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2023年 9月

ごっこ遊びは日常から「隔離」されていなければならない?

2023/09/04

独り言。

なぜ人は踊り、演劇を楽しむのか?

日曜日、ホイジンガとカイヨワの文庫本をバックに入れて、山中湖までのバスの中で開いて思い巡らした。帰りのバスには三島の文庫本も一冊加わった。そして遊びが日常生活と隔離されていることの大切さに思い至った時、だからわざわざ劇場空間を人は作り、遊びが安易に日常の感覚と混ざり合わないようにしたのか、と気づく。その空間は幼児教育施設でも、最も大切な空間のありようではないのか? そうなら「(自由)遊び」が守られるような場であることを、もっと鮮明に表す言葉にした方がいいだろう。預かり保育? とんでもない。こどもまんなか、というなら、そうした命名を廃止するべきだろう。フレーベルもキンダーガルテンと名付けた時にそう考えただろう。〜保育などという、大人を主語とした用語を思考実験として一旦廃止してみたい。指針要領がこどもを主語に書いてある姿のように。

月曜日。「遊びも堕落する」。カイヨワの説明である。ミミクリである演劇、つまりごっこ遊びの姿を見に行った。なるほどと思う。「何?なんのよう?勝手に入ってこないで」と私は叱られた。そこにはお母さんとお姉さんがいた。私はその演劇世界に勝手に闖入してはいけなのだ、と良くわかった。ここには見えない幕が上がったり下りたりしている。だから見守るということが必要な、意味文脈もある。

そして、やはりその中で何が起きているのか、目を凝らしたくなる。

子どもも大人も「うそっこ」好き

2023/09/03

子どもは当然のごとく「うそっこ」が好きなのです。嘘っこ、というくらいですから、本当に対する嘘、なのですが、それは子どもたちにとって空気のように遊びの中で展開されています。何かしらの「本当」について、それを虚構として再現しています。だから「うそっこ」と自覚しています。その「つもり」なのです。

その再現性は、本当らしくすることを目指しているわけではありません。芸術で言えば、自然主義的リアリズムを求めて試行錯誤しているのではありません。私に言わせると、まるで劇画的であり、時にバロック的だったりします。ままごと遊びや電車遊びなど、そのらしさにハマって没頭してる時もあれば、そこから気まぐれに展開していくことを面白がっている時もあります。つまり再現されている生活や出来事そのままであるというよりも、アレンジが加わり、やっている本人が面白いと思う何かに従って展開しています。

例えば、ただのおいしい料理ではなく、手元にそれらしいものがないなら、それは構わずびっくりするような食材が入り込んだり、風邪をひいて手術をしたら死んでしまって、でも「大丈夫!お薬があるから」と、特効薬で生き返ったりします。時間と空間を自由に行き来する能舞台のように思えなくもありません。

「うそっこ」が、好きなのは大人も同じです。ギリシャ時代からわざわざ劇場を作ってきました。人間に普遍的なテーマは時代を超えて、昔からあった物語を、表現の形式を変えながら現在まで受け継がれてきています。

室町時代にできた能は、今も根強い人気がありますが、それらを例えば三島由紀夫は「そのまま現代に生かすためにシチュエーションのほうを現代化」(「近代能楽集)あとがき)して、8つの曲を創作しています。ドナルド・キーンによると昭和27年に上演された三島の「卒塔婆小町」(世阿弥が原作)は、三島の他の作品と深い関係がある「美と愛と死」がテーマであり、成功を収めたそうです。

実はその戯曲が、9月1から今日3日まで「山中湖国際演劇祭」として、ダンスと演劇で表現されました。場所は富士山を借景に設られた山中湖交流プラザの屋外劇場です。現代の夢幻を舞ったのは、クラシックバレエのトップダンサー、中村祥子と池本祥真の両氏。俳優として演劇キャストの宮川雅彦氏も熱演しました。そして、この演出と振り付けが、青木尚哉さんです。普遍的なテーマが時代を超えて、表現形式は変わっても、私たちに感動をもたらし続けているのです。

さて、こんなことを思いました。三島が数百もある謡曲を渉猟し、その中から「現代化に適するもの」は、結果的に8つしかなかったことになります。それと比較してもしょうがないのですが、子どもの「うそっこ」は、どのように子どもに選ばれているのでしょうか?

絵本などの物語の登場人物、戦いごっこ、怪獣、食事をめぐるあれこれ、乗り物、お店屋さん、買い物、お医者さん・・生活に身近なもので面白いと思うものが選ばれているわけですが、そこにどんな意味があるのか勉強中です。いろいろなことが培われていく経験になっているのは間違いないのですが。

劇遊びやごっこ遊びを発展させていく時に、子どもの即興性を大事にしたいと感じます。子どもたちの「うそっこ」の面白がり方を、じっくり鑑賞してみたくなりました。

子どもが自分を発揮できるコミュニティーへ

2023/09/02

人と人がコミュニケーションを取るときに「食事」と言うものは欠かせない環境だと思います。仲良くなりたいとき、お茶でもどう?とか、ご飯でも一緒に食べましょうか?とか、飲食は、コミュニケーションの大事なツールと言って良いでしょう。同じ釜の飯を食うという言葉だってあります。国が大事なお客様さんを招いたら、晩餐会は欠かせません。

昨日1日の夕方、保育園の屋上で、保護者コミュニティー「しずくの会」がパーティーを開いて下さいました。家族ぐるみの保護者晩餐会です。食事が済んだ子どもたちは、保育室で保護者の見守りの中、遊びました。保育園だからこそできる夕食会です。

昼間働いていて、忙しい保護者の皆さんは、お互いのことを案外知る機会がありません。同じクラスでありながら、親睦を深める機会というのが少ないのです。夕方の保育が終わった職員も数名参加して一緒に語り合いました。私も数人の保護者の方と、その子供の最近のエピソードを交えて、お互いの思いを楽しく共有しました。

そういう話をしていると、家庭での子どもの姿と保育園での子どもの姿の違いと言う話題になるときがあります。保育園で〇〇ちゃんがこうですよ、と言った話をすると、家ではそんな姿はありません、とびっくりされる時もあります。それはそうなんです。保育園と家庭では環境が違いますから。矛盾しているように見えたとしても、それぞれの姿はその子らしさを表しているはず。

私たちは、人はどんな環境に置かれていても同じような振る舞いをするはずと思い込んでいます。でも事実はそうではありません。文脈から独立した、客観的で、不動の個人と言うものはないと思ったほうがいいと思います。

ある著名な哲学者は、それを「分けられない」という意味の個人=インディビジュアル(individual)に対してinをとって「分けられる」を意味するようにディビジュアル(dividual)と名付けたそうです。それを平野啓一郎さんは「分人」という日本語訳を提案しています。私は面白いなぁと思います。

保育園が遊び込める空間になっているから、そこにあるものや、人に出会うとその世界に引き込まれ遊び始めるのでしょう。愛情と安心に溢れた親の下から離れて担任に身を委ねる時、親は一抹の寂しさを感じるものでしょう。

しかし、それは担任に対する信頼感もあるでしょうが、それ以上に保育園で味わっている世界の面白さが思い出され、未知のものが既知のものに変わっていく体験の魅惑に誘われているのかもしれません。あるいは好奇心や探究心が旺盛な子どもが保育園での遊びを希求し、そこに誘ってくれるアイコンのような意味を保育者が発信しているのかもしれません。

親や家庭には、園や先生では、決して及ぶことのできない親密な愛情の世界があり、保育園には家庭にはない仲間や遊びの面白い世界があるのでしょう。家庭でも保育園でも、その子どもにとって輝いて見える世界に差は無いのです。子どもという「分人」が、それぞれの世界から光を浴び、自分を発揮し、輝いているのでしょう。

 

子どもの成長を感じるとき

2023/09/01

園だより9月号「巻頭言」より

今朝、ある遊びを私に提案しにきた子どもたち。それがまた丁寧に真面目な顔をしているからおかしい。「ねえ、園長ライオン。運動遊びをしたい」。それが朝の9時35分だったから、もう朝のお集まりの時間だ。その様子を見ていた主任が「40分まで」、とロスタイムをくれた。そこで、私は「あと5分しか遊べないよ」というと「うん、大丈夫!」という。「え〜、ほんとかなあ。遊び出したら、もっとやる!とか言って、ちっともやめないんじゃないの」といってみた。ちょっと考えている風に見えた。私は運動ゾーンの壁の時計を指差して「今、時計の長い針が6と7の間でしょ。これが8になったら、おしまいなんだよ」と説明したら、すぐに例の遊びが始まった。ルールはみんな熟知している。

そして、あっという間に時間がきた。するとどうだろう。何も言わないのに、NちゃんやYちゃんはネットが降りて、さっさと靴下と上履きを履き、お集まりを行う二階へ向かって移動していくではないか。ほう。感心した。そういえば、今年の春、年長のクラスに進級したこの子たちは「切り替え名人になりたい」という目標を語っていたことを思い出した。それがこうやって自分達の姿になっているではないか。きっと本人たちは、そんなことを言っていたことは忘れているかもしれないが。

朝のお集まりでは、グループに分かれて座る。出席は名前を一人ひとり呼んだりはしないで、司会の当番の子どもが「赤グループさん、お休みは何人ですか?」と、など聞くと、「誰々ちゃんがお休みです」などと答えてくれる。こうして誰がどうしてお休みなのか、分かり合ってから一日が始まる。お集まりの大事な役割になっている。その相互理解がとてもスムーズになっている。

ホワイトボードに、3歳、4歳、5歳のお休みの数が、1、2、1などと書き込まれる。「ということは、今日は全部で何人のお休み?」「4人」などという会話がなされる。これは足し算。さらに幼児は3クラス合計で26人なので「すると今日は」「22人」という声が返ってくる。こちらは引き算。ゲームやクイズのような感覚で毎日繰り返される。

その後はどこで何をして遊ぶかを、子どもたちの司会進行できまっていく。年度の初めなら3つだったゾーンが、先日は「じゃあ、先生の代わりをしておくから」と4つのゾーンを開こうと決まっていた。だんだん、先生の役割がいらなくなってきた。

自分達で自分達のことを決めていく。そこには言葉はまだ拙くても、子どもなりの考えや工夫や協力が見られる。担任はそうした様子を動画とパワポにまとめて来週、ある研修会で発表することになった。その原稿を読んでいて、子どもの成長を感じて嬉しくなる。

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