいたいけない子どもをよってたかって騙す日が無事に終わりましたか? 日本いや世界の道徳はどうなっているのだ。嘆かわしい限り。ちなみに、この風習が広まったのは19世紀あたりだと物の本にあるが(それ以前はローカルなもの)、さらに全世界に広げたのはネズミがボスの連中だという。新自由主義の陰謀だね。」
なんのことかは、わかりますよね。クリスマスのサンタのプレゼントのことです。そうか、ちゃんと考えよう、と思ったわけです。そこで、ポイントを絞るとサンタクロースがプレゼントを渡すという話そのものは多めにみていいのでしょう。
問題はそれを「昔話」か何かにしておけばいいものを、大の「大人が子どもをよってたかって騙す日」になってしまっているあり方、現実の風習の方でしょう。当園のクリスマスの行事の持ち方もそうですね。それはどうなの?ということのようです。

サンタの話そのものは、まあ多めにみていいんだろうと判断したのは、たとえばノーベルト・ランダの絵本「ねずみのフィリップ ぼくがサンタクロースだったらね」を訳しているのが小澤俊夫さんなので、サンタクロースの話そのものが、児童文化財として、ふさわしくないということではないのでしょう。

この絵本を読んだ方の感想を紹介すると、「クリスマスの本は、沢山ありますが、子どもたちがプレゼントを届けてくれるサンタクロースを心待ちにするようなストーリーが多い中で、この本は、逆の立場...もし、自分がサンタクロースだったらという発想の転換が素敵です。そうか!自分がサンタクロースだったらその立場も本当にわくわくするものだと気付かせてくれました!」と書かれています。

ですから、問われているのは、主としてそこではないのでしょう。商業主義的なことが本来の文化や伝承などを捻じ曲げてしまうというのはよくある話で、ハロウィーンやらバレンタインデーやらは、それがわかりやすいのかもしれません。

でも、子どもにサンタクロースって本当にいるの?(と聞かれることは実はあまりないのですが、いると信じさせているからでしょう)と、もし子どもに聞かれたら、みなさんはどう返事しますか。それを学生に調査したものがありました。C短期大学保育学科1年生110人(男性14女性96人 18歳〜23歳)によると、「いるよ」などと実在肯定する学生は5歳相手なら6割、12歳相手なら4割いました。結構な数の大人が「嘘をつく」ことを許容していることになります。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202937272832

面白いのは、調査の学生も歳をとればサンタの実在は信じなくなるのですが、信じなくなっていった年齢と子どもに期待する年齢が同じぐらいだったことです。その調査は「自らのサンタクロース体験と重ね合わせるように、自分と同様か、それ以上の道筋を子どもにも味わせたいと考えている」と分析しています。この学生の感覚は、わかる気がします。せっかく信じている「夢」を壊したくないと思うのです。私もそう思ってしまいます。

さて、ここから私たちの知恵が発揮されなければならない話になってくるのでしょう。過剰にその夢を膨らませてしまうことや、プレゼントの日にしてしまうことは趣旨が違ってくるでしょうし。また親御さんがせっかくサンタの用意をしているのに、保育園がその試みに水を差すわけにもいきません。社会全体でそっと、落ち着いていくようなことを考えてみることがいいのでしょうか。さて、みなさんは、どうしたらいいと思いますか。

当園は毎年、新しい遊具を追加購入するタイミングなので、サンタクロースに持ってきてもらい、また親子で楽しんでもらえる手作り遊具をプレゼントしてきたわけですが、子どもにそれが届くための条件を求めることは一切ありませんでした。さてこのテーマ、視野を広げて認識を深めておきたいトピックスです。

 

やってきたサンタクロース

2022/12/23

「朝こなかったね」「寝坊して遅れてるんじゃない」「あ、わかった。プレゼントを持ってくるのを忘れて、取りに帰ってるんだ!」・・お昼ご飯を食べているときに、年長の女子3人が、今日もサンタクロースが来ないかもしれないと、心配して話していた。・・しかし楽観的な見通しで合意された。理由も本人たちの経験からの類推であり、これが、もっとも納得できる理由であるらしい。(今日の日記は、歯切れよく「である調」になります)

どうしてこないのか、と私にも聞かれたので「サンタさんだって忙しいんだよ、いっぱいこどものお家を回るんだから。トナカイだって走り疲れて、ちょっと休憩、ってことだってあるかもしれないし。みんなもお散歩でいっぱい歩いたから、疲れたら休んでたじゃない、ね。大丈夫、きっときてくれるよ、お手紙にもそう書いてあったじゃない」などと、話してみた。「そうだ、遠くから来るんだから、休んでるんだ。そうそう。」・・私はそれ以上、何も付け加えなかった。

そうやって午後2時。今朝「エルマー読んでね」と頼まれて「いいよ、おやつの前にしよう」と約束していた時間に、階段を客席にして、「エルマーと16ぴきのりゅう」の続きを読んであげる。子どもたちは、開園以来、ずっとこの話が好きで受け継がれている。

3時のおやつが済む頃に、サンタは来ることになっている。そして、なぜが先生がわざとらしくサンタクロースの歌を歌っていると(わざとらしくならないのが、子ども相手だからだが)、鈴の音が聞こえてきて(園内放送の天井のスピーカーから)、「あれ、なんか聞こえる!」という子どもの声で、みんなが気づく。サンタだ!

階段から本物のサンタが姿を表すと、10人ぐらいの子どもたちは駆け寄る。のそのそと歩くサンタは他の子供たちも固唾を飲んで見つめてるダイニングで、立ち止まる。先生がジェスチャーだけのサンタから、あっといまに饒舌な言葉を聞き取り(まるでテレパシーのように)「ねえ、みんなにプレゼントがあるんだって」というと、飛び跳ねて喜ぶ。本当に嬉しい時は、大人も立ち上がり、子どもは飛び跳ねるものなのだ、ということがはっきりとわかる。

「みんなに見せるから席についてくれるかな」という先生の言葉がまるで魔法のように、めずらしく効果がある。すごい。さっと席に戻る。なんだ、この聞き分けの良さは・・

「ほら見て、これは、紙芝居じゃない・・・」と子どもたちへのの意識はそこへ吸い取られ、静かな興奮に包まれている。サンタからのプレゼント。本当だった・・・そんな真剣な顔。(去年も経験しているはずだが、そんなものか)。

一番驚いたのは、サンタさんへ何かお礼をしなくちゃね、となって「歌を歌ってあげよう」ということになり、その歌声の気持ちの入りようは、本物だった。心がこもる歌声というのは、こういうことだったんだと納得する。お見事。サンタも喜んだことでしょうね。(先生たちもこんな姿を見ると、嬉しくなるのです。なお乳児の様子は、クラスブログをお読みください)

・・・・

さて、一体、クリスマスというイベントは、キリスト教の本来の趣旨から随分と離れたところに来てしまっているのですが、私は日本の一般的な社会の常識的な世界とそう違わないから構わないと考えています。(なぜか、ここからはデスマス調に戻ります)。

これが遊び、ということではないのですが、楽しい体験の中で世界を肯定的・積極的に取り入れ、随分と真剣に向き合いながら、仲間や文化の営みに参加していくこととして、成長や学びの芽生えをいくつも発見できるからです。

そこには隠されている知識が伝わっているはずで、つまりサンタクロースという存在がもつ、言葉にはならない暗黙の知の世界に耳を傾けようとする姿勢(本来のミメーシス)が息づいていると思えるからです。一方で、レインがサンタが両親だったことに気づいてトラウマになったという逸話も気になって調べたいと思ったりもしていますが。

サンタからの手紙

2022/12/22

「サンタさんはあしただよね」「ちがうよ、にじゅうよんだよ」「でも、せんせいは、あしたって言ってた」。

こんな会話が聞こえます。クリスマスイブは24日でも、保育園には明日23日に来てもらうことになっているからです。

「サンタさんはね、トナカイでくるんだよ」

「ちがうよ。起きたらきてるんだよ」・・・

トンチンカンな会話も微笑ましくて、言いたいことが、そうなるんだと、私たちには理解できます。そこが子どもの言葉の面白いところであり、大切にしたいところでもあります。

子どもたちは真剣です。サンタはいつくるのか、本当にくるのか。どうやってくるのか・・・

子どもは知りたがっているし、分かりたがっているし、実現するようにしたいと思っています。

ああだこうだ、と想像して、考えたりもしています。「お母さんが言ってた」とか「じゃあ、先生に聞いてみよう」とか判断したりしています。ここには知識も理解も技能も思考も判断も、それにともなう心情も、そのほか、いろいろなものを総動員して、子どもは成長したがっているようにみえます。

子どもの姿はあまり個人の内面的なものだけに限定しないで、周りとの関係や関わり方そのもの、あるいは状況に目を向けようというのが、保育の捉え方の一つと言っていいのでしょう。

クリスマスに向けて、アドベントカレンダーに届くサンタからの手紙と、そこに書かれたサンタの言葉は、子どもたちにしっかりと届きます。それに基づく継続的な1ヶ月間の積み重ねが、こんな会話を生んでいるのかもしれません。

脳の感情コントロールの曲線をどう解釈するか

2022/12/21

昨日20日は、藤森先生を交えた会議(ギビングツリー)が午後からあったのですが、その中で乳幼児期のヒューマンコンタクトが大切なことを踏まえた保育や子育て支援のあり方について、認識を深めました。現行の保育所保育指針の改訂の際に出された資料の一つです。これらのエビデンスから乳児保育が一つの章に独立したものになることへ、影響を与えたと伝わっています。

いくつかある曲線のうち、感情コントロール(下の写真のピンク色の線)が、かなり早くに立ち上がるのは、親子などの親密なパーソナルな関係から、やや距離のある大家族の親族関係(さらに離れた村人との関係などもか?)への拡大が想像されるのですが、可能性としては、人類の子育ては6か月ぐらいから離乳が始まって、親だけが母乳による栄養を与えるのではなく、そのほかの協力を得ながら子育てをしてきた、つまり共同保育をしてきたことと関係するのでは、ないでしょか。

人見知りもその頃とかさなり、言葉の獲得過程でも母語の認識の上で大切な時期であり、いわゆる9か月革命の頃までの保育を、家庭だけで過ごさせていいのか、という、まさに今の保育問題の核心にいきなり迫る問題だと、私は思います。育児休業の延長によって、単純に母子関係だけのヒューマンコンタクトを続けていいものなのかどうか? もう少し、多様な人間関係があったに違いない伝統的社会の子育てから、現代の乳幼児保育のあり方を見直したほうがいいのではないか、そんな問題意識を、藤森先生は持っています。

ジャレド・ダイヤモンドは人類の伝統的社会の子育ては、ペアレンティング(親による子育て)ではなく、アロ・ペアレンティング(親だけが子育てをしなかった)だったと述べていますが、そうだとしたら、700万年から考えていいのかそれとも20万年からかはわかりませんが、脳の機能がそのように出来上がっていることは、そうした社会の反映なのだろうと想像します。保育園が人間のデファクトスタンダードとしての脳のあり方にあった環境を用意したり、社会へもモデルを提案していけるような保育を作り上げたいものです。現代版の伝統的社会の子育てです。

たぶん、そのためには地域の子育て支援と入園している家庭の保育を、くっきりと線引きしてしまうような仕組みではなく、地域全体が伝統的社会のような保育機能を取り戻すことが望まれていくのかもしれません。学校が地域に開かれていく機能と調和するようなアプローチを構想していくなら、小学校の就学前の機能はこども園にするべきなのでしょう。地域の子育て支援と0歳の乳児保育が幼児教育につながりながら、小学校以降の生活と学びにつながっていくような形を作りたいと、イメージしてしまいます。

このような仕組みは、中国・上海やシンガポールなどがいち早く着手し始めました。藤森メソッドを急速に取り入れ始めているのです。

優劣・競争・協同について、ふたたび。

2022/12/20

自分で書いた昨日のコーディネートの話を読み返して、なんだか大事な、もっとわかりすい話を書き忘れたことに気づきました。子どもによって得意なことをお友達の中で分かち合ったり、共感しあったりすることもありますが、いろんな遊びや活動の中で、〜名人として登録したり、認定証を発行したり、お手伝い保育で「小さい子どもの気持ちに気づいたか?」を自己評価してシールを貼ったり、そんな可視化と共有ということをよくやっています。こういうことも、調整の一つでしょう。

こうした活動は、本人の良いところを認めて自信を育て、掲示したりしてあげることで自分を誇らしく感じたり、あるいは他のお友だちの良さに気づいたり、友だち同士の会話やかかわりを増やすことにつながります。また年齢の開きが小さい関係から大きな関係まで、幅広い関係の中での生活になっていると、憧れを持ったり、みられることで背伸びをしたり、そこに競争心や粘り強さが引き出されたりすることもあります。

このような子ども同士の関係がどうして望ましいと言えるのか?という問いに対して、そういう経験のある集団とない集団のその後の比較をするという方法はとても難しいだろうと予想がつきます(いえ、私の不勉強で、実は結構あるのかもしれませんが)。ところが、多分こうした比較研究を待つまでもなく、こんな活動に意味がある、と思える根拠は、正統的な人間社会の縮図をそこにみとることができるからではないでしょうか。例えば、ある縮図は「優劣・競争・協同」とい線でスケッチできるというわけです。

何かが優れ、何かが劣る。その優劣を競い、また協力する。個人も家庭も学校も企業も、文化活動も経済活動も学術活動も、趣味やスポーツも、私たちの生活には、何かの規範やルールのもとに「競う」という営みがたくさんあります。国家間でも平和を築いたり戦争になったりする現実があって、そこには優劣をめぐる競争と協同が作用し続けているという事実を確認できます。

その営みが生命の起源から現在までの進化の過程にも見られ、文化や文明の中でも、そうした特徴が見られるわけですから、園生活での上記のような活動が、子どもたちの経験の正統性が、そこにあると言えるのではないかと思ったりします。長い間、そうした社会の中で人間は生きたきたのだということが、説得力を持ちうるように思えるからです。よく保育環境を考える時に、本物と出合うようにとか、世界を構成する要素の代わりに、といわれたりすることと近いと感じます。

さらに、個々の子どもにとってはどうなのか、とさらに分け入っていくと、無藤先生によると、進化心理学や社会心理学の中で「集団間、集団内の個人間(細かくは社会的な位置と個人間)、パーソナルな親密関係、個人、というあり方として区別できるでしょう。この区別は進化心理学・社会心理学で整理され、実証的に明らかだと言える」そうです。

そうだとすると、保育園の幼児たちが繰り広げている「優劣」をめぐる競争や協同という特徴がみられる活動や遊びは、集団と集団の間にも、その集団の中の個人と個人の間にも、とても仲のいい友達の間にも、さらにそれを超えた同僚的仲間関係の中にもあって、そうした関係を体験していくことが大切だろうと見当がつく、ということになりそうです。

そして、大事なことは「あることの優劣がすべてではなく,他の優劣もあり,また優劣と関係ない活動も多いことが分かることです。幼児に聞けば、誰が運動が得意か,誰が頭がいいか,誰がイケメンまた可愛いかすぐに答えます。それを超えて個人の価値のかけがえのなさと,協同で成し遂げられる凄さを実感して分かるようにすることが幼児教育というものです」ということでした。<個人の価値のかけがえのなさ><協同で成し遂げられる凄さの実感>。

こんなに意味の詰まった保育の言説は、芸術的であり、それを私は散文に書き換え、エピソードを加えて映像化していくことで理解に至るという作業を楽しんでいるのでした。

「優劣と競争と協力」の中の保育者の調整力

2022/12/19

 

今日19日は、都内のある保育園に第三者評価に出かけました。そこの園長先生と話していて、保育者のストレスや子どもの葛藤場面に対する職員の心構え、あるいは保育者の力量といったテーマに関して話を伺いました。

コーディネートという言葉は、一般に調整するという意味で使われることが多いと思いますが、保育や教育の場面では、具体的には、どういうことになるのでしょうか。一人ひとりを大切にすると、なおさら、この調整する力が色々求められるような気がします。そんなことを考えてたい時に、一昨日のFacebookで無藤隆先生から、こんな表現をしていただきました。ハッとすることがいろいろありました。ぜひ紹介したいと思います。私なりにこんなことを考えました。

「・・・いや、優劣と競争と協力はどんな社会にもあり,社会を構成するファクターです。それを幼児は現に経験し,児童期には明確に経験します。それがなかったら,子どもにはつまらないでしょう。

ただし,幼児の優劣感覚は自己中心的なので,正確さからは程遠いので,それがよいのでしょう。ともあれそういうファクターを健全に作用させるのが大人の役割で,それらがないのがよいとか、我が組織(園や学校)にないとするのは単に保育者や教師の幻想です。

大事なことは,あることの優劣がすべてではなく,他の優劣もあり,また優劣と関係ない活動も多いことが分かることです。幼児に聞けば、誰が運動が得意か,誰が頭がいいか,誰がイケメンまた可愛いかすぐに答えます。

それを超えて個人の価値のかけがえのなさと,協同で成し遂げられる凄さを実感して分かるようにすることが幼児教育というものです。それがあれば競争や優劣も楽しくなります。毎日、そういう遊びをしているではないですか。」

一つ焦点となるのは「そういうファクターを健全に作用させる」とは、具体的にどうすることなのかということでしょう。教える、モデルを示す、話をよく聞いてあげる、橋渡しをする、ヒントを与える、子ども同士の関係に誘う、褒める、驚く、うなづく・・まあ、いろいろあります、きりながないほどありそうです。そこにコーディネーションという役割で。その役割は実にたくさんあります。大人は、ここのありようをもっと語り合うべきなのだと私は思います。

もう一つ、そうか、と思い当たったことは、どんな社会にだって「優劣と競争と協力」というものがあって、他の要素もあるわけですが、それらの中での子どもたちも自己の相対的なボジションを理解していくことになっていく。そういう面からの資質・能力の創発的プロセスに注目した方がいいということでしょう。だからこそ、私はいろんな子どもたちがその中にいた方がいいと考えます。国籍、人種、性別、年齢・・さまざまな人々が立場を超えて協働していく社会が未来だと予想されているからです。

子どもたちは、その中で、体験しながら、自分と他者の関わりを自分のものにしていくのでしょう。エイジェンシーを当事者意識のことと理解していいのなら、幼児にもそれを大事にしてあげて、その環境を用意して、そこでの体験の作用のありようをしっかり見つめていくことが大事なのでしょう。協同性の中の自立心のかたち、そこを見つめるキーワードとしても「優劣・競争・協力」ということを心に留めておこうと思ったのです。

こういうこととも関係しそうです。例えば、若い方々が精神的に弱くなったという話をよく聞くようになってだいぶ経ちます。若い方々向けのセラピーやカウンセリングをされている専門家の方にも話を聞くこともありますが、幼児教育の協同的体験が、つまり幼児期や児童期のそうした仲間関係の経験が、その後にどのように影響を与えているのかという研究がまだまだ足りないそうです。社会情動的スキルや非認知能力のことを考えてみても、保育園時代の仲間関係の大切さを捉え直す意味でも、これまでに分かっている知見から得る示唆は大きいのだろうと想像しています。

 

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