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園長の日記

個人の育ちと集団の育ち

2022/02/09

子ども集団が育つ、というと、皆さんはどんな場面を思い浮かべるでしょうか。それでわかりやすいのは、お楽しみ会などでお伝えした「劇遊び」などかもしれません。年齢別に劇を続けて観ると、その育ちがはっきりわかりますよね。保育では個人と集団の、どちらの育ちも大切にしています。この「園長の日記」では、教育の営みについて、主体者個人と環境の関係からいろいろと説明してきましたが、こんどは主体者が「集団」になった場合を考えてみましょう。

集団の育ちというのは個人の育ちがベースになるのですが、面白いのは個人が集団の育ちに影響を与える方向と、集団が個人の育ちに影響を与える両方向があることです。お互いに影響をしあっている複雑な関係になっています。

たとえば、今日の夕方のお集まりは、年長のHSくんが司会をしていました。どのゾーンを開けますか?と聞くと、「はい、はい」と、たくさん手が挙がります。司会者は「ちゃんとみている人にあてよう」というと、司会者の方に顔を向けます。でも司会者がなかなか指名しないのでKMさんが「早くやって。時間のムダ」といいます。すると指名されたKSくんが「ゲーム・パズル」と言います。さらに司会者が「他にどこがいいですか?」と聞くと、THくんが「みんなが制作遊ぶと思うから制作」という言い方をしたのです。

それを聞いていた年少のKAさんが「THくんばっかりでつまんない」というのですが、THくんはこう反論します。「え、だって、今のはみなんが制作で遊ぶから・・・」と。

このように夕方のゾーンを、どこを開けて遊ぶかを、そこにいる子どもたちが話し合って決めていくのですが、自分のことだけではなくてみんなのもそれをやりたいだろうから、それにする、という言い方が生まれています。これも集団ならではでしょう。これを少し大袈裟に考えると、自分の1票が他の人たちの意思も汲んだ結果の1票だ、というわけです。単純に自分がやりたい遊びを主張するだけではなく、他の人の意向も踏まえた意見だというわけです。自分の意見に説得力を持たせる、という意図ももちろんありそうです。

 

それにしても多数決で決するということではなくて、話し合いを通じて、集団としての意思決定に辿り着くことができるようになっているのです。このような集団の育ちは、集団の中で、色々な人間関係を体験してきたことから生まれてくる個人の力です。個性が発揮されるような集団の在り方としても、これからの時代の持続可能な社会に必要な資質だと言えます。

 

子どもが体験している意味を伝えたい

2022/02/08

今年4月に入園する方が今日7日(月)決まりました。この「園長の日記」はこれから保育園に入園される方にも、保育や教育の営みについて、お伝えしているつもりなのですが、1月28日の「園だより」2月号の巻頭言から始まった教育論は、一つの区切りに差し掛かってきました。子どもをコップに例えると、教育はコップに水を注ぐことなのか、それともすでに入っているコップの水を引き出すようなことなのか、そんな譬え話から始まりました。

子どもは教えなくても自ら環境に関わろうとするのですが、つまり何かを体験することで、すでに最初から持っている力が、使われて伸びるという側面(コップの水を外へ)と、そのとき体験する事柄自体が、その文化が編み出してきた歴史的な営みでもあるので、そのやり方なり内容なりを身につけていく側面(コップに水を中へ)とがあるのでした。たとえば赤ちゃんは、どんな国で生まれようと、持って生まれた力を使って言葉を聞いたり話したりできるようになっていくわけですが、一方で、それが親が日本語を話すから日本語を身につけることになります。

このように、本人の持って生まれてきた力を十分に発揮できるような生活を創り上げていくために、生活や遊びの中の、さまざまなシーンを取り上げて、その体験の意味を捉えていきたいと思っています。

子育ては子どもを支えること

2022/02/07

子育てとは、本人が自立するまでに必要な援助です。子どもが大人になれば、なんでも自分できるようになり、援助がいらなくなります。自立すると言うことです。そして今度は自分が子育てをする側に回ります。子どもは大きくなるにつれて自立していき、援助する側になっていくことが大人になる、と言うことになります。すると、子育ては自立に向かって支えることですから、大人がさせてしまっては自立する機会を奪うことになります。本人の代わりになんでもやってあげてしまったら、自分で伸びようとする力を使うチャンスを失うことになります。これを過保護、と言います。

一方で、子どもの体験は、初めてのことが多いので、最初からうまくいくことはあまりありません。繰り返しやっていくうちに、身についたり、覚えたり、できるようになっていきます。その過程には「自分で考えて試す」ということが含まれてきます。いわゆる試行錯誤の過程です。自分でやってみようとしたり、挑戦してみたり、できるかな、でもちょっと怖いな、どうしようかな・・といった過程で、子どもは自分自身と向き合い、自分のことを振り返ります。決断して前に進むか、助けてと援助を依頼してくるか。このプロセスがとても重要な自立の過程になります。失敗を繰り返しながらも、試行錯誤しながらなんとかゴールに辿り着くと、達成感と共に自分への自信を持てるようになっていきます。

ところが、このプロセスがない子育てがあります。それは子ども自身に考える時間、試してみる時間、自分で創意工夫する時間がないような子育てです。ことある度に「ああしたら」「こうしたら」と指示を出し、言ってさせようとします。これを過干渉と言います。大人はできるだけ本人が困ったときだけ、援助してあげるようにします。「手伝って」「助けて」と言われたら支えてあげればいい、と言うことになります。

過保護は自立の機会を奪い、過干渉は考える機会を奪います。いずれも受け身な姿勢になって、自分からこうしたい、ああしたい、という意欲や自発性が損なわれてしまい、自信のない子どもになってしまいます。本来子どもは好奇心旺盛な心を持ってこの世に生を受けるのですが、過保護にされてしまうと、努力しないで目標に辿り着けるので、依存的な子どもになってしまいます。また過干渉にさらされると、本来自分で決めたい、自分で判断したい、という欲求があるので、自分なりの理屈や方法を編み出そうとして、反抗的になりがちです。

もう一つ、やってはいけない子育てが「放任」です。ネグレクト、育児放棄です。大人は子どもをしっかりみて理解し、子どもが困ったときに駆け込める避難場所、安全基地になってあげる必要があります。愛着(アタッチメント)というのは、この安全基地に大人がなるということです。不安になったり、困ったりしたときに、あそこに行けば助けてもらえるという見通しを持てる位置に、大人はどっしりと構えてあげるといいのです。エネルギーを補給に来たら補ってあげてください。気持ちをうけとめてあげて、しっかり応答しましょう。しっかりと抱きしめてげましょう。そうすると、子どもは回復してまた元気に遊び始めるでしょう。自分から離れます。大人は手を離すだけです。これを「ハンドオフ」するといい、日本語では「見守ること」に相当します。

自ら考えて判断する力、失敗しても挫けずに立ち直る力、自分で目標を立ててそれに打ち込む力、こういった力を使う機会を保障しましょう。すると、結果的に、その子育ての姿は「見守る保育」という姿になります。しかし、見守ることができるためには、いくつかの条件が必要になります。その一つが、自分らしさを発揮できる生活であること、一人ひとり異なる欲求が満たされるようなことを選べる環境になっていること、そして、子ども同士の豊かな関係があることです。この3条件が揃って初めて、見守ることができます。ただ3つ目の条件は家庭では難しいかもしれません。家庭には子ども同士で何かをして遊んだり、協力して何かを生み出したりできる環境に乏しいからです。

自分と相手の間にコミュニケーションを取りながら生活を作り出す当事者になること。これを生活への「参画」と言うのですが、昔、倉橋惣三はこれを「生活を生活で生活へ」と言いました。今では「環境を通した保育」と「子ども主体の保育」を併せて「社会生活者の一員として責任を持って、よりよい生活づくりに参画する」という意味になります。

遊びの中の学び

2022/02/04

いつもは2階で生活している、にこにこ組(2歳時クラス)の子どもたちが、今日の午前中3階で遊びました。4月からの生活に向けた移行保育です。絵本、ごっこ、制作、パズル、運動などのゾーンを選んでいます。この時期の移行保育で大切な事は、それぞれのゾーンに何があり、どのように使えば楽しい体験ができるのか、その使い方や遊び方を学ぶことです。

遊び方を学ぶ。遊びが学びである。似たような言葉ですが、実は内容は随分違います。遊び方を学ぶと言うのは、そこにあるものとの関わり方を学んでいます。ものをどのように取り出して、どのように扱うのか、終わったらどこにしまうのか、危なくないよな扱い方や、ものが壊れないような使い方などを学んでいます。

遊びが学びであると言うのは、そのものや場所と関わりながら体験していることが、身に付いていくと言うことです。どの場所で何をして、どのように遊ぶかは、それぞれの子どもたちが自由に感じ、考え、試したりして、いろいろやってみていいわけですが、その時に使っている身体的な機能や、精神的な機能、そして子ども同士の関わりの中で生まれる社会性の機能などが、使われています。

子供たちは、自分たちが既に持っている機能を、新しい環境の中で、新しい関わり方を覚えながら、自らの機能をより発達させていることになります。自分が既に持っている様々な能力を、環境と関わることによって、さらに伸ばしているわけです。自分が既に持っている能力が、コップの中の水だとしたら、新しい環境で過ごしながら、新たな能力がコップの中に注ぎ込まれているといえます。

自分が持っている力を、自発的に使おうとする傾向は人間は必ず持っており、これを「自発的使用の原理」と、昔、イスラエルの研究者ジャーシルドは言いました。子どもが、これもやりたいあれもやりたいと、何かをやりたがるときは、発達における意味がそこにあって、それをやることによって使われている能力が伸びようとしている、と捉えます。

にこにこさん達のやりたがっている様子を見ていると、「あーこんな所の力が伸びようとしてるんだな」と見えてきます。人の能力は、使わないと伸びないのです。そして、その能力が十分に獲得されて、新たな機能を伸ばそうとして別のことをやり始めることを「熱中転移の原理」といいます。その子にとっての次の発達課題、熱中してやり始めるテーマがそこに現れます。

これらは遊びの中の学び、と言うことが言えますが、小学校以降になってくると、意識して行う学び、自覚的な学び、と言う傾向が強くなっていきます。遊びと学びが分離されていくのですが、遊びの持っている要素が漂白されていて、繰り返し使用することが自発的ではなくなり、繰り返し行う内容が指定され、やり方も統一されることを勉強といいます。

学校教育の学びは、こちらの傾向がどうしても強くなるので、本来広い意味を持っている学びと言う言葉が、場合によっては狭い意味の勉強と捉えられてしまい、本人も学ぶ事は苦痛なものだと勘違いしてしまう不幸が発生しています。

そして本当にクリエイティブな仕事や、創造的な仕事に熱中している時、遊んでいるときのワクワク感や楽しさが含まれていて、本来の学びに近いものになります。ルドルフ・シュタイナーは、学校の授業も芸術的なやり方にしなさいと言っていました。それは質の良い遊びは、自身の発達にとって深い意味を持つ探究活動になっていると言うことです。移行保育中のにこにこさん達の姿を見ていると、遊びの中に自分にとって必要な能力を使える場所を探しているように見えました。

節分の日に出ていくものと入ってくるもの

2022/02/03

自らの力を引き出すことが教育であり、期待されていることを取り入れることも教育である。そんな話の続きを考えていたら、今日は子どもたちが元気に「鬼は外、福は内」と豆まきをしたので、なんだか、水ではなくて豆の話をしたくなりました。なぜ節分で豆を巻くのかという「いわれ」に関する絵本を、先生に読んでもらった後、実際に豆まきをしたのですが(クラスブログをご覧ください)、ここで追い払う鬼が象徴しているものは、人間につけ入ってくる「魔」たちのことですから、これを「滅」するために、豆(まめ)を撒くという説があります。語呂合わせ説です。

その真偽はともなく、邪悪なものと善良なものが、何かの力や人間の知恵などによって交代する、入れ替わるという話が、世界中に見られる物語であり、邪悪なものとして、鬼や悪魔や怪物や化け物などが生み出されてきました。そして、大抵、それらの「魔」たちは、人間に謎めいた問いを投げかけ、人間が答えられたら、魔の仕打ちから解放されたり、許されたりするというパターンになっています。

この物語の構造は、ずっと昔から、人生の謎、命の神秘といった事柄の真実を会得した者たちが、その真実をこの世の言葉で喩えたときに出来上がるお話なのでしょう。約束をして守らないこと、嘘をついて人を騙すこと、そういった行為は自分と他人の人生を傷つけることになるため、人々の間で戒められれてきたことがわかります。鬼や福は、一体何を意味しているのか。寺や神社で節分の豆まきをするのは、この年中行事によって「謂われ」の中に息づいている倫理的な人間性の意味を、思い出すためなのかもしれません。

コップの水としてのエージェンシー(主体性)

2022/02/02

屋上で遊んできた子たちが玄関に戻ってきました。年長のTくんが私に鬼ごっこで遊んだことを説明してくれます。ん、すごい!面白い!と感じたのは(成長を感じたのは)、彼の話の中には「楽しかったこと」もありますが、集団として思い通りにいかないことへの不満が含まれていることです。自分のことだけではなく、年長組すいすいとして期待されていることがうまくいくことを望んでいることがわかります。子どもの成長は自分ができたことへの喜びだけではなく、自分も含めて、その集団が目指している目的が達成されることへの喜びへと発達してきていることがわかります。

このような個人の成長は、個人の「自立」であると同時に、仲間意識が色濃い集団の中でしか望めない「協同性」の育ちと言えます。自分が所属している小さな社会(ここでは、年長組)が、よりよくなることを望み、その一員としての自分と他者を振り返ることができるようになっているのです。この子は友達の行為について、目的を達成するための行いとして捉えています。このような主体性は、これからも時代に必要な力の中で、ますます重視されいくものになっていくでしょう。

こんなこともありました。3階の積み木ゾーンに、新しい遊具が導入されて、ビー玉がジグザグに転がってきて、ポトンと落ちる受け皿として、まだ箱に入って出されていないパーツを使いたい、というのです。ところが、私が出してあげようとすると「まだ◯◯先生がいいと言ってないから」と、合意を得るプロセスを優先させようとします。「小さな社会」の中で決まっているルールを変更するためには、ある種の手続きがあって、そのプロセスにこだわるあたりにも「協同性」を感じます。

ここで、あえて「これからの時代に必要な力」という言い方をしたのは、昨日までの話で出てきた外から中に注ぎ込まれる「コップの水」だということに、着目して欲しいからです。ここで紹介したよう子どもの主体性をエージェンシー(Agency)といいます。OECDの「エデュケーション2030」プロジェクトで、最重要なキーワードになっています。その定義は「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する力」のことで、行為主体、とか行為主体性、などと訳されているようです。

しかし、一方でこの水は、社会の中でこそ発揮される力でもあるのですが、ポイントはその社会がよりよくなるために、そのメンバーである個人が責任感を感じながら目標を達成させようとする自発性が育っているかどうかにあります。つまり「コップの中の水」が引き出される側面もあるのです。自発性が発揮される場面は、子ども同士という集団が生み出す活動(鬼ごっこ)や目的(より楽しい活動など)であるのでしょう。主体性という育ちは、外からとも、内からとも区切られない「水」だと言えます。社会性の育ちは個人と集団の両立の中に見られます。

小さな社会は霊妙に大きな世界と繋がっている

2022/02/01

今日から2月。大学と相談しながらコロナ科での保育実習も始まりました。保育園は一つの小さな社会です。これを小さな丸(○)で表すなら、家族の営みがこの○と重なり合って、ひょうたんのような楕円形の社会を作っているとしましょう。さらに外の世界にも囲まれているので、その外側には大きないくつもの大きな丸に包まれていると想像してみてください。子どもたちは、それぞれの環境から影響を受けながら、自らの体験を深めたり、広げたり、豊かにしていきます。鬼ごっこの深まりということ一つにしても、それを用意して見守る先生の意識の中には、鬼ごっこ協会という外の専門家集団の知恵が影響しています。子どもたちには、見えない関係の網の目が、色々な形で取り囲んでいることになります。それは子どもたちではなく、私たち大人も同じです。大学からやってきた実習生にも、そこでの学びと園生活での学びが繋がっています。

朝の挨拶の代わりに、家に地球儀がお目見えしたことを教えてくれる子どもがいます。「保育園にも用意しようかな」と答えながら、本物の地球が私たちに与えている大いなる意志について、この子たちもいずれ気づく時期が来るだろうか、と考えていました。保育園という、この小さな社会に見える場ですが、実はそれを取り巻く大きな社会と繋がっていて、霊妙に影響しあっていることを、人類は将来、もっと明確に共有できる社会になるといいな、と思います。私たちの先人が持っていた力を再開発しながら、私たちを取り巻く環境について、もっと目を凝らしていきたいものです。

注がれる水が「10の姿」になるまで

2022/01/31

教育の本質について「コップの中の水」に例えて考えています。教育というのは「何かを教えることであり、コップの中に水を注ぐこと」に似ているか、それとも「最初からコップに入っている水を、汲み出すこと」に似ているか、そんな話をしてきました。そして、前者の水は「大人が」身につけてほしいと願う知識や技能などの内容であり、後者の水は「子どもが」すでに持っている「生きる力」である、といった話でした。

しかし、教育はこの2つが分離しているのではありません。大人が子どもに学んでほしいと願うことと、子どもが自ら育とうとする自発的な力とは、相互に補い合って初めてうまくいくことが多いのです。自ら伸びようとする力、自ら使いたがる力、あるいは学びに向かう力、と言った子どもの側から湧き起こってくる生きる力が、ちょうど学んでほしい内容、身につけてほしい内容と出会い、その内容を自分の方へ引きつけてきて、身についていくようにすることが、教育の実態になります。

内容としての水がコップにちゃんと入るために、最初からある水が、生きる力という、いわばエネルギーになって外からの水を取り込むのです。それがうまくいっている時、子どもは遊びに没頭していたり、我を忘れて夢中で遊んでいたりするのです。遊びこむことが、自分の生きる力を使って、色々なことを学ぶことになっているわけです。それは遊びに限らず、食事や睡眠、排泄や服の脱ぎ着、手洗いなど生活の中でも、生きる力を発揮しながら生活習慣を身につけ、その過程で心身の発達が促され、望ましい文化的な営みに参加できるようになっていきます。

ところで、このように教育を捉えると、子どもがちが外から取り入れている内容は、私たちが満1歳以上の子どもたちについて「教育の五領域」で捉えている内容(健康、人間関係、環境、言葉、表現)の全てにわたることになります。また、その5つの領域にはそれぞれ3つの教育のねらいがあって、それが心情、意欲、態度という観点で捉えるように構造化されています。つまり「外から取り入れる水」には、3つのねらいが5領域にまたがってあるので、全部で15個あることになります。

そして、ここからが肝心なことなのですが、この15ある「ねらい」は、いわば「外にある水」です。このねらいを達成させるためには、子どもが自ら環境に関わって体験できるように、環境を用意することが必要になります。言って聞かせてさせるのではありません。子どもには自ら育とうとする自発的な力が備わっているので(つまり最初から水を持っているので)、これを使って環境から体験を引き出すことになります。したがって教育の最大のポイントは、子どもの方が自発的に遊び(学び)始めるようにすること、意欲的に自分から活動し始めることです。それは大人がさせるものではなくて、ある環境を用意することで、それをみて子どもが「やってみたい」と思うように、子どもにとって魅力的な環境にすることが肝心なのです。

コップの水に例えるなら、外から注がれる水は、子どもからみて「わあ、きれい!」とか「あ、面白そう!」とか「あれ、なんだろう!」というように、心動かされる心情体験を引き出すような、魅力的な水である必要があるのです。そして、嬉しい!、楽しい! 面白い!といった心情体験が、またやりたい!、もっとやりたい!という意欲を生み出し、そして、それを繰り返すことで、望ましい姿が身につくことになります。これを、心情、意欲、態度(心の姿勢、心構え)と言います。これを育みながら、学びに向かう力も育ちます、その姿が年長の頃になると、こうなるといいね、という形で表現されているものが「10の姿」ということになります。

 

コップに注がれる水とは

2022/01/30

『これからの保育者論 日々の実践に宿る専門性』(高橋貴志著:萌文書林)より

話は昨日までの続きです。コップの中の水は、いわば「生きる力」であり、それを上手に育むことが教育だとすると、その方法は、それにふわしい環境を用意することだったり、「生きる力」が発揮されるような体験ができることが大切ということになります。では、コップの中に水を入れる方の教育は、どんな内容や方法になるでしょうか。

 

こちらも用意されている「環境」が問題になるのですが、ちょうど一昨日の夕方、来年度の保育材料の予算を検討していたとき、「子どもたちが協力して何かを成し遂げる楽しさを体験してもらいたい」という話になり、それを年間の保育目標の一つとすることにしました。協力ゲームで遊んでいる、わらす組(3〜5歳児クラス)の子どもたちの姿を見ていると、とてもいい遊びになっているので、もっとこの活動を深めてあげたい!と担任が感じているからです。

このように、今の子どもの姿をベースにした遊びや活動の見通しについて、大人が抱く願いや意図が、教育の内容を生み出します。子どもの「生きる力」が発揮されるように、これからの時代に必要な資質や能力としてふさわしいかどうかについて、専門職としての判断がここにあるのです。これが、コップに注がれる「コップの水」になります。その判断の根拠の一つとして「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」などの、国が定めた要領や指針などを参照します。

幼児期の終わりまでに育ってほしい姿は10あるのですが、この協力ゲームの場合は、その3番目「協同性」に当てはまります。「友達と関わる中で、お互いの思いや考えなどを共有し、共有の目的の実現に向けて、考えたり、工夫したり、協力したり、充実感を持ってやり遂げるようになる」姿を目指します。これは年長さんの姿ですが、5歳になって突然、そういう姿を意識するのではなく、保育は乳児の頃から、一貫してみていくことになります。

昨日の1歳児クラスのブログで、散歩の時に鳥を見つけたり、それを伝え合ったりする姿が、報告されています。そして、面白いなあ、と感じるのは、望ましい環境との関わり方を、自分で自発的に考える姿が描かれているあたりです。

「おててつながないと、車が来るから危ないー?」と、先生に訊ねています。満2歳の子どもたち(1歳児クラス)は、散歩の時、手を繋いでいます。散歩をしていると、何かの拍子で手が離れることがあリます。すると、自分たちで「手つないでー」と繋ぎ直したり、手をつなぐ理由を理解しているので、きっとやむなく手が離れてしまったのでしょうか、<いま繋がないといけないんだよね>と、確認しているかのようのです。

こんな姿が満2歳からみられるわけですが、先ほどの10の姿の4番目「道徳性・規範意識の芽生え」にぴったりです。「友達と様々な体験を重ねる中で、してよいことや悪いことが分かり、自分の行動を振り返ったり、友達の気持ちに共感したりし、相手の立場に立って行動するようになる。また、きまりを守る必要性が分かり、自分の気持ちを調整し、友達と折り合いを付けながら、きまりをつくったり、守ったりするようになる」。年長さんの普段の生活の中に、こんな姿がいっぱいみられます。それがぐんぐん組の頃から、つながっていることが見えてきます。

コップの注ぐ水は、こうなってほしいなあ、こんなふうに育ってほしいなあ、という、どこ子どもにもそうあってほしいと願わずにはいられない、現代社会の価値項目であると言っていいでしょう。それが特定の個人や団体が勝手に考えては困るので、幼稚園教育要領や保育所保育指針で「10の姿」のような形で定めているのです。これが、コップの水の内容になります。

 

持って生まれたコップの水

2022/01/29

教育がコップの中にある水を汲み出す方向にもあるとすると、どうやって、すでにコップの中に水があるのか? または、最初からあるその水と後から注ぎ込む水とは、何がどう違うのか? いろんな「?」があっていいのですが、私なりに納得しているのは、こんなことです。

生まれてきた赤ちゃんが、すでにそこに赤ちゃんとして存在すること自体が、とても不思議な人間存在の謎につながる話なのですが、しかし、その話を抜きには「なぜコップの水が最初からあるのか?」を説明することは難しいでしょう。人間が存在するのは、過去からつながっている生命があるからですが、一世代だけを考えれば、お父さんとお母さんから受け継がれてきたものがすでにあるから、という説明をしておくことにしましょう。

そして、もう一つの問い、最初からある水と、後から注ぎ込む水の違いですが、端的にいうと、原初の過去からずっと途絶えることなく受け継いできた「水」が最初からある水であり、ブッダの時代でもキリストの時代でも鎌倉時代でも江戸時代でも昭和の時代でもない、21世紀のこれからの時代を生きていくために必要な、資質や能力を培うために必要な水が、後から注ぎ込むことになる水と言えるからもしれません。

それでも、もしこの二つの水の大切さを天秤にかけてみるとしたら、生きているために重大な生命力としての水が乗っている皿がずっしりと沈み込み、もう一方の現代的課題としての知識やスキルとしての水が乗っている皿は、軽々と跳ね上がってしまうことでしょう。圧倒的に大切なのは、生きる力としての水だからです。

もう一つ、大切な疑問があるかもしれません。それは「引き出す、とか育むというのは、具体的にはどういうことか?」という、教育の方法に関する本質的な質問です。一つの考え方はその一人ひとりの子どもにとって、取り巻く環境が、その子にふわしいかどうか、ということになります。思わず遊び始めるような遊具がものがあるか、わくわくするような活動ができるか、自発的に自分のいろいろな力を使うことができる体験ができるかどうか、そのような環境との相互作用が生まれるように、環境を用意することです。

私はこれをよく植物に例えます。今私の目の前には花瓶に花が飾ってありますが、その蕾が花を咲かせるためには、水と日光を温度を用意します。花を咲かせる力は、花が最初から持っている生命力であり「コップの中の水」です。しかし、その生命力はある条件のもとで活躍します。水もやらずに真っ暗な中で、寒い外に放っておいたら、きっと枯れてしまうでしょう。あるいは、目の目には保育園の玄関に咲いていた朝顔の種があります。これはずっと種のままです。しかし、暖かい室内で、10日間ほど水に浸し、空気に触れるようにしておけば、きっと発芽するでしょう。

このことが「教育」のエデュケーションの意味です。本来、どの子も持っている、かけがえのないその子らしさを携えて、この世に生を授かった子どもたちは、それぞれの「コップと水」を持っているのです。それをわかりやすく個性ということがありますが、それは本当に一人ずつ異なるものであり、何か評価するようなものではありません。ましてや時代によって変わってしまう価値観や、社会が求めてくる資質や能力の物差しで評価を下してはならないのです。

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