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園長の日記

子どもたちの世界を描くことの難しさについて

2025/06/16

保育参観は子どもを理解するという営みの一つです。

保育参観に限らず、毎日、私たちが子どもとの生活を描くのも、その一環でもあります。

ところで、どんな言葉づかいと枠組みで保育を描くかという、表現方法の選択は、どの「層」(あるいは相)に、どんな視点を持ち込んで描くかという判断と切り離せない気がします。私にはそう見えているという、「現象的間主観的世界」にとどまっているなら、共通の見方をだいたい共有しあえているので、話が通じ合うと思うのですが、描く方が、その背後にあるだろう「物自体」に迫りたいという衝動を強めれば、描く人の主観や思い込みが入りすぎて、それでは、誰にでも伝わる言葉になりにくくなります。

そこで大事なんだけど、どう表していけばいいのかわからないので、それをなんとか表せないかという可能性の追求を諦めてしまいがちです。そこに伝えたいことがあるんだけど、大抵は、書かない(書けない)で終わってしまうことも多くあります。

子どもたちは「その世界」に生きています。私たち大人も、その世界のでともに生きることを知っているから、それをもっとよく理解したいと願っています。そして、そこに一緒にいなかった保護者の方々に、その姿をなんとか伝えたいと私たちも努力します。子どもの住んでいる世界の外側にいる大人たちに伝えるために、なんとか通じ合う言葉のつらなりを発見しながら、その世界の意味に翻訳したいと願って。

でも、どうしても陳腐で型通りの話になってしまうことが避けられない。それを本気で乗り越えようとして伝えようとすると、多分、長編小説を書くことと同じようなことになるかもしれません。

そういう願いの先に、保育参観はあります。保育参観という、ちょっと錆びついた時代錯誤的な慣用句がいやなら、この言葉を刷新してみたい。子どもたちのワンダーランドへようこそ!みたいに。

 

保育実習生を応援に学校の先生が来園

2025/06/13

6月9日から21日まで、10日間の保育実習にきている学生に会いに、東京こども専門学校の先生が昨日12日、保育園に来られました。学生本人と話をして、私たち職員とも情報交換しました。保育園は保育士をめざして大学や短大や専門学校に通っている学生さんたちが、実際の保育を体験するための実習の場として、とても貴重は場です。

学校で主に「座学」で学ぶだけでは、実践力がつかないので、本当は1年ぐらい、長期にわたって実地の学びがあるといいのですが、そうもいきません。ですから10日間という短い期間でしかありませんが、ここでの体験がこれから学び続けるための原動力につながる機会になるといいなと、先生と語り合いました。

保育参観で感じる後ろめたさについて

2025/06/12

保育参観という、ちょっと遠くから自分の子どもに気づかれないように、自分お子さんの姿を、隠れてみてもらう、ということをやってもらっています。親の存在に気づくと、そちらに気が向いてしまい、やっていることができなくなってしまったり、普段の様子をみてもらうという目的が果たせなくなってしまうかもしれないからです。また参観のあと、出勤する場合もあって、お家に帰りたいと別れられなくなるかも、という心配もあったりするからです。

でも、見つからないように隠れて様子とみるということに、ちょっとした後ろめたさを感じることって、ありませんか? そばにいるのに、そのことを隠している私の存在のあり方についての、違和感のようなことです。

けっして騙しているわけではないけれども、覗き見をしているような後ろめたさを感じてしまう、といったこと。たとえば、大人の場合と比べるとどうでしょう。もし、そんなことを大人にしたら、極端かもしれませんが、刑事か探偵か、スパイか、ストーカーのような振る舞いと似ていないわけでもない、と。されている側の大人が知ったら、あまりいい気分ではないでしょう。どうして声をかけてくれないの? そんなこそこそして気味が悪い、とで思われるかもしれまえん。もちろん、子どもはそんなふうには思わないのですが、隠れてみているほうは、もしかすると、そういう不自然さを感じてしまうかもしれません。

そう考え出すと、こういう想像は、あまりいい感じがしなくなるのでやめますが、子どもなら許されるというのは、もしかすると、子どもの人権という視点から捉え直してみると、じっくりと考察してみてもいいことかもしれませんね。

それでも虚心坦懐に、子どもの姿を感じてもらいたい、という気持ちが私たちにはあります。親子の関係、兄弟の関係、家庭での関係のなかにはない、この園という空間のなかでの姿が、いかに家庭とは違うものか。今日もそういう話をいろいろなエピソードとして伝えあいました。

ところで、さきほど、先週、手袋に水をいれて凍らしたい、と言っていた年長さんがやってきて、冷蔵庫からそれを取り出して眺め、また元に戻して行きました。あるいは、また別の子が、今日は暑かったので屋上で遊んだ水遊びのなかで、欲しくなった容器として、ペットボトルを探しに来ました。事務所なら、あるかもしれないと思ったようです。

今日のできごとは確かに今日のことなのに、昨日のことも明日のことも、その姿の中には入ってできているから、回想でもあり予告編でもあるようなシーンを垣間見たように感じます。子どもが、この場所で過ごしている時間と空間をどのように言葉で切り取って意味付けすることが、ふさわしいことなのでしょう。

ヤングコーンの食べ比べ(東京すくわく)

2025/06/11

関東も昨日から梅雨入りですが、今日の味覚探訪は、ひと足先に夏のイメージがある「とうもろこし」の食べ比べ。白と黄色のヤングコーンを食べくらべました。皮を剥いて、中から身が出てくると、思わずさきっぽをかじってしまう子も。そのあと茹でて、かくる焦げがつくくらい炒めます。塩をふって、いただきま〜す。

この味の探究は、午前中ににこにこ組(2歳児クラス)で、午後に今日はわいわい組(3歳児クラス)で行いました。保育園で食べ物をじっくり味わうという活動は、昼食や午後の間食とはまた、一味違う活動になっています。もっとも異なるのは、野菜を一種類だけ、できるだけ収穫された状態にちかいところから、食べるところまでの、一貫した調理過程をじっくりと観察して、そのあと、その味だけを味わうというころです。

普通の食事だとこうはなりません。ご飯やパンなどの主食をはじめ、主菜や副菜、汁物などと合わせて食べるので、その味と同時に、合わせて食べる全体の味わいとして食べています。とくに一品だけをよく噛んで味わって食べて、次のもの移るというよりも、主食のお米やパンと一緒に食べる味の方が増えています。おにぎりにしても丼にしても、サンドイッチや麺類など、最初から混ぜ合わせた味で「一品」になっているものが多いのです。

まして野菜単品の味を味わうということは、めったにない、と言っていいでしょう。保育園の子どもたちと食事を共にすると、そうした合わせた味を好むことがよくわかります。真っ白なご飯だけ、単品の野菜だけ、というメニューはすくなくて、混ざって初めて完成という一品が多くなっていること、また子どもも、あえて混ぜて食べることを好むことが多いと感じます。

たとえば主菜が白ごはん、主菜がしゃけの塩焼き、副菜がサラダようのなとき、シャケ丼にしたり混ぜご飯にして食べている様子をよく見ます。そういう食事のあり方のなかで、単品の野菜をじっくり味わうという体験は、その美味しい味とつながって、一つずつの野菜の姿が明確になり、好きになり、もっと食べたい、さらにもっと〜につながっていくように感じます。その、もっと〜のところが何になるのか、子どもの姿ベースで次を考えていくときに、子どもの「こうしたい」を一緒に見つけていけたらと思います。

今日の活動の報告は、先生たちの振り返りを含めて、後日掲示します。

赤ちゃんの積み木遊びの見え方(カ 思考力の芽生え)

2025/06/11

子どもは目新しいものに目がありません。ちっち組で新しく提供した積み木のおもちゃに、興味津々で遊んでいる様子が報告されています。牛乳パックの中に詰めて、布を貼った立方体や直方体や円柱の積み木です。赤ちゃんが何か物を目にすると、なんだろう?と興味を持って、触ったり、持ち上げたり、落としたりしてみることがよくあります。物にはそれぞれに、こういう使い方をするという、作った人の意図がその形にデザインされています。

たとえばコップは中に液体を入れることを想定し、それを人が片手で持つことを前提にした大きさになっていて、口で飲むことがやりやすい縁だったりします。皿にしてもスプーンにしても、あるいは椅子やテーブルにしても、それぞれの使われ方が想定されています。物に目的とか操作性とかが、大人にその意味を伝えてきますが、赤ちゃんはそれを意識しないで関わる対象の場合と、ちょっと「これはなんだ?」と意識的に関わる場合がありそうです。今日の初お目見えの「積み木」は、それになります。

大人でも過去に見たことのない珍しいグッズやデザインに出会うと、興味を持ちます。自分の関心のある分野だったり、向こうから否応なく刺激してくるものなら、そのものに巻き込まれてしまいます。今朝、靖国通りを歩いていたら、2台のランボルギーニが青信号になるや、爆音を轟かせて発進したので、見入ってしまいました。車の運転方法と居住体感は、普通のセダンとは全く異なるでしょう。私にとっては未知の世界です。

赤ちゃんにとっての積み木も、未知の世界。赤ちゃんよっては、どう関わっていいものかも、当初は見当もつかず、恐る恐る触ってみるというあたりから接近していき、持ってみる、置いてみる、思わず落ちてします、ボールと違って転がらずに止まる・・・といったことぐらいから始まる場合もあるでしょう。似たようなものをすでに知っているなら、それとの連想から、きっとこうじゃないか、というイメージをもって関わり始めるかもしれません。

先生が積み重ねる様子を見て、ほう!そういうことができるのか!と真似してみる、というあたりから、今日の報告は紹介されています。積み重ねて崩れたことが面白いという様子が描かれています。

このことを最近の保育での言葉の使われ方、物事の捉え方に即して説明し直すとこんな感じになるでしょうか。

私たち大人は例えば「崩れた」という言葉でその現象を表現してしまいますが、つまり、そういう概念で世界を切り取ってしまいますが、そういう言葉の意味をしらない赤ちゃんにとっては、現象そのものが発する動きや音が、それはそれそのものとして目の前に展開されたこと自体との関わりが起きています。(どうしても回りくどい言い方になっていまがちですが)

積み木が崩れたという事態そのものをオノマトペで表すほうが、言葉以前の事態そのものを表せるとするなら、思わず姿を現してくる積み木周辺の事態が「グチャゴロン」となったことが、わあ、なんだこれ、おもしろ〜い!という世界との一度きりの出会いの瞬間でになっている、とでもいえばいいでしょう。

すると、きっと、またやって!と繰り返しながら、その世界が好きになっていき、どうやったらまた「グチャゴロン」が起きるかと、そのことに意識を向けて手が伸びていったと、捉えることもできます。

また「世界には深さとか広がりがある」とよく言われるのは、こういうことなのでしょう。積み木はどこまでいっても積み木なのですが、そのものが置かれて子どもが関わるとき、その子にとって起きている現象世界は、その子にとっての独自のなにか新しいことが世界から開示されている、あるいは新しい世界を発見している、ことを体験していることになります。

世界との関係を、このように能動的にでも、受動的にでも、どちらでもあるようで、ないようなあり方で、体験していくように見えてくること。つまり、私たちが使っている言葉は、直線に並べていかないと意味が通じないので、どうしても、そのような言葉遣いになってしまうわけですが、世界はそのように直線的な表現で表せるものにはなっていません。もっとトータルなことがいっぺんに起きています。

ですから積み木とそれが置かれた状況、そして積み木を積み重ねて遊んでいる子どもという主体の関係がどうなっているのか?という説明をしようとしたら、こんな感じになるでしょう。

そばにいる先生の真似をしてやってみた積み木とのかかわりで生成されていく事態がどういうことになっているのかを説明しようとすると、子どももその世界の一部となって、それを成り立たせている空間にはさまざまな要素というか主体(エイジェンシー)が影響し合っていて、そのうち主だった主体である先生、子ども、積み木という主体に目をやるなら、意図をもつ先生が引き金になって、相互に織りなす、協同的に世界が生成されているという言い方になっていくでしょう。

そして、その生成していくプロセスを、見方・考え方や資質・能力や3つの関わりの視点や五領域で捉え直すこともできます。

誰も何秒後に積み木の重ね合わせと崩壊が起きると予想することなどできず、「図らずも、思わず、偶然に」などと形容される事態のなかで起きてしまっていく事態なので、それらを生成するというように見えてくるというわけです。こういう事態が最もよく見られる事は、私たちが「遊び」と呼んでいる事柄なのかもしれません。

育児をもっと楽しもう! 東京青年会議所のイベント(7月27日)

2025/06/10

子育てはお父さんの出番が大事。そこで東京青年会議所が7月末の夏休みに築地本願寺でイベントを企画しました。

「育児をもっと楽しむための体験ブースや、パパ・夫婦としての一歩を踏み出すヒントが詰まったトークセッションを開催」するそうです。

「家族みんなで、一緒に新しいステップを始めませんか?」

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カブトムシくん、こんにちは!(7自然との関わり・生命尊重)

2025/06/09

6月になるとカブトムシが地面から顔を出します。それを触ったり、木の枝につかまらせたり、餌をあげたり、いろいろなことを子どもたちがやっています。ピカピカの背中、ゴツゴツとした角や足、もつとその力強さが伝わってくるのでしょう、カブトムシと子どもとの間に、さまざまな応答がなされています。

2歳児クラスでも、カブトムシが登場。恐る恐る見ている子もいれば、ちょっとだけ「ちょん」と触ってみたり、堂々と、どうだ!とばかりに持ち上げている子もいます。いろんな子の、いろんな側面がカブトムシの出会い方にも現れていていて面白いです。

和泉小学校の運動会へ 卒園児との約束

2025/06/07

卒園した子どもたちから「見に来て!」といわれて「必ず行くよ」約束しました。そして本人たちとそれぞれの親御さんに全員にもお会いできました。

秋だった運動会が今年から春にかわり、明日は雨になりそうな天気でしたが、6月7日だというのに真夏のような暑さ。子どもたちの50メートル走や、ダンスなどをみることができました。

それぞれの子どもたちの、言葉にならない思いをいろいろと想像しながら、競技の内容を超えたところのことを、こころから応援したのでした。

保健所の立ち入り検査

2025/06/06

これからの季節は食中毒が発生しやすい。保育園でもその予防に力を入れる時期です。そういう意味でもちょうどいいタイミングで、千代田区の保健所の方が調理室の衛生管理状態をチェックしにきてくださいました。結果は良好。昨年に続き、問題なし。この調子でやってきましょう、ということのでした。

食中毒を防ぐ基本は「つけない・ふやさない・やっつける」です。つけない、というのは要するに「清潔・手洗い」です。手指、器具、調理場などを清潔に保ちます。保育園では肉類と野菜の調理器具を別にしたり、その前後の手順が大事です。ご家庭でも「生肉・生魚などを扱った後は、まな板・包丁を洗浄・消毒するといいんですが。

2番目の「ふやさいない」は、低温管理です。食材は冷蔵・冷凍し、10℃以下の「冷蔵」、できれば15℃以下の「冷凍」を使いわけて保存します。また調理した食品は速やかに提供するか冷却して保存ということが、菌を増やさないこつです。再加熱が必要な食品は室温放置せず冷蔵庫へ

3番目の「やっつける」は加熱殺菌のことです。加熱は中心温度75℃以上で1分以上を目安に。生野菜も流水でしっかり洗いましょう。そして加熱後の食品の再加熱はしっかりやります。食べ残しをラップに包んで保存、なんていうのをまた出して食べる。菌が増えているので要注意ですよ。

このこと、書きたいな、と思う時について

2025/06/04

日々の保育ドキュメンテーションでは、書きたいな、と思っても字数が足りないので書けないということを先生から聞きます。では、どんなことを、どんなふうに書きたいのかというと、クラスブログを見てもらうとわかりやすいかもしれません。保育ドキュメンテーションが、ほぼ毎日あるので、クラスブログはクラスによって、あったりなかったりするのですが、最近では「わらす」に、ちょっと長いエピソードが報告されています。

ちょっとした瞬間の一コマことだったりするのですが、そこに見えてくる子どもたちの姿の「いいなあ」というあたりが描かれています。そこには先生の主観も盛り込まれているのですが、そこに何を大切にしているのかという子ども観や保育観が現れていて、どのようなことに保育の意味や価値を感じているかということも併せてお伝えしていることになります。

また先週のにこにこ組の味の探究の報告も、読み応えのある振り返りが、掲示されてます。このような出来事を読んでいただくと、保育の楽しさ、子どもたちの生活の息吹、それぞれの子どもの個性がよく伝わってきます。それと先生たちのもっている雰囲気や大事にしていることが見えてきて面白いのではないかと思います。

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