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園長の日記

揃いも揃って「ごめんなさい」

2023/03/17

 

乳幼児がどんなふうに倫理観を発達させていくのだろうと思う時があります。昨日のことですが、3歳4歳5歳の子どもたち(実際には満4歳〜6歳になっている)が、ぞろぞろと揃って私のところに謝りにやってきました。「どうしたの、揃いも揃ってそんな顔して」というと、黙っているので「あ、なんかよくないことやったんだなあ」というと、うんと頷く。(可愛いなあ)。すると徐に、1メートル四方ぐらいのスチレンボードが引っ掻かれて、穴が空いているところがあるのを、付き添っている担任の先生が見せてくれる。どうも、遊んでいて引っ掻いて、破ってしまったらしい。

そんなことなら別に謝る必要もないだろうに、話を聞いていると、年長の他の子どもたちが「いたずら」を止めに入り、やめないから先生に言いつけて、その後話し合いになり、これは園長先生の大事な持ち物であり、それを引っ掻いて破って穴を開けるなんてことをしたのは、よくない、園長先生に謝りに行くべきだという結論になったそうだ(先生がある程度、誘導しのだろうが)。素晴らしい。

それだけでも、立派な子ども立ちだと感心したのだが、謝りにきた子たちに、あえて聞いてみた。「どうして謝るの?」そうしたら、Sくんが、犬かきのようは身振りをしながら「ダ〜ッてやったから」という。隣にいた4歳のKくんは「Hくんもやった」と、叱れると勘違いしたみたいで、自分だけじゃないことを主張する。それがまたKくんらしい。どうも、どうして謝らないといけないのか、分かっていないようだ。これはまずい。

やってはいけないと言われたけど、止めずに続けてやったことがよくない。そう思っているようだ。そこで私はこう言ってみた。「この柔らかい板はね、スチレンボードっていうんだけどね、皆んなが運動ゾーンで遊んでいる時に、危なくないようにこれを置いてたでしょ。みんなんが怪我しないように守ったりするときに使ってたよね。だから大事なものなんだよね。あ〜あ、こんなになちゃった。どうしようかなあ」と。

すると、もっとも率先して「いたずら」をリードしていた子が、私が困ったなあ、という気持ちでいることがどうもわからないようで「ノリでくっつけたらいい」と修理の仕方を熱心に教えてくれます。

そこでもう一度聞いてみた。「ねえ、悪かったなあ、って思うかな? そう思う子?」と聞くと、みんな手が挙がるではないか。そうか、みんな相手(つまり私の)の残念がっている気持ちは伝わったのかな?(あまり、そうは見えないが)

「悪かったなあって、思っているから、ごめんなさいなんだね。分かった、園長先生はね、みんなが悪かったなあって思うなら、許してあげる、だからもうしないでね」(言いながら、これでいいのかなあ?とよくできた話になってしまったなあと思いながら)

と話したのです。するとSくんはこういうのです。「こらあ、って怒鳴られると思った」と。(え!怒られるじゃないのか、ドナラレルなんだ!)子どもたちは一人ずつ、自分のやったことに対する反省の気持ちが違うのでしょう。家庭も含めた経験の積み重ねが、その子どもの内面を形成しているんだな、と感じます。悪いことをしたら怒られて謝る、という紋切り型の一連のセットのようになってしまっている事態を、もっとときほぐして、一旦バラバラにして、つぶさにみていきたいとさえ思います。彼らの中の心の動き、その彼らにとってのリアリティを感じながら、生活ができたらいいのですが。それこそ関係的、発達的システムとして、そこに発現されているリアリティとして。

そういえば、最近は言葉の使い方が難しくなって、例えば「真実」なんてことを真剣にいうと、そんなものはないんだと<真剣に>怒られそうな記述に出あうことがあります。でも自分にとってはリアリティのあることしか語りたくないので、それが私には真実であるという言い方は、間違いじゃないと思っています。私が感じて考えていることが、そうだから、嘘は言いたくないし、言えない、そういう意味で真実ですと。そのことがあなたはそう思わないかもしれませんが、それも貴方の真実ですよね、というような、そういう会話や対話のことです。そういう相対的な主観的真実の並行世界。でも、一方で、それを加速させていいのかな?という根本的な危惧も覚えます。

そしてもう一つ。これは全く個人的な知的関心なのですが、倫理の発達と遺伝の関係です。ウォディントンの「エチカル・アニマル」を読んでいるのですが、80年代のものなので、もう相当古いのでゲノム解析も終了して随分経つ現代は、進化と倫理の関係はどう理解されているのかと調べています。彼の唱えていた遺伝的社会伝達システムという考えはどう評価されているのか、何が生き残っているのかいないのか、というあたりをです。

職員のマスク着用は個人の判断を基本に

2023/03/15

厚労省は3月13日に、2歳児以上のマスク着用は求めていないこと、保育所の職員のマスク着用が個人の主体的な選択を尊重するものであることを、改めて通知しました。15日に千代田区より通知が届きました。

保育所における感染症対策ガイドライン(2018年改訂版)2022年一部改訂(R5年3月修正)

(別添)主な修正箇所

これにより、曖昧だった判断基準が少し明確になりました。従って当園は、東京都および千代田区のコロナ感染が落ち着いている状況なので、園長の判断に基づき、本日3月15日(水)から職員が感染対策を講じた上で、状況によりマスクを外すことがあることを認めまています。どうぞをご承知おきください。

(3月13日の通知で修正されたマニュアル)

(2月10日の通知で出されたマニュアル)

保育所における感染症対策ガイドライン(2018年改訂版)2022年一部改訂(R5年2月修正)

(別添)主な修正箇所

マスク着用が個人の判断に、とはいえ・・

2023/03/13

国は今日13日から、マスクの着用を個人の判断に委ねましたが、街の中も保育園の中も、これまでとあまり変わった感じがしません。というのも、国→東京都→千代田区と流れてくる通知の「冊子」(Q&Aを含めると、もし印刷したら冊子と呼んでいいくらいぶ厚くなる)を見ても、結論は、感染リスクのありそうな場面では(つまり三密)マスク推奨だからです。保育園の中ではこれまで通り、職員はマスクをしており、ほぼ感染対策に変更はありませんでした。

それでも、なんだか不思議な感じが残るのはなぜなんでしょうか。マスクの着用が個人の判断になったというのに、外でもマスクをしている人が多いのは、つけたり外したりが面倒だからでしょう。つけていることに違和感があまりないので、もう少し気候が暑くなったら、むさ苦しくて外すことになるのでしょうか。

レストランや飲食の場でも、マスクは着けていないので、結局、多くの人は本当は「どっちでもいい」と思っているみたいに見えます。そもそも目に見えないウイルスがどの程度、身の回りにいて、そのウイルスの病原性の程度やリスクが曖昧でよくわからないままなので、判断に困ります。病原性の程度に合わせた対応の変更の判断根拠がよくわかりません。

わからない間は、より安全な方を選んでおこうということになのでしょうか。逆に考えると、同じ状況の中でマスクをつけている人と着けていない人がいてもいいことになるので、マスク有無の混在している人がいる状況が起きても構わないということなのですがら、その程度のリスクしかないだろうと暗に示していることになるのでしょうか。その暗黙のうちのメッセージに従うのが、いわゆる「空気を読む」ということだとしたら、揺れ動く集団の意識のバランスが取れる不動点に、多くの人は照準を合わせて行動している、ということなのでしょうか?

それでも、インフルエンザ並みの病原性だと判断されているのですから、それ並みの感染対策でいいと思うのですが、移行期間の今は、結局、先週とあまり変わらない運用で始まっています。わからないから、まあこの程度でいいだろうという感じでしょうか。

ちなみに、東京都は3月13日の検査数約3000のうち、陽性者は331人でした。月曜日ですし、そもそも検査を受ける人も減ってますね。

 

バンドネオンとダンス

2023/03/11

今週を振り返ると、大学との連携に関することがいろいろありました。保育実習生が来ていることもありますし、栄養士になるための保育体験も受け入れたり、大学へ出かけて外国の保育者養成校の学生と交流したりもしました。そして今日は美大でダンスと映画に取り組んでいる学生と話も出来ました。この二人は、当園のダンス指導に来てもらっているコンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんの教え子で、海老原商店での今日のイベントに来ていた方です。

今日のイベントは、青木さんが主催している「EBILAB」の26回目で「バンドネオンとダンス」と題し、珍しい楽器バンドネオンの演奏に合わせて即興ダンスをするというコラボレーションでした。10代から80代まで、20人ぐらいの幅広い年齢層の人たちが、音楽と踊りを楽しみました。

バンドネオンの調べは、どこか懐かしく、国籍を超えたノスタルジックな色調を帯びるから不思議です。それが日本の伝統的「看板建築」の海老原商店とよくあうのです。バンドネオンの音が伝統空間の中で光と音と時間を融合させ、それを青木さんのダンスがさらに「意識を見えるもの」にしていきます。何が見えたのか? もちろんそれは人ぞれぞれですが、私には歴史の時間が見えました。

キリストのチャーチ(教会)を持てなくても讃美歌を歌たいたいという民衆の力が、この楽器を産んだと言います。信仰から必要とされてドイツで生まれた楽器が、南米に渡って受け継がれ、それが日本にたどり着いて、この空間で奏でられているという文化伝承のつながりの中に、楽器がたどってきた歴史を感じました。そしていかにも「昭和な」建物の中の「ネオン」に照らされて、私たちが忘れている意識のどこかを、この楽器は呼び覚ましてくるのです。その呼び覚まされる意識に導かれながら、青木さんの身体が空間を刻んでいくのです。

https://www.instagram.com/stories/nao_ya.aoki/3057988809170839114/

このタイムトリップしたかのような場。それを日常のように思えるのは大いなる勘違いでしょう。なぜなら、難解な演奏スキルを必要とされ、そこから悪魔的楽器という異名をとるバンドネオンが実際に目の前で生演奏されていることさえ、至って稀有なことなのに、建物自体が伝説のような空間で、コンテンポラリーダサーの青木さんの身体が舞うのですから。こんな贅沢な一回きりのどこにも残らないアート作品。そう、人生の生きる時間はどこにも残らないものなのでした。

 

栄養士を目指す学生が保育体験に

2023/03/10

千代田区にきて4年、区内の大学との連携を進めているのですが、コロナで思うように進まなかったのが実習や交流です。やっとその一環として栄養士を目指している学生さんが保育園のボランティア体験に来ました。8日と10日の二日、それぞれ2名ずつです。保育園の調理業務、食事の提供の実際などを説明し、見学してもらいました。ほとんどの保育園は自分の園の中に調理室を持っているのですが、例外的に外部で作った「弁当」を持ち込む園があります。当園も園の中に厨房があって、直接雇用した栄養士3名(うち1名は非常勤)が、午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、延長保育があるときは夕食(あるいは夕方のおやつ)を提供しています。

私は保育園の中に調理室があり、子どもも保育士も一緒に「食を営む生活」が展開されることが大事だと思っています。たとえば、園生活の中で料理をつくるプロセスを子どもたちが見て、色々なことに気づき、その活動の一部(下ごしらえを手伝ったり、お米を研いだり)を共有できること。そこで働く栄養士さんや調理員さんたちと一緒に食事をすること(コロナ感染対策時はできないのですが)。保育士だけではなく栄養士も喫食状況を把握して次の献立に活かすこと。子どもも知っている先生が作ってくれている料理であるという、日常的な会話や心の交流があること。子どもが簡単な料理をするときに、その指導をしてもらえること。プランターで育った野菜を収穫したらすぐに調理に生かしてもらえること。そうしたことが実現しやすいからです。

管理栄養士が各園の子どもの実態を把握しないで自治体単位の統一献立で給食を提供することは、今述べたようなことがやりにくいだろうと想像しています。離乳食ひとつ考えも、月齢はあくまでも目安であって、離乳の進み具合、咀嚼や嚥下の状態、家庭で食べたことのある食材の種類、食事の時間と生活リズムや体調から生まれる食欲などが違います。これは保育と同じで、一人ひとり家庭での過ごし方を含めた生活の連続性、24時間のサイクルのつながり具合を大切にします。

食べ具合を見ながら、どんなメニューや食材、調理法なら食が進むだろうかと考えながら、毎月の献立を見直しています。そうやってできた料理も、その日の個々のコンディションによって、子どもの喫食の様子は違います。そこで配膳は子ども一人ひとりに応じて、その都度の適量が変わってきます。まずは子どもの方からこれぐらいでいい、という考えを言えるようにしてあげて、それに応じて盛り付けてあげます。その日々の変化から大人は子ども理解が深まります。

また今日の学生ボランティアには、当園の栄養士がそうしているように、保育にも入ってもらい、子どもと一緒に遊んでもらいました。子どもと直に触れ合って、子どものことを知って、その子どもたちの食べるものを良くしたい、美味しいといって食べてもらいたい、そういう気持ちから食事を提供していく動機が育っていくと思うからです。

 

保育実習生を受け入れながら

2023/03/09

保育園や幼稚園、こども園などでは、「先生」が働いています。保育士や幼稚園教諭です。それぞれの専門性を養成している「学校」があって、私たちは一般にそれを養成校、といいます。当園のようは保育園で働くには保育士の国家資格を取得する必要があるのですが、その保育士養成課程(カリキュラム)の中には、養成校で学ぶだけではなく、保育現場に行って実際に保育を体験する「実習」も含まれていて、それが養成課程の核になるといわれているほど、大切なものです。したがって、実習を受け入れる保育現場は、学生の養成課程の一部を担っているので、私は養成校でなにをどう教えているのかをできるだけ知ろうとして、大学や短大、専門学校の先生方との交流を続けてきました。

日本保育学会でも続けて実践提案をしてきた時期があったのですが、保育現場が妖精の一翼を担っているという意識と仕組みがどこまで進展してきているのか?と不安になります。というのも学生が実習に行って、かえって保育者になる意欲を失った、という話が養成校の先生から聞こえてくるからです。実際のところ園長会や養成校がもっと組織と組織とのつながりを持って、保育の質についてまず最低限の合意を取りながら、その上で保育者の質につなげてもらいたい。

この数年、コロナ禍の影響で実習の受け入れが中止になったり延期になったりして、養成校は大変でした。学生も然るべきタイミングで実習ができなかったり、本人も体調を崩したり、受け入れる園の方も外部からの出入りがあるとヒヤヒヤだったり、この3年間、本来の養成課程とは違う綱渡りのようなことをやってきた気がします。昨年秋から話題になった保育園の職員による体罰問題なども、養成課程への影響というところまでは、あまり話題にならなかった気もします。

ちょうど3月6日から、大学の実習生3年生が一人きているのですが、当園は2回目の実習Ⅱになります。幼児クラスに連続して入り、今日9日に「責任実習」を終えました。この責任実習という概念や位置付けも見直さないといけないと思ってきた課題の一つです。色々なことが実習を巡って課題が多いと思うのですが、あまり自治体関係者の方は課題の内容をご存知なく、話題にすらのぼらない時期もあったのですが、最近はどうなってきているのかな、と思います。

 

 

シンガポールの学生たちが来日

2023/03/08

都内のある大学がシンガポールの養成校の学生を招き、日本の保育を案内しました。約1週間の日程の中で今日8日、シンガポールとの交流がある藤森平司(省我会理事長)が、その大学で学生向けに2時間半の講演をしました。テーマは日本の保育の特徴、中でもに非認知能力と言われるようになった背景、こども同士の関わりから育つ自立心と協同性について、新宿せいがこども園の実際の保育の動画を使って語りました。

シンガポールといえば、世界の学力調査で上位になる「教育先進国」のイメージがあります。講演の後半のグループ・ディスカッションや、その後のグループ発表などを聞いていると、日本の大学生との差を感じます。それは自分の意見をはっきりと話すことです。質問もすぐに手があがります。その内容も率直です。たとえば「子どもの自主性を大切にすることはよくわかったが、保育者はそれをウォッチ・アンド・ウェイトとしていたら、親から何もやっていない、お金を払っているのに何もしないのか、と言われませんか」といったことを聞いてきます。

講演のテーマが保育者のペタゴジーに焦点を当てた切り口になっていないので、質問内容がそうなるのかもしれず、それはよくあることなので、それほど意外ではなかったのですが、やはり、なんでもはっきり疑問点を口にして問う、ということは大事なことだと思えます。控室で大学の先生ともその話題になりました。大学にもよるのでしょうが、概ねそういう意見は多い気がします。自分の考えや意見を伝え、相手の話を聞いて再構築していくような対話のスタイル、日本の学びの中にそのスタイルをもう少し取り入れていいだろうと思います。

体を動かしたくなる音楽

2023/03/07

色との出会い方を工夫するのと同じように、音との出会い方もいろんな工夫がありえるでしょう。写真はウクレレのポロロンという部屋全体を包み込むような、やわらない伴奏に合わせて、列を作って「歩行」を楽しんでいます。他にも6日(月)の0歳児クラス(ちっち組)の日誌にこんな記述がありました。

 

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(子どもの様子)音楽が流れて大人が歌ったり手遊びをしたりすると、一緒にズンズンと体を揺らして参加していました。バスに乗って♪が好きなようで、O先生の上に自ら座り、ブーンと曲がったりキキー!っと停まったりすると大はしゃぎしていたふたり。Rちゃんは自分で右や左にブーンと曲がるマネをして一緒にお歌を楽しみました。

(評価・反省)自分で遊びも覚えており、歌に合わせてやってもらっていたことを自分でもやってみるようになっている。たくさんのふれあい遊びや手遊びなどを通して、楽しい気持ちの体験を重ねていきたい。

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これを読んで、私のコメントは、こうなりました。「二人はバスに乗った経験があるのかないのか、なくても楽しい要素があり、音楽に合わせて体を動かすということが動物には見られない人間性の一部なんでしょうね。しかもお友達と先生と一緒になって。ぜひ、たくさんのふれあい遊びや手遊びをしてあげてください。」

保育園ならどこにでもありそうなものですが、この曲は「♪バスに乗って揺られてる、ゴーゴー」という繰り返しの後、止まったり、カーブを曲がったりするのですが、それが急停車だったり急カーブだったりすることが面白さを増すので、それをやってもらいたくて期待して「もっとやって〜」となります。

ここにも、面白さから、それをもっとこうしたいという、何かの深まりへの変化があったはずなのですが、要素が複雑です。音楽(リズム、音色、メロディ)に見立て遊びの要素も加わり、身体接触、運動感覚も重なってきて、そりゃ面白いよね、の状態でしょう。だからこそ、担任は「たくさんの〜楽しい気持ちの体験を重ねていきたい」と思ったのでしょう。

 

幼児の登園は9時までに(4月から変更へ)

2023/03/06

4月から3歳児以上の幼児は「朝9時までの登園」へ、0〜2歳児は「朝9時15分までの登園」へ変更します。現在は朝9時半までの登園をお願いしていますが、午前中の保育活動を充実させたいので、登園時刻を早めます。当園は園庭がないので、佐久間公園や和泉公園まで移動する必要もあり、その移動時間ももったいなく、できるだけ遊ぶ時間を増やしてあげたいので、ご協力のほど、よろしくお願いします。(以上、コドモンと同じ内容です)

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スターティング・ストロング。人生の始まりこそ力強く――。

これは経済協力開発機構(OECD)が世界に発信した有名なキャッチフレーズです。「乳幼児期は生涯学習の第一歩であり、教育、社会、家庭におけるウェルビーイング促進の鍵を握る」。赤ちゃんの頃から幼児期までが、人の幸せの基礎になっているというのです。OECDが発行した報告書の名前にもなっています。

その報告書の解説には「すべての子どもへの質の高い幼児教育・保育をめざして、20年以上にわたって進められてきたOECD国際調査のスタートを飾る記念碑的報告書」と銘打たれています。それだけ、乳幼児の保育の質が人生を左右するほど大事だというわけです。

乳幼児期の保育の質を良くするためには、保育園生活の1日の流れをもっと良くしたい思います。先日、主任と話をしていて、同じキャッチフレーズを、こう訳したいと思いつきました。それは「1日の始まりこそ力強く」です。朝起きてからお昼までの時間は、1日の生活の中でとても大切な時間帯です。特に朝食を食べ終わって、朝9時ぐらいから昼食の頃までを、1日の中でのゴールデンタイムと言っていいでしょう。その時間を有効に使いたいと思っています。

晴れた日は9時半ごろには外で遊んでいたいと思います。8時半や9時までに出勤しなければならない方が多いので登園は8時半ごろが多いのですが、自営業の方や育児休業中の方は9時ごろに登園されており、9時半ギリギリの方はほとんどいない状況です。他の保育園も大抵は幼児は9時までの登園になっています。小学生になると自分で歩いて8時ごろには登校していないといけないので、年中、年長になるとそれも視野に入れた生活リズムづくりをご検討ください。

睡眠サイクルを含めて1時間の前倒しのリズムを作るには半年ぐらいかかります。朝の排便のタイミングや前日の就寝時刻と連動するからです。健康な生活リズムづくりのために午前中に活動的な時間を作りましょう。

焦点化が起きることをめぐって

2023/03/05

そうか「焦点化」がキーワードだったんだ! 少し前に改めてそのことを考え始めました。何かにフォーカスを当てること。ある地点に着眼点を当てること。注意を向けることと同じだろうか? 人の意識は何かに注意のカーソルを当てることで、世界のありようが立ち上がってくる。その前の段階は朦朧としているということ?不明瞭で不確かで何がなんだか分からないという状態? そのような状態のままだとどうなるのだろうか? きっとそのようなまま、ということはなくて、世界は動き、変化するので、きっと向こうから、外側から何かがやってくるのだろう。子どもにとって、その何かが迫ってくる感覚は、わけのわからないものだから「不安」になってしまうのだ。そう考えていいんだと、教わりました。

その不安な状態の中から、子どもはそれなら知っている!というわかるもの、わかりやすいものが見つかると、それを手がかりに(心がかりに!?)して、それを引き寄せようとするらしい。きっとそれが主体側から「かかわり」というものが形になる最初のアクションなんだろう。それが焦点化だった。そう言っていいものだったという。

そうか、私は言葉と意識が常に一致していないという不一致感があることが当たり前だと思って生きてきました。それは当たり前のことだったのかもしれません。生のいきさつを、とりあえず受精から考えても、個体が誕生するまでの成長は能動的とも受動的とも、分けることは難しいので、きっとこの「焦点を何かに当てる」という最初のことも、環境との相互作用として発現したものとしか言いようがない、ということが真相なのでしょう。真相、というか、私が今持っている概念でパズルのように辻褄合う意味を生み出す言葉の配列としてはそうなる、ということです。

きっと、現代の発達論は、私たちが思い込んでいる概念そのものの変更を要請されながら、生命の動向を捉えようとしているのだ、ということはわかる気がします。それにしても、事実として起きていることを、既存の言葉で説明し尽くすことが出来にくいほど、明白な事実を語ることが難しいのかもしれません。しかし、だからこそ、哲学が大切な時代になっていることも、世界を表現する表象体系のありようを検討し直すことも欠かせないのだろうと、ぼんやりと察知できます。本当に「ぼんやりと」なので、困ったものです。(ぼんやりだから、本当には困ってないんだろうな)

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