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2022年 7月

どう生きるか?世界を広げるという意味は?

2022/07/11

選挙が終わりました。今週は、また梅雨に逆戻りしたような、ジメジメした雨模様の天気が続くそうです。

2階のテラスや屋上で水遊びをしたり、3階の幼児では部屋の模様替えをしたり、協力ゲームを楽しんだりと、それぞれの子どもたちが「新しいこと」に出会って、自分にとっての世界を「広げて」います。

 

私たち人間は、植物や動物のように、一生の間に本能で決められた世界に閉じ込められておらず、自分自身の力で、自分が生きる世界を「広げる」ことができる存在です。このことは、あまり意識しないで生活しているのですが、私たちは現状をそのままにしないで、絶えず、変えていこうとしているように見えます。

 

そこに発展や向上や幸せがあるのと同時に、争いやリスクや不確かさも生まれます。人間のやっていることは、本当に・・・大変?だけど、まんざらでもない?・・・ここの受け止め方は人ぞれぞれですね。

それぞれの違いが際立つ世界に住んでいることを実感します。それは国も地域も家族も個人も、それぞれ「違う」ことが当たり前になっているのですが、それがバラバラのままでは困ることも多くて、「人と関わる力」がもっと必要だと思います。

それは選挙結果を見ても、人を銃で殺す人の動機に触れても、民族と国家の線引きのために他者を抹殺して構わないと考える大統領の言葉を聞いても、何のための「それぞれ」だったんだろうと、訝しく感じます。

今日11日に、大学で学生さんたちに講義をした後の感想にこんな記述がありました。

「助け合うために自立する、という言葉が印象に残りました。自立するというと、自分一人で生きていけるようになる、自分で考え、自分で決定するというようなことを私は思い浮かべてしまいます。自分一人では生きていくことができないということは理解していたが、保育は一人で生きていく能力を育てるために行うことであると思ってしまっていました。しかし今回の授業で、助け合うために支えあうために自立しなければならないという話を聞いて、自分が自立しているから、他の人を助け、支えることができるようになるではないかと感じました。そして、その自立を支えるのが保育者の役割であり、どのようにしたらよいのか、考え続け、環境を作っていくことが大切なのではないかと思いました」

世界を広げることは、自分の生き方と繋がっています。保育のねらいに子どもの姿を「人間関係」から捉える視点があるのですが、そのねらいには、こう書いてあるのです。

「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」。

人は支え合って生活するために、自立するのです。人間の場合、世界が広がるというのは、協力して支えあう生活を作り上げることなのです。

「一日保育士デイ」説明会 7月21日(木曜日)

2022/07/09

9月10日(土)に開く予定の「一日保育士デイ」の説明会を開きます。

◆「一日保育士デイ」説明会

7月21日(木曜日)

5時30分から6時30分の1時間。

場所は保育園の2階です。

□ 9月10日の内容と、それまでに何をするのかを説明します。

この説明会を聞いてから、一日保育士デイに参加するかどうかをご判断ください。

 

** せいがの森こども園時代の経験者のお父さんにも参加いただく予定です。

 

◆リモートでの参加も大歓迎です。

URLは「コドモン」あるいはホームページの「お知らせ」からどうぞ。

多くの方の参加をお待ちしています。

参加される方は、保育園への参加か、リモートでの参加か、コドモンでご返事ください。

納涼会の準備の最中に「テロ」ニュース

2022/07/08

子育てをしていると、自分の子どもや他人の子どもなど、本来は愛している存在に対して、なぜか素直に受け止めがたい時があるものです。愛するがゆえに、生まれてしまう矛盾はなぜ起きるのでしょう。理由がわかれば対策も講じやすくなるはずです。私たち法人の保育理念は「共生と貢献」という言葉で表しているのですが、どんなに考え方や生き方が違っていても、このかけがえのない地球の上で、ともに助け合って暮らしていく方法を作り出さなければなりません。この対策や方法として、着目しなければならないのは、思想や信条の違いなどの動機に目をやることも大切ですが、まず考えなければならないのは、人間関係のあり方です。

今日は夕方、お迎えの時間に、保護者の方が納涼会で使う縁日の風車の部品づくりを、手伝ってくださいました。その最中に安倍元首相が撃たれて亡くなったという衝撃のニュースが飛び込んできました。過去の政治テロを見ても、秋葉原通り魔事件にしても、犯人は人間関係が極めて薄く、思い込みの激しいパーソナリティという特徴があって、何かの行動に移す前に自分の考えや思いを他者と交わし合い、自分を見つめ直すというプロセスが飛んでしまっています。この他者がどう感じているか、自分の考えは偏っているのではないか、そうした振り返りのスキルは、非認知的な力として、極めて重要なものだということを、改めて考えてしまいました。

前の保育園で地域の方々と交流を始めた時、園だよりに「地域をつくる人々」という連載をしたことがあります。その時に、省我会の理事を長い間務めていただいた大妻女子大学の教授で、多摩ニュータウン学会を立ち上げた社会学者の先生に、エッセイを書いていただきました。その内容は「ヤマアラシのジレンマ」を紹介されたものでした。ドイツの哲学者ショーペンハウエルが書いた寓話です。それを精神分析家のフロイトが引用して有名になったと言われています。

私はそれを読んで、初めてこのジレンマを知ったのですが、その内容は、こんなものです。「やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。だが、まもなくおたがいに棘の痛いのが感じられて、また分かれた。温まる必要から、また寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。」

ヤマアラシのように、私たちもニューマン・コンタクト(人間的接触)を求める存在です。親しみがますと、精神的に近づきたいという衝動を持ちます。子どももそうです。表現は拙いものですが、気持ちを通わせようとします。大人も同じで身を寄せ合って暮らそうとします。でも近づき過ぎると互いに傷つけ合ってしまうことが、よくあります。子どもはケンカになったりします。この人間関係の葛藤は、私たちが生きていく上で不可欠な体験です。誰も避けては通れません。

このジレンマの大切な意味は、後半にあります、やまあらしたちは、試行錯誤を経て、傷つけないほどよい距離感を見出して集まるのです。適切な妥協点を見出すのです。それは「お互いに」です。児童生徒や学生の友人との関係、恋人との関係、職場の人間関係、そして親子関係にしても、社会におけるいろいろな人間関係において、見出されるジレンマです。親しいからこそ、言わなくてもいい踏み込んだことを言ってしまったり、言われたりして相手を傷つけてしまったり、自分が傷ついてしまったり・・・。このような人間関係の一つの糸を、誰もが担っているんだという自覚が必要です。

私は中学の時にテニスをしていたのですが、ガットが切れるとその度に自分で張り直していました。その時に張り具合を均一にするように千枚通しで止めながら張ります。中島みゆきではありませんが、人間関係も縦と横の糸が張り巡らせることが人生であるように、またニュージーランドの保育理念が織物に例えられているように、一本だけが張り詰めていたり、緩すぎたりすると、テニスのラケットや人生や保育のチームワークは、バランスを崩してしまうものです。

子どもが歩んでいく道には、いろいろな人々との出会いが待っています。その一人ひとりとの出会い方、距離の取り方、くっついたり離れたりする作法を、大人になっても学び続けることが必要です。その作法も一人ずつ異なるので、おおらかにお互いを尊重し合う姿勢が、私たちの共生には不可欠なんだろうと思います。

自己満足なおふざけは、共感されない笑い

2022/07/07

子どもたちが笑顔になるように・・・。いろんなことが、子どもの笑顔に結びつくと、私たちは幸せな気持ちになります。子どもの笑顔というのは、幸せや平和のシンボルです。この場合の笑顔は、喜びに直結しています。喜びとは、嬉しいこと、楽しいこと、美しいこと、良いことなどに接したこときに、私たちが覚える感情です。

心地よいという「快」感情は、動物も持っているわけですが、その時に笑顔と連想していることに、例外はないように思えます。ところが、その心地よい感情の中に、おかしみや面白みが混ざってくると、笑いが生じてきます。このラーフターの「笑い」は、スマイルの「笑み」とは、違います。日本語では、同じ漢字を当てるので、あまり区別がされないのですが、新生児の赤ちゃんでも「笑み」を示しますが、笑うのではありません。

「笑い」は、意味のある言葉を獲得してからの発達的な特徴のように思えます。私は認識的な喜びのくしゃみ、のように思えます。あはは、と声を出す時、「あ」や「は」は、母音の基底をなす音であり、太陽が地平線を登ってくるときに感じる、明るい開けゆく感情を伴います。

その破裂音が笑い声です。アッハハ、という音の並びが、幸せの感情の痙攣になっているのです。そうすると、子どもの笑い声は、最も素朴な幸せの自発的な発露ということにならないでしょうか? それは、きっと周りの大人からも共感される感情を伴っていて、子どもの笑顔や笑い声は、大人をほっとさせ、幸せにさせるのでしょう。

一方で、似て非なるものとしての「おふざけ」に見えてくる時、そこには認め難いものが見出されますから、決して誉められたものではなく、共感されません。自分だけが面白いと感じている自己満足な、面白さなので、その行動は「おふざけ」と呼ばれることになります。同じおかしみや面白みが笑いになっても、周囲から共感が得られないと、自己満足な喜びとして、受け入れられないものになってしまうのです。

子どものおふざけの意味

2022/07/06

人間について研究している分野はいろいろありますが、人の「お笑い」がどのように発達していくのかについて、研究したものは見たことがないので、私はいつか論文にしてみたいと考えています。

大人の世界を見渡すと、これだけ多くの「お笑い芸人」が切磋琢磨している時代は、日本の歴史には、過去ないはずです。お笑いを楽しむ人たちがたくさんいるから仕事としても成り立っているわけですが、人間が生み出す表象文化の中で、人を「笑わせること」が仕事になる社会というものも、面白いことです。不要不急の最たるもの、そう思えるようなものが、実は最も求められているものかもしれないと言うパラドックス。お笑い大盛況の社会が、子どもに影響ないはずがありません。

今日は子どもが「笑い出したら止まらない」という経験をしました。午後4時から5時までの1時間、年長のすいすい組の子どもたちと絵本を読んでいたら、いわゆる「おふざけ」が始まり、調子に乗ってしまった数人の子どもたちの歯止めが効かなくなりました。そうなったら何を言ってもダメ。こちらの制止が、あるでボケ役になっているみたいで、どんどん、突っ込まれてしまいます。なかなか絵本のお話に戻れません。

こんな時、大人はつい「いい加減、ふざけないで、ちゃんとお話を聞いて!」みたいな気持ちになりがちなのですが、これほど根強い、子どもの可笑しさへのハマり具合を目の当たりにされると、いろいろなことを考えてしまいました。

まず、この欲求は、子どもたちにとって精神衛生上、不可欠なものだろう、と思えます。これを抑え込むと、ろくなことはないだろう、ということがまずあります。私の保育経験上、子どもが繰り返しやりたがることには「必ず」発達に必要な意味があります。どうして、そんなことするの?(いうの?)という、大人には不可解な出来事があったら(「いやいや」もそう)、それには発達のために必要な何かがあるんだ、と思ってください。私たちが、それはこんな意味があるんだ、ということを理解できていないだけで、必ず意味があります。

おふざけの場合はこうなります。ここで文字にするのは、ちょっと憚れるのですが、ウン◯という言葉が大好きで、それが、ああなった、こうなったというだけで、ゲラゲラと笑いが止まりません。品のない言葉を繰り返すのは、やめてほしい、先生は嫌な気持ちになるよ、ということは伝えているのですが、そんなことでは収まりません。我慢できるか、できないかは、そこは子どもによって個人差もあるのですが、それでも、この「おかしみ」を楽しむ心理というものは、健康上、何か必要な体験のように見えて仕方がありません。

この屈託のないゲラゲラ笑いは、子どもにとっては「あり」だと思います。というのも、同じことを大人もやっているのです。落語、漫画、アニメ、バラエティ、漫才、コント、ボケ、トークショー、お笑い番組・・・番組の司会やMCはお笑い出身者ばかりです。SNSやマスコミでたくさんのエンタメを消費しているのは、私たち大人の方であって、このエンタメ性へのニーズは、子どもの時から持っているのでしょう。ただ、子どもは、お笑いのバリエーションを持っていないので「おふざけ」一辺倒になるのかもしれません。

そう考えると、1日の中に、お笑いにハマる時間があることは、精神衛生上も好ましいのではないでしょうか。ただ、それが昂じて、危険な遊びや行動に脱線しないようにしないといけません。人にパンチを繰り出したり、机の上に乗ってみたり、不適応行動につながる場合は、即刻、制止します。超えてはならない一線があることも、学んでもらう必要性があるからです。

プールの歴史

2022/07/05

「日本では夏になるとプールに入るのが当たり前のようになっているけど、どうしてなんだろうね。海外の教育施設を見ても、日本のように夏はプールというのはあまりない。これも見直した方がいいかもね」。

私は、毎年のように海外の保育視察を重ねてきていた藤森先生からこんな話を聞きならが、毎年、プール開きをしてきました。

今日は園長になって初めて、プール開きに参加できず、ギビングツリーという藤森統括園長が代表を務めている保育環境研究所主催の研修会に参加していました。

今日の研修会では夏の過ごし方などについての話題は出なかったのですが、私たちが「当たり前」と思っていることが、これからの時代には、そぐわないものになっていることが多いことに気付かされました。その内容は、また書きたいと思います。

プールについては、担任が今日のクラス日誌にその歴史について触れていますね。藤森統括園長が毎日書いている日誌「我竜塾」ブログから、夏のプールの歴史について書いているものを検索してみると、2012年7月31日の日誌に次のような記述が出てきました。

「・・・このようなプールは、昔はありませんでした。多くの子どもたちは、水遊びとして泳ぐのは近くの川や池、または海でした。学校のような、訓練の一環として泳ぎを教えるためのプールは、以前ブログでも書いた、会津藩校の日新館が日本の最古のプールで、水練場あるいは水練水馬池として残っています。池の周囲は153mもありかなりの大きさで、この藩校以外で水練場があったのは、長州藩の藩校・明倫館だけと言われています。この水練場を、日本ではプールと言いますが、このpoolは単に「水溜り」を指しています。関西では、駐車場のことをパーキングと言わずに、モータープールということが多いようですが、水泳用のプールのことはswimming poolと呼ぶのが正式だそうです。・・・」

日新館は私も訪ねたことがあります。幕末ものの大河ドラマでもよく登場します。ここの「プール」が明治になって、欧米列強に負けないようにと進める富国強兵時代の学校に普及していくことになります。

【 白虎隊も訓練した!】日本最古のプールがある會津藩校 日新館

それが今では、スポーツとしての水泳競技や、水中での運動のメリットなどから社会全体に浸透して、幼稚園や乳幼児施設にも「プール」という形で広がっているということになります。乳幼児にとって「水」とどのように出会い、楽しむことが相応しいのか、川や海に恵まれている日本で、そして都心のこのまちで、いろんな水との触れ合いを探求してみたいもののですね。

 

再会を楽しんだ卒園児家庭

2022/07/02

卒園した、元すいすい組の親子の皆さんが今日2日(土曜日)午後、2時間ほど保育園で過ごされました。卒園すると、いくつかの小学校へ別れるので、久しぶりの再会が楽しかったようです。

午後3半。子どもたちは到着すると、一目散にめざしていったのは運動ゾーンのネット遊び。普段見慣れている子どもたちに比べて、小学生になると、やっぱり体がこんなに大きいんだなあ、と実感しました。

ネット遊びは一度に5人までに制限させてもらったり、保育園時代と同じ体の動かし方をすると、周囲にぶつかるから注意して!などという説明が必要だったことが、この子たちの成長の証でした。

その後、ブロックやパズル、塗り絵、絵本など思い思いの場所で好きな遊びを親子で楽しんだようです。

その後、2階で2年前のお泊まり会の動画を上映すると「◯◯ちゃん、◯◯ちゃん」と、名前を言い合っていました。小学生になった今、当時の姿を思い出して、どんなふうに思うものなんでしょうね。

私たちの幼少時の記憶というのは、ことあるごとに繰り返し思い出したものが思い出になっていく、と言われます。たいていのことは忘れてしまうのですが「あたなは小さいとき、〜だったのよ」と、話を聞かされたり、写真やビデオを見たりしたものが、記憶に残りやすく、それが思い出になっていくらしいのです。

今日の同窓会は、初めての試みですが、親子で過ごした時間は、思い出作りの時間になったのかもしれません。この催しは、保育園が主催したものではなく、あくまでも卒園された保護者の方が開いたもので、保育園はただ場所をご提供しただけですが、こんなことでよければ、いつでもどうぞ使ってください。

「一日保育士デー」(9月10日)について

2022/07/01

園だより7月号 巻頭言より

いま行われている保育参観ですが、どんな感じで生活しているか、大まかな様子や雰囲気 をご覧いただけたでしょうか? これからという方もいらっしゃると思いますが、ベランダ からの窓越しでは見えにくかったかもしれません。突然の梅雨明け、しかも連日 35 度を超 える酷暑となり、戶外での⻑時間の参観もままならない状況となり、見学のタイミングを選 んでいただくために、その日の活動予定をより詳しく連絡アプリでお知らせさせてもらって います。

保育参観では、遠目からの観察になるので、見えてくるものは落ち着いて楽しく過ごせて いるか、お友達との関わりはどうか、食事は摂れているかなど、「だいたい〜な感じだなあ」 という程度かもしれません。そこで、より詳しく知りたいという場合は、保育参加という方 法があります。これはお子さんのそばで「ママ先生」「パパ先生」として一緒にすごすとい う方法です。入園初日の慣れ保育を覚えていらっしゃいますか?1時間ほど親子で過ごして いただいたと思いますが、それを午前中いっぱい、一緒に過ごすと思っていただくと良いと 思います。

乳児だと「今日はママが先生だよ」の意味がまだわからないかもしれませんが、満2歳ぐ らいになってくると、子どもの方も、ごっこ遊び感覚の延⻑で、ママやパパじゃなく「先生」 扱いしてくれて、少し距離をとってくれたりします。親御さんはお子さんの遊びや生活をそ ばで確認できるので、より詳しく様子を確認できます。保育士の援助の方法や関わり方もき っと参考になると思います。そして私たちが大切にしている集団の中の、<子ども同士の関 係がもたらす力>というものを実感していただけかもしれません。

ただ、一緒に過ごしてしまうので、小さいうちは大抵、お別れが難しくなります。食事が 済んでお昼寝の時間以降は、一緒に帰っていただくことになります。そんな日程を立ててい ただき、ぜひ体験なさってみてください。ただし、これができるのはコロナが落ちついてか らの話ではあります。早く、そんな状況に好転しないかと、願うばかりです。

さらに、その先には保護者の皆さんで保育をやっていただく「1 日保育士デー」という行 事も計画しています。9 月 10 日(土)です。今年はできても半日になるでしょう。これは 保護者の皆さんが担任になって保育内容を計画して、保育体験をしていただくものです。園 ⻑代理、主任代理も選んでいただき、担任同士が話し合って当日のプランを準備していただ きます。その第1回の説明会を 7 月 21 日(木)午後 5 時30分から開くことにしました。 当法人の園はどこでもやっている行事です。どんなものだろう?と興味がある方は、ぜひご 参加ください。

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