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園長の日記

成長展のためのミニ連載(4)遊びと模倣の関係

2021/02/04

子どもが熱中して遊んでいる時、共通するいくつかの要素が見えてきます。1つは競争や勝ち負けです。鬼ごっこや、転がしドッチをしたり、ボードゲームで遊んだり、将棋を指したり、オセロを楽しんだりしている時、勝ち負けが遊びを楽しくさせています。ルールがあってそれを守ったり、新たに作ったりしながら、勝敗の行方を競います。

次によく見かけるのは、心地よい「動き」です。子どもは身体を動かすことが大好きで、性格や特性にもよりますが、じっとしているよりも、手足を動かしたり、触ってみたり、運動したりする感覚的な刺激を求めます。ブランコや遊園地の乗り物がどうして人気なのか、身体的な心地よさがあるからでしょう。

さらに、どうなるかわからないこと、AになるかBになるか、やってみないと分からないような事に興味を持ちます。「じゃんけんしよう」と言えば、大抵やります。分かれ道で「どっちにする?」と決めかねるとき、「・・カミサマノユウトオリ」などと判断を天に任せたり、サイコロを使った双六やボードゲームなど、偶然の成り行きや結果を積極的に受け入れます。

そして、この3つの遊びの要素よりも、もっと根底的で、遊びに限らず生活全般のなかで多く見られるのが「模倣」です。人がやっていることを真似したり、「物」や「出来事」と同じように、似ているように作ったりします。見たものややったこと、つまり「体験」したモノやコトを再現させよう、繰り返してみようとします。

この4つの要素が絡み合って、子どもの遊びは展開されています。ここまでは、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で整理していますが、私はこの4つが並列的に等価なものではなくて、人間にとって「模倣」がより基本的なもので、人間を人間たらしめているものに見えます。

なぜなら人間と動物の違いがこの模倣にあったり、高度な文化を作り上げている理由になっているものだからです。そう、昨日まで語ってきたリプレゼンテーション(表象)につながる働きだからです。

子どもの表現 成長展のためのミニ連載(3)再現される表象

2021/02/04

そもそも表象などという難しそうな言葉を使うから良くないのかもしれませんが、この概念は文化の根底にあるものなので、どうしてもスキップすることはできません。外来語を日本語に訳したものなので、日常会話に出てこないものなのですが、英語ではrepresentationです。どこかで説明したかもしれませんが、sentは「ある」ということ、preが付いているので「目の前にある」という意味になって、さらにreがついているので「再び目の前にある」というのが、もともとの意味です。

◆表象の定義

表象文化論学会による説明ではこうなります。

「表象」という概念は、哲学においては「再現=代行」であり、演劇では「舞台化=演出」、政治的には「代表制」を意味しています。

そこで私は子どもの遊びを観察してきた結果、子どもはそれまで経験してきたことをもう一度味わいたくて再現しようとする傾向を持っていて、それが大人から見た文脈では「模倣」という概念に当てはまるだけではないだろうか、本人は模倣しているつもりはなくて、ただ再現して味わっているのではないか、と思うのです。

◆模倣は再現された体験である

再現しているのですから、先行する経験があるわけで、無数にある体験の中から本人の「生」にとって意味のある何かが選び取られ、それが再現されているのが遊びであろうと見えるのです。

ですから、お絵かきであろうと、積み木遊びであろうと、そこに子どもがイメージしているものがあって、それが遊びの中で表現されているなら、それは表象行為なのです。1歳児クラスのぐんぐんさんが、どこまで鬼の腰巻を想像できていたのかわかりませんが(笑)、鬼の腰巻を「再び目の前にある」ようにした作品が保育室に展示されていたのでした。

◆成長する表象

そのように見るなら、積み木で積み上がっている高い塔は、ただ漠然と積み木を積んでいるのではなくて、東京スカイツリーや広州塔やCNタワーだったりします。昨日の話では大きい丸が表象世界だとしたら、それは成長によって豊かに広がっていくと言ったのは、3歳の時は東京タワーしか知らなかったのに、今では世界中の高い塔の名前や何メートルまで覚えていたりするという意味です。子どもの住んでいる世界が言葉(表象の代表格)の習得とともに広く豊かになっているわけで、これを成長と言わないわけにはいきません。同時に豊かな学びが展開されていると言えるのです。

今回、成長展の特別展示で、遊びの中の模倣を取り上げるために、その前提となっている表象という概念について、理解を深めておいて頂きたいのです。再現したいと思う「心動かされる経験」が先にあって、その経験の質が表象の広がりと豊かさをもたらしているという関係を押さえておきたいのです。

今日3日(水)も、色々な生活と遊びの中に「再現」が起きていました。そんな視線で、子どもが何かを繰り返しやろうとしていると捉えてみると、そこには「意味のある経験が創発している」のかもしれません。その話は明日以降にまた。

鬼のイメージ 成長展のためのミニ連載(2)表象と模倣の関係

2021/02/02

◆今日は節分

子どもたちにとっての節分は、やっぱり鬼退治。福は内鬼は外の掛け声で、豆をまいて鬼をやっつけます。でも、今年は感染症対策優先のため、幼児クラスは鬼の登場は無し。また豆まきも「誤食」防止のためにもやめました。厚生労働省から通知も届いてました。豆の誤食による事故が多いそうです。にこにこ組は担任が鬼の役をやる鬼退治ごっこ(クラスブログ)を楽しみました。お昼ご飯は鬼の顔に見立てた鬼ライス。3時のおやつは恵方巻でした。恵方巻は南南東の方を向いて食べました。

私が心惹かれたのは、ぐんぐんさんのおやつの時です。Uちゃんがおかわりを欲しくて、恵方巻を半分にしてあげたのですが、どうしても1個欲しかったらしく、泣きながら訴えるのです。

泣いてでも食べたいと欲しがる気持ち。こんなに思いっきり気持ちが出せてうらやましい。こういうことをやらないようにするのが大人になることだと、私たちは思いすぎているのかもしれません。なんとも微笑ましい素直な気持ちなんでしょう。とりあえず半分食べるように促してみると、食べながら泣きやみました。

◆多様な鬼のイメージ(表象)

子どもたちの生活や遊びは、まるでお伽の国のようです。鬼が出てきては泣き笑い、おいしいものには心を奪われ、絵本や紙芝居の世界に身も心もどっぷりとつかり、面白いと思ったことを絵に描いたり、積み木で再現してみたり。子ども1人ずつ、異なる感情のうねりや起伏や物語が、生活の中で響き合っています。

例えば、今日のことだけでも子だもたちの周りには鬼がいっぱいです。絵本に出てくる鬼、桃太郎の鬼が島の鬼、鬼滅の刃の鬼。・・・お伽の国と言うのは、おとぎ話の国と言う事ですから、現実の世界ではなくて想像の世界、イミテーションの世界、嘘っこの世界です。しかしそれは、子どもにとってはそうでなくてはならないあり方です。子どもが呼吸し生きている世界です。7歳までは夢の中。そんな言い方をするのも、子どもは大人と違って半分は非現実的なファンタジーの世界に住んでいるからでしょう。例え話ではなくて本当にそういうことです。

◆表象と模倣の関係

成長展で模倣と言う切り口で子どもの姿を捉えてみたとき、きっとそこにも成長の足跡が見られるでしょう。こんな図を頭に思い描いてみてください。大きな丸があります。それは子どもが生きている心の世界です。「表象世界」とでも名付けておきましょう。その中にもう一つ丸を書いてください。それが「見立て遊び」や「ごっこ遊び」などと名付けている遊びの世界です。

例えば子どもにとっての鬼のイメージも、年齢によって全く変わっているはずです。成長していくこと、大人になっていく事は、表象世界が広がっていくこと、豊かになっていくことを意味します。外側の大きな丸い円です。それは心の内面ですから、外からは見えません。

ところが見える時があるのです。言葉で話したり、表情や仕草で伝えてくれることもあります。もう少し大きくなれば歌や詩にしたり、大人なら俳諧や小説、映画や能舞台になります。それが、乳幼児にとっては「みたて遊び」や「ごっこ遊び」が言葉や記号では語り尽くせない豊かな象徴的表現行為なのです。内側の丸い円です。内面の豊かなイメージが、みたて遊びやごっこ遊びの姿をして可視化されます。内面の世界が、外側にあふれ出してくるようなものです。まるで地球の中のマグマが火山を作って噴火しているかのようです。子どもの心はそれを取り巻く環境との相互作用によって作られていくと言うのはこういうことです。ですから、みたてるための材料や素材が子どもの身近なところに、置いておかなくてはならないのです。

成長展ではその噴火している遊びの様子を見てもらうことになります。そのそれが何を表しているのか、表象の意味や価値、あるいは民俗学的な意味については、また別の機会に説明したいと思います。

成長展の特別展示は模倣がテーマ ミニ連載(1)成長と模倣

2021/02/01

緊急事態宣言は延期されますが、成長展は予定通り実施します(園のニュース)。今年の成長展では「特別展示」として、子どもの「模倣」に焦点を当ててみます。子供の育ちについてお伝えしようとする行事で、テーマが模倣だと言うとどう思われるでしょうか。意外な気がするかもしれません。何の関係があるんだろうと思われるかもしれません。人の成長に真似することがどのように影響すると言うのだろうと、不思議に思われるかもしれません。

ところが実は、人間の本質の真ん中に模倣があると言っても過言ではないのです。このことを成長展までの2週間、詳しく説明してみたいと思います。

模倣と言うのは英語ではイミテーションです。本物に対して偽物がある、あの偽造品のことです。高級ブラントのイミテーションを作ったり売ったすることは違法です。パクリや贋造は褒められたものではなく、ときには犯罪にもなります。

ところが学びの世界においては、その本質は真似することにあります。学びの語源か「まねび」にあることは有名です。プラトンやアリストテレスは芸術の本質はミメーシス(世界の模倣表現)にあると喝破していましたし、世阿弥の序破離にしても、ピアジェの発達論にしても、人間の営みに模倣の要素は本質的なものとして理解されているのです。

生まれてすぐの赤ちゃんは誰に教えてもらうわけでもなく、親の表情を模倣し、模倣されることを喜び、目の前にあることを真似し(即時模倣)、目の前になくても思い出して真似をする(遅延模倣)ようにそだっていきます。世話をしてもらったことは真似をしてやってあげるようになりますし、ごっこ遊びやみたて遊びは、面白いと思ったことの再現遊びです。

普通は模倣とは言いませんが、日本語を獲得すると言う事は、実は日本語を上手に真似して使いこなせると言うことなのです。みなさんも外国語を学ぶ苦労を思い出してみましょう。語学の勉強も真似をして発音する、真似をして文字を書く、そういう練習の本質は模倣力であることに同意してくださることでしょう。

ことほどさように、人の成長と模倣は切っても切れない関係にあり、その表層的なものと深層的なものが私たちの表象文化を豊かにしていることにもなります。さて赤ちゃんから年長さんまで、子どもたちはどのように模倣しているのか、その姿を見せてくれるのでしょう。成長展はその様子を動画で点描していきます。

 

見晴らしのいい場所を探して(保育プランのために)

2021/01/27

◆保育を見渡せる場所とは

いい保育をするために、どれだけ見晴らしのいい場所に行けばいいんだろう。全体を俯瞰するということは大事なことです。それはわかっていたのですが、どこにもっと見晴らしのいい場所があるのか迷っていたところがありました。コロナがもたらしたものは、ろくなものはないのですが、あえて逆にプラス志向で考えれば、視界が悪くなった分だけ、世の中のステイクホルダーの人たちが、世界全体をもっとよく見ようとするようになったような気がします。まるで、曲がりくねった夜の山道をヘッドライトもつけずにスピードを上げていた車が、やっとヘッドライトをつけないと危ないと思い直したかのようです。

コロナは危機を露わにしたという言い方がよくされていますが、すでに進行していた危機をやり過ごしてきたツケが、こんな形で人類に露わになって見えてきたのでしょう。でも多くの人が思っている危機よりも、かなり深刻な危機なのですが、それは見晴らしのいい場所へ行かないと見通せません。

◆アントロポセンから見える保育

その危機の全体像を把握するために、今最も見晴らしのいい場所は「人新世」(アントロポセン)に関する論点を理解することです。いろいろなガイダンスがありますが、ある日本の知の巨人によるとクリストフ・ポヌイユ&ジャン=バティスト・フレソズによる大部『人新世とは何か』(青土社)がベストのようです。まだ読んでいませんが、その内容を詳しく解説したものを見ると、子どもたちの将来の世界で何が待ち受けているかを知ることができそうです。

明日配布する園だより2月号の巻頭言で、1月号に続き「人新世」時代の保育をスケッチしました。今年は折につけ、このかなり巨視的な視野で保育を語ることが増えると思います。保育実践はかすかな変化となって現れるものでしかないかもしれませんが、ワニの口のように、小さな角度であっても時間が経てば大きな開きになってしまうものですから、その僅かな差は侮れないものです。

地球環境の変化はじわじわと迫ってくるものなので、子どもたちに模倣されても恥ずかしくない行動を選んでいこうと思います。探求したいのは、自然の一部である子どもが持ってうまれた資質に対して、これからの社会で求められる資質・能力を身につけるプロセス、つまり保育の過程に変更が必要となるかどうかです。

人間が地質学的な規模で地球に変化を加えているその力の源泉は、生物としての人間というよりも、それが編み出した技術や生活様式、つまり文明の力ですから、その質の転換が目指すものになります。共有の社会資源を新しい自治組織(アソシエーション)が管理するコミュニティを育てたい。非営利団体、たとえば町会や生協の活動に近いものに、どうしても千代田区が絡んでもらう必要があり、そこには区長の元に次世代の戦略室が機能するといいのでしょう。そんな地域活動プランを話し合う中で千代田区の保育の形が見えてくると楽しいのですが。

 

本当は何をしたいんだろう?

2021/01/26

 

昨日の日記の続きですが、私が「小説が無性に読みたい!」と思っている<自分の本音>との出会い方は、子どもたちが<夢を持つこと>と同じところがあります。本当は何をしたいんだろう?という問いは、自分にも他者にも向けることが大切だからです。自分に向ければ、私が唱えている幸せの第一条件と重なるものになり、子どもに向ければ、保育のプロセスの起点(スタート地点)に立つことになるからです。

◆「本当は何をしたいんだろう?」

この問いを自分にちゃんと向けるために私は瞑想することが好きです。自分に向かってくる様々な刺激、情報に振り回されないように、自分に自分で作用させることができるようになっていくからです。昼間の起きている時に受け取った刺激に、自分がどのように反応したか。その自分の中で起きている心の中の経緯を観照するのです。そうすると自分の人格特性が見えてきます。大抵、人間は周りのことに振り回されて生きています。それは自分が選んでいると思っていながら、実は周りの情報(たとえばコマーシャルや流行やブランド)に騙されていたり、唆されていたりします。それを自覚していればまだいいのですが、その自覚がないままに生きていくのは「不自由」な状態だと言えるでしょう。

自分がどんな欲求を抱えていて、それによって自分がどのように振り回されているがわかってくると、大抵は恥ずかしい自分が見えてくるので、それを克服したいと思うようになります。そこに自発的な自由意志が芽生えるといっていいでしょう。その時から人は本当の意味で自由に生き始めると言っていいでしょう。

これは精神を自由に保つためにとても大切な認知スキルだと思っています。誰が言ったのか忘れましたが、高校生の時に座右の銘にしていたフレーズが「感情は認識の窓である」というものです。「もっと落ち着かんば、そげんイライラしとったらいかんばい」とか「あわてんでよかけん。ゆっくりせんね」などという言葉が好きでした(長崎弁です、すみません)。情緒の安定というのは、欲求が満たされると生じる心の状態ですが、欲求には自由意志というものも含まれるのです。生理的な欲求を満たしても、愛や承認や達成感や絆など社会的な欲求が満たされないと心は落ち着きません。その社会的な欲求、つまり人間関係の欲求の中でも自由の欲求は気付きにくく、曖昧な対人関係の間に生きる日本人には、〈精神の自由〉をイメージするのは難しいようです。

のちに、高橋巌さんが行っていた勉強会でルドフル・シュタイナーの思想と出会い「いかにして超感覚的認識を獲得するか」が20代前半からの私のバイブルになりました。思考と感情と意志を自分に正当に自分に作用させることの重要性を学びました。心に静かで深い湖をたたえた人間になりたいと思うようになっていったのです。

◆「自分は、本当は何をしたいんだろう?」

そして、その問いに対する回答が納得できるものであれば、よく理解できるものであれば、心に大きな共感を呼び起こします。自分の心にあるものに気づき、そうか!そうだったんだ!と分かれば嬉しいものです。これを保育用語で説明するなら、認知的な営みが、同時に喜びや意欲を掻き立てる非認知的な情動をもたらすからです。認知も非認知も本当は常にセットなんですよね。それなのに我慢強さや最後までやりぬく意欲などの非認知的なものだけを切り離して大切にしましょうという保育論が、まことしやかに流布されるのは困ったものです。もし我慢強さや粘り強さが育つとしたら、何かをやりたいという強い意欲に先立つ認識(知ることやわかること)があったはずなのです。それは、その対象への心配りやケアリングも起きていて、その結果として、それが面白い!や楽しい!の心情となっていったはずなのです。将棋を楽しんでいる子どもたちを見ていると、その世界のルールや方法をよく理解できればできるほど、楽しいと思えるようになっていっています。

そこでやっと子ども理解の方の話になります。

◆「子どもは、本当は何をしたいんだろう?」

常にこの視線を持って子どもと関わっていたいものです。こう見えるけど、本当は? 一見ああしているみたいだけど、本当は? この眼差しを忘れないようによーく見てあげよう、それが保育の第一歩。そのために、文化的な実践の窓を美しく用意してあげたい。あ、面白そう!と興味を持って接近していけるように。色々なゾーンを用意して、環境を用意して、色々な人が関わって、そして目に見えない歌や遊び方や生活の方法やアート的なセンスと出逢わせてあげたい。園の中だけではなく、地域にも世界にも視野を広げながら。

その世界との相互作用によって引き出される子ども一人ひとりの個性の中に、「ああ、こんなことをやりたかったのかもしれないね」が見えてくるものです。本人だって、何をやりたいのかなんて、まだわからないからです。何やりたい?「楽しいこと!」これが子どもなのでしょう。そのうち「夢」が豊かなものに成長していくことでしょう。

マルクスと保育の交差点

2021/01/22

午後のおやつの時間に「園長先生!」と後ろから声をかけられました。調乳室から事務室へ戻ろうとした時です。<ん?誰だっけ?>と、ちょっとびっくりしました。<ここは、ちっち(0歳児)とぐんぐん(1歳児)なんだけどなぁ、こんなにはっきりと、「 エンチョウセンセイ!」と言えるのは、<あ、そうか、お手伝いに誰か来ていたのか>と思いながら振り返ると、そこにいたのは、ぐんぐんのYちゃんではありませんか。「え?今、園長先生って言ったの、Yちゃん?こんなにはっきりと言われたのは初めてだなあ」と応えました。こんな時、子どもの成長を感じます。すごいなあ、と思いました。

そしてこんなことに気付かされます。これが人間の最も基本的な挨拶というものなんだろう。園長先生と声をかけたくなった気持ちがあったから名前をよぶ。それがまっすくぐに伝わってきます。別に声をかけて、何か特別に伝えたかったことがあるわけではなく(あったかもしれませんが)、名前を呼び合うということの中に、通わせたい気持ちがあるのは間違いないのです。この感触をお伝えするのに、わかりやすい話はないかなあと考えると、そう、あれです。好きになったもの同士が、相手と自分の名前の呼び方を共有し合いたいという気持ちになる、あれです。

「なんて呼んでほしい?」「・・・◯○ちゃん」

「わかった。◯◯ちゃん・・・」「・・・・❤️」

いえ、別にこんな話まで持ち出さなくてもいいのですが、気持ちを通わせるということの原型があるという話をしたくなったのです。もっというなら、名前も言葉もいらないかもしれません。目と目だけでも、気持ちを通わせることができます。一緒にいるだけでいい、ということが人間の欲求の根底にはあるでしょう。そういうものの育ちの姿を微笑ましく感じる瞬間というものが、私を呼んだYちゃんの声には感じられた、という話です。この気持ちの流れ合いを家族の中にもちづづけてもらいたい。ちゃんと挨拶ができる、ちゃんと何かができるという以前の、もっと大切な気持ちの息遣いを感じ合うアンテナを育てましょう。

午前中には、Kくんと一緒にいる時間がかなりありました。彼が大好きなYくんと気持ちの行き違いが生じて、辛い気持ちになり、彼の話をずっと聞いてあげていました。彼がいうには「Yくんに、あそこで2回、きらいって言われたの」と涙をこぼします。「それが嫌だったんだね」「うん」。そして同じフレーズを繰り返します。Yくんは「(Kくんが)怒ったのが嫌いだった」のですが、Kくんにとっては「きらい」と言われたこと自体がショックだったようで、ここに気持ちのすれ違いが生まれていました。いわれたKくんには、その違いが届いておらず心が傷つてしまいました。担任にそれを伝えると「ガラスのハートだから」と同情していました。どっちが悪いとか、こうすればよかった、とかいう話でもありません。人間である限り、このような行き違いやすれ違いをなくすことは不可能です。それがないように、繊細な神経を張り巡らして生きていくことも無理です。またもっと図太い神経を持つようにと願うのも違うような気がします。

私は切ない思いを感じた彼の気持ちがどのように育っていくのか、どんな歩みを見せてくれるのか、それをそっと待ちたいと思います。上手に折り合いをつけるだとか、挫けずに強くなれだとか、もっと優しく言おうだとか、いろんな「よかれ」を思いつき、言葉にしてしまうものでもあります。それもまた仕方がないことも分かります。しかし、です。この気持ちそのものを、もっとジックリと、しっかりと見つめてあげましょう。すぐに行動を促すのではなくて、その感情と認識の近さとか、鼓動の音とか、涙が溢れる瞬間と言葉の関係とか、そこにとても豊かな心情が息づいていることの素晴らしさを、もっと認めてあげたいものです。保育とマルクスの交差点もここにあるはずなのです。

就学を目前にした年長さんの育ち

2021/01/20

二十四節気でいう大寒の今日1月20日(水)、感心する子どもたちの姿を目撃しました。3階の幼児フロアで朝のお集まりが始まろうとしているときのことです。私が運動遊びを見守った後で、お集まりが始まろうとしていたとき、年長のKくんが年少のSくんに「Sくんはお当番だよ、お集まりが始まるよ」と声をかけていました。すると高い塔がまだ完成していないSくんは「もうちょっと、待って。これをやったら・・・」ともう少し遊びを続けます。それを受けてSくんはKくんの積み木づくりを手伝います。その手伝い方に感心したのです。

それは完成させることを手伝いながらも自分で遊びを区切り方を促すかのように、塔の頂上に乗せる最後の三角の積み木は「これ」と渡してあげていました(上の写真)。まるで私たち保育士がよくやるのですが、最後の美味しいところは自分でやって達成感を感じるように援助するということと同じだったのです。

例えば「衣服の着脱」という自立を育てるとき、靴をはく、ズボンをはく、などまだ全部を自分でできない頃には、できないところは手伝っても、最後は自分で「やった」「やれた」という気持ちになるような援助を心がけます。できた!食べた!やれた!という気持ち(心情)を持って終えることで、また自分でやろう!という意欲につながっていくからです。

年下の子どもの気持ちに共感し、その気持ちを理解しながら、援助していました。特にあれこれと言葉で言うことはありません。これが「見守る保育」の基本です。このように年長さんの年下の子どもへのお手伝いの姿を見ると、家庭も含めてこれまでの異年齢生活の賜物だなあ、としみじみと思いました。子育てにおいて大人も見習ってほしいものです。

お集まりが始まって出席を取るときも感心することがありました。その日の「出欠をとる」のは、数を確認するのが目的ではありません。お休みのお友だちの顔を思い出し、その子のことを思い浮かべ「どうしているのかな」と想像することが「出欠をとる」ことの目的です。

各グループの年長さんが「誰と誰がお休みだから何人です」のような内容を報告するのですが、そのやりとりを見ていると「お楽しみ会」でやった劇遊びのセリフを思い出しました。劇遊びで培った集団の中で役割を持った会話パターンを、このような集まりの中に応用しているかのように見えました。

小学校ではこのような場面が増えます。「他人が喋っている時にはそれを聞くようにする」ということが必要になります。お集まりは年長さんのその様子を年中、年少のお友達も身近にする機会にもなっています。気づきにくい集団の育ちですが、とても大切な大きな成長です。

「心からのお願い」のココロは?

2021/01/19

「園長先生、先週のブログを読んであれは私のことでしょうかと、心配されている保護者の方がいらっしゃいますよ」と、先生から話がありました。14日(木)に書いた「園長の心からのお願い」に対するものです。実はそのように担任に相談された方に限らず、15日(金)の朝には「大丈夫ですか?読みましたよ。何かあったんですか」と声をかけてくださった方もいらっしゃいました。他にもあのブログの内容について、<つまり、あのココロは?>と思われた何人かの方と、立ち話をしました。「ごめんなさいね。ちょっと書きすぎました。何のことかわからなくなってしまったかもしれませんね」と申し上げました。改めて説明しておく必要がありそうです。

お願いの趣旨(ココロ)は・・・

「緊急事態宣言が出て、これまで以上に不安が募る保育現場の中で頑張っている保育園、及び保育者を守ってほしい、支えていただきたい」

ということです。

いま在園している保護者の方の誰かを念頭に置いたものではありません。そういう場合は直接、その方とやりとりすればいいだけです。他の皆さんに語りかける必要はありませんから。

しかし、あのタイミング(宣言発出から1週間後)で上記のお願いをしたのは、皆さんと、ある思いを共有しておきたかったからです。それは年明け1月2日のブログで書いた「労り合いの気持ち」です。今後の展開次第では、最悪の場合、保育園から陽性者がでて臨時休園になってもちっともおかしくありません。近隣の区でそういう事態がすでに実際に起きており、突然明日から保育園が閉まります、ということになるかもしれません。

その時、どんなことが起きているかというと、当事者(保護者や職員)が責任を感じてしまい、そのダメージは相当なものになっているのです。緊急事態宣言から発出されて1週間たったときでも、今は「緊急事態なんだ」という意識が世の中に薄く、私は「これはまずい」という危機感に襲われました。そのことは15日(土)のブログに述べた通りです。保育園の職員の意識と周りの方の意識のギャップです。

14日の「お願い」では、子どもの保育が保護者に向けられるサービスに変質していった過程にまで遡って述べたことが分かりにくさの一因になったかもしれません。その過程を書いたのは私の中に「やってあげる丁寧な保育」の落とし穴と「危機の時でさえ、いつも現場丸投げ」の厚生労働省への不信があるからです。保育園を脆弱な構造のままに放置しておいて、児童福祉施設だから何があっても閉めない。そのアンバランスさへの憤懣です。もちろんコロナ対策の不作為への疑惑もそれに拍車をかけているわけですが。

アロペアレンティングが必要になったことと子どもの自立度の現状は、時代と社会構造の変化が原因であって、それをどうにかしてほしいと「お願い」しているのではありません。ただ、このような善意と奇特さに支えられている保育園の現状を理解しておいて欲しかったのです。先生たちの頑張りと不安感を前にして、悔しい気持ちを抑えられなくなったのです。そういう気持ちになるようなきっかけがあったのは事実ですが。ここが誤解されてしまったかもしれません。

月にのぼる者

2021/01/18

今朝、年長組のJ君が事務室にやってきて「園長先生、将棋やろう」というので3回ほど指しました。びっくりしたのは12月に初めたばかりの将棋を、もう立派に指しこなしていたのです。全てコマの動きを覚え、三手先(自分が指す手の後で、相手がきっとこう守るだろう)を考えています。大したものです。子どもの上達は早い。この学習速度は大人はかないません。こうして文化的実践力を身につけていくことは「豊かさ」に他ならないでしょう。将棋に限らず碁でも、チェスでもオセロでも構いません。体操でも英語でもバイオリンでも習字でも算盤でも、その文化的な共有資源につながっていくことは、その人が豊かになっていくことと言えます。

この遊びや保育の話を、昨日の話と繋げてみましょう。

豊かな保育とは何かを考えるヒントが、マルクスのいう「富」の考え方にありました。マルクスは富とは空気や水や公園や図書館やコミュニケーション能力などの例を挙げ、全てはお金にならない社会的な富であるとしました。自然の豊かさもそうでしょう。人間的豊かさも入れていいのでしょう。人が自然界のものを取り入れて、つまり食べたり飲んだり息をしたりして生きているわけですが、その結果がまた自然に戻っていくサイクルがあります。そのやり取りの過程に「お金」は介在しません。しかし市場(マーケット)が成立すると、なんでも「商品」に変わっていき、お金で手に入れることができるようになったのが近現代です。

富と商品は本来、別のものだということです。空気はまだ商品になっていません。水はすでに商品になってしまいました。なんでも商品になってくると、それを「買える」お金をたくさん持っている富豪が「豊かな人」だという錯覚に陥ります。本来の「富」は、お金で買えないものがたくさんあるのですが、それを手に入れようとする時に、お金で買うということで手に入れようとする態度に違和感を感じる原因はここにあります。富と商品の混同が生じているのです。

昨日17日のNHK「麒麟がくる」第41回「月にもぼる者」には、この「富は金に変えれない話」の例がたくさん出ていているように見えて興味が尽きませんでした。松永秀明が命の次に大切にしていた茶道具「平蜘蛛」を、光秀から譲られた織田信長が「なんとも厄介な平蜘蛛じゃなあ。いずれ今井宗久にでも申し付け、金に変えさせよう」と言い放つ場面。予想だにしなかった趣旨返しに光秀が驚愕しているのは、平蜘蛛を持つ者は「誇り高く、志を失わず、心美しき者であるべき」という富の話だったのですが、それを商品を扱うかのようにしたからです。

皆さんは空気が商品になったらどうしますか?それは困ると思いませんか。でもすでに土地は商品(不動産)になって久しいですし、水もペットボトルで買う経済にすっかり慣れてしまっています。地球資源がなくなれば、まだ誰のものでもない月も新しい植民地となるのでしょう、21世紀の帝国主義争奪戦がすでに始まっています。戦国時代はまだ、月を手に入れる話は寓話でしたが、今は現実になってしまいました。月も商品になる日が近いのです。昔から言われてきた「月に手を出すな」を言い換えると、「月を商品にするな」だったのですね。月を見て歌を詠んでいる豊かさの方が、本物の「富」ではないでしょうか。

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