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園長の日記

にこにこ組(2歳児)の保護者会

2024/04/02

今日は2歳児クラス「いつも わらって にこにこ組」(というのが正式名称なのですが)の保護者会でした。新しく入園された方もいるので、お子さんのことを含めた自己紹介。そして、これからどんなことを大切にしていくか、どうなっていきそうか、ということを担任と私で分担して話しました。

担任からは、3つの保育目標について、このクラスの実際を踏まえて具体化した内容を、私からはなんでも便利になって生活の中から「身体で覚える」ということが少なくなっているので、それを意識して取り戻したいということを。

このクラスは保護者同士のコミュニケーションが豊かで、3月はバスでクラス単位でお別れ遠足をしたほどの仲のよさ。今日も会の最後は保護者の方が作った昨年度「ぐんぐん組」の1年間をスライドショーにまとめたものを披露もしてくださるサプライズもあり、グッとくるものがありました。

2歳児クラスでこんな感じになったら、卒園する頃はどうなるんだろう!と嬉しさが込み上げてきました。1年でこんなに育ったんだなあ、ということがよくわかるものでした。ありがとうございました。

 

進級マジックにあふれた新年度がスタート

2024/04/01

新たに入園された方は今日から保育園生活が始まりました。「ねえ、みてて」と私の足を引き留めたのはクライミングで上までよじ登っている3歳児クラスに進級したISさんとMYさん。同じように「ほら、みてて」を私の目をくぎ付けにさせたのは、箸で鶏肉をつまんで口に運べるようになった4歳児クラスに進級したAIさん。

あれ、どうしてダイニングがこんなに少ないんだろう?と思ったら、3階で食べていた新年中と新年長の子どもたち。「そうか、3階で食べてみたかったんだね、すいすいさん(3月までいた)のように」・・

子どもたちは、「もう〇〇さん(クラス名)なんだから」となぜか一段と自信にあふれていて、一日で1年成長したと勘違いしているかのように見えます。そこがなんとも面白くて、ローマは一日にして成らず、ですが「子どもの自信は一日でなる」という進級マジック!です。

さて新年度の初日の今日は、朝から0歳児クラスちっち組の保護者会でした。6家庭の保護者が集い担任紹介や年間の保育目標などを説明させてもらった後で、お子さんの名前の由来などを交えた自己紹介で少し懇談しました。名前に込められた意味と愛情を受けとめあって、いわばクラス開きの記念日です。これからどんなクラスになっていくのか楽しみです。

夕方には3歳児クラスの保護者会も開きました。こちらは定員10人に対して5家庭でスタート。全員が2歳児クラスからの持ち上がりで、5月以降の年度途中の募集を続けていきます。保護者会の内容と資料はクラスのブログに載せておきますので、ご覧ください。

 

 

東京の桜の標準木 開花

2024/03/31

29日の桜の開花宣言を受けて、その標本木の桜の花を見に行きました。

ほとんどはまだ蕾ですが、早く開いた花びらの淡いピンクがきれいでした。

春の日差しに誘われて、観光客もたくさんです。

 

卒園するご家庭のみなさんへ

2024/03/30

3月30日(土)。明日は日曜日なので、今日で令和5年度、2023年度の最後の保育の日となりました。全員出勤して月曜日からの新年度保育に備えました。

昨日は夕方に、卒園するご家庭との最後のご挨拶をしました。卒園式のときも申し上げましたが、通う場所は変わっても、活動する世界が広がるだけで、これまで通り、何かあったら助け合う関係は続きます。これからも子どもたちのことをできるだけ見守っていきます。また卒園しても放課後はSSS があるし、園児が授業参観に行くこともあるでしょう。千代田区は春から小学校単位で、学校と園の先生同士の連携も始まります。

ここに改めて、卒園式で保護者の方にお伝えしたことを書いておきます。

「保育園でいっぱい遊んで学んだことが、小学校での生活と学びにきっと活きていくでしょう。小学校はこれから令和の日本型学校教育といって、個別最適な学びと協働的な学びを大切にしてきます。卒園する子どもたちは自分の考えをしっかり持っています。ここでやってきたように、自分の意見もしっかり伝えましょう。そして相手の話もしっかり聞いて、そうだな、と思えはそう思えばいいし、違うなと思えばどう違うかを言えばいい。いろいろ話し合って面白いことを見つけていってね。そういうことを子どもたちには伝えてきました。ですから、私たち大人は子どもが何をどうしたいのか、聞いてあげて、それぞれのやりたいことをみつけて自分で実現していけるように、支えてあげてください。」

 

 

未知の大きさに途方に暮れながら年度末を迎える

2024/03/29

ちょっと前のことですがテレビで鳴門の渦潮を見ました。「その渦は取り出して持って帰れませんよね。宇宙も銀河系も、やっぱり渦ですよね。それと同じようなことが保育でもいっぱい起きているんです」と、新年度の月刊絵本の見本を持ってこられた代理店の方に話したら面白がってくれました。

「そこには海水の動きの中に、関係のプロセスとパターンがあって、その渦を切り取って並べてみることはできないでしょ。ほとんどの事はそうなっているわけですから、子どもが何かを身につけて成長していく姿は、そのように関係のプロセスの中に見えてくるパターンを認めていくことになるのなもしれない、なんて想像しているんです。小さな渦や大きな渦や、ゆっくりのや早いのや、いろいろあって・・」

最近「そういえば」と思い出したのは、大学時代に親しんだユクスキュルの「環世界」の見方があります。いまごろになって保育に関係してきたので面白いのです。ギブソンのアフォーダンスの見方が知覚と行為の関係について、ずいぶんと変えてくれた気もするし、それ以前に、そのような人間の認知の限界を見出した先駆ともいうべきユクスキュルの発見とともつながって、それに影響を受けたアーティストもたくさんいたというエッセイを最近よんで、同時代にクロスしていないことを残念に思います。

私の場合は20代の後半から、感覚が捉えることのできる世界が「ここ」なら、超感覚的な世界が「向こう」にあると仮定することを否定できないと思っていたので、高橋巌さんの導きでルドルフ・シュタイナーにいったわけです。超感覚的世界を認識する力の開発の難しさを淡々と受け入れつつ、日常的は時間の中では、普通の人間の感覚で捉えている世界の中で通用する理論と見方と言葉を辿り直している感じです。それは、数年前からやっている東大のテンミニッツの知識の全体像(小宮山宏)の片鱗(ほんの一部)なっていくのでしょう。

ユクスキュルがもし生きていたら、自然に対する人間の所業を嘆き悲しんだかもしれません。どうしてこんな巨大な装置を作ってしまったんだろう、と。人間は、もうそんなことを言っても仕方がないところまで来てしまった。それにしても人間はすごいことをしでかしてしまうものだ。映画「オッペンハイマー」がもうすぐ公開されるようです。これは観に行くことにしよう。

まだ出会えていない膨大な知識が世界にはあって、それは現代は爆発しているようなものだといいます。どんな専門家がよってたかって全体像を掴もうとしたって、不可能だろうと。世界に前人未到の土地は限られていると思ってたら、とんでもない、知識の世界がビッグバンを起こしているようだ。じゃあ、どうするといいんだろう。朧げでもいい、片鱗だけでもいい。世界の全体像をいまだに知りたいと思っています。

必要なことを選択できる育ち(共同主体性の育ち)

2024/03/27

来年度の保育の年間計画が、出揃い始めました。各クラスの新しい担任がこんな1年にしたい、という保育目標を言葉や写真で表現しています。その内容は4月のクラスごとの保護者会で説明させてもらいますが、今年は子供が主体的に関わる環境の有りようを、乳児の3つの関わりの視点から10の姿までを、かなり具体的なこどもの姿として、つなげて表現することができそうです。

乳児の身体的な発達と思われている視点を、自己との関わりの視点と読み変えることで、行為主体性が、共同主体性に成長していく事例を並べてみようと言うわけです。例えば、ある遊びを眺めていた子供が、その遊びに入った途端、その決まりを守る必要があり、それを守れなくなった時、例外条項を共有していることに気づきました。タイム、透明人間、トイレ、お茶を飲みに行く、などなど決まりを守らなくても良い理由を宣言していくのです。まぁ律儀だなぁと思っていたのですが、ここに共同主体性が機能していることに気づきました。

これまで選択めぐって、自分のやりたいことを選択すること、他者との関わりの中で、身につけていく社会性の両極を橋渡しするものとして、「発達に必要なことを選択できるようになる」と表現していたのですが、これこそ、共同主体性の育ちと位置づけてみようと言うわけです。

 

感情の震度〜気持ちが充満する空間の密度

2024/03/26

最近、こんな光景があったそうです。4月ですぐに3歳になる1歳児クラスCさんが「(気持ちが)落ち着いたら、やったら」と、手を洗おうとしない同じクラスのYくんに優しく声をかけたそうです。こんな小さな子どもの気持ちを察してこうしたら?と提案しています。

そこでYくんに先生が「何か嫌だったの?」と聞くと、どうも水道の水が「冷たい」から、どうしようかな?と思っていたらしいのです。さらにこの話にはオチがあって、同じクラスのもう一人の子(この子は5月で満3歳になります)が「もう少し待ってあげたら」と先生に苦言を呈したというのですから、面白いですね。

それを聞いた先生が「ハッとして、反省したんです」と、子どもの微笑ましい姿を思い出しながら、「あの会話を録画しておきたかったなあ」と悔やんでいます。つい大人はこうしたら、ああしあたら、と行為を促すような言葉をかけてしまいます。

自分の気持ちをお友達の気持ちにかさね合わせているとか、相手の気持ちに気づいているとか、そういう解釈は色々できるのですが、そして大筋そういうことなのでしょうが、担任はこういうのです。「やっぱり自分が経験したことから、どんな風にしてもらいたかをわかっている。周りのお友達が自分のことを気遣ってくれていること自体で、何か安心してまたやろうとする気持ちになっていくみたい」。気持ちの通い合いというのは、いわば水の流れのようなもので、そこに相互の波長があうと感情の「渦」のようなものができるのかもしれません。

この事例は3人が作った感情の渦ですが、もっと大きくもなるでしょう。またすぐに消えてしまうかもしれません。その経験はきっと何らかの形で生きていく。

私たちはなんとかして行動に移させようと、あれこれやるのですが、それだけではなくて意味に気づくことも大事なのですが、その取り巻いている感情の動きから、自分にあたってくる感情の感触のよさみたいなものがあって、それが気持ちを動かして行為となって現れるみたいなことがあるかもしれません。相互の中で動く温かい気持ちの渦のようなものが、Yくんを巻き込んで動き出させているというように。

別に目に見えるものではないのですが、その子たちにとって、自分の気持ちを出せる範囲が周りの子どもたちとの気持ちを感じながら、その居心地のいい感覚を自分で再認識するようなことが起きているかもしれません。

捕食を引き起こす知覚情報

2024/03/25

月曜日に品川水族館に出かけました。ここに来たのは何度目になるのでしょう。5年前に来た時、生まれたばかりかりだったイルカのバニラが立派にショーをやっていました。

皇帝ペンギンも新しい家族が増えていました。

子供たちはイルカショーもアザラシも見ることができてよかったのですが、くるたびにちょっとした新しいことに気づくのも楽しいものです。

それは、魚から、鳥や哺乳動物に至るまで、生存に欠かせない。食べるという行動に関することです。

イルカもアザラシもペンギンもサメも、飼育員が餌をあげている場面を見ることができたのですが、アザラシとペンギンは水槽に落ちている魚は食べません。

死んでいるからでしょうか、動かないからでしょうか。飼育員がサメに餌をあげる時も、曲がった槍に魚を突き刺して、ゆらゆらと揺らしながら、口のそばに寄せると、サメがパクっと食いつきます。見ていると、条件反射的にかぶりついているように見えました。曲がった槍から離れて落ちていく魚には見向きもしないのです。

捕食行動は、食べようとする相手が捕食行動を引き起こすような姿、つまり情報を提供しないと成立しないのでしょうか。捕食される側はよく死んだふりをします。動かなくなる、つまり知覚情報を提供しないようにすることを、私たちが「死んだふりをしてる」ようだと、解釈しているだけなのかもしれません。

生きて動いているものを食べる。動かないものは食べない。その解釈はいろいろできるでしょう。ただイルカとアザラシは演技が終わると口を開けて、報酬としての餌を口の中に投げ込んでもらっていましたけれど。

神田川に鯉のぼりを泳がせる(こどもの日に町会が主催)

2024/03/24

今年度最後の「にちよう開放」の朝は、和泉橋出張所管内にある町会の3連合会の皆さんがいらっしゃいました。

こどもの日に子どもの作った「鯉のぼり」を、神田川の上を泳がせようというプロジェクトが持ち上がり、そのロープを張る実験です。当園の非常階段から、向こう岸は出張所の3階の会議室。

支柱が風で持っていかれないか心配しましたが、子どもの作るビニール製の鯉のぼりと聞いて、軽そうなので大丈夫そうです。園児も鯉のぼりを作って一緒に泳がせてもらうことにしました。

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