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園長の日記

子どもの心が満たされて安心して眠ること

2023/08/23

昨日22日は8月の睡眠講座「赤ちゃんぐっすりねんねのコツ」があったのですが、私が担当している「お手伝い保育」との同時進行でした。この睡眠講座は、誰でも参加できる無料のZOOM講座で、子育て中の方、これから子育てが始まるかた、保育関係者の方など、本当に多くの人に聞いてもらいたい内容です。

その内容の中に、子どもは疲れて寝るだけではなく「安心と満足で寝る」というキーワードが出てきます。心が満たされて、また安心できるから、すやすやと眠りにつくことができるという話なのですが、保育園の午睡もそうありたいと思っています。その様子がちょうど、昨日の「ちっち・ぐんぐん」のブログに描かれていましたね。

お昼ご飯が済んで、子ども同士で戯れあって遊び、安心毛布を介した心の交流があり、外を眺めたりするのんびりした時間が流れていました。まさにくつろぎの時間。

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午睡前に、お友だちとふれあい、心も満たされた Sくんは、その後すぐにお布団に横になって、スーッと眠りに入っていきました。

お腹いっぱいになって、お友だちや大人と触れ合って、 心も身体も満たされて…それぞれの子が “心地よく眠りにつく” ための過ごし方や環境も大切にしていきたいです。

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子どもたちにとって「心が満足する」こと「心が安心すること」の姿を思い浮かべると、私たち大人も幸せになりますね。

「作る」を経て「使う」へ

2023/08/22

今月8月から年長組による週1回の「お手伝い保育」が始まりました。今日は事務所担当(つまり園長担当)の2回目でした。年長の子どもたち9人が3人ずつ0〜1歳、2歳、事務室に分かれます。私のところにはKさん、Yさん、Sくんの3人がやってきました。私は主に生き物のお世話や、教材作りを手伝ってもらいます。

今日の教材作りは2つ。一つは、階段に掲示してある「お月様」に、「きのう」「きょう」「あした」の三匹の「たぬき」を作ってもらうこと。もう一つはライトボックスの上で、図形を並べて遊ぶための遊具です。

「たぬき」は「今夜はここだよ!」と教えてくれるためのものですが、そういうものを作ってほしいというと、わかった!こうするといいよ!と張り切って作り方を話し出します。「画用紙にたぬきを描いて、切って、周りをセロテープで貼って・・・」。「そうそう。じゃあ、テーブルを用意しておくから準備して」というと、早速、クレヨンと画用紙をクラスへ取りに行きます。

絵本「つきよ」に出てくるたぬきをモデルに描きます。できた絵は、透明な名前ケースに入れて手すりに結びつけて、ずらせるようにしました。

百均で買った色セロファンを、ハサミで四角や三角の形に切り、ラミネートをします。ヒラヒラして柔らかく、手につきやすいセロファンをハサミで切るのは難しいのですが、私がマジックで引いた線に沿って切り抜いてくれました。ラミネートをかけるところを見たのは初めてらしく、触っていい場所を確認したり「出てきた!」「あったかい」など気づいたことを色々話してくれます。

赤、青、黄、緑の4種類の四角、三角ができました。すかしてみると「おもしろい」「ねえ、みてみて。赤いよ」と、その色で見える景色を眺めています。机の上に乗せて見るのと、明るい場所にすかしてみるのとの違いなどを、色々と気づいてくれたら。ライトボックスは7月の納涼会でも使ったので覚えているらしく、明るさを変えたり、できた図形を並べてみたりしました。早速、重なったところの色が変わることをしばらく楽しんでいました。

この教材作りは、3人ぐらいでやるのがいい。光遊びの遊具は、すでに同じようなものが市販されているのですが、それを「使って遊ぶ」に留めず、あえて「作ってみる」ことで、それが出来上がるまでに、予想しなかった仕組みに気づいたり、難しいことに出合ったり、どうやったらできるかを考えたりする機会になります。子どもたちもそこが面白いようです。

 

朝から心身のテンションをあげよう

2023/08/21

このテーマは、世間ではあまりはっきりと言われてないかもしれませんが、かなり重要な事柄です。とにかく朝、スカッと目覚めて「よーし、今日も一日暴れまわるぞ〜」ぐらいであってほしい。これは大人も子どもも、です。とくに若くて元気なら、居ても立っても居られないぐらいでないと。子どもにも、そう思わせるような「面白いこと」が、朝からあるようにしてあげたい。テレビやゲームじゃなくて「心地よく体を動かすこと」になるように。

放っておいてもそういうふうになっていた時代や地域がどれくらいあったのかどうか。外遊びの三間(時間、空間、仲間)が減ったという話はよく聞きます。それはおそらく本当なのでしょうが、聞き取り調査だとすると、その大人が幼少の頃の記憶との比較だったりするので、本当のところはよくわかりません。でも食物を得るために、大人も子どもも、生きていくために必死で体を、動かしていたのは事実でしょう。それでも子どもの姿を見ていると、朝から体を動かすと、その後の姿が違ってくるというのは事実です。

運動で満足した後の次の行動への移り方、朝のお集まりの落ち着いた様子。話し合いも集中していて、姿勢や顔つきが違ってきます。

こんなに暑いと、ただでさえ汗が出てくるくらいですから、朝からあえて汗をかいてまで運動をしたいと思わないかもしれません。でもそれが大事なんですよね。暑くて汗が出るからといって、運動しないでいいということではありません。室内の温度は下げておいて、気持ちよく体を動かすこと。もし「暑い暑い」と言いながら、熱中症警戒アラートが発令されたからといって、散歩もなし、外での運動もなし、室内では机上遊び中心、なっていうことになっていたら、大事なことが見過ごされてしまうかも。

 

この夏、確か20数回目になる警戒アラートが発令された今日も、朝から運動しました。ワニに食べたれないように川の飛石を飛んで渡る遊びです。うまく渡ったらバルンポリン(バランスボールをトランポリンに載せて、それにまたがってピョンピョンと跳ぶ運動)を10回。その後、私がワニの口を開けたり閉めたりしている隙間を、食べられないように、タイミングを見計らってピョンと飛び越えます。

「ガブ、ガブ、ヒュー」など三拍子にしたり、四拍子にしたりしながら、ワニの口を開け閉めしていると、タイミングを覚えた子どもたちが、なかなか飛べない子に、そのタイミングを教えるようと、「今!・・・今!・・・今!」と、声を掛け合うようになります。こんな協力行動が自然と起きるのも、遊んでいて面白いです。

屋上でのプール遊びも同じ要素が盛り込まれます。ワニさん歩きを始めた子どもたちが、股のトンネルをくぐったり、ウレタンポールにまたがってお馬さんの「カッポカッポ」をしたり。

家でも運動はできます。まあ、ちょっとしたことなんですが、じゃれ遊びの類いと思ってください。難しいことは何もないでしょう。大人が子どもに体をよじ登らせたり、高い高いと持ち上げたり、腕や足をもってぐるぐる回したり、寝転がって膝の上で「ヒコーキ」をしたり、お馬さんや肩車をしたり、股や腕のトンネルを潜らせたり。幼児になると、体も重くてそうもいかないかもしれません。この辺り、ちょっと運動が家では少ないなあ、という方は朝9時ごろまでには登園させて、保育園で朝のエンジンを始動させててあげましょう。

秋ちかし稲穂がぬれる水遊び

2023/08/19

今夏、2回目のプール開放でした。

猛暑日のなかのオアシス。

保育園の屋上の稲穂はまだ青く、

都会のビルの谷間で、

親子の笑い声が聞こえていました。

子どもの心に届く絵本

2023/08/18

この時間を楽しみにしている子たちが多くて、絵本の持つ力をあらためて感じます。3歳の男の子が「これ読んで」と頼まれたのは『ふたごのおばけ』。「これにしていい?」というと、大勢が「いいよ」と返事してくれたのでそうしました。小学生の男の子二人が主人公なのですが、登校すると朝寝坊してしまったおばけふたりを発見し、それ以来、二人のけらいになってくれるという話です。

絵本を読んであげた後で、その絵本の取り合いになってしまうことがあります。今日は絵本『にじいろのさかな』でそうなりました。お話はしあわせがテーマです。銀色の鱗を身につけた虹色の魚は、他の魚たちにとって羨望の的なので、「一枚ちょうだい」とお願いされることがあります。でも、とんでもない!と拒否していたら、一人ぼっちになってしまいます。そして知恵あるタコに悩みを打ち明けると、幸せになれる方法を教えてもらえ、その通りにやってみるとー。

取り合いになった子の一人は「スイミーの時と同じぐらい(よかった)」と言い、少し頬を紅潮させて「気持ちがポカポカする」とつぶやいた子も。幼児の中でしばらくブームになりそうです。

時間が少しあったので、絵本「つきよ」。みんなも「たぬきさん」みたいに、お月様を探して見てね。形を変えて、ビルの間とかいろんなところから顔を出してくれるからね。・・・月を眺めて風流さを感じるのは日本ぐらいという俗説がありますが、きっと子ども流の風情もあることでしょう。

冷えたコップの表面が濡れるのはなぜ?

2023/08/17

撮影した動画をそのまま再現すると、5月で6歳になったMさんは私にこう説明してくれました。

「氷が当たって、(コップが)冷たくなってから、それからこの水をこっちに出してきた」

「そうなんだね。こっちに水がでてきたんだね」「うん」

何の説明かというと、冷えたコップはなぜ水滴がつくのかという理由です。

事務室にある冷蔵庫の上が結露して濡れていました。触ってみたら「あ、冷たい」というので、「どうして濡れたのかなあ」ということになり、私が「じゃあ、実験してみよう」ということになったのです。

二つの同じガラスコップに水を注ぎました。室温に冷めていたポットがあったので、その水を注ぎました。

片方には氷を入れてしばらく見ていたら、そちらはコップの表面に露がつきはじめます。

「白くなってきた」と触ります。そして手が濡れたので「それ何?」と聞くと「水」と答えます。

そこで「じゃあ、どうして水が付いたのかな」と聞くと、冒頭の答えが返ってきました。

コップの中の水が出てきたと考えたようです。

大人でも普段何気なく見ていることについて「どうして?」と改めて聞かれると、チコちゃんではありませんが、どうしてだろうとわからないことだらけでしょう。

子どもも見慣れているはずの現象についても、あえて「なぜ?」「どうして?」と考えさせてみることは大事なことだろうと思います。彼女の説明に対して、私は「そうなんだね、中から出てきたんだね」と受け止めたままで終わりました。次は閉鎖された空間の中にできる結露の現象を探してみたいと思います。

王道は道草に有り

2023/08/16

以下のことと「子どもの人権」を結びつけることができるようになって、保育の基盤がさらに強固になってきたと感じます。以下のこととは、保育でよくある活動と活動のつながり、移動の途中だったりするタイミングのことなのですが、この「道草優先」にも、自分らしさの自己発揮の姿が垣間見られます。保育記録の「振り返り」にこう書いてありました。

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2階のお部屋に水遊びへ出発したけれど、部屋を出るなり、MちゃんHくんは、1階のロッカーのボタンを押してみたくて、ちょっと寄り道。Wちゃんも、探索がしたくて、2階は通り過ぎてそのまま階段登りへ。『水遊び』という活動の中にも、そこに行くまでにたくさんやってみたいことがあって、大人や年上の子どもたちに見守ってもらいながらゆっくり探索をすることができた。大人が、その日の活動(水遊び)の場所までストレートに連れて行ってしまうことは簡単だけれど、子どもたちにとっては、そこに行くまでの「道草」が楽しかったり、そこでさまざまな体験が待っていたりすると思うので、一人ひとりのやりたいことやその子のペースに合わせて過ごすことができるよう、これからも、大人同士でうまく連携をはかって、過ごしていきたい。

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こそうそう、こうでなくっちゃ!保育の王道は道草に有り、とでもいいたくなります。室内ならまだしも、たまには外でも、車や自転車を降りて、散歩してみたくなりますね。たっぷりの道草をしながら。こんなに暑いとそうもいかないし。早く秋来ないなかあ^_^

 

赤ちゃんたちの気遣い

2023/08/16

先生たちが見つけたものを、おすそ分けしてもらえるのが保育記録です。

しかも、保育記録は近年、写真入りになってきたので、その様子を先生たちや保護者のみなさんと共有しやすくなりました。

そして、私も赤ちゃん同士の関係のなかに、いろいろなものを見つけるのが楽しくなります。

みなさんにも紹介しましょう。

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今朝のかわいらしいひとコマです。
ちっち組(0歳児クラス)のLちゃんが寝転んでいると ぐんぐん組(1歳児クラス)のCちゃんがやってきました。

赤ちゃんのお人形を、Lちゃんに触らせてあげているようです。


気が付けば、Wちゃん(ちっち)や Rくん(ぐんぐん)も一緒に、みんなでLちゃんを囲みます。

Lちゃんが Cちゃんの髪の毛に手を伸ばすと… Cちゃんが「さわったー🎵」と嬉しそうな笑顔を向けて教えてくれました。

わざと顔を近付けて、触らせてあげたみたいです。
以前は、コロンと寝転んでじーっとしていた Lちゃんですが、今ではすっかり、こんなにも お友だちの顔を見ようと身体をねじったり、手を伸ばして触ってみようとしたりするようになりました。
そうして色んな反応が返ってきて、ぐんぐんさんたちも Lちゃんとの関わりが嬉しそうです。

Rくんも、なんだかあやしているような眼差しや仕草で Lちゃんと関わろうとしています。
Lちゃんに触れてみるRくんに、Cちゃんが「やさしく、やさしく。いいこいいこだよ」と これまたやさしく話しかけていました。


Cちゃんが Lちゃんの耳に触れると、Rくんもそっと耳に触れてみます。
「Lちゃんの おみみ、ちっちゃいね〜」「おみみ、ちっちゃーい」とふたりでお話して・・・

自分たちの耳にも触って、大きさを確かめています。かわいいです(笑)
最近は 大きい/小さい とか 多い/少ない の概念やその違いも気が付いたり興味を持ったりするようになってきているようです。

こんどはLちゃんの 手 に触れてみます。

Rくんが、Cちゃんに倣ってLちゃんの手を握ろうとすると、Cちゃんがまた「やさしくっ(触ってね)」と教えてくれます。小さいお母さんのようです😂

それから Cちゃん、Rくんの手と自分の手を合わせて

「Rくんのおてて、大きいでしょ。」

つぎに、Lちゃんの手に触れて、

「Lちゃんのおてて、小さいでしょ。」

Lちゃん、ふたりの顔を交互にきょろきょろと見回し、かと思えば じっと見つめて…CちゃんとRくんとの触れ合いを全身で感じているようでした。

すごいなあと思ったのは、Lちゃんに玩具を差し出した Cちゃんが、Lちゃんと視線を合わせて「いる?…いるっ?」と問いかけていた姿です。

 

一見、なんということもない場面にも思えるのですが、こんな小さなお友だちにも、しっかりと気持ちを聞きとろうとして やりとりしてみるその眼差しに、感動します。

Lちゃんはお返事こそまだしないものの、
“自分があげたいから” “自分がやってみたいから”という気持ちの前に、まず相手の意志を聞いてみようとする姿は、大人も子どもも関係なく、見習いたいところです。どんな小さな赤ちゃんも、しっかりと自分の意志を持っています。それを、こうして 子どもたち自身が身を持って示してくれているような気さえします。

Lちゃんには、一つひとつの言葉以上に、やさしく話しかけてもらったり 一緒にふれあってもらったりした あたたかな感覚が きっと伝わっているのではないかなぁ。。

同じくらいのお友だちとは自分の気持ちをぶつけ合ってケンカすることもあるぐんぐんさんたちですが(その姿もまた大切な育ちです!)、こうやって、小さなお友だちに触れて、そっと大切に やさしく関わろうとする姿を見ていると、それぞれの相手との関係性やふるまいを、自分たちなりに考えているんだろうなぁと感じます。頼もしいお兄さんお姉さんたちです。

人を変えてしまう環境、孤島化する情報

2023/08/15

私の父はラバウル小唄をよく歌っていました。南十字星というのを知ったは、その歌からでした。ガダルカナル海戦やミッドウェー海戦の話もよく聞きました。海軍だったのです。飢えたとき、なんでも食べたといいます。「環境」は人をひどく変えます。戦時という状況は、人を逆らえなくさせてしまいます。非国民や卑怯者と言うレッテルを容赦なく突きつけられるからです。それに抵抗するのは想像を絶する、とんでもなく強靭な意志が必要でしょう。大抵の人は無理だと思います。

漫画「はだしのゲン」を中国語に訳した女性が、テレビに出ていました。その方のお父さんは先の戦争で、無辜の母子を機関銃であやめてしまったと晩年の手紙に悔やみ切れない思いを書き残していたそうです。漫画に出てくる反戦を貫く中岡元の父親の姿と比べてしまったといいます。何がちがったのかと。

私は自分の父親に、どうして戦争に行ったのかと聞いたことありません。そんなことは思いつきもしませんでした。徴兵令状を拒むなどと言う選択肢はありえない状況だったことが大前提になっているからです。戦争に行った父もその話を聞いている子どもの私も。過去の歴史についてと果てしない解釈論争に巻き込まれると、繰り返さないために必要な未来に向けた思考へのエネルギーと時間を奪われかねません。ただその論争は今も国際政治の力学として働き続けているわけですが。

毎年同じように繰り返されるニュースも、アハ体験の動画のように、少しずつ「環境」が変化しているのかもしれません。あるとき、びっくりするような変化に気づくように。現在進行形の異常気象と少子化のように。そして、ソーシャルメディアを覗くと「それ本当だったら大変なことだ」と思うような内容がてんこ盛りの状態なのですが、ほとんどが素通りされているように見えます。

発信する側も、受け取る側も、多様な意見や表現がおおらかに、冷静に語られる議論生成の環境の重要性にもっと気づいた方がよさそう。コミニュケーションの好みも多様化していますが、どうも没交渉的に棲み分けられていて、生産的な交じり合いが起きていないような気がしますが。

思考や心情の過程にブラックボックスができる気持ち悪さ

2023/08/13

ご先祖様に、手を合わせながら、こんなことを考えてしまいました。

どんな仕掛けでそうなるのか、もはやわからない物だらけなので、こんな話をしても「何を今さら」と言われかねないのですが、でもできるだけ私は自分が自分で考えて結論を出したという「理路」だけは、できるだけはっきりさせておきたいと思っています。でないと、自分が言ったことに責任を持てないからです。と言ったところで大した責任は持っていないんですけどね。

何のことかというと、生成AIのことです。よく使いこなしている人は、これから言うことは、「卒業」しているのかもしれませんが、私はまだちゃんと入門もしていないので、こんなことを考えてしまします。私は自分ができるだけ自由でありたいと思っているのですが、自分で考えていることくらい、自分で意識してやっていると思いたい、と言うのも、そう思えないと自分が自由である気がしないからです。特にアートと保育の関係、子ども理解と保育者の関係などで。

生成AIが辞書や辞典だったらいいのですが、なぜそういう表現になったのかのプロセスが「見えない」場合や、表現自体をうむプロセスそのものに、価値がある創造的行為があるときは、あれを遠ざけるのではないか、というか使いたくないというか、使えないだろうと思うのです。

例えば、詩や俳句、和歌など特に個人の心情を表すものは、その生み出されていく過程がたまらなく楽しいからです。どんな言葉や表現にしようかと呻吟しているあの時間。そしてこれはどうか!と内から「湧き起こってくる言葉」のあの過程。そこに他者が割り込んでくることは考えられない。と言うか、そうなったらもう自分のものじゃない、という感覚があります。

たとえば男女の問答である和歌や返歌の間に生成AIが入ってくるなんて言う事は考えられない。あくまでも例えですけれど。

なぜなら、別に正解があるわけでも、評価されることを前提にその眼差しに合わせるわけでもないから、自分と世界の関係を表す唯一の、生きている時間がそこにあるわけです。

私が生成AIを自分の分身と思えるのなら、辛うじて共作者として認めてあげてもいいが、それはもはや私の表現ではないでしょう。あるいは優秀な助手というか、出しゃばらないアシスタントぐらいの感じでいてくれるのなら、許せるのかもしれません。作品自体を問題にするなら、それは結構です。坂本龍一らしいこんな曲を作れと指示して出てくる曲もあるでしょう。ピカソのこれこれとか、まあありうる話なのかもしれません。

それと同じように子どもの姿のデータから、環境の再構成案も出てくるようにのでしょう。そうなったら保育士の役割はどうなるのか。そこで思うのは先ほどの「自分と世界との唯一無二の関係を生きる」ことの意味です。子どもと保育者が暗黙にも公然にも交わす気持ちの、それぞれの「かけがえのなさ」を、保育の中でどう価値づけしておくか。それはどんな他者にも置き換えることのできない保育のプロセスの質だと、言い切れるようにしておくことは可能かどうか。

私は可能だと思います。だから生成AIがどんなに保育に入ってきても、内面の気持ちや心情は置き換えることができないのですから、そこを大切に守るためにサポートする道具になってくれたらと思います。でも、ある種の効率性が待ってくれないで割り込んでくる可能性はあります。出しゃばらないアシスタントでいてくれるかどうか。それに負けない人間性や内面が問われるのかもしれません。つまり、心。

 

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