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園長の日記

確かなものへ

2023/05/07

今日でGWも最終日。明日をどんな気持ちで迎えるかによって、日々の暮らしの何かを図る指標になりそうな気がします。この休暇と労働という区分に精神的な架け橋が必要そうな場合には、自分自身の深いところで望んでいることを見つける機会にしていくといいのかもしれません。

大人にも自分自身との関わり方と意味に気づくことが必要なのでしょう。その場合の環境というのは、実は無数の文脈で織り込まれている自分自身のありようです。今日から明日へ向かうことへの不自由さを感じる何かがあるとしたら、明日になればもっとよくなるという希望に似た文脈を見出しにくくなっているということによるのでしょうか。

皆さんにとって、明日からの楽しいことってなんでしょう。私にとっては新しい確かな揺るぎないものを作り上げていくプロセスにいるという小さな実感を感じたいという期待のようなものです。小さな積み重ねのようなもの。そこへの期待でしょうか。本当に小さな、小さな確かなものと思える何かです。

ちなにみ週末には地域の祭りがありますね。

子どもにとっての風景や光景とは

2023/05/06

普段は考えないようなことを思い出しては、頭の中でパズルのように遊んでいられる時間があるというのは幸せだ。確かに言われてみると、保育でそういうことはあまり意識してこかなったと気づく。何かというと風景画です。

(写真は、5月20日に予定している親子遠足で、ちょっとだけ歩く隅田川テラスに掲げてある浮世絵の拡大図です)

塗り絵、自由画、人物画、そういうカテゴリーで子どもの「作品」を整理することはっても、子どもは風景や光景そのものを再現しないかもしれません。そこにある物にはもちろん興味はあっても。

それに似たことは、いろいろやるけれども、いわゆる大人が思うような(と言っても人それぞれでしょうけど)自然とそれを再現(リプレゼンテーションとしての、ですが)はしないと言っていいのかなあ。でもこんなことはやってました。

以前の八王子の園でのことですが、インスタントカメラで子どもが写真を撮って、展示するとか。その前は、ネイチャーゲームにハマっていた時にいろいろなゲームがあって、自然の中の美しいと思ったところに絵葉書大の額縁をかざして空間的に切り取るというのをやっていました。

千代田区に来てからは須田町二丁目の会長に頼んで、会長がオーナーのビルの11階に昇らせてもらい、そこから秋葉原絵周辺の光景を眺めたことがあります。園に戻ってくると、幼児は早速、室内に駅や線路を作り、新幹線を走らせて遊びはじめました。

下を散歩で歩いているだけでは見えない風景だからでしょう。園周辺を一望することで、あそこにこれがあったとか、こっちの道がどうとか、神社がこっちでこれはホテルとか、模造紙の上に建物の箱が並びました。散歩マップ作りにどう役立つかな、と思って楽しみでした。絵にした子がいたかどうかわかりません。

確かに風景画という切り口は、科学と同じでただの日常的な生活だけでは、子どもからは出てこないような気がします。虫眼鏡で見るのと同じように、この枠で見たらどう見える?的なものを置いておく必要があるかもしれません。

高尾山に子どもたち(年長)と卒園前の時期のお別れ遠足で登った時、広い場所に出ると子どもは走り始め、わ〜っと展望できる場所へ駆けていきました。高い場所に上りつめて、目の前がば〜っと開かれていく風景。その開放的な気持ちのいい感覚を子どもたちは山登りで味わいました。

そこで、もし子どもに写真を撮らせたとしても、きっと物を撮りたがるだろう。それを「風景として」は、撮れないだろうという気がします。そういう認識の枠組みをまだもっていないでしょう。そのフレームがどういう意味で必要なのかと考えると、別に枠組みの話ではないでしょうね。その枠に縛られない方がいいでしょうから。

どこに何をどう描くか、再現させるかは、その時の制約から生まれました。古代の洞窟壁画にしても、教会の祭壇画も、飾る部屋の大きさに合った人物画も、どこに飾るのか、大きさや形、画材などの制約を受けながら、おおむね成立していったと見ていいでしょう。

その展開の中で慣習的に今にも伝わっているのがキャンバスのサイズだったり、額縁舞台から始まった舞台空間やコンサートホールでしょうから、日本の能舞台は西洋とは全く違うし、画用紙がどうして四角なのかも、まあ、裁断機のサイズなどいろんな意味で落ち着くべきところに落ち着いていると見ていいのでしょう。新聞紙の大きさもそうでした。

ここにきてデジタル化です。その辺りもどうなるのでしょう。「書く」や「描く」という言い方では収まらなくなってくるのでしょうか。若い人たちはネットでの注文をポチるというように。

保育園の目の前を流れる神田川。その川にかかる和泉橋。散歩の時にそこを渡りながら、船を眺めたり、ゆりかもめが羽を休めているのを見たり。

そういえば、ちょっと意識してやってきたのは、風景に季節感を感じることです。春にはたんぽぽやハルジオン、ヒメジョオンを摘んできます。夏には朝顔や園舎の屋上のひまわりの黄色が見えるように、また同じ場所に秋にはコスモスが見えます、そして冬にはクリスマスの電飾がツリーをかたどります。子どもがいつも通る同じ場所から、季節の変化を感じてもらいたくて、そうしています。そうでもしないと、都市のビル街に自然や季節を感じるものが少ないからです。

それらを子どもが写真にとって、季節ごとの変化を「絵はがき」にして飾るという活動を子どもがやってみようと思います。そこから何か見え方が変わってくるかもしれません。

話は、そもそものことに戻りますが、子どもは心動かされたこと、印象深いことは再現したがります。「ねえねえ、あのね」と話してくれたり、絵にしたり、ごっこ遊びになったりします。いずれにしても、何らかの再現・再演・表象表現が起きて、表しやすい表現手段と結びつくと、その表象を目に見えるコトに変えていきます。

アイスクリームにもして、パン屋さんにしても、蕎麦屋さんにしても、お寿司屋さんにしても、実演があると子どもは食いつきます。そこを再現したがる。そこを面白いと思うのです。遊びの模倣というジャンルをひろ〜く捉えれば、遊びはそこに入ることがとても多いような気がします。なので幼児の自由遊びはごっこ遊びが多くなります。その表現のバリエーションに風景や光景などが入っていくための、心動かされる体験とは、どんなことなんでしょう。・・・

子どもたちと覗くと「見えた!」と喜ぶお月様の観測。スマホで撮った写真です。

気持ちいい風

2023/05/05

こどもの日だから、子どものいる場所にいました。そこは普段は子どもがいない場所ですが、保育園そばの海老原商店。柳原通りから吹き抜ける風が気持ちいい。ダンサーの青木尚哉さんと並んで、ひとときの雑談。思いつくままの話題が転がっていった。

ダンスにしても保育にしても、それを「やる」という自由は常に不自由感が付きまとうという感覚で一致しました。

ああ、こうしたらよかったかも、という通り過ぎ去っていった時間への後悔めいた感覚。それは嫌なものじゃなくて、なくなってしまいたいものでもなく、否応なく生じるものであり、次の自由につながるもの。十全な準備ができると思える時間がもらえたときの自由感。よく準備された後のスタートライン。

あれだけしんどかったのに、やり終わった時の解放感。やってる最中は、ものすごく不自由だったりするけど、その繰り返しかもね。ね。

休日の、何も宿題感覚のない午後の風がやたらと気持ちよかった。

子どもにとって、そんな時間を感じるのは終わり間近な夏休み終盤くらいか?じゃあ、大人は?

 

小さなアーティストたち~表現の前の居場所をめぐって~

2023/05/04

この時期は、新しく入園した子どもたちが慣れてきたかな、と考えることが多い。親御さんもそうですよね。すっかり先生たちに抱かれて「あっち」とか「これは?」とか周囲に目を向けて世界を広げている赤ちゃんたち。私を目を合わせるとにっこりして手足を動かしてくれる子も。乳児にかぎらず幼児の子たちも、友達と一緒に遊ぶのが楽しそうです。

わたしたちはよく、慣れていく話の中に、そこが子どもにとっての「居場所になる」という言い方をよくします。居場所になるといういい方は、ちょっと大事なニュアンスを含んでいるように感じます。人によっては「居場所づくり」のような、何かスローガン的な使われ方をすることもありますし、そうなっていなことがとても大事なものを失っていることを示しているようです。

子どもたちが園生活に慣れていくこと、馴染んでいくことと、その子たちにとっての居場所になることとは同じなのでしょうか。違うのでしょうか? 居場所になる場というものは、空間とはちがうのでしょうか?物が置かれている空間やスペースとはどうちがうのでしょうか?

このGW期間に帰省されている方も多いでしょう。そこはご自身やご家族にとって故郷だったり生まれ育った場所だったりするかもしれませんね。懐かしさというものはその場所に行けば、あるいは思い浮かべるだけですぐに感じるなにかですよね。それほど私たち一人ひとりにとって、ある場所とそうでない場所は、はっきりと異なりますよね。物理的に見れば同じ空間であっても、人によって意味が違ってきます。

それと同じ連想で家庭と保育園の空間が、それぞれ愛着ある場所になっていくとき、好きな場所にかわっていくとき、そこがその子どもにとっての居場所になっていくのかもしれません。昨日の画家もそうですが、その画家にかぎらず多くの芸術家は、活動の拠点を探して変えています。モネなどはセーヌ川の水を引き込んだ池まで作りました。その池にかかる太鼓橋は、日本の浮世絵にでてくる風景からの影響だといわれています。

私が20代の頃、あるレストランを一緒に取材したカメラマンは店主に「ベストシナリーはどこか?」と必ず聞いていました。カメラマンからの風景と、店からの「ここです」は、たいてい一致しました。そしてそこに座る客にとっても、そこからの眺めが心地よいこととも通じていました。限られた雑誌のページに、店の特徴や店内の雰囲気をもっともよく表す一枚と料理を撮影するのに相当の時間を要しました。

保育園ができたとき、設計した建築家は、2階のガラス窓から外の風景を展望できる一角が、「子どもにとって、ここが人気の場所になるはず」と言っていました。確かにそこは、ここに子どもは基地づくりはおうちごっこをしたがる場所です。狭いこと、隅っこであることもありますが、景色を含めた「居心地のよさ」というものは、子どもに多くの意味を伝えているのでしょう。

ギリシャ語で「場」のことをトポスといい、物の本によると、その言葉の使われ方は、記憶などの何かを喚起させる場所のことで「いつでも使える何かが埋まっている可能的なプレイス」という説明がされていることもあります。私はアキハバラ近くの万世橋を歩くと、ある夏のシーンをリアルに思い出すことがあります。不思議なことですが、そこを歩きながら聞いていたポッドキャストの内容や音楽まで蘇ります。いつもとは限りません。ある情感とセットでよみがえる、ある種の質感(クオリア)です。

それとはちょっと違うのですが、安定的に定着している子どもの頃の思い出は、トピックスになって場面として映像的に記憶されています。こちらは大人になってから、本当にそうなのか怪しいものだと疑いながらの思い出です、というのも聞かされた話と混ざってしまっているからです。

この思い出したり、意味に気づいたりすることを駆動させているものを、ちゃんと調べたり考え抜かれてきた哲学的な歴史があること(アリストテレスから現代に至るまでの思考方法の開拓者たちによる)に気づき、それは修辞学的には「トピカ」と呼ばれてきたもので、場(トポス)に働きかけて引き出す働きを担っているという。そういう見方ができるのなら、トポスとトピカの相互共役的に働くありかたは、芸術家が場所からインスピレーションを得ているありかたとそっくりだと思います。

その働きかけをアルス(アートと言われる元の言葉)といってきたのだから、子どもが無自覚に突き動かされているのかもしれない遊びのなかにあるものも、芸術家が場所をかえて作品を創り出そうとしていることと、同じような何かかもしれませんね。子どもの姿を捉えて「小さな科学者」ということがありますが、室内をうろうろしたり、遠くを眺めてぼ~っとしているときにも「小さなアーティスト」たちが活動しているのかもしれません。そんなときは、大事なアルス・コンビナトリア(と、いうらしい。アート的な表象の結合術ということ)の最中かもしれませんよ。

線と色の葛藤のはてに

2023/05/03

多くの人が自分の時間に新しい意味を見出したいと思っているんじゃないだろうか。どうして休みになると出かけたがるのだろう。家にいるのがつまらないわけでもないだろうけど、新しいことをしたがるようにみえる。人々を動かしているそのエネルギーは植物の繁殖力とはちがう。人間の自由に関わる精神的な運動の在り方だろうか。

そこには、それは大人らしい好奇心と、プラスアルファの何かは人によって異なるものがありそう。私は家族と都内の美術館に出掛けてみた。有名なフランス人の画家の大規模な展示会で、新しい発見があって面白かった。芸術家もまた比類なき探求者で、その変化は絵画の時代的革新に関する要請に自覚的な、じつに敏感な意識的な変化であり、印象派が臨んでいたデッサンと色の葛藤を彼もまた抱えていた。線と色。実際に没頭して試みて、離れていく。筆色分割も散々やってみた挙句に次へと。

その変遷がよくわかる展示になっていて興味深いものだった。彼は大きな転換点には彫像に取り組んでいる。スタイルが変わるのは探し求めている自分に合った表現方法をみつけるためだということがよくわかった。デッサンという組本に同じテーマで異なるバリエーションをいくつも描いている。そこから何かをつかみ取ろうとしている。いくつもいくつもやってみて、そこから得る次の展開へ。この順番。そして体が不自由になると切絵にたどり着く。へえ~!コラージュなんだ。私はびっくりした。彼は色そのものを自由に扱える感覚があったそうで、そこに自己と表現が一致していくものを感じ取ったらしい。ああ、これも愛と知の循環だ。

こうやって、いつも思うのは芸術は繰り返し楽しむことができるということ。そこに立ち戻ることが目的と手段に分離しないこと。子どもの遊びに似ているように思う。そこにある創造と休息は命のリズムそのものであって、仕事と休暇ではない。そんな風な時間がいいなと思いながら、疲れてロビーのソファーにしばし座った。そうか、リフレクションは子どももやっている。振り返りはお集まりの時間じゃなくてもいいし、ソファーにごろごろしながら、大事なことを思い出したりしている。堀真一郎さんも同じことを言っていたことを思い出した。教室にはソファも必要だ。

絵が人の肘掛け椅子のようなものであったらという(先の世界大戦中の中での話ですが)、こんな探求もあると思うと、人間のやっていることが、他人のことなのに、なんだか人生がいとおしくなってくる。

「怖いけど、やりたい!」を助けてあげる子どもたち

2023/05/02

さてさて、今日を振り返ってみると、子どもの数は、GWのはざまの平日なので、昨日と同じく普段の3分の2ぐらい。比較的のんびりと過ごしました。5月に新しく入園したお友達に遊び方を教えてあげたり、絵を描くのも室内と屋上を行き来して使い分けたり、先生と一緒に食べる食事のときに、みんなで同じ話題を楽しんだり・・・ちょっと人数が減るだけで生活の流れ方がこうも違うものかと思う場面もありました。

子どもは友達になる名人です。昨日から園に来始めた年中の女の子。登園初日から数人の女な子たちと一緒にドレスに着飾って、ごっこ遊びを楽しんでいます。人形の赤ちゃんをベビーカーに乗せて、室内をお散歩です。ときどき、ソファのある絵本ゾーンにきて、赤ちゃんと一緒に寝転がり、くつろいでいます。

今日は幼児のクラスブログにあるように、運動ゾーンで微笑ましい子どもの助け合い、というか協力し合う場面がありました。ちょっと紹介します。

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今日の運動ゾーンでのエピソードです。
この5月からの新しいお友だち、らんらん組のKちゃんが、ネットの遊具に挑戦してみたい!と やってきました。

少し、足をかけて登ってみるけれど、まだロープがゆらゆら揺れるのが怖いみたい…。
「こわい〜〜」と半泣きになりながらも、降りるのはイヤ!と、挑戦してみたい気持ちはあるようです。諦めずにチャレンジするKちゃんです。

はじめのうちは、まわりにいたお友だちもおかまいなくネットによじ登ったり、となりのブランコに乗ったりして遊んでいたのですが…
ふとJくんが、「Kちゃん、揺れると怖いんだって!だから、みんな乗らないで!」と、Kちゃんのことを下から支えながらまわりのみんなに伝え始めました。

すると、そこから少しずつ、一緒に遊んでいたHちゃん やMくん も、 Kちゃんのためにロープが揺れないよう押さえたり、怖くないように下に立って支えようとしてあげたり、協力しながらのお手伝いが始まりました。

Jくんを筆頭に、「じゃあ、こっちを押さえといたら良いんじゃない!?」と案を出したり、あとから何も知らずにやってきたお友だちに「Kちゃん 揺れるのイヤだから、いま(ネットに)乗っちゃダメ〜!」と伝えたり…。
そして、後半から加わったRちゃんも 一緒にお手伝い。

↑赤い玉が揺れるとネットも揺れてしまうと気がついた子どもたち。みんなで押さえています!

頼もしいチームワークのわらすさんでした。

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人間は「人への関心」や「利他性を持って生まれてくる」と言われます。協力することがヒトの特性だという説もあります。そう考えれは子ども同士がすぐに仲良くなったり、協力しあったりするのも当然といえば当然かもしれません。それでも、他人が困っていたら助けようとする心が動き出すのは、子ども同士の中に気持ちの通い合いがあることや、その遊びの面白さを知っているからこそ、Kちゃんの「怖いけどやりたい」気持ちが分かる、という同じ体験に基づく共有された心情もあるからでしょう。そういう要素が重なり合って「わかった、そうだよね」が受け入れられて、伝播していったと言えるのかもしれません。

優しさや思いやり、お友達が喜ぶことが嬉しい、困っていたら助けてあげたいという心情の育ち。それは確かにその子の「資質・能力」としての育ちになっていってほしいものなのですが、このような姿を生む要因を個人の資質・能力だけに限定した見方をせず、やりたいと思うネットという遊具(もの)や、お友達(人)などの存在(環境)が影響しています。その場に創発している、とも言えるのでしょう。

さらにこのことを、幼児教育の「見方・考え方」から捉えると、Kちゃんはネットでの遊び方、つまり環境との関わり方と、こうしたらこうなるという意味に気づき、それを自分に取り入れようとして試行錯誤しながら、どうやったら上手く登れるようになるのかを、自分の身体と会話しながら、思い巡らしているように見えます。自分と物と人との関わりが同時に起きているわけで、身体的、精神的、社会的な関わりが、乳児に限らず生じています。

もちろん同時に、そこにお友達も助け合う過程で、助け方や声のかけ合い方などの関わり方や意味に気づき、それぞれがそれを学び取っていきます。行動の起点は困っているKちゃんへのJ くんの気づきと共感から始まったことですが、それが力強く広がっていった事実の中に、人が世界に関わっていく力強さの芽生えさえ感じます。

気づいてできるように「なっていき」、その手応えとしての世界の変化を感じとりながら、新しく遊びに加わってくるお友達に「〜なんだよ」と教えたりして協力を求めたり「しようとしています」。ここには、共感や見通す力などの非認知的なものを合わさって、考えることも判断することも表現することも含まれています。

より善いことをしようとしていると信じており、また、お互いの自由を認めながら、共にそれが実現できるようにすること、つまり公正さ(ジャスティス=正義)を実現させようとしているようにも見えます。これをきっと、よりよい社会をつくり出すための、学びに向かう力、人間性の陶冶と呼んでいいのかもしれません。こうした小さな積み重ねが大きな変化を生み出していくのではないでしょうか。

 

AIが回答した「見守る保育とは?」

2023/05/01

(園だより5月号 巻頭言より)

生成型の人工知能(AI)の一つ、chatGPTをよく使っています。どのようなものか、実際に使ってみようと思って始めたら、私にとっては、すぐに手放せなくなりそうなくらい便利なツールになっています。例えば次のように尋ねてみます。「藤森平司が唱えている見守る保育とはなんですか?」すると次のように回答してきました。

・・・・・・

見守る保育とは、保育者が子どもたちを徹底的に観察し、子どもたちの個性や特性を理解した上で、必要に応じて手を差し伸べることで、子どもたちの自主性や自己表現力、思考力などを育む保育の方法です。

従来の保育は、どちらかというと保育者が主体的に子どもたちに指導を行うことが多といわれ、子どもたちはそれに従うことが求められていました。しかし、見守る保育では、子どもたちの興味や関心に合わせて保育内容を調整し、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことを目的としています。

また、見守る保育では、子どもたちの成長過程を共有することが重要視されており、保護者とのコミュニケーションも密に行われます。保育者は、子どもたちの成長について保護者と共に考え、協力してこどもたちを育てることが求められます。

・・・・・・

どうでしょうか。よくこんなに平気でわかったような断定ができるものだと感心します。ネット上にある情報を集めて瞬時に回答するのですから、大したものです。藤森先生も同じことをやって「下手な解説よりも、よっぽどいいんじゃない?」と、新宿せいが子ども園だよりにも、A Iの解説を載せて、本人が間違いないと言っているから、正しいです、とユーモアたっぷりに紹介したそうです。

一方で、使っていくと、このチャットの限界もわかります。回答について、さらに詳しく問い質していくと、行き詰まりが露呈します。例えば見守る保育と要領・指針との違いを聞くと、方法でアプローチが異なることがある、というので、さらにそれは具体的に何が違うかと問うと、最初の回答の言い方を変えたものに、いくつかの要素を新たに加えてきました。それはどこでもありうる保育方法でした。自信ありげに平気で嘘もつくのです。この辺りから、知らない世界のことだと、私も騙されるかもしれないと思いました。

こう言う意味での精度は、ユーザが使うほどデータ量も増え技術もあっというまに、どんどん進化していくでしょうから解決されていくのでしょう。人間が言葉や映像や記号や音など、デジタル化されうる表象は全てAIの独壇場となるのかもしれません。しかし、もちろん人間の物理的な身体性に由来するものはAIそのものでは代替できないでしょうが、倫理的問題は別にすれば、人工人体などとの融合技術は進むでしょう。それでも人間の内部で起きている事実と人間性の関係にどんな影響を与えていくのか、専門家はきっと、そこの周辺を真剣に議論していることでしょう。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

誕生会の絵本プレゼントとせいが文庫について

2023/04/28

誕生会は、一人ひとりに保育園から絵本と手作りの色紙がプレンゼントされます。絵本はその年齢に合ったものを基本的に私が候補リストを挙げて、その中から先生たちがその子に合ったものを選びます。子どもの誕生を祝うもの、成長や大きくなることを慈しむような内容のものです。

毎月、書店には新しい絵本が並び、どれを買っていいのか迷います。そこで保育園には「せいが文庫」を設けて、ご家庭に貸し出しています。定期的に代表的な有名な絵本を、計画的に揃えてきました。誕生会では、そのリストにもまだ入っていない、けれどもいい絵本を選びます。

絵本選びの基準そのものも、選んでいます。私の基準は絵本に造詣の深い方の推薦です。作家自身のもの、編集者のもの、絵本研究者のものなど、絵本屋さん推薦のものなど、それだけでもかなり色々あります。その選び方の基準を知るのも楽しいものです。

始まりは馴染みやすいものから〜4月の誕生会

2023/04/27

4月の保育は慣れ親しんだもので安心するような内容を意識して取り入れています。給食の献立も家庭で食べことがあるようなもの。メニューの名前から想像しやすいもの。慣れていくこと、安心でいることは、子どもがそれ「知ってる!」といることが、その子どもが初めての場所を歩いていく近道だからです。それと似たこととして、玄関には金魚が泳いでいます。行事の出し物にも、その発想が入っています。

当園の誕生会は、乳児0〜1歳のクラス(1階)と幼児2〜345歳のクラス(2階のダイニング)に分かれて、開かれます。いずれもその月に生まれた子どもたちをお祝いします。一人ずつの手形の色紙と絵本をプレゼントします。藤森平司作詞作曲の「たんじょうかいのうた」を歌い、先生による小さな出し物があります。

4月27日(木)の、今年度最初の誕生会では、乳児では、くだものケーキをエプロンシアターで作りました。子どももケーキにフルーツを乗せる参加型です。

幼児むけには、ちょうどアゲバチョウの観察や、その卵がこれから「手に入る時期になる」ことを見越して、エリック・カールの大型絵本「はらぺこあおむし」を使った歌とミニ上演をしました。

その前に導入として、厚紙で作られた手製の仕掛け遊具で遊びます。開くと卵が出てて、さらに開くと蛹になって、最後は蝶になって・・また葉っぱになって、と繰り返す仕掛けのもの。

それにつけた「お話」も、最初はゆっくりと語り、また同じ絵が出てくると、あれ、同じだ!と気づき、3回目になると「またあれだ!」「また、そうなるぞ1」と予想して、面白がり、実際にそうなると「やっぱり!当たった!」と嬉しくなり、「またやって!」と期待します。

このような遊びを見ていると、知らないものが既知のものに変わり、そこから新しい見通しが現れ、それが実現していくことのワクワク感を感じます。繰り返されること、小澤俊夫さんの昔話の3回繰り返しのことを思い出しながら、知らない世界に入り込んでいく仕掛けのようなものを考えながら、その様子を見ていたのです。

先生の演じ方は、また同じものが現れることに先生が「驚いているふりをしていること」がわざとであることに気づき、「そんなこと、またわざとやって!」と面白がっています。先生の冗談を冗談としてわかり、ニヤニヤしているのは年長の数人です。

 

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