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園長の日記

言葉は名詞を覚えることではない(東京すくわくプログラム)

2026/10/14

今日14日(水)、2歳児のにこにこ組で、味の探究「きのこピザ」を楽しみました。活動後に保育者や調理担当者と振り返ると、食べたかどうかだけでは見えてこない、子どもたちの変化が浮かび上がってきました。

とくに印象に残ったのは、ある子の姿です。約1か月前のきのこの活動では、触れようとせず、表情もあまり動かなかったそうです。ところが今回は、導入から身を乗り出し、生き生きと参加していました。友達が生地をたたくと、その動きをまねして楽しみ、「もう一回きのこを食べたい」という言葉も聞かれました。

前回の姿だけを見ていたら、「きのこが苦手な子」と受け止めてしまったかもしれません。しかし、同じきのこでも、出会い方が変わり、友達と一緒に楽しむ経験が重なると、どうも「きのこ」への関わり方も変わっていくようです。

この子にとって「きのこ」という言葉には、いま、どんな経験が結びついているのでしょう。今日の姿をみると、1ヶ月前の、きのこを前にした「しょぼんとした感じ」が嘘のようです。今日はまるで大好物が目の前に現れたかのような変わりぶりです。触れることへの好奇心、ピザを作る楽しさや、友達と生地をたたいた面白さ、もう一度食べたいという気持ちなども、きっと加わっていたことでしょう。

今回、子どもたちは、きのこの名前もいろいろ口にしていました。ただ、その場にないきのこの名前を挙げたり、種類を取り違えたりすることもありました。名前を言えることと、目の前のものをその名前で捉えることは、まだぴったり重なるわけではありません。

もう一つ、面白い出来事がありました。活動の中では喜んで食べたなめこを、その後の給食の味噌汁では残していた子がいたのです。大人が「一緒だよ」と伝えても、同じものとは受け止めていないようでした。

大人にとっては、どちらも「なめこ」です。でも、子どもにとっては、活動の中で出会って食べたものと、味噌汁の中に入っているものでは、大きさも、見え方も、出会う状況も違います。同じ名前で呼ばれていても、まだ異なるものとして感じているのかもしれません。

「さっきは分かっていたのに」と思う前に、その子にはどう見えているのだろう、と考えてみたくなります。

私たち大人は、言葉の育ちというと、覚えた単語の数に目が向きがちです。もちろん、名前を知ることも大切です。しかし、言葉は名詞を覚えることだけではありません。

生地に触れて「ふわふわ」と感じ、触り続けるうちに「ベトベトしてきた」と気づく。焼き上がりを待ちながら「焼けた?」と尋ねる。「もう一回食べたい」と、自分の願いを誰かに伝える。そこには、感じること、変化に気づくこと、期待すること、相手と気持ちを交わすことなどが同時に生まれています。

言葉は全体の網の目のなかで相互に意味を作り出すものです。きのこの中の、しいたけや、しめじや、まいたけや、なめなどとの違いが、それぞれの特徴を浮き彫りにして、それぞれの意味を引き立てるのです。それがソシュール言語学以降の言葉の常識でもあります。

私たちが大切にしたいのは、「これは何?」に正しく答えられるようにすることだけではありません。子どもがものと出会い、心を動かし、その経験を誰かと分かち合えるようにすることです。

きのこに手が伸びるようになったこと。そして、「もう一回」という言葉が生まれたこと。その言葉に込められた経験の広がりを、うれしく思います。

「面白い」「もう一回」が身体を動かす

2026/10/14

赤ちゃんが、少し先にあるものに手を伸ばす。届きそうで届かない。そのものを見つめながら、身体を乗り出したり、床を蹴ったりする。大人が両手を広げて待っていると、笑いながらハイハイで近づいてくる。抱きとめてもらった喜びが、また動き出す楽しみにもなります。

追う、逃げる、跳ぶ、揺れる。乳幼児の身体の動きには、「あれに触りたい」「あの人のところへ行きたい」「こうすると面白い」という気持ちが伴っています。子どもたちは「健康のために」と考えているわけではありません。「面白い」「もう一回」が、その身体を動かしています。

わらべうたに合わせて、大人の膝の上で揺れる。次の動きを待って、大人の顔を見上げる。鬼ごっこで追いかけられ、笑いながら逃げる。友達の跳ぶ姿を見て、自分もやってみたくなる。楽しさのなかから、少し遠くへ、少し高くへ、昨日とは違う動きへの挑戦が生まれます。

こうした姿を見ていると、身体を動かすことには、三つの関わりが重なっていると感じます。

身近なものに関わること。身近な人と気持ちを通わせること。そして、自分自身の身体との関わり方に気づくことです。

手を伸ばすと届く。身体を傾けると揺れる。相手が近づいてきたら、向きを変えて逃げる。子どもは遊びながら、ものや人との関係を感じ取り、自分の身体でできることを知っていきます。これは、乳児保育で大切にする三つの視点や、幼児が身近な環境との関わりを通して、その意味に気づいていくという考え方にも通じます。

今年で8回目になる「親子運動遊びの会」も、これまでの7回と、内容や基本的な考え方は変わりません。わらべうた、音楽に合わせて身体を動かす遊び、さまざまな鬼ごっこ、ダンスなどを、親子で楽しみます。

いくつかの遊びを用意しますが、何をするかは、その場で子どもとやり取りしながら選んでいきます。「これ、やってみる?」「もう一回?」。言葉で答える子もいれば、手を伸ばしたり、身体を揺らしたり、じっと見つめたりして、気持ちを伝える子もいるでしょう。その姿を受け止めることも、親子の対話です。

一緒に遊ぶうちに、大人にも「面白い」「もう一回」が生まれるかもしれません。その楽しさが子どもに伝わり、子どもの楽しさが大人にも伝わる。そんな時間を、親子で過ごしていただきたいと思っています。

なぜ「親子運動遊びの会」なのか

2026/10/13

「運動会」という言葉を聞いて、思い浮かぶ種目はありますか。

私は昭和35年、1960年生まれです。最初の東京オリンピックが開かれたときは4歳でした。その後に通った小学校の運動会では、騎馬戦、棒倒し、組体操が行われていました。もう60年ほど前のことです。でも最近も、小学校の運動会で、帽子を取り合う騎馬戦を見かけました。

こうした種目は、いつ頃から行われているのでしょうか。

調べてみると、騎馬戦や棒倒しは、明治時代の自由民権運動に関係する運動会でも行われていました。民権派と政府側に分かれ、民権派が勝つまで繰り返したこともあったそうです。組体操で見られるピラミッドなども、戦前から「タンブリング」などの名前で披露されていました。

それぞれの由来は異なりますが、学校の運動会そのものには、軍隊との深い関わりがあります。明治期には兵式体操が学校に導入され、行軍や演習をモデルにした行事も広がりました。身体を鍛えることと、集団の規律を身につけることが結びついていたのです。

もちろん、現在の運動会が、そのまま当時の目的で行われているということではありません。騎馬戦や棒倒しの面白さ、組体操を完成させたときの喜びもあるでしょう。

それでも、私が携わった行事で、この三つを取り入れたことは一度もありません。理事長の藤森も、取り入れることには反対でした。

行事を考えるとき、これまで続けてきた種目を出発点にするよりも、今の子どもたちに、どんな経験を届けたいかを考えたいのです。その思いに照らして、内容を選び直す。形を変えることも、大切なものを受け継ぐ方法だと思っています。

当園の会を「親子運動遊びの会」と呼ぶのも、そのためです。

「運動会」と聞けば、自分が経験した種目や、子どもたちが練習の成果を披露する姿を思い浮かべる方もいるでしょう。その期待を含めて、会のあり方を改めて考えていただけるよう、名前から選び直しました。

私たちが大切にしたいのは、親子で身体を動かす楽しさを、ともに味わうことです。

鬼ごっこやダンス、わらべうたを一緒に楽しむ。子どもが演じ、大人が応援するという役割に分かれることも、入場や退場を見せるために動きをそろえることもありません。親も子も、その場で遊ぶ人です。

大人が夢中になって逃げる姿を、子どもが笑って追いかける。子どもの動きに誘われて、大人も踊り出す。そんな時間に、親子で何を感じるでしょうか。

「一緒に遊んで楽しかった」「またやろうね」。会が終わったあとに、その気持ちが残ってくれたらと思います。

「親子」「運動」「遊び」。この名前には、私たちが大切にしたい時間への思いを込めています。

身体を動かすことが好きになる時間

2026/10/12

スポーツの日の今日は、各地で運動会がありました。そこで今日は私たちが使っている「体育」と「スポーツ」という言葉から、身体を動かす時間について考えてみたいと思います。

「体育」は、明治時代に西洋の身体教育を表す訳語として使われるようになった言葉です。身体を育てることを、教育の大切な一つとして位置づけたものでした。一方、「スポーツ」の語源には、遊びや楽しみ、気晴らしという意味があります。

現在、学校には教科としての体育があり、社会ではさまざまなスポーツが親しまれています。そのどちらにも大切な役割がありますが、私は、その時間が「また身体を動かしたい」と思える経験になっているかを、問い続けたいと思っています。

私が新聞記者として、学校の教育実践を取材していた頃、子どもたちが運動を好きになっていく体育の授業に出会いました。新しい動きを面白がり、試し、工夫する。その姿には、自分の身体に出会っている、とでも言いたくなるものがありました。

それは逆立ちの探究でした。マットを壁際に並べ、手と頭で三角形をつくり、腰と足をゆっくり伸ばしていくのですが、そのときの眺め、手や頭にかかる体重、鏡に映る腰の位置などを確かめていく時間でした。できる・できないというものではなく、そのときの体験を感じるだけです。感じて気づく時間でした。自分と世界の関わり方を発見していく時間でした。

しかし、できる・できないが全面にでてくると、身体を動かす時間が、誰にとっても楽しいとは限らなくなってしまいます。ある学校調査では、学年が上がるにつれて体育への好意が低くなるという報告もあります。また、女子児童・生徒を対象にした研究では、評価されることや、自分の運動能力が周囲に知られることなどへの嫌悪感が、上の学年で高くなる傾向が示されています。

身体を動かすこと自体が嫌なのか。それとも、比較されたり、失敗を見られたりすることがつらいのか。そこは丁寧に分けて考える必要があるでしょう。

スポーツについても、競技の技術や勝敗に目が向くと、それだけでは捉えきれない身体の楽しさが見えにくくなることがあります。上手になる喜びや勝つ喜びとともに、動くことそのものの喜びにも目を向けたいのです。

17日に当園で開く「親子運動遊びの会」には、その思いを込めています。

鬼ごっこやダンス、わらべうたなどを、親子で一緒に楽しみます。子どもがする人、大人が応援する人という役割に分かれるのではなく、ともに遊ぶ時間です。

追いかけていたら、思わず夢中になった。相手の動きにつられて、自分の身体も動き出した。声としぐさを交わしているうちに、顔を見合わせて笑った。そんな経験を、親子で味わってもらえたらと思います。

その日に何かができるようになることだけを、成果にしたいのではありません。一緒に身体を動かすことが楽しかった。また遊びたいと思った。その時間そのものを、慈しみたいのです。

なぜ「運動会」ではなく、「親子運動遊びの会」なのか。明日は、その名前に込めた思いを、もう少しお話しします。

乳幼児も「スポーツ」をやっている!

2026/10/11

まず、クイズです。次のうち、スポーツはいくつあるでしょう?

① サッカーの試合をする
② 朝、公園でラジオ体操をする
③ お年寄りが、健康のために階段を上り下りする
④ 好きな音楽に合わせて、楽しく踊る
⑤ 子どもたちが、公園で夢中になって鬼ごっこをする
⑥赤ちゃんが、少し先で待つ大人に向かって、うれしそうにハイハイする

答えは、全部、広い意味でスポーツです。

「えっ、体操や階段の上り下りも?」と思われたかもしれません。私も、スポーツ基本法を読み直して、その範囲の広さに気づきました。

法律の前文では、スポーツを、健康や体力の保持増進、心の充足などのために、個人や集団で行う「運動競技その他の身体活動」と説明しています。勝敗を争う競技だけがスポーツではないのです。

ところで、明日は「スポーツの日」です。以前は「体育の日」でした。1964年の東京オリンピックを記念し、開会式が行われた10月10日を「体育の日」としたのが始まりです。その後、日付が10月の第2月曜日となり、2020年から現在の名前になりました。

名前とともに、祝日の趣旨も変わっています。以前の「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」から、現在は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」へ。「楽しむ」「他者を尊重する」という言葉が加わっています。

もしかすると、「うちの子にも、そろそろ何かスポーツをさせたい。でも、まだ早いかな」。そんなふうに考えている保護者の方もいらっしゃるでしょう。

けれども、公園で夢中になって走り回る。それも、幼児期の大切なスポーツです。教室に通ったり、特定の競技を習ったりする前から、子どもたちは身体を動かす楽しさに出会っています。

追いかける。逃げる。登る。跳ぶ。ぶら下がる。同じ場所でも、友達がいると新しい遊びが生まれ、昨日とは違う動きに挑戦することがあります。子どもたちは「健康のために」と考えているわけではありません。「面白い」「もう一回やりたい」が、その身体を動かしています。

さらに、スポーツ基本法の第十六条の三には、「幼児」も含め、それぞれの発達段階に応じて、継続的に多様なスポーツに親しむ機会を確保するよう努めることが書かれています。

これを保育の場で考えると、一つの種目を早く上達させることよりも、さまざまな動きを楽しめる環境をつくることが大切なのだと思います。文部科学省の「幼児期運動指針」も、子どもが自発的に身体を動かして遊び、その楽しさや心地よさを実感することを重視しています。

園庭のない私たちの園では、公園へ出かけたり、3階の運動ジムで遊んだりしながら、そうした機会をつくっています。大人が思いもしなかった遊び方を、子どもたちが見つけることもあります。

「何かスポーツを始めさせようかな」と思ったら、まず、目の前の子どもの遊びを眺めてみてください。夢中になって走る姿のなかに、もうスポーツの楽しさが息づいているかもしれません。

探究や研究が続く条件はなんだろう?

2026/10/10

ノーベル化学賞の話の続き。

前回が「科学者の探究と、子どもの遊びには接点がある」ということを書きました。例として挙げたのは、子どもの釘打ちの遊びでした。今日は「その探究を続けられるのは、なぜだろう?」を考えてみました。

曲がった釘を前に、やり直して、できた。その経験から、道具や材料のことが少し分かる。分かると、さらにやってみたくなる。つまり知るほど対象への関心が深まり、その関心が次の行為を生む循環がおきると、探究は続くんです。

でも、現実は、なかなかそうは続かないものです。硤合さんのインタビューなどを探してみたのですが、小さい時に好きだったこととか、どんな子どもだったのかとか、あまり出てきませんでした。ある時期から継続的に研究が続いているのは間違いありませんが、それが継続できるためには、それが続けられた条件があるはずなのです。

釘うち遊びでも、その循環は本人の意欲だけで続くわけではありません。曲がったから打ち直す、そのための別の釘がある、やり直す時間がある、困ったときに一緒に考える人がいる。・・・そうした環境が必要です。

また、その子に合った援助も必要です。それは科学者も同じはずです。その研究を続けられる背景にも、同じように、出会いや支え、環境があったはずなのです。予算が削られていたら終わっていたかもしれません。実際に予算がカットされて、研究が続けられずに、何も日の目を見ずに終わってしまっている研究もあったかもしれません。でもそれは、誰にも気づかれないことでしょう。

大事なことがわかります。それは「探究する子どもを見ることから、探究が続く条件を見ることへ」。ノーベル賞を受賞した人の特別さに目を向けるだけではく、それが成し遂げられた条件に、その営みを支える周囲へ目をむけると、保育のポイントもみえてくるのです。

例年よりも早いインフルエンザの流行

2026/10/09

10日からの三連休ということもあり、一昨日あたりから「都合休み」の子が増えていました。そして今日9日は10家庭以上が家庭で過ごされています。病気で休んだ子が5人、そのうち二人がインフルエンザです。

今年は例年になく、早く流行が始まっています。グラフをご覧ください。

この連休でインフルエンザが増えなければいいのですが。できるだけ人混みを避けて、手洗いうがいをお忘れなく。

ノーベル化学賞と同じような探究 子どもだってやってまっせ

2026/10/08

ノーベル賞のニュースで探究に注目が集まるけれど、子どもたちも毎日の遊びでやってまっせ!

「え!どういうこと?」「こういうことだよ。ちょっと説明するね」

・・・・・・・

10月7日に発表された今年のノーベル化学賞は、アンリ・カガン氏と、東京理科大学の硤合憲三(そあい・けんそう)氏が受賞しました。対象は「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見」です。

受賞研究は、化学反応でその片方を優先してつくる仕組みを明らかにしました。とくに硤合氏の研究では、できた分子が、自分と同じ型の分子をつくる反応を促し、最初のわずかな偏りが大きくなります。生命を構成する分子がなぜ一方の型に偏っているのか、その謎を考える手がかりにもなっています。

私が大学が理学部化学科、しかも有機化学だったので、まさに隣接した研究です。記者会見で右手と右手で握手してみせて、分子のL型とR 型の違いと同じ型同士が繋がりやすいという「たとえ話」をしていました。実際の研究プロセスはこうです。

①「こちらの方が速い。どうしてだろう?」
似た反応を比べていると、一方が速く進むことに気づきました。この違いが、次に確かめたいことを生みました。

②「できたものが、続きを手伝っているのでは?」
反応でできたものが、同じものをさらに作る手助けをしているのではないか。そう考えて実験すると、実際にその働きが確かめられました。ただし、まだ右手型・左手型の片方を増やす働きは十分ではありませんでした。

③「では、片方をもっと増やすこともできるだろうか?」
使う材料の構造を変えながら試すうちに、片方の型が多くできるものが見つかりました。そこで、その偏りをさらに大きくできるか確かめると、できたものが自分と同じ型を増やし、偏りが大きくなることが分かりました。

最初から最後まで、決めた手順を進んだだけではありません。試している途中に現れた違いから、「どうして?」「それなら、こうしたら?」と、次の実験が生まれたのです。

・・・・・・・・・

この①から③までにみられるのは、自分の働きかけで、ものが変わる。その変化が、次の働きかけを誘う。ということの連続です。さらに「試している途中に現れた違いを、次の問いにする」ことが起きています。

ね、どうですか? これと同じようなこと、遊びの中でもよくみられませんか?
たとえば、10月2日(金)に、金槌と釘で「パチンコ」づくり。あの過程でもこうなっていました。

①釘をまっすく板に立てて、軽くトンカチを打つ。あれ、曲がってしまった。どうしてだろう?曲がって釘を直す。

②トンカチの当たる面と釘の頭がうまく当たっていないらしい、と気づく。そこで、トンカチをまっすぐに打ち下ろすようにしてみる。それでも時々失敗して釘が曲がってしまう。

③何本もやっていくうちに、まっすくに板にうまく刺さっていった。回数を重ねるとコツをつかんで曲がらなくなった。

ね、こういうことを、試行錯誤しながら、とか簡単にいうけどね。子どもたちは、こうやって小さな仮説と実験と達成を繰り返していることになってないだろうか?

もちろん、子どもが「仮説を立てて実験しよう」と考えているわけではないでしょう。「あれ?」と手元を見て、当て方を変えたり、曲がった釘を直したり、もう一度打ってみたりする。その動きの中で、やってみた結果が、次にすることを生んでいるのです。科学では、条件をそろえて、同じ結果になるかを確かめていきます。

こういう小さな問題解決プロセスが、遊びの中には入っているんだけどね。だから科学者と同じようなことを遊びの中で探究しているともいえるじゃないかな?・・どう?

保育ドキュメンテーションのAI活用

2026/10/07

毎日のようにお届けしている保育ドキュメンテーションがあります。

これは、できるだけ子どもたちの姿を写真に残し、その瞬間に見せてくれる「輝き」を残しています。AIによる写真や動画の「読解力」は日々向上しており、そこに現れている事実から、いろいろな視点で読み取ることができるようになってきています。

たとえば文章や写真や動画で、積み木遊びの変化が記録されていたとします。数ヶ月あるいは半年ほどの期間の間に、自分の好きなものを作っている姿から、一緒に遊んでいる姿に変化していたとします。その記録や写真から「それぞれの制作から、友達の工夫を取り入れ、共通の構想を相談する活動へ広がっている」という事実をみつけだしてくれるなら、それを「10の姿」の「協同性」が育ってきたといえるでしょう。

子どもの育ちというのは、その瞬間を切り取って見えるものだけではなく、時間的経過を経て初めて見えてくるものです。そもそも、そういうものだからこそ「育ち」とか「発達」とかいうわけであり、変化しなければ、豊かさや深さがあるといえなくなります。いつ頃に比べて今は、こんなに大きくなったね、できるようになったね、考えが深まったね、お友達のことも大切にできるようになったね・・・などなど。

その変化のプロセスは、一人ひとり異なるので、さらに個別の記録がどこまで残っているかが、振り返りの材料としては大切になります。この1年間でこんなに成長したね、といことを確認しあうのが年度末の「成長展」です。そのときに、一人一人の成長がよく見えるように、日々の保育記録や保育ドキュメンテーションを振り返って分析するために、AIが活用できないかと、検討を始めました。

保育における生成AIの活用と留意点

2026/10/06

生成AIを活用することのメリットと、デメリットをしっかり認識しておく必要がありそうです。保育ではどう整理しておくといいでしょうか?

メリットの方は、私の周りでも見られるのは、議事録の作成が簡単になったこと。過去のデータの整理が短時間で済むようになったこと、事務作業のなかで書類を作ったり、一部の事務作業を任せたりできるようになったこと。生成AIはこういうことが得意です。ビジネスの場面では、もっと広範囲に活用されていることでしょう。

たとえば今後、保育計画や保育記録などの文章をつくるさいに、下書き、要約、言い換えなどの負担を減らせることでしょう。しかし、その一方で自分で考えをまとめて言葉で表すというプロセスがなくなることへの危機感を覚えます。あいまいな表現であっても、その先生らしさが現れた文章の方が、その子どもとの関わり方が目に浮かび、味わい深いものを感じます。

また記録を整理し、子どもの変化や継続している関心を捉える助けになります。保育は振り返るために記録をとり、その振り返りから、望ましい保育方針を立てていきます。先週のことを振り返るのはそれほど難しくありません。先生のなかに具体的な記憶があるからです。しかし2ヶ月前、半年前となると、何かの記録に頼るしかありません。そのために保育記録があるのですが、その振り返りを助けてくれるでしょう。

しかし、デメリットがあります。それは「書かれた情報だけで解釈するため、その場の表情や間、身体の感覚が抜ける」ということです。保育はこの「言葉にならない身体感覚」で子どもを理解していることが多いのです。子どもの声、表情、身体的ふれあいなど、五感を通じた関わりのなかで感じたり気づいたりすることが、子ども理解のベースになっているといってもいいでしょう。

それは一人ひとりの子どもについてだけではなく、集団についてもいえます。保育には、場を語る表現が多くあります。落ち着いている、賑やかである、集中している、活気がある、生き生きしている、わくわくしている、のびのびしている、などなど。保育空間に流れる雰囲気を、敏感に感じ取りながら、集団のもっている心地よさや緊張感などを調整してくのが保育士です。先生の声やわらべうたや、絵本・紙芝居の読み聞かせ、運動や外遊び、お集まりなど、保育のリズムもそうした保育の場の変化を捉えながら、作っていくのです。

そうすると、生成AI を使って保育を振る変える際に気を付けておかなければならないことは、「少ない情報から性格や発達を限定しがちな文章が生まれることがある」ことです。これは記録が少ないほど、危険だと言えるでしょう。

ただ、先生がそれを読んだ時に、的外れな表現になっていたら、違和感を覚えるでしょうから、いくらでも修正がきくはずです。普段から一緒にいる先生にしてみれば、ましてや複数の先生が多面的に子どもたちをみているチーム保育の体制なら、おかしな子ども理解になることはないでしょう。

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